くらもちふさこ「天然コケッコー」感想1

 

くらもちふさこ先生の「天然コケッコー」感想です。

 

むかし読んだのですが、再読して「全然感想が違う」(こればっか)
年を取るって、自分がいかに子どもだったか思い知らされることばかりです。

 

再読一回目、大沢もそよも、登場人物の誰一人として深くは共感できず、好きでもないのにものすごく「良いものを読んだ」気持ちになりました。
田舎の風景や空気感、だけではない
これはなんだろう??? と思ってもう一度読みました。



天然コケッコーのなにがすごいか、それは

他者の思い通りにならなさを排除しない

かなあと。


廃校寸前の学校にいる7人の小中学生と小さな村の住人を中心に、温かな日常に当たり前にある人間関係の面倒くささや負の側面が淡々と描かれます。
何が面倒で負かといえば、主要人物=読者側の人間にとって「思い通りにならない」からです。
そして、天然コケッコーは、キャラクター=読者側の人間にとって都合の悪い、他者の思い通りにならなさを、強さや能力や正しさで思い通りにしようとは決してしない。
これは並大抵でできることではないと思いました。

普通の漫画などの創作、もっといえば、普通に生きている私たちには「自分の秩序」によって他者を思い通りにしたいという願望があります。
「女はこう」「男はこう」「家族はこうあるもの」「性欲」「勧善懲悪」「やさしい世界」「弱肉強食」「実力主義」「学歴主義」「家父長制」「人権思想」「宗教」「新旧」その他あらゆる生活の中に「自分の秩序」がある。
その秩序を乱されると、不快や怒りを感じます。
プーチン大統領の大ロシア主義もこれで、正義や悪というより、それぞれが自分の秩序を求めており、その秩序に反する相手を断罪し、暴力を用いても排除しようとする。
それがまかり通ると社会が荒むので、法律という「みんなの秩序」があるのですが、法律は完全ではなく、いまの状況で仮に設定された最低限の秩序で、状況が変われば変わるものです。法律という共通秩序が人権を脅かすほど高圧的になると、独裁国家や監視国家になります。死刑だって暴力による秩序維持のための排除なわけです。
ですから法律を補う準共通秩序として、社会通念やマナーやモラルがあります。
全員の秩序のレイヤー数が違うので、社会はあやうい均衡の上にあり、流動的で、複雑で、混沌としています。すごく面倒くさいし疲れる。


だから、一人の人間が頭の中で組み立てた秩序によるフィクション=エンターテインメントは楽しいし安心するし、残酷な設定でも感情移入できる。
二次創作もそうだよね。私もやるけど。
「このキャラの関係性はこうあらまほしき」狭く小さい自分の世界秩序だから。
だからフィクションは自由な一方、「誰かの都合で作られた一方的な秩序」なので、社会通念にそぐわない特殊描写、弱者や子どもに加害的な題材を用いたフィクションなどはレーティングやゾーニングが必要となります。




それ以外のオープンなフィクション作品を楽しめない=ハマれない、場合は、「自分の秩序にあわない」からで「なぜあわないのか」について、楽しんだ側が「批判するな」「ターゲットではないだけ」と断罪するのは己の秩序を乱す他者の排除で、まあ、暴力ですよね。
その逆もそう。合う人もいる、合わない人もいる、その違いはなんだろう?
これを考えず排除しようとする人って、ちょっと怖いですよ。
だからフィクションの危険性は意識せねばなと思います。
現実とフィクションの区別がついている!と断言する人ほど、現実との接点が少なそうだし。自分も気をつけないと。



天然コケッコーには「自分以外の秩序」が「厄介だが排除も否定もされない」ものとしてある。
シゲちゃんの空気の読めなさ、遠山のずるさ、比世子のメンヘラ、大沢母によろめくお父さん、距離の近い噂好きの村人
もちろん、本格的に暴力的な人が出てこない、政治や経済が見えない、平和で普通の未完成な子どもの世界を大人(作者)が優しい視点で見ているからでもありますが、でも一方では子どもこそ「自分の秩序で他者を排除する」をむき出しでやったりする。
そこでは、重要でない他者は「モブ」だったり不快な他者は「嫌なやつ、加害者」だったり、そもそも視界に入っていなかったりする。

漫画的な世界って基本そうですよね。
主要人物以外は適当な顔で、装置にすぎなかったり。
読者の現実はモブだけど、自分が魅力も能力もないつまらない人間だと思いたくない、見たくないから、主要人物以外のザコキャラには非常に冷淡だったりする。
むろん、そういう慰めが必要だから現実を忘れるためのフィクションがあるわけです。

ただ、自分が弱者である現実を忘れるためのフィクションを消費する側が、「経済を回す(…)」お客様で強者であるという、非対称性の歪みは認識したほうがいいかと思う。



作品の話へ戻ると、

天然コケッコーでは、周囲の人のほうが陰影が深く、主人公二人が書割のようだ、という鋭い考察を見ました。
モブ=現実の私たち、で、主人公二人=心地よいフィクションで、大沢とそよの二人の世界(恋愛)の外で生きて、感じて、見ている側の生々しさがすごいんですよね。
大沢に憧れて自作漫画の中で都合のいい妄想をしているあっちゃんが、読者人気が高いのはわかるし、先生も「本来ならあっちゃんが主人公なのが少女漫画」とおっしゃる。
あっちゃんは大沢とそよを応援して見守る、推しを壁で見ていたいオタクの立ち位置で、「モブの自分には手に入らない世界を愛でたい」、でもあっちゃんにとっては現実だから、やっぱりつらい。
地元を愛し排他的で、そよと大沢がつながっている限り大沢との縁は切れないから、そよ以外の人とつきあってほしくない。
そんなあっちゃんに無言で淡い思いを寄せる浩太郎(将来性あるいいヤツ年下イケメン)に、「気づいていないけれどあなたを見ている人がいるよ」というまさに少女漫画の視線があり、淡雪のように消えていく詩情が切ないのです。。