2022年05月

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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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ゴールデンカムイ 最終感想(仮)

 

完結しましたね。読めなくなってしまいましたといいつつ、やっぱり読みました。
終わり良ければ総て良しを期待したところもあり。
無料公開がきっかけで一気に読んだ方と、週刊で追ってたのでは温度差があるのは仕方がありません。考える時間があるほど深く、時には余計な事を考えてしまうものなので。

 

さて、

加筆修正があると思うので今時点での感想は仮になるのですが、
最終回、アイヌ問題、あと白石の侵略問題? の描き方が一部で批判を受けているようです。
私はというと、特に気になりませんでした。
大団円で良かった、楽しませていただきました、というよりも、そんな現実とリンクする複雑な事象を扱える作品だと思っていなかったから。
批判をしている方は期待していたのでしょうし、期待するだけのものがあったのだろうと思います。そしてそういう期待していた人にとっては期待通りではない終わり方だったのは理解できます。また、扱えないなら雑に触るな、という面もあるでしょう。


自分が最初にひっかかって、ああこういう作品なんだなと思ったのは、親分と姫の描き方です。
ひと目でわかる有名俳優をモデルにして、あの描き方はないのではないだろうか。
私は仲代達矢のかっこいいイメージがあったので(鬼龍院花子の生涯とか)、現実の俳優をモデルにしてなぜこの描き方と思ったし、特徴をとらえて上手いけど、リスペクトがないなと思った。故人や同性愛者を笑いものにしていいとも思えませんでした。これをブラックユーモアというなら、いじめを笑いというのと同じベクトルと思う。
その、ディテールは緻密で面白く描いているけれど、素材にした現実に対する思考や配慮にどこか欠けているところが、最終的にすべてに影響を及ぼしたように感じられます。


親分姫のところで一度読むのをやめて、網走襲撃から樺太編が面白くて本誌を追い始めたのですが、樺太編は本当に面白かった!いやほんと。あそこで月島さんがすきになりました。仕事をきちんとやろうとする人が好きなのです。

 

 

かわいそうなアイヌを描かないでほしいといわれ、そうした、というお話を目にしました。女性や子供を含め、現実で弱者で被害者である歴史や状況があった/ある存在を強く明るいものとして、なかったこと…もといポジティブに描く一方で、一部の成人男性がたいへん己への被害者意識が強く、他者への加害意識が薄いという対照性も興味深かったです。

その対照性がね…とても現代、というかちょっと古いところから引き続きある「今」という感じがしました。

あと、かわいそうとはなにかなあ…という。
北欧少数民族の少女の映画「サーミの血」を見て、苦しいけどかわいそうとは思わなかったな。差別は隔絶されたものではなく、差別する側の人は自分達の内部でも差別をしあっている問題、と思ったし。イケてる子がイケてない子を笑うとか、根本は同じ、という、自分の中の問題。かわいそうって他人事だよね…。ああいう苦しい人生を描いてほしかったとは全く思わないけど、根本にあるものは触れられると思うよね、エンタメでも。



で、「親に愛されなくて傷ついた」「戦争で人を殺して傷ついた」「愛するものを奪われて傷ついた」そんな俺がかわいそうについて、家父長制のなかで男も傷ついたはどんどん訴えていくべきなのですが、「なぜ傷ついたのか」がキャラクターの独りよがりで終わってしまって、より高次の視点がぼんやりとしか感じられなかった、これが残念。

尾形は愛してくれる人をころした罪悪感に耐えられず死んだのではなく、最後まで自分の罪悪感を見ることを拒否して死んだのだと思うし、その罪悪感の根源は勇作さんではなく母親であるべきだったと思ったし、今も思っています。
私は、尾形の母親が殺されるほど悪い母だったとは思えないのですが。
ネグレクトといっても食事をつくり、添い寝して歌い言葉もかけているし。
それが「愛してほしい自分が望んでいるものと違った」から「愛する男に会わせてやるため」という自己欺瞞で殺人を犯した、という己の内面を見られないから、絶対に見たくないから「祝福されなかった自分」という理由を作り出し、ああいう行動をとりつづけたのだし、殺す必要もない勇作さんも殺したんでしょう。そうとしか思えない。

でもその「自覚の拒否」がすごくかわいそうだとは思うし、そういう描かれ方で描き切られてしまったのが、かわいそうだと思う。


あの母親の、「哀れな女」の描き方って、ちょっと「流されやすくて水商売をして男にのめり込む妾女」への差別というか嫌悪に近いものを感じます。多分作者がそういう人が好きでないのだろうけど。彼女はむしろ社会や状況の被害者であって、殺されていいほど加害者ではないはずなのに、「母親は強く明るくどんな時も子ども第一であるべきなのにそうではなかったから殺されて当然」みたいな暗い固定観念を感じる。


あと、鶴見の「ウイルクのせい」

…いや、みっともないのなかでもかなり口にしない方がいいやつですよ、「○○のせい」って。


登場人物の多くが自分の傷には敏感で、誰かのせいだと思っているけど、他者を傷つけ加害していることには鈍感なんですね。

で、この「かわいそうな私」に酔う被害者意識って、多くの人、特にオタクと親和性が非常に高いと思いますね。
多くの日本人が、自国の歴史を学ばず向き合わないのもこれ。


手塚治虫の火の鳥を読もうとして読めなかった人が「人間の本質に入っていくのが怖くて読み進められなかった」といっていて、人間の本質に入っていくものほど深く面白いのではないか、と驚いたのですが、「怖くて見たくない」という人と「それこそを見たい」という人の間にはすごい溝がある。
どちらがいい悪い優れているいないではないけど、どっちかが多くなりすぎるとそういう社会はバランスが悪いんじゃないでしょうか。

 

結局、こうやってごちゃごちゃ言ってしまうのも面白かったからで、それはそれとして、という議論を呼ぶくらいの内容があるという事だと思います。
様々な意見があるのは、「自分に都合の悪い、残酷で深いところも目を凝らして見たい」人向けではなく、最終的に「受け入れられるモノ以外見ないで楽しみたい」人向けだったのに、前者向けのような感じを含んでしまったところかもしれません。
だから前者には黙ってろ、というのはちょっと暴力的だよね。前者も後者もいるよ、そして互いにいることを認めつつ、自分の力で考えるべき。



とはいえ数年たって読み返したらまた違う感想かもしれません。
名作は読み返すたびに発見があるものですから。
自分が至らないという自覚をもっての今の感想としてのこれです。

 

 

くらもちふさこ「天然コケッコー」感想1

 

くらもちふさこ先生の「天然コケッコー」感想です。

 

むかし読んだのですが、再読して「全然感想が違う」(こればっか)
年を取るって、自分がいかに子どもだったか思い知らされることばかりです。

 

再読一回目、大沢もそよも、登場人物の誰一人として深くは共感できず、好きでもないのにものすごく「良いものを読んだ」気持ちになりました。
田舎の風景や空気感、だけではない
これはなんだろう??? と思ってもう一度読みました。



天然コケッコーのなにがすごいか、それは

他者の思い通りにならなさを排除しない

かなあと。


廃校寸前の学校にいる7人の小中学生と小さな村の住人を中心に、温かな日常に当たり前にある人間関係の面倒くささや負の側面が淡々と描かれます。
何が面倒で負かといえば、主要人物=読者側の人間にとって「思い通りにならない」からです。
そして、天然コケッコーは、キャラクター=読者側の人間にとって都合の悪い、他者の思い通りにならなさを、強さや能力や正しさで思い通りにしようとは決してしない。
これは並大抵でできることではないと思いました。

普通の漫画などの創作、もっといえば、普通に生きている私たちには「自分の秩序」によって他者を思い通りにしたいという願望があります。
「女はこう」「男はこう」「家族はこうあるもの」「性欲」「勧善懲悪」「やさしい世界」「弱肉強食」「実力主義」「学歴主義」「家父長制」「人権思想」「宗教」「新旧」その他あらゆる生活の中に「自分の秩序」がある。
その秩序を乱されると、不快や怒りを感じます。
プーチン大統領の大ロシア主義もこれで、正義や悪というより、それぞれが自分の秩序を求めており、その秩序に反する相手を断罪し、暴力を用いても排除しようとする。
それがまかり通ると社会が荒むので、法律という「みんなの秩序」があるのですが、法律は完全ではなく、いまの状況で仮に設定された最低限の秩序で、状況が変われば変わるものです。法律という共通秩序が人権を脅かすほど高圧的になると、独裁国家や監視国家になります。死刑だって暴力による秩序維持のための排除なわけです。
ですから法律を補う準共通秩序として、社会通念やマナーやモラルがあります。
全員の秩序のレイヤー数が違うので、社会はあやうい均衡の上にあり、流動的で、複雑で、混沌としています。すごく面倒くさいし疲れる。


だから、一人の人間が頭の中で組み立てた秩序によるフィクション=エンターテインメントは楽しいし安心するし、残酷な設定でも感情移入できる。
二次創作もそうだよね。私もやるけど。
「このキャラの関係性はこうあらまほしき」狭く小さい自分の世界秩序だから。
だからフィクションは自由な一方、「誰かの都合で作られた一方的な秩序」なので、社会通念にそぐわない特殊描写、弱者や子どもに加害的な題材を用いたフィクションなどはレーティングやゾーニングが必要となります。




それ以外のオープンなフィクション作品を楽しめない=ハマれない、場合は、「自分の秩序にあわない」からで「なぜあわないのか」について、楽しんだ側が「批判するな」「ターゲットではないだけ」と断罪するのは己の秩序を乱す他者の排除で、まあ、暴力ですよね。
その逆もそう。合う人もいる、合わない人もいる、その違いはなんだろう?
これを考えず排除しようとする人って、ちょっと怖いですよ。
だからフィクションの危険性は意識せねばなと思います。
現実とフィクションの区別がついている!と断言する人ほど、現実との接点が少なそうだし。自分も気をつけないと。



天然コケッコーには「自分以外の秩序」が「厄介だが排除も否定もされない」ものとしてある。
シゲちゃんの空気の読めなさ、遠山のずるさ、比世子のメンヘラ、大沢母によろめくお父さん、距離の近い噂好きの村人
もちろん、本格的に暴力的な人が出てこない、政治や経済が見えない、平和で普通の未完成な子どもの世界を大人(作者)が優しい視点で見ているからでもありますが、でも一方では子どもこそ「自分の秩序で他者を排除する」をむき出しでやったりする。
そこでは、重要でない他者は「モブ」だったり不快な他者は「嫌なやつ、加害者」だったり、そもそも視界に入っていなかったりする。

漫画的な世界って基本そうですよね。
主要人物以外は適当な顔で、装置にすぎなかったり。
読者の現実はモブだけど、自分が魅力も能力もないつまらない人間だと思いたくない、見たくないから、主要人物以外のザコキャラには非常に冷淡だったりする。
むろん、そういう慰めが必要だから現実を忘れるためのフィクションがあるわけです。

ただ、自分が弱者である現実を忘れるためのフィクションを消費する側が、「経済を回す(…)」お客様で強者であるという、非対称性の歪みは認識したほうがいいかと思う。



作品の話へ戻ると、

天然コケッコーでは、周囲の人のほうが陰影が深く、主人公二人が書割のようだ、という鋭い考察を見ました。
モブ=現実の私たち、で、主人公二人=心地よいフィクションで、大沢とそよの二人の世界(恋愛)の外で生きて、感じて、見ている側の生々しさがすごいんですよね。
大沢に憧れて自作漫画の中で都合のいい妄想をしているあっちゃんが、読者人気が高いのはわかるし、先生も「本来ならあっちゃんが主人公なのが少女漫画」とおっしゃる。
あっちゃんは大沢とそよを応援して見守る、推しを壁で見ていたいオタクの立ち位置で、「モブの自分には手に入らない世界を愛でたい」、でもあっちゃんにとっては現実だから、やっぱりつらい。
地元を愛し排他的で、そよと大沢がつながっている限り大沢との縁は切れないから、そよ以外の人とつきあってほしくない。
そんなあっちゃんに無言で淡い思いを寄せる浩太郎(将来性あるいいヤツ年下イケメン)に、「気づいていないけれどあなたを見ている人がいるよ」というまさに少女漫画の視線があり、淡雪のように消えていく詩情が切ないのです。。