ゴールデンカムイ 最終感想(仮)

 

完結しましたね。読めなくなってしまいましたといいつつ、やっぱり読みました。
終わり良ければ総て良しを期待したところもあり。
無料公開がきっかけで一気に読んだ方と、週刊で追ってたのでは温度差があるのは仕方がありません。考える時間があるほど深く、時には余計な事を考えてしまうものなので。

 

さて、

加筆修正があると思うので今時点での感想は仮になるのですが、
最終回、アイヌ問題、あと白石の侵略問題? の描き方が一部で批判を受けているようです。
私はというと、特に気になりませんでした。
大団円で良かった、楽しませていただきました、というよりも、そんな現実とリンクする複雑な事象を扱える作品だと思っていなかったから。
批判をしている方は期待していたのでしょうし、期待するだけのものがあったのだろうと思います。そしてそういう期待していた人にとっては期待通りではない終わり方だったのは理解できます。また、扱えないなら雑に触るな、という面もあるでしょう。


自分が最初にひっかかって、ああこういう作品なんだなと思ったのは、親分と姫の描き方です。
ひと目でわかる有名俳優をモデルにして、あの描き方はないのではないだろうか。
私は仲代達矢のかっこいいイメージがあったので(鬼龍院花子の生涯とか)、現実の俳優をモデルにしてなぜこの描き方と思ったし、特徴をとらえて上手いけど、リスペクトがないなと思った。故人や同性愛者を笑いものにしていいとも思えませんでした。これをブラックユーモアというなら、いじめを笑いというのと同じベクトルと思う。
その、ディテールは緻密で面白く描いているけれど、素材にした現実に対する思考や配慮にどこか欠けているところが、最終的にすべてに影響を及ぼしたように感じられます。


親分姫のところで一度読むのをやめて、網走襲撃から樺太編が面白くて本誌を追い始めたのですが、樺太編は本当に面白かった!いやほんと。あそこで月島さんがすきになりました。仕事をきちんとやろうとする人が好きなのです。

 

 

かわいそうなアイヌを描かないでほしいといわれ、そうした、というお話を目にしました。女性や子供を含め、現実で弱者で被害者である歴史や状況があった/ある存在を強く明るいものとして、なかったこと…もといポジティブに描く一方で、一部の成人男性がたいへん己への被害者意識が強く、他者への加害意識が薄いという対照性も興味深かったです。

その対照性がね…とても現代、というかちょっと古いところから引き続きある「今」という感じがしました。

あと、かわいそうとはなにかなあ…という。
北欧少数民族の少女の映画「サーミの血」を見て、苦しいけどかわいそうとは思わなかったな。差別は隔絶されたものではなく、差別する側の人は自分達の内部でも差別をしあっている問題、と思ったし。イケてる子がイケてない子を笑うとか、根本は同じ、という、自分の中の問題。かわいそうって他人事だよね…。ああいう苦しい人生を描いてほしかったとは全く思わないけど、根本にあるものは触れられると思うよね、エンタメでも。



で、「親に愛されなくて傷ついた」「戦争で人を殺して傷ついた」「愛するものを奪われて傷ついた」そんな俺がかわいそうについて、家父長制のなかで男も傷ついたはどんどん訴えていくべきなのですが、「なぜ傷ついたのか」がキャラクターの独りよがりで終わってしまって、より高次の視点がぼんやりとしか感じられなかった、これが残念。

尾形は愛してくれる人をころした罪悪感に耐えられず死んだのではなく、最後まで自分の罪悪感を見ることを拒否して死んだのだと思うし、その罪悪感の根源は勇作さんではなく母親であるべきだったと思ったし、今も思っています。
私は、尾形の母親が殺されるほど悪い母だったとは思えないのですが。
ネグレクトといっても食事をつくり、添い寝して歌い言葉もかけているし。
それが「愛してほしい自分が望んでいるものと違った」から「愛する男に会わせてやるため」という自己欺瞞で殺人を犯した、という己の内面を見られないから、絶対に見たくないから「祝福されなかった自分」という理由を作り出し、ああいう行動をとりつづけたのだし、殺す必要もない勇作さんも殺したんでしょう。そうとしか思えない。

でもその「自覚の拒否」がすごくかわいそうだとは思うし、そういう描かれ方で描き切られてしまったのが、かわいそうだと思う。


あの母親の、「哀れな女」の描き方って、ちょっと「流されやすくて水商売をして男にのめり込む妾女」への差別というか嫌悪に近いものを感じます。多分作者がそういう人が好きでないのだろうけど。彼女はむしろ社会や状況の被害者であって、殺されていいほど加害者ではないはずなのに、「母親は強く明るくどんな時も子ども第一であるべきなのにそうではなかったから殺されて当然」みたいな暗い固定観念を感じる。


あと、鶴見の「ウイルクのせい」

…いや、みっともないのなかでもかなり口にしない方がいいやつですよ、「○○のせい」って。


登場人物の多くが自分の傷には敏感で、誰かのせいだと思っているけど、他者を傷つけ加害していることには鈍感なんですね。

で、この「かわいそうな私」に酔う被害者意識って、多くの人、特にオタクと親和性が非常に高いと思いますね。
多くの日本人が、自国の歴史を学ばず向き合わないのもこれ。


手塚治虫の火の鳥を読もうとして読めなかった人が「人間の本質に入っていくのが怖くて読み進められなかった」といっていて、人間の本質に入っていくものほど深く面白いのではないか、と驚いたのですが、「怖くて見たくない」という人と「それこそを見たい」という人の間にはすごい溝がある。
どちらがいい悪い優れているいないではないけど、どっちかが多くなりすぎるとそういう社会はバランスが悪いんじゃないでしょうか。

 

結局、こうやってごちゃごちゃ言ってしまうのも面白かったからで、それはそれとして、という議論を呼ぶくらいの内容があるという事だと思います。
様々な意見があるのは、「自分に都合の悪い、残酷で深いところも目を凝らして見たい」人向けではなく、最終的に「受け入れられるモノ以外見ないで楽しみたい」人向けだったのに、前者向けのような感じを含んでしまったところかもしれません。
だから前者には黙ってろ、というのはちょっと暴力的だよね。前者も後者もいるよ、そして互いにいることを認めつつ、自分の力で考えるべき。



とはいえ数年たって読み返したらまた違う感想かもしれません。
名作は読み返すたびに発見があるものですから。
自分が至らないという自覚をもっての今の感想としてのこれです。