ゴールデンカムイ

ゴールデンカムイ 再読

 

ゴカム再読してました。
わりと初期から、本誌を追ってたんですが、最終回近くなって自分のなかではちょっと引いた気持ちが強くなっていたんですね。

再読して、やっぱり面白いな、と思って、
でもやっぱりちょこちょこ引っかかるところがある。

優れているからこそ、「ここも受け入れられてしまうのはちょっと、違うんではないか」まずいんじゃないかと思うんです。

その点を、整理してみます。

 

・アシㇼパさんが少女である点

「アイヌ文化や命、正しさを純粋な目で教えてくれる」アシㇼパさん
これ、どうして同世代の女性ではないのだろうか、と思うんですよね。
なぜ成人男性とローティーンの少女を組み合わせるのか。銀魂もそうだけど。

多分、ローティーンの少女からものを教わったり、彼女が自分より強かったりはいいけど、同年代の女性に負けたり教わるのは、作者が上手く描けないし、読者が設定として受け入れられないのではないでしょうか。
それはなぜか。
若い女性は若い男性にとって明らかな「性的対象」なので、対等として扱うスキルがない。性的なので純粋ではないと思っている=自分が性的にみる対象を性的能力があるゆえに不純かつそれのみの存在と思い、少女を”純”な存在と思い込みたがる、自己投影と自己拒否と現実逃避という多くの男性の思い込みに疑問なく従っているような気がします。
少女は子供で、子供は大人が保護するべき存在というのは当然なので、成人男性は少女とは対等でなくていいんです。
大人として自分が無条件で上の立場だけど、少女側が対等だとか恋愛対象だといえば「受け入れる」という都合のいいダブルスタンダードの関係ができる。


インカラマッやカエコさんなど数少ない「若い女性」は「恋愛脳」だったり「ずるがしこい」だったりしましたし、梅子さんの描き方なんて、男にとって最も都合の「いい女」ですね。
男二人と女一人の三角関係で、二人の男に争われる女は実は男同士のホモソのための道具立てである。というのは古くから言われ研究されていることです。
https://www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/11/6751_311013.pdf?1552867200054


梅ちゃん、「男性を内面でみている女性(杉元に顔も能力も劣る寅次を尊重する)」という描かれ方ですが、逆に「好きだった美少女が結核で村を追われて、もう一人のブスの幼馴染と結婚した男性・梅さん」だったら、「ブスに優しいいい人」だけどどっか「ブス嫁」みたいな扱いが出るんではと思う。若い女のブスをどう扱っていいかわからないんですね。人として。だから笑いにするしかない。キロランケの妻や年取ったソフィアやブス娼婦みたいに、笑いの要素が出てくる。この漫画、男のブサイクより女のブサイクを笑いにしていますね。ナチュラルに。男で笑いものにされるのは「ゲイ」「ホモっぽい」「バカ」です

作者が、というより、読者や日本一般社会的に、成熟した若い女性は、性的価値が最優先の生き物で、男性は自身を成人女性より冷静で知性のある存在にしておきたい、女性自身ですらそう思っている無意識があるんでしょう。

一方で、チカパシがバカで普通のエロガキであることを思えば、

少女への妄想というか期待値と重荷ののせ方が異常

だと思うし、
それが疑問なく成立していることの裏にある心理はもっと分析されるべきと思います。

これ、少年が若い女性と相棒として同じような設定だったら、絶対世間で受けないよね。
多くの男性は自分より若い男はバカで弱いと思いたがりますし。

 

・白石へのいじり

いじりやすい男を笑いのネタにしたり、誰もが侮っていい存在とするのって、
かなり不快でした。特に前半部。
谷垣へのいじりも同じく。
ホモソ社会の下劣なところだし、アシㇼパさんもそれを普通にやっている=男と同じレイヤーの「認められる存在」みたいなのも嫌だった。

 

・ソフィア

日本エンタメ全部の問題だと思うんですが、ババアは年を取って美貌をうしない、「男にとっての女」であることから降りることで、一定の強さを得る、

ってやつ

 

大っ嫌いですね。ふざけんなっていう。

 

若い女は戦えても最終的に「男に守られる存在」でなくてはいけないが
年取って醜くなったら強くなっていいしババアは笑いにしていい、
フミエ先生とか、ハマ子もこれ
ジブリもあるよね。これ。

幼女=純粋なロリ 
若い女=異常な包容力ある美女 
経産婦=子ども第一の頼れる母 
それ以外の女と年取った女=笑いの対象で強いバケモノ

おかしいだろ。どうやって整合性とってんだよ。

一方、土方歳三は美爺なんですよ。

美婆の主要人物は出てこないのに、男はジジイになってもカッコイイし男の美意識の自意識がまとわりつくんですよ。

人斬り用一郎やガムシンもそう。
こういうの、現実でも変な誤解を生むからやめてほしいですね。
日本男性の自己認識はちょっと甘すぎですから。
男のナルシシズムと加齢女へのいじり、セクシズムとエイジズムが酷いなって思いました。

 

・どっか雑

アイヌ文化や小物などへのディテールは非常に精緻なのですが、
実際の歴史や先住民文化に対する扱いが雑。
コンテンツ扱いしていいものではないし、IFであれ史実をベースにしているならそれなりの誠実さや敬意が必要では?と思います。
戦争に行っていない楳図かずお先生が、

「死者の行進」を描くときはものすごく迷いました。当時は、戦争を体験した方がたくさんいらっしゃいました。マンガ家の中にも水木しげるさんみたいに戦場で腕をなくした人もいらっしゃったから、経験のない僕が戦場を描くのは、いけないことじゃないか、失礼になるんじゃないか、と思ったんです。

 

とおっしゃったそうです。
表現の自由や面白さを優先して、現実への敬意を欠いたクリエイターが最近多すぎるな、と思うし、野田先生がそうだとは言わないけど、誠実さの点でちょっと、私には美意識が感じられないところがあった。
失礼になってはいけない、という畏れや敬意よりも自己満足優先というか。
いろんなパロとか
親分と姫のモデル役者とかね。
失礼だな、と思いました。
面白いと思ったからって、ためらうべき事があります。
描く事自体がダメなんじゃない、それを作者が「ダメだけど」っていう自覚があるかないかなんですよね。「至らなかった」「でも、現時点で誠実に向き合った」とかね。

 

 

う~ん、このへんですかね。
やたら他責思考がある人が多い、ってのはまあ作中でも多少批判されているし
薩長への批判もあったので、そこはもっとやってくれ!と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイと家父長制①

 
 
ゴールデンカムイと家父長制について改めて考える前に、家父長制とは何かを整理しておきたいと思います。
 
というのは、日本語の「家父長制」とその英語訳とされる「パターナリズム(Paternalism)」「ペイトリアーキ(Patriarchy)」は微妙に意味が違い、それをフィードバックして日本語「家父長制」に用いるケースがあるために、話が伝わりにくい、混乱が起きやすくなっていると思うからです。
 
 
 
①家父長制:家長たる男性(父とは限らない)が権力を独占し,父系によって財産の継受と親族関係が組織化される家族形態にもとづく社会的制度。父権制ともいう。(小学館マイペディア)
 
②パターナリズム:UK:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)
 
②’パターナリズム:US:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)
 
 
③ペイトリアーキ:UK:最年長の男性が家族の長である社会。または、彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会(ケンブリッジ辞書)
 
③’ペイトリアーキ:US:一族・家族における父親の優位性、妻子の法的依存、および父系相続によってより大きな社会単位を支配する社会組織形態、社会(Merriam-Webster)
 
 
はい、もうなんかややこしいです!
 
ざっくりいうと家父長制(イギリス英語・アメリカ英語含む)は
 
A:血族単位で男性が家長となり財産権をはじめその血族・一族・家族で権力を持つ制度

B:権力を持つ男性が彼らの利益のためにコントロールする社会
 =Aではないが、Aのような仕組みをベースにしている場合もある

C:A,Bが支配下、コントロール下の人間の自己決定権や責任を奪うが、保護や利益をもたらすかもしれないので擁護されているシステム
 
です。
 
そして、日本語の「家父長制」は語義的にはAを指すのですが、英語翻訳の「家父長制」が入ってくることにより、現在では、拡大された意味をもっています。
しかし、その拡大された意味は、人によって認識レイヤーが異なるため、Aを話しているつもりの人とBの話をしているつもりの人は同じ「家父長制」を用いてもさっぱり話が通じない、ということになります。
 
「うちもうちの地域も父親に権限や権力なんかない、家父長制なんてありません」
「いや、あなたの所属をとりまくTVやメディア、政治からの影響は確実にあり、その観点からは明らかに家父長制がありますよね」
「家族制度の話ですよね? うちの家長は女性です」
「相続する財産のない核家族に家父長制なんてものはありません」
「家父長制はシステムなので女性も当然権力をふるうことがあります」
「財産に関係なく判断や行動をコントロール・管理されることもあります」
「パターナリズムは必要です」
「パターナリズムは家父長制ではありません」
「なにいってるのかわからない」
「こちらもわからない」
 
 
不条理劇みたいになります。
 
この場合は、どの意味で「家父長制」を用いているかをお互い確認するところから始める必要がありますが、なぜかそれをすっ飛ばして議論になったりする。
 
明治以来の日本語と英語のおかしな関係(一方的に日本語がおかしくなっているだけ)の弊害が大きいと思います。インボイスとか。インボイスの意味ってなに?英語としてなに?なぜその言葉を使う?マイナンバーとは?なぞジャパニーズイングリッシュ…
パターナリズムはまだしもペイトリアーキって使わないですよね。言いにくいから。スペルも覚えにくいし…でも語義的にはこれが一番いまの「家父長制」に近いと思います。
家父長制打倒!と訳されたのはpeg the patriarchyでしたよね。
 
閑話休題
 
 
とりあえず、自分がこのノートで使う「家父長制」は「ペイトリアーキ」=「最年長の男性が家族の長である社会。または彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会」であるということだけ覚えていただければ幸いです。
 
 
 
 
 
 追記と転記
 
尾形がやっていることのすべての根本にあるのは、母親殺しと向き合えない、という事だと思うんですね。
尾形には自分の道理が大事で、その理屈において「死んだら父に会えるから母は救われる」で母を殺したのに、父は来なかったので、残ったのは母を殺した自分だけになってしまった。
そして、「母の為」の理屈の裏には、自分を見てくれなかった母への苦しみや悲しみや怒りや怨みといった感情があるはずなんです。
でもそれに向き合う事は出来ない。
母を救うために行った殺人は、自分より父を愛して求めている母の為だったのに、父が母を愛していなかったらその父を自分よりも求めていた母に求められなかった自分の存在があまりに虚しくて、怨みや悲しみだけが残ってしまうから。
子供がそういう心の動きをして殺人を犯してしまう事は、不自然ではないと思います。罪だけど、刑罰を受ける必要はない。子供だから。
だから尾形に必要なのはその時点でのカウンセリングや周囲の理解でした。
それがかなわないので、一人で、生きていくために道理を求めて迷走しているように見える。

勇作さんに殺人を求めるも拒否され、「人を殺して罪悪感を覚えない人間はいない」これが勇作さん殺しの切っ掛けだけれども
罪悪感を感じたら母親ごろしは罪になってしまうから受け入れられないんですね。
弟も自分と同じ人間だと思いたかったのに拒否され、今度は「自分が父に愛されていたら、父に愛されている弟と同じであり、弟も殺人をする人間と同じだと証明できる」
というめちゃくちゃな方向に行ってしまう。
そして「最後に色々話したかったから」と会った父親は母子にたいして全く愛情がなかったとわかり、父親を殺して「愛されていないから自分はこんな人間になった」
と結論づけるわけです。

元々、「父に愛されていない」から殺人を犯したわけではなく、「殺人を犯した自分なりの道理」いわば正当化ですけれども、それを求めていった結果
「父に愛されていたのならあの殺人は罪ではない」が否定され、「祝福されていない道を歩む自分」がいました。
本当は「母に愛されていない」から殺人を犯したのだけど、それに向き合えないから「父に愛される自分」の理屈を求めたのだと思いますし、
母との関係を消化できない限り本質とは違う理屈を求め続けるのではないでしょうか。


ところで、尾形の中ではもう一つ
「殺される人間には殺されるだけの理由がある」
という理屈があるんですね。
母親にも父親にも殺されるだけの理由があった。
それはもちろん「自分を愛さなかったことで傷つけた」からですが。
でも、勇作さんは明らかに肉親として自分に好意を持っていた。
その勇作さんを、身勝手な理由で殺してしまった。
勇作さん殺しに対して尾形は道理を見つけられないのです。自己否定する存在だから殺してしまった。勇作さんに罪がないことは心の底でわかっている。
だから、勇作さんの夢をみるし、罪悪感の象徴のように悪霊として顕れる。
逆に、母の夢は見る事ができないのではないかと思います。
尾形にとって最も向き合えないのは母殺しに関する感情なので、勇作さんの存在を通して向き合って受け入れられるようになるといいよね…と思ったけど結局最後まで逃げる事を選んだんですね。

と思うと、前近代的父権制の父たる花沢幸次郎は正直どうでもいい、中身のない存在で、その表面的な重々しさに比べ内実の薄さが
the家父長制の面倒なところじゃないかと思えてきます。
 
 

ゴールデンカムイ 最終感想(仮)

 

完結しましたね。読めなくなってしまいましたといいつつ、やっぱり読みました。
終わり良ければ総て良しを期待したところもあり。
無料公開がきっかけで一気に読んだ方と、週刊で追ってたのでは温度差があるのは仕方がありません。考える時間があるほど深く、時には余計な事を考えてしまうものなので。

 

さて、

加筆修正があると思うので今時点での感想は仮になるのですが、
最終回、アイヌ問題、あと白石の侵略問題? の描き方が一部で批判を受けているようです。
私はというと、特に気になりませんでした。
大団円で良かった、楽しませていただきました、というよりも、そんな現実とリンクする複雑な事象を扱える作品だと思っていなかったから。
批判をしている方は期待していたのでしょうし、期待するだけのものがあったのだろうと思います。そしてそういう期待していた人にとっては期待通りではない終わり方だったのは理解できます。また、扱えないなら雑に触るな、という面もあるでしょう。


自分が最初にひっかかって、ああこういう作品なんだなと思ったのは、親分と姫の描き方です。
ひと目でわかる有名俳優をモデルにして、あの描き方はないのではないだろうか。
私は仲代達矢のかっこいいイメージがあったので(鬼龍院花子の生涯とか)、現実の俳優をモデルにしてなぜこの描き方と思ったし、特徴をとらえて上手いけど、リスペクトがないなと思った。故人や同性愛者を笑いものにしていいとも思えませんでした。これをブラックユーモアというなら、いじめを笑いというのと同じベクトルと思う。
その、ディテールは緻密で面白く描いているけれど、素材にした現実に対する思考や配慮にどこか欠けているところが、最終的にすべてに影響を及ぼしたように感じられます。


親分姫のところで一度読むのをやめて、網走襲撃から樺太編が面白くて本誌を追い始めたのですが、樺太編は本当に面白かった!いやほんと。あそこで月島さんがすきになりました。仕事をきちんとやろうとする人が好きなのです。

 

 

かわいそうなアイヌを描かないでほしいといわれ、そうした、というお話を目にしました。女性や子供を含め、現実で弱者で被害者である歴史や状況があった/ある存在を強く明るいものとして、なかったこと…もといポジティブに描く一方で、一部の成人男性がたいへん己への被害者意識が強く、他者への加害意識が薄いという対照性も興味深かったです。

その対照性がね…とても現代、というかちょっと古いところから引き続きある「今」という感じがしました。

あと、かわいそうとはなにかなあ…という。
北欧少数民族の少女の映画「サーミの血」を見て、苦しいけどかわいそうとは思わなかったな。差別は隔絶されたものではなく、差別する側の人は自分達の内部でも差別をしあっている問題、と思ったし。イケてる子がイケてない子を笑うとか、根本は同じ、という、自分の中の問題。かわいそうって他人事だよね…。ああいう苦しい人生を描いてほしかったとは全く思わないけど、根本にあるものは触れられると思うよね、エンタメでも。



で、「親に愛されなくて傷ついた」「戦争で人を殺して傷ついた」「愛するものを奪われて傷ついた」そんな俺がかわいそうについて、家父長制のなかで男も傷ついたはどんどん訴えていくべきなのですが、「なぜ傷ついたのか」がキャラクターの独りよがりで終わってしまって、より高次の視点がぼんやりとしか感じられなかった、これが残念。

尾形は愛してくれる人をころした罪悪感に耐えられず死んだのではなく、最後まで自分の罪悪感を見ることを拒否して死んだのだと思うし、その罪悪感の根源は勇作さんではなく母親であるべきだったと思ったし、今も思っています。
私は、尾形の母親が殺されるほど悪い母だったとは思えないのですが。
ネグレクトといっても食事をつくり、添い寝して歌い言葉もかけているし。
それが「愛してほしい自分が望んでいるものと違った」から「愛する男に会わせてやるため」という自己欺瞞で殺人を犯した、という己の内面を見られないから、絶対に見たくないから「祝福されなかった自分」という理由を作り出し、ああいう行動をとりつづけたのだし、殺す必要もない勇作さんも殺したんでしょう。そうとしか思えない。

でもその「自覚の拒否」がすごくかわいそうだとは思うし、そういう描かれ方で描き切られてしまったのが、かわいそうだと思う。


あの母親の、「哀れな女」の描き方って、ちょっと「流されやすくて水商売をして男にのめり込む妾女」への差別というか嫌悪に近いものを感じます。多分作者がそういう人が好きでないのだろうけど。彼女はむしろ社会や状況の被害者であって、殺されていいほど加害者ではないはずなのに、「母親は強く明るくどんな時も子ども第一であるべきなのにそうではなかったから殺されて当然」みたいな暗い固定観念を感じる。


あと、鶴見の「ウイルクのせい」

…いや、みっともないのなかでもかなり口にしない方がいいやつですよ、「○○のせい」って。


登場人物の多くが自分の傷には敏感で、誰かのせいだと思っているけど、他者を傷つけ加害していることには鈍感なんですね。

で、この「かわいそうな私」に酔う被害者意識って、多くの人、特にオタクと親和性が非常に高いと思いますね。
多くの日本人が、自国の歴史を学ばず向き合わないのもこれ。


手塚治虫の火の鳥を読もうとして読めなかった人が「人間の本質に入っていくのが怖くて読み進められなかった」といっていて、人間の本質に入っていくものほど深く面白いのではないか、と驚いたのですが、「怖くて見たくない」という人と「それこそを見たい」という人の間にはすごい溝がある。
どちらがいい悪い優れているいないではないけど、どっちかが多くなりすぎるとそういう社会はバランスが悪いんじゃないでしょうか。

 

結局、こうやってごちゃごちゃ言ってしまうのも面白かったからで、それはそれとして、という議論を呼ぶくらいの内容があるという事だと思います。
様々な意見があるのは、「自分に都合の悪い、残酷で深いところも目を凝らして見たい」人向けではなく、最終的に「受け入れられるモノ以外見ないで楽しみたい」人向けだったのに、前者向けのような感じを含んでしまったところかもしれません。
だから前者には黙ってろ、というのはちょっと暴力的だよね。前者も後者もいるよ、そして互いにいることを認めつつ、自分の力で考えるべき。



とはいえ数年たって読み返したらまた違う感想かもしれません。
名作は読み返すたびに発見があるものですから。
自分が至らないという自覚をもっての今の感想としてのこれです。

 

 

被害と加害

 

まるで時代が100年遡ったかのような帝国主義の亡霊によるウクライナ侵略戦争を見て、ゴールデンカムイが読めなくなってしまいました。

侵略戦争とはこういうものか、を目の当たりにして

あれ? 日露戦争ってなんで中国で戦ったんだっけ?
日清戦争も含め、侵略者同士の戦いでは?

戦争や歴史についてそれなりに考えていたつもりでしたが、全然考えていませんでした。
 

韓国、ロシアの辞典サイトを言語翻訳で見ましたが、わりと日本と書いていることは同じというか、事実=朝鮮中国利権をめぐる日本とロシアの戦いという感じ。
山川歴史資料集はやはり頼りになる。
細部については当事者の視点では偏りがあるため
ハイデルベルク大学Gotelind Müller氏のChinese Perspectives on the Russo-Japanese War という論文をななめ読みしてみました。  


当時の中国では東北地方に関心が薄かった
清国の政府腐敗や無能であるという認識、アジア民族プロパガンダにより心情は反ロシアで日本寄りだった
当時は日本の私利私欲を分析する視点はなかった
皮肉なパラドックスとして戦争中は親日反ロシアであった中国革命家は、ロシアをロールモデルとするようになる
戦争は知識人だけではなく多くの中国人にアジアの将来を指し示すと思われた
1905年がなければ1915年の条約はなく1931年の最も苦い事件にはならなかったろう
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中国に勢力を伸ばす、北部の熊(ロシア)、満州と韓国を指さす日の日本は足先で既に台湾を捉え、フィリピンからアメリカ鷲、インドシナからフランスのカエル、そしてマン中にいる英国の犬

http://archiv.ub.uni-heidelberg.de/volltextserver/15406/1/china%20and%20the%20russo-japanese%20war%20english.pdf


中国は中国内部の問題がまずありファンダメンタルが大変だったのですが
歴史を学ぶは、善悪ではなく事象の羅列とその分析だと思いますし、各国に思惑があり事情があるとはいえ
現代の自分の価値観で現在と過去を見れば、戦争は等しく「起こってはならない」もので、そこに対して事象の美化コーティングは長い目で見て実害です。正しい戦争なんてない。





エンターテインメントだしね、現実とは違う、政治的に不穏当なことは触れない、面倒なことは考えない、楽しめ、そう思っていたところがありますが、
いやそれで、本当にいいのか???
と思ってしまいました。
帝国陸海軍や日露戦争を作品のストーリーに入れつつ、現場である「中国」「朝鮮」に一言も触れない。なぜ何のための戦争だったのかを器用に迂回する。
アメリカ人やロシア人、アイヌおよびロシア近辺の少数民族は出てくるが、他のアジア人は出てこない。和製ウエスタンというコピーもなんだか、ああ、そういうものが好きなアメリカ世代…と思えてしまう。
無意識の隠蔽って、けっこう罪深いんじゃないだろうか。


これ何かに似ているな、と思ったら

「アメリカ人が描くベトナム戦争」

 

なんですよね。


俺たち兵士は傷ついた

俺は傷ついた

 

ってことばっかり。

 

いやいや、人の国に強欲と親切づらで乗り込んでその土地で人殺して、なんで被害者気分なんですか。「国にやらされた」これも批判ではなく被害者意識。じぶんのことばかり。ベトナムもベトナム人も目に入ってない。アメリカ、本当にすみずみ自己中心的。


 

思い返してみるとゴールデンカムイの主な人気登場人物ってこの発想なんですよね。

自分が傷ついた、傷つけられたことばかりで、傷つける側である、あった意識がとても低い

 

尾形をはじめ、杉元、月島、鶴見はこの要素がとても強い。
そしてそこに感情移入したり好意を持つ人がとても多い。
「私は被害者」ってオタクに親和性の高い感覚だと思うんですが、人は自分の加害性には無頓着で被害性に敏感なものなんだろうか。
プーチンも自分が加害者だとは思っていなくて、むしろ被害妄想が強そうな気がします。

自分の加害を認める事は難しい。
実感としてそれはわかる。
たとえ本当だとしても言われたくない。
本来なら、加害を認める事は恥でも傷でもないのに。
で、「自責」と「他責」って根本は同じなんですよね。
いわれていることの妥当性を思考する前に傷ついたり怒ったりする。
妥当性を検討するって、やはり自分自身の知力や思考の積み重ねが必要なので難しい。
だからそこをすっ飛ばして感情的になる。
そこを克服してこそ人間が学び成長するという事だろうと思うのですが。

 

気をつけよう!!!自戒 がんばろう!! 

 いつものことだけど!!

 

 

 

 

 

 

 

我々はだいたい「農民出身」

 


ゴールデンカムイ、尾形から宇佐美への「農民出身の一番安い駒」煽り

についてですが、当時の身分制度はどうだったのでしょうか。

時代が明治になり、江戸時代の士農工商という身分制度は消滅しました。

華族(公家・大名)、士族(武士)、平民(百姓・町人 この中にアイヌも「旧土人」として含まれます)として、四民平等(士農工商を廃止し職業の自由を認める)を謡います。


つまり「農民」が揶揄されるのは、身分制が廃止され平等である以上、根拠のない明確な差別なのです。
しかし、連綿と続く身分制度がいきなり消えるわけはなく、えた・ひにんという被差別民への差別は現在まで延々と続いているわけで、であるならば明治は旧身分制が強烈に残っていたはずです。

尾形は、

自分は士族であり、農民出身のおまえとは違う

といいたいわけです。なぜなら、誰もお前を愛してくれなくて不貞腐れて逆恨みしているんだろ、お前も駒なんだ、わきまえろ、と言われたからです。
そんな陳腐な安っぽい発想しかできないお前は所詮農民だ、とバカにしているのです。

さて、では江戸時代の身分制の割合はどれくらいで、士族はどれほどレアだったのでしょうか。


どうやら士族は総人口の7%だったようです。

江戸幕末の頃の日本の総人口は、約3,200万人といわれていますが、そのうち85%が農民、武士は7%、町人5%、公家・僧侶等1.5%、えた・ひにん1.5%だったとのことで

江戸時代の税制や社会保障
https://manetatsu.com/2018/07/133520/

明治政府による新しい国づくり
https://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/meiji/08_meiji_mibunseido.html

 

85%の農民の年貢(米)によりほとんどの国費が賄われていたわけですね。すごいですね。

で、ということは、身分を超えて結婚が行われ純粋に血筋が士農工商という人はほぼいなくなるわけですが、結局、現代の我々のほとんどは農民出身、ということです。


それで、近代西洋教育をちょっとやってすぐ軍国主義になるでしょう。
敗戦後には「昨日までが突然ひっくり返り、信じられるものを求めた」結果、ものづくりで高度成長するけど、過程が面倒になって近道して大事なものをさっさと見失った果てに拝金主義が横行する。

まともな教育を受けてきていないんだよね。

個である人間に関する体系的な教育や思想の歴史がないんだよね。
大昔からあるのって、人間も自然の一部(ものすごく高度な思考だけど、明治になって表面西洋思考で台無しに)であり、本居宣長的な「流れに身を任せよnearly長い物には巻かれろand寄らば大樹go to 諸行無常」でね。人任せなの。自分で考えない。臭い物に蓋、大きな声とエラい人に無条件降伏、黙って死ぬ、死んだらやっと敬われる。

だから仕方ないんだな、って思いました。


7%って、現在、「上級国民」といわれる人と同じパーセンテージだそうです。
新撰組が人気があるのは、「サムライ気取りの農民のトップクラス」だからです。
実際のサムライって、江戸時代に刀を振り回して人を切ったりするより、剣道して、あとは文官ですよ。役所の役人です。公務員です。


サムライとかなんとかいってるけどさ~~~

おれたち85%は農民出身だからね! 
サムライ気取りの農民ですよ、全然サムライじゃないし、貴族でもないよ。高貴さも教養も思想も克己も道義もない。そんなものを持つだけのベースがない。
なにかを盲目的に信奉して従属したがり、性的な妄想が激しく、己の価値観を否定する他者に異常に暴力的になる。宇佐美だから、ほとんど。


そこから逃れるためにはどうすれいいのか、考えないとね




(現代の一次産業に従事する人の事を言っているわけではないです。当たり前だけど。江戸時代に被搾取階級として農業に従事していた身分制度における農民の話です)





2021.9.17追記

日本の高等教育率って高いはずだよね、と思っていたのですが調べたらそうでもなかったので保存

 

2010.png

 

 

 日本では大学へ進学しても目標がないし、最悪有名大学とか名前だけゴールだったりするし、それなら職人になるとかのほうがずっと崇高ではあるけど(ドイツはマイスター制度があるから大学枠が低いのだろうと思う)

 

2015.png

https://www.pewresearch.org/global/2021/09/14/in-response-to-climate-change-citizens-in-advanced-economies-are-willing-to-alter-how-they-live-and-work/

ピュー・リサーチ・センターの、気候変動を深く懸念している先進国市民の割合、日本だけが2015年から大幅に減少。
驚きです。
社会民度の劣化がひどい。
気候変動はデマだとか…いや、確実に暑くなっているの体感でもデータでもわかるし極地の氷溶けたりしてるし、エビデンスがあっても、実際体感しても見ないふり…
もう怖い。

 

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイにおける父権と、対立理論としての谷垣、など

 
ウエジの過去エピソード
 
たった2ページだけど(次巻にも出てきますけど)、父権の抑圧に傷つけられてきたのがとても分かりやすくわかります。
 
父権というのは父親あるいは父親的なものを長とし権力を持たせる構造で、その構造を維持し成り立たせるため、おおっぴらにあるいはひそかに人間を支配する社会のシステムを指します。

金カムの中で、父権制により損なわれてきた男性たちと、彼らの比喩的な意味も含めた父殺しというのは非常に興味深いです。
 
生育史で何に損なわれたのかの中に、父親に傷つけられてきた(母親の場合も遠因に父親がいる)というのが続々出てくるんですが、男性作家が男性キャラクターを用いて、こういう形で父親を告発するのはとても珍しいと思う(フィクションの父殺しは大抵「伝説的父親を倒す、超える」で正負含めた父権の継承なので)
一人だけではなく、何人もいるのが、明確に意図されていると思うし、
鶴見中尉という「成り代わり」がいるのも象徴的ですよね。
 
女性だけでなく男性も様々な形で差別され傷ついてきたんだと、いまだに言えない抑圧があるのが前近代的父権制で、終わったのに死なない昭和です。家族はいいものかもしれない、でもそこで傷ついてきた人もいるんだよを描きながら、その被害者としてでなく加害者(殺人者)になってやりたいようにやる自由な姿を見せたり、時にストレートに父殺しをしたりで、父権の否定をしているのがとてもいいと思います。
 
 戦争やそこでの組織的な殺人も父権的な力と言い換えることが出来るでしょう。
 
メインキャラクターの中で、告発される父権と対照的に「父からの正しい継承」を体現する存在が谷垣です。
鶴見中尉に入り込まれるような心の穴を持ちながら、二瓶という師に会って兵士(組織的上下関係の中の殺人者)からマタギ(命の輪の中の平等な一人)に戻る。未熟な少年チカパシに自分の力で立つことを教える。
「勃起」という言葉は男根的マチズモではなく、「おのれに拠って立つ、奮起と気骨」であろうと思います。自分の勃起は自分のもの、自分で立たせるべきで、父権を中心とした組織の中で女性を玩具にし互いに擦りあって立たせるものではない、ということです。
 
谷垣は、インカラマッと出会い、いかにも美しい絵空事の恋愛ではなくリアルに成り行きからの情が深まるところから子供が出来て、新しい家族を作っていきます。
それは「愛し合う両親から生まれた祝福された子供」というより、もっと自然で、泥臭く、愛とか祝福とかの大袈裟な言葉を越えて寄り添いあう、いきものとして素直な人間の姿に見えます。
谷垣がマッチョで毛深く、いわゆる男性的な姿なのに、男性からセクハラされ、少女たちの中で自分が至らないと泣くところも、父権(いってしまえば女子ども弱いものを一段下の存在とすること)へのアンチテーゼと受け取れます。
いいよね、谷垣。作者にすごく愛されるのも無理はありません。
 
 
 
父権支配への告発と離脱の苦しさを描いている一方で、未来を背負わされ判断するキーパーソンがなぜ少女なのか?
なぜというか、それはどういうことなのだろうか?
 
 
・主人公たち(読者世代)が身を置いてきた戦争、仕事、社会、家族といった「男の」人生において、少女というのは「自分たち男の力によって関係を変えられる=何物でもない=無垢な」存在であること(「女」だと妻や恋人といった過去=父の既成概念に入ってしまうので、それでは自由になれない)
 
・旧世代の価値観(戦争という過ち)で人を殺し傷ついてきた主人公にとって、今まで触れてこなかった人生の側面=子供で女性であるゆえに、相棒として新しい未来を切り開ける希望の存在であること
 
・少年だった場合、あまりにも自らに近すぎリアルなので理想化した存在として未来を託せないし、相棒にもなれない。
なぜなら父権社会からまだ脱却できていないので、少年を「自らに教えを与える」「相棒」「尊い存在」として許容できないから
 
そういう感じもあるのかなと。
もちろん、ビジュアル的な良さや動かしやすさ、新しさの表現などいろいろな理由があると思います。 
少年少女が世界を変える! 的なフィクションを望む欲望は、現実にはグレタ・トゥーンベリの活動を支持する気持ちに繋がるとはあまり思えないんですよね。
その幻想や、妄想の仮託とは何なのだろうと思うんです。
女性側からの男性への妄想と欲望というか性欲リビドーも興味深いですけど、ちょっと痛くて…自分が…目が痛くて。あと女性の妄想と欲望は現実社会にさしたる力を及ぼさないのでね、今のところ、経済利用される以上の影響は、あまり。
 
 
作中でリパさんが「杉元は純粋だった頃の自分を私に重ねている」といいますが、
過去の自分を重ねるのなら少女ではなく少年である方が自然です。
なのに、少女に重ねている。
そこには何らかの欺瞞があるはずです。
少年はチカパシのように普通のバカでスケベな存在だと描きつつ
でも本来の主人公はこの少女のように清らかだった
人殺しなどしたくなかった。でも「男であることに疑問も嫌悪もない」
何かしら矛盾した感覚がある気がします。
尾形は勇作さんとアシリパを重ねていますが、杉元が勇作さんに「純粋だったころの自分を重ねる」のはありえないんですよね。

しかし古今東西、人間が心の穴を埋める幻想を求めるのは生存本能で、だからこそ物語を求める。その求められる物語が何か、というのに人間の普遍と時代の欲望という二つの形がある。と思います。まる。
 
 
 
 
 
 
 
 

ゴールデンカムイ25巻感想

 

 

あれ。本誌から修正けっこうありますか?

上等兵エピソードや勇作さん絡みなど、記憶にあるのとセリフが違うような。
ヤンジャンアプリを見たら既に修正済みだったのですが、ちゃんと本誌購入して修正箇所をサイトで検証している方がおられました。
ありがとうございます!!! スライディング土下座感謝! 
後世に必要なのは客観的事実資料なんですよね。本当にありがたいです。
思った以上に修正をされていて、ノダ先生すごい!なんですが、気になる『上等兵たち』のところだけ

  • 本誌:『勇作を殺して父上がオレに愛情があったとわかればしょせん勇作だってオレと同じ人間になりえた道がある、そう思わないか?」
    ⇒ 勇作を消せば自分が父に愛される可能性がある → 勇作だって結局人を殺す人間かもしれない 

  • 単行本:『実は俺も父上から愛されていたとすれば? その場合俺と勇作殿との違いは何も無いってことだよな?』
    ⇒ 俺が父に愛されれば勇作と同じ → 高潔で殺人をしない勇作と殺人を犯す自分に違いはない(愛情より勇作が自分と同じことが重要)


    微妙に違うんですが、11巻の段階で「勇作がいなくなったらもう一人の息子を想うのではないか、愛おしくなったのではないかと」父親の愛情を確認するための殺人、のように言っていたのが、「勇作と俺は同じ」ことを確認するため、と描かれているんですね。
    何が同じかというと、「俺は人を殺さない勇作と同じ」ということです。

この辺の修整は尾形を最終的にどう明確にするかのための修正だと思うので、後述します。

  • 本誌:一番安い駒 → 単行本:農民出身の一番安い駒

宇佐美の出身階級に絡めたセリフ追加は後あとの布石というかフォローでしょうか。
トムとジェリーみたいな二人…仲良く喧嘩しな😊
色々と言い回しや見せ方が変わっているところ、方向が若干違うけど尾形理論がおかしいのは同じで、おかしい論理を「やっぱりオレはおかしくないな」っておかしい宇佐美に確認するところどうしても笑ってしまう。
訂正して欲しくないから異常な人に確認するって的確すぎる。
(オガタ理論は部分的にはおかしくないし頷けるところもあるのですが、トータルで聞くとおかしいんだよね。本人もどこかでわかってるから宇佐美を選ぶとこがすごい)


宇佐美の嫉妬が月島さんへ向かないのは本誌読時には、争いは同じレベルでしか発生しないからだよな、と思っていましたが

『月島軍曹殿は本当の鶴見中尉殿を理解できていないから』

の詳細として過去回想の鶴見と宇佐美の会話が追加されました。


『いいなあ、僕も月島軍曹殿みたいに鶴見中尉殿から「駒」として扱われたい』『あれって最高の使われ方じゃないですか』
『 私は部下を「駒」などと思っていない』
『 はいはい…でも僕が鶴見中尉殿に「戦友だ」なんて言われたら吹き出しちゃうかも』


菊田氏「うちの上等兵はどうなってんだ?」いやほんと、お察しします。というか、おかしな上等兵って言及されてるの宇佐美と尾形だけ。お察しします。
自分はあなたのこと理解してますからってアピールして嫉妬の対象を笑って落としておけば、表面的には負け戦しないで済みますね。
とか言ったらぶっ殺されそうだけど…。

メンコをする少尉と軍曹。月島さんはつきあいがいいな…人情家
その月島さんへの「戦友だ」シーンの拡大からの駒扱い。
宇佐美の尾形への絡みから流れ弾。
鶴見中尉は月島さんを惑わすのが人生の目的なの?
ってくらいなにもかも月島さんかよ、なんですが、もうむしろそれでいいんですが、これも後々の為の修整でしょうか? 今本誌えらいことになってますので。


破綻しつつ自分にとってだけ筋の通った論理を語る殺人者達の奔放な生きざまは、正しい論理を選ぼうとして苦しむアシㇼパさんよりずっと爽快で愉快だけど、むろん人としてそっちを目指してはいけない。


IMG20210218175822.png

(息抜きの自家製あん肝。自分が作ったわけではありませんが…。あんこう鍋と日本酒のおともにどうぞ)



金塊を手に入れてどうするかの夢を語る人々の中で「いつもの娯楽」しか出てこない自分を考えるシライシの明るい虚無。
七面倒な理想やら誰かの為やら天下国家的を語る人に比べ、酒を飲んで遊郭に行ければいい以上の欲が浮かばない白石は、必要以上を求めない自然のようでもありますが、自分の生い立ちを思って「何か欠けてるのかな」と思うのかもしれません。
欠けているからといって殺人みたいなとこにいかない、白石の凡庸でまっとう(泥棒で脱獄王だけど)な好ましさ。
本気を見せない一方、信用されていないのかと密かに落ち込む。
大丈夫、それでいいです。私は白石が好き(誰への主張)


ボウタロウの野望って海賊王になる的な無邪気さがあるんですが、人に忘れられたくないから自分の国をつくって家族を増やして語り継いでもらうんだ、ってのが子供の無邪気の悲しさや暴力や残酷に通じる。
『季節のない街』で虐待されてされて耐えた子供が、好きな子を刺してしまって「死のうと思ったらあんたに忘れられるのが怖くて堪らなくなった」の悲しさに似てる。
「どうして?忘れたりしないよ」と言ってあげてほしいです。あと日本語読める人は全員『季節のない街』を読んでほしい。


ボウタロウとシライシの絡みは、互いに心をあかさないけれどそのことを互いに了解したうえでの絶妙な距離と理解で、まあかなり人間関係としてエロティックだと思います。
覆いかぶさって髪の毛を目の上に垂らすとかさ~~なんだよボータローは。
髪の毛のスタンド使いだよね。確実にね。

リパさんがスギモト好きなのはいいけど、男女の深い感情を全部恋愛絡みにするのはちょっとな。

自然は必要以上のものを取らない。とても同意。足るを知らない強欲はやっぱり人間の悪の一部で、どこかで自制すべきだと思う




勇作さんと尾形に関しては
11巻での感想は
「母が死ねば父は会いに来る=愛情の証明である=自分のしたことは正しかった」から連なる、「勇作が死んで自分が父親に愛されていたとわかれば自分が母を殺したのは正しかった」であり、「であれば、勇作もオレと同じである」ことがわかり、そこで初めて母を殺した自分が正しいと証明され、勇作さんも受け入れることが出来る、でした。

愛されたかどうかが自分を形成したのではなく、愛されていたなら自分はこう形成された存在であるはずだというのは、殺人者である自分をどう許容するかという話じゃないか、と思います。
殺人、と一般化していますが、ただ一つ、母殺しを指しているのだと思う。
尾形の母殺し問題は長くなるので別途。

今回の修正は、野田先生が尾形を最終的にどう描いて決着をつけるかが決まってきたことで、それは尾形にとって自分が殺人者である事とどう折り合いをつけるかなのでしょうか。
でも、勇作さんに振り回されて悪霊呼ばわりする罪悪感なんてクソがって尾形も好きだな。

ウエジについては次で。父権制と金カムについて。



感想をちゃんと書き留めておくの大事。
すぐ忘れちゃうから。さっき言ったことも忘れる。
忘れる上に考える力も衰えるから、時々フィードバックしないと。



YJ感想

 

宇佐美死す…

 

いや…うん。でもよかった、のかな
鶴見さんも来てくれたし
鶴見さんは鯉登少尉や月島さんに対するより、宇佐美に対しては凄く単純な好意に近いものをもってたと思うんですね。利用しようとする前に好きになってくれたし。

見開きで撃たれて倒れる豪華な最期でした…
紙の雑誌で見ると、絵が大きくて迫力あるんですよね。


お前の死が狙撃手としての俺を完成させた

 

中二びょう!!
震えるほどの中二っぷり! まぶしい!
「祝福された道があったのか」以来の震えです。すみません…どっちかというとウオッチャー目線で…

尾形さんは二次創作だと、可哀相、救ってあげたい、幸せにしたい、みたいなお気持ちを集めていらっしゃるし、萌えとはかわいそうとかわいいってことと言う側面もあるし、わかるんですけど、実際の尾形さんは全然かわいそうじゃないし生きる気力に満ちているし、どう考えてもわけわかんない理由とかねじれで(人を殺して平気な人間がいていいはずがないという自己への否定を『好きな相手に』されたから殺しちゃうというBL解釈をできるところがよいねじれ)殺された弟とか、「ぼくを見て」という代わりに毒を飲まされた母親とか、「俺を思いましたか」と聞かれた時には腹を刺されてた父親の方がかわいそうだと思うんですが。


『推しをかわいそうにしたい』『弱り○○』『体調不良』という欲望についてはなかなか興味深いと思います。
夢女子の『虐待された私』『誤解され嫌われる私』というジャンルもあるみたい(横目で見ていると)ですが、
自己投影の欲望、かわいそう、つらい、ほんとは悪くない、被害者、だからいじめた側が制裁され私は愛されるべき正当な理由があるということなのかな。
難病ものとか。
病気だと労られてどうやって生きてくつもりだとか厳しい事言われなくて済むし、楽しいよね。妄想では。
現実の難病は萌えとかゼロだけど…お金の話など厳しいことしかないので、ヒロイン気質に酔っている場合じゃないし、酔ってたら周りが「は?」ってなります。
まあそういう現実を忘れるための夢物語でもありますが、
酔うなら精緻で見事な虚構で酔いたいなー

 

 

 

 

YJ感想

 

「誰から生まれたかより、何のために生きるかだろうがッ」

 

さすが主人公。
ぐうの音も出ないまともなセリフをかましてきました。
生まれ育ち親がどうの、という感覚って、昭和中期くらいまでで(『銭ゲバ』とか『砂の器』とか)、アダチルという認識を経てそんなの関係ないがコモンセンスと思っていたのですが、現代にも共感されるものなのでしょうか。
NewsWeekの人生相談で義母への恨みを忘れられない人に「あなたがそれを語るべきは息子ではなくセラピスト。グッドラック」とあって、それな~と思いました。
兄様とか月島さんがセラピストにかかるとこ想像するとそれはそれで面白いです。鶴見中尉みたいな医者に人生めちゃくちゃにされたりして…(妄想翼)
あと、愛し合う=メイクラブ、うん、言葉の問題!!そこ注意しよう!

このまばゆい正論。
ぜひ胸倉掴んで言ってやってほしいです。

さて一方兄様

商売女の子供の分際で!

などと言われております。
宇佐美、そういう事言うんだってちょっとびっくりしました。
常識とか世俗の価値観から外れた人だとおもっていたので。割と普通の変態なの?
そういう下の言葉に引きずられて自分も愚かになる必要はないですが
まあでも今は戦闘状態だから顔とか踏んでもいいかな。
接近戦でも銃を使うんですね。
自分の得意分野を把握して使うことはとてもだいじ!

娼婦は観音様

 

うーん、蔑むのも変に崇めるのも結局、消費する側の身勝手ですからね…やってる方は仕事だし。
アイドルとかまあ、推しキャラに対する「消費者という自分主体の搾取の美化」も似たようなとこがありますが、私はちょっと、好きではないです。
その感情が自分を生かす大きな支えであるとしても、自分主体の本体を無視した搾取だということを欺瞞したくはないな。これは自分だけの感情で人には関係ないのですが。

やだ、もう!
こういう偏屈な気持ち悪いオタクみたいなこと言いたくないのに牛山さんのバカ!!!

 

 

 

 

ヤンジャン感想

 

 

宇佐美…!


がっつりしたスパンキングプレイ…

鶴見信者から変態性欲者へステージシフトですか?
門倉さん。もう、生まれつきの犠牲者が板につきすぎ。
いつかやり返してやれ!
下剋上が好き!

 

両親が愛し合って…

うん アシㇼパさんは傲慢なほど純粋だからいいけど、いい歳の兄様に言われると「え?おいくつですか?」ってファッとなるやつですよね。

「両親が愛し合って生まれた子供」

実生活でそういう事問題にするかな? 愛…愛ってなんです…
と思うんですけど 愛とかじゃなくてなんか、成り行き、という側面も大きいから損得や打算もあるし。ズルくて生温いとこも。リパさんはそういうのを見てこなかったから夢見がちなのかな。
子供の欲望って、愛してほしいではなく、「自分を唯一無二の存在として一番に扱ってほしい、チヤホヤされたい、大事にされたい、構われたいでもほっといてほしい」みたいな感じがあると思います。それが否定されると自分の存在価値がゆらいで絶望的になるみたいな。
子供めんどくさいね! 大人がいいです。
愛ってねえ…
まずは人としての尊重があればいいんじゃないかな。
親が愛し合っていない、じゃなくて、親が互いを人として尊重していない、そういう事に子供なりに人として傷つくんじゃないかなと思います。愛と敬意は重なるけどちょっと違う。

 

そういうセリフを言えてしまうリパさんと尾形、似た者同士なんじゃ。
そうするとアシㇼパさんを否定したい尾形って同属嫌悪というか、似て非なるものの否定というドロドロした尾リパの可能性も広がります。広がるか?

勇作さんは「両親が愛し合って生まれました、私」とは言わなさそうです。
それを当然のことと思ってたらそれはそれで背後から撃ちたくなるってもんですが。

 

宇佐美に蹴られる兄様

接近戦に弱いのだから、距離を取るんだ…!射程距離の外まで!

 

感想用Twitterアカウント作ろうかなと思ったんですが、Twitterめんどくさいんですよね。短文で言いたいことをまとめるのってコピーライティングみたいなものだから大変。息をするのもめんどくさいゲイラだから。


でもSNS依存してないかというとそんなことはなく、お互いだけがフォロワーの鍵垢(複数ある。一対一でないとコミュニケーションできないから)で毎日なんか言いあってて時折ヤバいなと思います。