2022年07月

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クララとお日さま

 

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(早川書房) 感想※ネタバレ

 

遅ればせながら読みました。ドイツではまだベストセラー平積み書店がありましたし、飛行機内で読んでいる方も見ました。

 

【あらすじ】

クララはAF(Artificial Friend 人口親友)いわゆる子ども向けの、情緒教育用友だちロボットです。太陽光を主のエネルギー源としています。
最新型ではありませんが、店頭で外を見てはそこで起こることを彼女なりに考え解釈し、観察、思考力に優れた個性を持つと評されます。ジョジーという女の子のAFとして買われたクララは、その家で人間関係やジョジーの心模様を観察し、ジョジーのために一番よいことを叶えるべくお日さまと秘密の交渉を進めていくのですが…

 

 

読み終えて、クララの純粋があまりにも美しくて涙がでました。
聖人や童話のような、フィクションの中でしかありえない利他的な純粋を人間で描こうとするといまやどうしても無理が出てしまう。
罪と罰のソーニャのような人が表現する美しさは、都合のいい偶像に対象を閉じ込めるものと今の多くの人は思うでしょう。わたしもそう思います。
だから作者はクララを、自己犠牲を役割として考えられる非人間としたのでしょう。

クララは推定14歳ほどの少女ですが、ロボットであるためロボットの目線で世を見ています。
クララが見る社会には「向上処置」「置き換えられた」「クーティングス・マシン」「ボックス」などの言葉が出てきますが、それらの言葉はその社会で当たり前であるため、説明されることはありません。そのため、読み手はこれはなんだろうと自分で推測する必要があります。そして答えがないため、どこまでも考えるのです。子どもの語り口調で平易に語られる物語ですが、非常に理知的に構築されており、その多重性が読み応えとなっています。


「向上処置(lift)」は、子どもの能力を向上させる手術のような処置で、処置を受けない子どもは未処置(unlifted)の劣った存在として差別される

「置き換えられた」は、大人が何か不適切と思われる(おそらく政治的な)言動かなにかで左遷のような、それまでの地位を追われてやはり差別される存在になること
リックの家庭環境の描写や、クララが最新機種と比較されるように、ここが「差別的な格差社会」であることは強く暗示されています。

「クーティングス・マシン」は、大気を汚染する大型清掃機械のようなもの

「ボックス」は、ロボットであるクララの視界が人間と同じではなくピクセルや情報処理によってもたらされていること


私はこのように思いました。おそらく、多くの人も似たような解釈を持つのではないかと思います。

 

向上処置を受けた子どもは健康に害が出る場合があり、ジョジーの姉サリーはそれでなくなっています。ジョジーも徐々に弱って具合が悪くなっていきます。
母親は、子どもを失うことに耐えられず、ジョジーの姿をもつロボットに、ジョジーの思考と行動をトレースさせたクララの頭脳を埋め込む計画を立てています。
向上処置を受けさせるか、子どもをロボットに置き換えるかという親の命題もありますが、私は、ジョジーの心はどこまでトレースできるのか、そもそも人間は複製し継続できない特別な存在であるのか、というテーマに興味を持ちました。
心は扉のようなもので、開ければそこに幾つもの扉がありその連なりをすべてトレースすることはできないと、ジョジーの父はいいます。
クララは、とても難しいことですが、可能であると考えます。
しかし、クララはジョジーを助けること、ジョジーのためによいことのみをずっと願い、自らを損なってでも行おうとします。
そこで行われる「お日さまとの取引」は、信仰に似た思い込みでありながら、クララのひたすらにひたむきな願いと純粋さがあふれていて、最後に願いがかなったことをクララ以外の誰も知らない。そもそもその願いは祈りでしかないのかもしれない。だけど結果としてジョジーは救われ、クララは静かに廃品置き場へ引退し、継続不可能なジョジーの特別とはジョジー自体に宿るのではなく、彼女の周りの人たちの中にある、と語る。そしてそれは、クララの中にもジョジーが存在している、リックや母親、すべての人間が代わりの利かない者として存在しているということです。
それは、科学的に物事を観察し、人間の寂しさに寄り添おうとする機械から、弱く哀れで人間同士でさえ替えが効くと思いかねない人間への、無償の、大きな福音であるようにも思えるのです。


クララの視線は冷静だけれども真摯で純粋で優しい。
そして自分とは何なのかや、自分の感情のことではなく、常に周りの人間のことを考えています。
だからこそ、読み手であるわたしは「人間」の側のことを考えてしまう。我々が人間だから。
友達、といいながら、AFは人間の子どもにとって全く対等ではなく、ある種の奴隷のような存在であることは、物語の端々から読み取れます。人間の邪魔にならないよう冷蔵庫に向かって立ち続けるクララ、最新機種にしておけばよかったかもといわれるクララ、子どもに嫌われて常に数歩後ろを歩かされるAF…
そして、その愚かで身勝手で利己的な人間を決して責めることなく、人間の在り方に頓着することなく、最善を尽くそうとするクララに、哀しみではなく神のような尊さを感じました。

66歳の成功した男性小説家であるカズオ・イシグロが、女の子のロボットを題材に、子どもの語り口調で、このような物語を描き出せたことに強く感動します。小説を読む、その世界に入り込み享受する喜びを深く与えてくれる一冊でした。