2022/01/24
ハコヅメ黒田カナを考えていたらお米理論になった
ノイズを減らすためなるべく日本語に触れず生活しようと思ったら、いきおい日本語も不自由になり始めたのでヤバいです。
別に英語圏に行きたいわけでも好きなわけでもないけど、日本語はわかりすぎて解像度が高くて余計なものを取り込みすぎてしまうんで、自分の心が黒ずみやすくなるため、とりあえず英語くらいしか分からないので、欧米の美術館サイトとYouTubeをずっと見ています。
いや、こんなに簡単にアクセスして学べるなんてインターネットすごいね! 芸術において英米をちょっと舐めていたのですが、V&Aやナショナルギャラリー、METの作品解説や収集品すごいです。世界中の名品を人類として守って研究して見せて観る、強靭な富と知の上澄みを感じました。
さて、日本語で考えた事を文章にしないと言葉を失うのか、その方がいいのかちょっとわかんないですが、ハコヅメ黒田カナの事を考えていたらお米理論になったので書いておきます。
『ハコヅメ~交番女子の逆襲~』はモーニングに連載の泰三子氏の漫画です。
作者が元警察官とのことで、地方警察の日常がリアルにユーモラスに描かれています。
主人公は天然系の交通課勤務女子、そのペア長という指導官の女性警官との百合っぽくもある関係、彼女たちと同期の警官たちとの関係性が軸になっているのですが、そこで異質な存在感を放っているのが黒田カナです。
『怒メスティックな彼女』回で好きだなあこの人と思っていたのに、スピンオフ作品で主役を張ったと思ったら作品からフェイドアウト。
裏切り者「ユダ」扱いで最後の晩餐に描かれたりしています。黒田カナ自体はむしろ被害者なのですが…なぜ?
黒田カナは、なぜ途中退場しなければならなかったのか?
「ハコヅメ」に頻出するのが「同期、仲間、絆」という言葉です。
これらの言葉はうっかり使うと今や薄汚くなる代表ワードでもあると思いますが、というか、身近な人や社会で関わる人と支え合うなんて当然のことで、わざわざいう必要はないのでは? わざわざ言うのは何か目的があるからでは? 家族とか同期とか範囲区切るって、それ以外の優先順位を下げるってことで、切り捨てと差別の温床では? むしろ檻では? などといったちょっと考えればわいてくるうさんくささに対して、
わかってますよ? そんなこと。やだなあ
というスタンスを取ることでいったん回避して、そのうえで絆・仲間をオファーしてくるのは『銀魂』でメジャーになった手法だと思いますが、ハコヅメもまさにこれです。
『仲間や絆なんてのは、しんどい状況から逃がさないための鎖なんだ』
と、おりおりにキャラクターに言わせたりしています。
しかし、このわかったうえで「でも絆」をセレクトする逃げ場のなさ。
より深い構造的な闇を孕んでいるのですが、「それもわかっている」という納得&仕方ない&でも仕方ないの織り込み済みの感じ。恐ろしいです。
こうやって現実を捻じ曲げて負ける戦争に死にに行く兵士や送り出す人がいたんだろうね、と思うのですが。
で、黒田カナは、どうしてもどこかでそこに馴染めない。
本人は別に周囲と仲もいいし好かれているし、仕事熱心でやる気も才能もあって評価されてて、この「気の合わない人たちもいるけど、それも含めて警察という組織の一員」という場に馴染んでいるように見えるけど、根本が違うんですよね。
何が違うのか
というところでお米理論です。
黒田カナは生米です。
玄米から9分削りまで、いろんな生米があるけど、とにかく生米。自他境界がはっきりした「個」です。
彼女の周囲の人は炊飯です。炊かれたコメです。
個性があってハッキリものをいうけど、個ではない。
これ、誤解されていると思うんですが、キャラが立っているとか自己主張が強いとか個性的に見えることと「個がある」ことは全然違う。まったくちがいます。
キャラは表層であって独自の思考や性質とは特に関係がありません。自己主張はおおむねたんなる大声やパフォーマンス。個性なんて自然とあるのが当たり前なので、出そう、見せようとするのはむしろ無個性です。炊かれたコメの中でゴマをつけようとするようなものです。
日本の(ほかの国はしらないけど)社会や集団、組織の中では早期に無自覚のまま炊飯されます。多分小学校にあがるまえにほとんど下ごしらえされて水につかって炊かれるの待ち。
そして選別されて同じように精米されてマニュアル通りに炊かれます。
同じようなブランドの同じように削られたコメがおいしく炊かれて、境界線は緩くなり周りのコメとくっつきやすくなります。
そして煮込まれすぎるとお粥になります。
組織(会社に限らず、あらゆる形態のシステム)に所属しすぎて高齢になり自分自身と周囲の区別がつかなくなった状態の人が「お粥人間」です。
炊飯人間は一粒で放り出されるともろく、力も可能性も乾いて壊れていきます。
お粥人間は集団から出ると不定形のままかたまり、何とも混ざれず無力になります。
悪いとかいいを言っているわけではないです。炊飯はおいしいよね、Wow皆の力すごーーい!
って思うし、それはそれですごく力がある仕上がりという一面はあると思う。
ただその中で生米は「うわ、かたっ!嚙めないじゃん!」という異物なのです。不要なのです。仕上がりのいい炊飯の中にあってはならないのです。なぜなら自他境界がはっきりしているからです。
自他境界がはっきりしているとくっつかない。くっつかれて、「なんかやだ、違う」と思う。わたしみんなのこと思ってるよ。でも根本が違う。そういうかたちの一体にはなれない。
生米はなんにでもなれる可能性がある。お米文化でも、パラパラのお米ってありますよね。チャーハンとかピラフとかタイ米とか、ああいうのは一体のようでいて決して一体ではない。具材と混ざってもくっつかないし対等な個がある感じしますね。丼とか、乗せる感じの関係性も興味深いけど、精神湿度の高さが炊飯的な存在を生む気がします。
黒田カナ、人気があったと思います。
だからこそスピンアウトで主役を張って追い出さざるを得なかった。
おそらくこれからの話において、黒田カナの異物は物語の薄い危ういところを暴いてしまうから。
そして黒田カナが、どこかの外国で起業して一人で生きてて、
『箱庭みたいな小さなところで強制労働してた。でも今でもあの場所で踏ん張り続けてくれている仲間を思わない日はないよ』
と述懐して終わるアンボックスが、「いい話」だけど「いい話で異物を片付けた」に見えて、やりきれなくなります。
源・藤組が、読者のほとんどが好きな「正しくて強くて弱い正しい人」で、この大豊作の期+鬼瓦教官ラインがあるけど、横井教官と黒田ラインが好きな人も沢山いると思う。
そして作者はこのアンビバレンツも黒田カナを追い出す残酷もわかってて、横井教官に叫ばせたんだと思う。でもその、泣ける心根の表し方自体が、いろんな意味でやりきれない。
山田や殺された女の子や黒田カナの死にたい気持ちや、選択や、理解や、なにもかもが、どっかしら収まるそういう湿った情緒で蓋をされるものがあって、そうやって蓋をして煮込んでその世の中で確実に存在する生米に対する「自分から出ていった」、なんだこれ、どうしてくれるんだよと思う。
黒田カナみたいに外国に行くしかないっていってるようなもんだな、と思う。
その異物の排除で残った「踏ん張り続けてくれる仲間が守る社会」ってなんだよ、その世界観、地獄か。と思います。
友人「コメね、でんぷんって熱を加えるとα化して組成が崩れて結合しやすくなるの、で、温度が下がるとβ化して劣化して、…強く固まるんだよ」
私「絆じゃん!!!!」
こわ!!