2023年03月

インフォメーション

あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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デクスターとパターナリズム


海外ドラマ「デクスター 警察官は殺人鬼」
(2006-2013 全8シーズン)

このドラマ、昔見たのをアマプラで見返したら、
めちゃパターナリズムを考える教材でした。
これこれ、これがパターナリズムや!というね。

前見たときは、実兄と義妹とデクスターの関係にたぎってたものでした。



【ざっくりあらすじ】

マイアミ署の血液専門鑑識官、デクスター・モーガンは、幼児期から殺人衝動を抑えられないシリアルキラー。警察官で亡くなった義父ハリーが定めた掟に従い「生き延びる」ため「殺人を犯した奴だけ」をこっそり殺している。誰にも本当の自分を見せられず、義妹デボラや恋人にも自分を隠して生活しており、中身が空っぽで孤独だと感じるが、殺人はやめられない。そこへ、新たなシリアルキラーが登場し彼に特別な親近感を抱くようになるのだが...

 


パターナリズムとはなにか


②Paternalism:英国:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)

②Paternalism:米国:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)


 

デクスターに対するハリーの「掟」

Code of Harry


これはシリーズを通して強固なコンセプトとして描かれます。

デクスターは、「殺人衝動を抑えられない」人間で、義父ハリーは彼を守るため「掟(CODE)」を与えます。警戒し、捕まらず、生き延びる、殺人犯以外は殺すな。

この掟はCodeです。RuleとCodeはともに規則・掟ですが、ルールよりコードは厳しく「仲間の掟」のような破ればペナルティが課される決まりを意味します。CodeのなかにRuleがあります。
デクスターはこの掟を守りながら、大人として自分の人生を選択していくにつれて逃れたいとも感じはじめます。
ハリー(記憶の中の神である義父)と現実のデクスターの精神状態、人間関係の相克が「パターナリズムに従っていれば安全だが、自分自身の人生を歩むことを困難にする」の典型的な状態をあらわしています。

 

さらにハリーはデクスターに彼自身の情報を隠していました。
デクスターの母が惨殺されたこと、その母とハリーが情報提供者と警察官で、愛人関係だったことなど
つまり

「権威ある側が良かれと思って相手の代わりに判断し、(自分に都合の悪い情報は避けて)教え導く」

です。

パターナリズムが帝国主義国家と植民地の関係も意味することを思うと、「(実際は自分たちの利益のための支配だが、それを隠しあたかも相手のためのように)教育やインフラなどを与えてやり搾取のバーターとすること」と同じ構造といえます。

シリーズを通して(まだシーズン4までしか見返してないけど)
デクスターは「父の代わりになる関係」を求め続けます。

実兄、愛人、友人、高齢シリアルキラー
彼らとの関わりにおいて、ハリーの亡霊というデクスターの内面が常に出現し、警告を発します。その関係は本当に大丈夫か、おまえは間違っている、引き返せと。

 

パターナリズムは「自己決定権を負担する=奪う」ことです。


ゆえに、自己決定力のない存在=劣った存在(帝国に対する植民地のように”劣等”)です。例えば、「未成熟な子供」に対して「保護を与える能力がある大人」がパターナリズムを発揮する場合があります。この際に多くは、「子供にメリットがある」ために「対象の自己決定権を奪う」という本来望ましくないことが承認されます。


問題は、「判断力がない劣等とされた存在(弱者といいかえることもできます)」が本当に「そう」なのか?
庇護を与えられた弱者は自分が劣等として支配されることに不満を覚えないか?(これはいわゆる反抗期として多くの一般人も経験する時期)
弱者が学び成長し、自己決定力をもつ準備ができたとき、与えられたパターナリズムが足を引っ張るのでは?(反抗期が失敗、成長できず子供でいつづける時期)
また、パターナリズムを与える側が、その権力を手放さないのではないか?(相手を劣等とおとしめ守るふりして支配する)

などです。


ハリーは「俺の神」としてデクスターを守り、縛ります。

「ハリーの掟を自分の掟に変えよう」

デクスターはそう考えつつも、何かを自分で決めよう、ハリーが否定するかもしれない行動をとろうとするたび、内面化されたハリーが彼を縛り付けます。

シーズン2でミゲルと友人になり秘密を共有しようとするデクスターにハリーの幻はいいます。

「ミゲルが実行することはお前の責任にもなるわけだからな」

自分で決めて行ったことが自分の責任になり、それを「俺の言うとおりにしていればよかったのに」と言われる。実体のハリーはそういわないかもしれない。でもデクスターの中で生きているハリーはいうのです。「失敗したらお前の責任なんだ。それでもお前は自分で決めるのか

シーズン4で、ハリーの警告を顧みず妻と子をもち、殺人衝動と家庭を両立させようとするデクスターを襲う悲劇は、「それでも自分で道を歩んでよかったのか」という問いを人生に投げかけ、その問いはシーズンを通してデクスターの行動についてまわるのです。

 

また、家父長制およびペイトリアーキに対する反応もいくつも描かれています。
父親に放っておかれたと感じ、認められたいと願うデボラ、
妻と子をモラハラと暴力で支配するアンソニー、
女性の社会進出の困難さ、など

 

2000年代に始まったドラマなので、価値観が古い部分もありますが、「パターナリズムとは何か」「一部の(一般的な?)アメリカ人にとっての”父”なる存在」を考察する興味深いドラマになっていると思います。

 

「父親の罪は受け継がれていく

次々に

子から孫へと

それを誰かが、あんたが、終わりにしない限り」

 

 母の罪は息子には受け継がれないんですね。
おそらく、”女”という属性が娘へ「母から受け継がれる」ものにされているのだと思いますが、男性の場合に受け継がれる属性が「父」であるというのが面白いです。
「男であれ」なんだけど「男であることの上位が父」なんですよね。
「女である」と「母である」は対立する概念と思われているでしょう。
「母である以前に女=恋とか性欲にとらわれる性的な存在」で
「母は父以外には性的な女ではなく、子供第一に考えるもの」みたいなやつ。
「父である」と「男である」は対立せず、男の上位である父は、母と違い、より社会的な存在とされている。

生殖の際に「男は自分では子を生み出すことができない。だからどこか空虚でよりどころがない」からこそ父が「父」という属性に付属する権力にこだわる現象こそ、家父長制、パターナリズム、ペイトリアーキの根底にあるんではないかと思うと、それにとらわれた父と息子というのはわりとかわいそうな存在であるわけです。こういうこというと怒られると思うけど。

 

 

 

 

 デボラとデクスターの対比も面白いですね。

クインが「お前みたいな女は滅多にいない。おまえはまるで…男だ。駆け引きをしない。俺ですら知らないような汚い言葉で本音を言う」という愛の告白をするんですけど、モテマッチョイケメンであるクインがデボラを好きなのは「まるで男」だからなんですね。
そしてデボラは「私と兄貴は正反対」という。
デクスターはそうすると、まるで女ということになる。
まるで男、とか、まるで女、という判断基準とは一体何か?
青が好きな人間は男でピンクが好きな人間は女なのか?
実際には20世紀半ばまで、青は聖母マリアの象徴で女性の色で、ピンク含む赤は活力ある男性の色でした。
どの色を好きかなんて、実際は、個別性にすぎないのに、属性のように語られるそれこそが、ジェンダー刷り込みというものなんですね。

また、リタは「母親であり性的な女」で、彼女が死んだあと子どもの世話で趣味の殺人ができなくなるデクスターが「リタがいてくれたら」と思うんですが、お前にとってのリタってなんだよ!都合のいい世話係か!みたいな気分になるんですけど
息子の世話をベビーシッターに丸投げしたり。
「男」として社会で「生き延びようとする」デクスターが、家族を持つことによる不自由を「女」に押し付けるのも興味深いです。



 

 season5からはデクスターの孤独がより際立ってきます。
新しい母=リタ=本当の彼を無理に知ろうとせず見えている彼を許し価値を見出しセックスし息子(デクスターにとって生まれ直しであるハリソン)を産んでくれる女性を失い「世界に一人で放り出された男」としてのデクスターです。

season5では復讐者ルーメンとともに犯罪者を殺しますが、復讐を終えたルーメンは彼の元から去ります。

season6は、キリスト教(宗教)と殺人者の内なる闇と光について語られます。Doomsday killer(最後の審判キラー?)では、ヨハネ黙示録に従い連続殺人を導くゲラーとトラビスという疑似父&子関係のシリアルキラーが現れます。
一方、デクスターにはブラザーサムという元殺人犯の改宗者が現れ、彼の内なる「光の側面」を見ろと諭します。サムは撃たれても犯人を許せといい、幻のハリーもサムに従えといいますが、デクスターは犯人への怒りを抑えられず殺してしまいます。

そこにseason1ぶりの兄、ブライアンの幻が現れ、「父の教えを守らない息子」「同じ心をもつ男」として「突き進め」というのは非常に興味深い演出です。

ハリーの代わりにデクスターの隣で対話に応えるブライアンは、「殺せ、楽しめ、自分自身であれ」と煽りたてます。二人が車に乗って父と同じく殺人を犯したトリニティキラーの息子を殺しに行くのは、「父から独立する息子たち(一人ではできない)」の象徴ともいえます。

一方、デボラは警部補に昇進し、父を超えることで「父さんに認められたくて苦しかった、だから父さんが死んだときどこかほっとした」自分を超えていきます。性依存症的に恋愛を繰り返し、父親のような男と関係を持つこともあったデボラは、プロポーズを機に「楽しいだけで深いところには届かない関係と気づいた」クインとは別れます。
ちなみに、このデボラの異性関係を「手に入らない、ふさわしくない相手ばかりと恋をしたのは、デクスターが好きだったから」というアクロバティック後付け展開もあるんですが、そこんとこはどうなの~とちょっと違う話です。


エンジェル・バティスタ、クイン、デクスターは、共に寂しく、女や車や殺人に耽溺し続け、誰かとの深い関係を求めながらもそれを正しく方向づけられず、「人恋しくて女を買」ったりします。
(クインが”今夜80ドルつぎこんだこの女と寝られなければ、別の女にイチからやり直しだ”というのは、ギャンブルのように相手を獲得する存在と見なしているわかりやすいシーンです)


孤独なデクスターは、幻の父の代わりに幻の兄という、身近で共感性が高く、経験知と理性に欠ける相手を導き手としますが、これは実生活でもよくあることです。現実には「父」はつまり社会の総合経験知で、そこから学び自立することが必要ですが、若者はそれに反発し反抗期を迎えるのです。

season6の7話、ジョーイを殺しにいくデクスターの隣で囁くブライアン。デクスターは行きずりの女の子とセックスし銃を盗み車を飛ばして撃ちまくる。「自分よりオトナの友達とつるむ反抗期の少年」を満喫し、デボラからの電話を無視する。
デクスター、トリニティキラーの息子ジョーイ、ゲラーに従うトビアス、彼らは「父の影響下のゆがめられた息子」です。デクスターはハリーの影響から脱しようとしてブライアンを心の友にする。ブライアンと一体化したデクスターはそれまでの慎重さを捨て、短絡的で自分の欲望第一に攻撃的になる。
社会で「先輩、兄、親分」的な人の同様な在り方を内面化させた少年一般に、よくある傾向です。


ジョーイの「望まない形で父の子である自分を消し去りたい」に対し、デクスターは「殺さない」決断をし、うちなるブライアンは「死ぬのを見たいはずだ、殺せ」といい、二人は闘います。
「俺はおまえより強い」とデクスターがブライアンを退けるシーンは、父と子、友人、兄弟でも「強さ」により支配と被支配が決まる、さっきまでの一体感はうわべの平穏だったと見せつけてきます。

例えばここに「女や子どもや弱者という”劣等者”」がいれば、「彼ら」より自分たちはともに「上」であるという幻想のもと男同士の連帯は脅かされずにいられる、という構造があるといえます。これがいわゆるホモソーシャルであり、ホモソーシャルがミソジニーを内包しやすいのは当然で、彼らの連帯を維持するため女性は「同等もしくは上」にきてはならないからです。
※ホモは同質をあらわす接頭語なので、女性その他にもホモソーシャルはありますが、現在社会構造的に有害といわれる男性同士のホモソーシャルをここでは”ホモソーシャル”としています。


男尊女卑は男同士が殺しあわないためのシステムである。じつのところそれは女を抜きにした「男同士の問題」で、「弱い」存在は支配されるべき、という思考が根底にあるのです。

 

最後にブライアンを引き殺し、ジョーイを殺さず、デボラと息子の元に帰るデクスター。

『ひかりは闇に打ち勝つ

闇が光によってつくり出されるなら闇だけでは存在しないのかも

ならば光はどこかで待っているはずだ。見つけ出されることを』

そして、ハリーが「おかえり、デクスター」と助手席に乗り込んでくる。
不穏な音楽から陽気なテンポ。俯瞰に映る道路。

 

 さて、トビアスは実はゲラーを殺して多重人格的に「内なるゲラー」とともに殺人を犯していました。父殺しとその罪を内包した息子というのも昔からフィクションでよくあるテーマです。

デクスターにとってどんな自分でありたいかは、「ハリソンにとっていい父親になりたい」です。このドラマでは一貫して「父と息子」がテーマなのです。

 

 

 

 

スキップとローファーに見る「BL構文」とよしながふみ作品

 

「スキップとローファー」(高松美咲 アフタヌーン掲載)

は、同級生が8人しかいない石川県の中学から東京の高校へ進学した女の子「みつみ」と、彼女をとりまく友人たちの日常と恋と青春の物語です。

 

初読で、きゅんきゅんする!こころが浄化される!と思い
しばらくして何かに似てるな、と思いました。

なんだろう 


なんだろう…


「フラワー・オブ・ライフ」(よしながふみ)でした。



高校生同士の繊細で微妙な関係性を描いた青春漫画です。
今みると不倫教師の描き方など痛さもありますが、2003~2007年連載なので、約16~20年たてば今の感覚がこのように古くなる、という予測はしておいていいでしょう。


さて、よしながふみさんはスラムダンクのBL同人などを経て商業BL漫画をはじめプロとして作品を発表し、いまでは「大奥」や「きのう何食べた?」などでドラマ・映画を通じ広く一般に知られる人気作家です。
大奥は男女の恋愛を中心に「男女逆転江戸城大奥絵巻」として白泉社のメロディ、何食べは男性同士ですがBLという女性向け恋愛ファンタジーではなく、「ある属性の人が社会で生きる物語」として一般男性誌のモーニングに連載されています。

 

BL(二次)同人創作にふれた人ならわかると思うのですが、よしなが作品には「BL構文」があります。
BL構文とは何か?といわれると「いや、あれですよ」みたいな感じになってしまうのですが、つまり、「BL同人創作的エモーショナル構造」であり、一般人はあまりそれに触れたことがないため「今までにない、新しい」と感じるのですが、オタク女子にとってはよく知ってるし大好きだよ、というやつです。

 

そのBL構文を「スキップとローファー」の高松美咲さんにも感じました。
絶対、どこかでBLを描いていた人だ!と思ったわけです。
ご本人は伏せておきたいのかもしれなくて恐縮ですが、やはり別名義でpixivにBLを投稿してコミックスも出しておられたようです。

 

BLとは、主に女性作家による女性読者のための男性同士の恋愛ファンタジーです。
ストーリー構成要素には「関係性および心理の繊細な描写」「エロ」があります。
少女漫画作品にも似たような傾向はありますが、大きな違いは
「男性同士であるため様々な意味で男女の恋愛のようには進まず、関係性における繊細な心理描写が双方で行われる」
ことかと思います。
それが、BL感想によくある「情緒をぐちゃぐちゃにされる」「尊い」「クソデカ感情」を生み出します。

異性同士の場合、両性が共にいると「恋愛・性愛」要素が前提として存在します。
そんなつもりはなくても、選択肢に最初から入ってきてしまいがちです。
女性の「カレシがほしい!」男性の「カノジョがほしい!」が当たり前です。

しかしBLの場合、双方または片方が非同性愛者であることが多く、男同士ゆえのハードルも存在します。
「カノジョカレシがほしい!」の枠外で「友達(その他いろいろ)と思っていたのに、
こいつが特別かもしれない。好きなのか?性欲を含む恋愛なのか?そうではないかも、むしろ憎いのかも、でも特別、だけど周りにわかってもらえない」などの心理的葛藤は男女以上に深くなり、そのめんどくささとクローズさが「情緒をかき乱す」「特別感」「被害者的な感覚」につながります。

生き別れ、記憶喪失、義きょうだい、婚約者がいるのに、敵同士なのに、教師と生徒なのに、など、心理的葛藤は恋愛ファンタジーの大きなスパイスです。
BLはこれらの大袈裟な設定以上に、日常生活において「心理葛藤」を発生させることができるシステムを有しています。
そしてこれらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。その日常的な葛藤には、女性であることのつらさ=被害感情や、「特別な相手にわかってもらいたい」閉塞的共感性も含まれます。

 


BLを好む女性の心理状態については長年分析されていますが、

・恋愛・性に興味はあるが、現実では様々な問題がある
→ルッキズム、コンプレックスを煽る社会通念や性的な抵抗、女性性の否定感情など
・ゆえに同性である女性キャラクターにも抵抗がある
・ゆえの、自分を傍観者とした立場からの性的・心理的消費行動

は大なり小なりあるかと思います。

BLの場合、男性二人がメインですが、創作者も読者も女性であるため、その心理は基本的に女性由来です。
女性の想像する「男性として生き、好きになったのが男性だった架空人間の心理」です。
そしてもう一度いいますが、これらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。

 

進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか?で書いたように

「男性は女性を通してしか自らの内面を語れない」

に対して、女は女の内面を語ることはできるが、「女」は社会の権力勾配に閉じ込められているので、女ジェンダーが存在する以上その枠内でしか語れません。
そして一部の女性はそこから自由になりたい。
だから、男性表象(社会的権力勾配における女性の上位)に女性心理を移植する。
BLにおいて「メス堕ち」「女にする」などという表現が存在するのは、男女に上下関係があり、セックスの体位が権力勾配の上下に重ねあわされているからです。
BLを好む一部の人の中に、ミソジニー感覚があるのは、女性が「下位」であることを当然とした上でそれを「自分の外のこと」として「男性体に移植する」ことに、女性差別に無神経になれるからです。そのため無意識に男尊感覚が発生しています。
逆に、それらの心理に敏感なため、女性差別に強く反発する人もいます。



一次二次BLは「女性向け」であり、女性が共感消費しやすい構造になっていて、男性体ですが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造がみられます。

これは美少女願望の中年男性とも構造的には似ています。
男性の場合は美少女アバターを「自己の隠蔽と支配欲の内面化」として用いていることが多いですが、女性のBL願望も「自己の隠蔽と支配欲の内面化」を含んでいます。
男性の場合は支配の対象が「美少女=自分より弱い女体」であり、BL女子の支配の対象は「受け攻め二人の関係性」の場合が多そうです。
女性同人界隈で「解釈違い」が大問題になるのは、このためもあると思います。「心理×心理=関係性」はBLでは聖域という支配地なのです。



さて

その「男性体だが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造」を、一般男女に置き換えたのが「BL構文」であり、人間同士の関係性と心理を軸に恋愛を配したストーリー漫画、つまり、よしながふみ作品やスキップとローファーの根底にあるものではないでしょうか。

 

男と男に移転した女の感情を、男女に移転し直して描いている、一般化されたBL構文は、だから男性にも理解しやすいのです。
女(ジェンダーロール女でいたくない)の皮を被った男(ホモソーシャル)の造形が一般男女の表象を得ているので、
男女だが実は男と男→のようにみえて実は女と女(が望む男と男の関係)→XとYが入り乱れて移転移されている
というややこしい現象になり、最終的に「繊細な心理描写により目眩ましされた、恋愛要素を超えた情緒的で深い人と人の関係」になる、という着地点を見せます。



さて、では目くらましとは何でしょうか。

「みつみ」は、女性性をにおわせない「おもしれー女」です。
この「おもしれー女」のあり方を、最近話題の「K2」の宮坂さんと比べると、BL構文のありなしが非常にはっきりします。

みつみと志摩くんは、そのままBLにしても違和感がありませんが、和也と宮坂さんは宮坂さんがどんなに女性性が匂わなくてもBLに落とし込むのは難しい。

なぜかといえば、みつみの周りの女の子はとても「女性ジェンダーに囚われた/女性ジェンダーを内面化した女の子」であるため、みつみの無性性は「女性を打ち消す」方向にある「おもしれー女」ですが、宮坂さんの周りの女の子は「女性ジェンダーにとらわれておらず内面化もしていない女」であるため、宮坂さんの無性性は「女性を打ち消す」方向に働かないからです。


一方、BL構文ではありませんが、宮坂さんはBLを愛好する女性にも人気が高いと思います。

「おもしれー女」を含めた特別な女と自分を同一視する感覚には「ジェンダーロールにとらわれた普通の女」を軽く蔑む心理があるので、BL愛好者と親和性が高いのです。

BLにおいて「普通の女」は主人公たちの敵か、都合のいい応援者です。
BL構文における主人公は特別な女=受け男性であり、他の女よりどこか高位の存在です。
これは少女漫画の「男装のヒロイン」「強く特別なヒロイン」とは違います。
彼女たちは、最終的に「そうはいってもヒーローに唯一の女扱いされたい」のですが、BL構文のヒロインは「ヒーローにとっての”BLでいう受けの特別”になりたい」のです。
少女漫画のヒロインが「王子様に見いだされる」ことにより特別になるのとは違い、彼女たちは「自身が男の皮をまとい崇めている男という存在と対等である」ことにより特別になります。
宝塚的な男装の麗人が「でも中身は男にとって普通の女」であるのに対し、BL構文のヒロインは「キメラ的に男」です。


「大奥」の歴代将軍が特別な女=名前の上では最高の地位にある男という女として後宮の男たちを従え、平賀源内は男装レズビアンの天才学者でありながら男にレイプされるように(これは、BLにおけるレイプに構造が似ています。男が性的対象ではない=好きなのは攻めだけなのに強姦され苦しむ受けはよく描かれる設定です)、みつみがあらゆる女性的コンプレックスからおかしなほど自由であるように、彼女たちは「こうありたいBL男性の皮をまとったことにより一段上の女の皮を被った受け男のような女」というややこしい存在です。

 

 

だから、おもしれー女ムーヴは、おもしれー(特別な女)ではなく、それが普通になるまで増えてほしいと思います。

そして、その一方で江頭さんのような「ジェンダーロールに自主的に従い、それによって劣等感や自己嫌悪に陥り辛くなっている少女」を「女女してる」「生きづらくてかわいそう」的にみさげたり、「わかる」の共感やらで気のすむ個人の問題にしてはいけないと思います。
彼女にその息苦しさを押し付けているのは、我々全おとなです。
小中学生に整形を勧める広告が電車にある社会の問題。つまり大人の問題です。
さて大人、いつまでも高校生の青春を見て都合のいい妄想に浸ってるより、これからの子どもの未来がよりよくなるためになにを今してあげられるかと考えるべきなのですが。

 

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイと家父長制①

 
 
ゴールデンカムイと家父長制について改めて考える前に、家父長制とは何かを整理しておきたいと思います。
 
というのは、日本語の「家父長制」とその英語訳とされる「パターナリズム(Paternalism)」「ペイトリアーキ(Patriarchy)」は微妙に意味が違い、それをフィードバックして日本語「家父長制」に用いるケースがあるために、話が伝わりにくい、混乱が起きやすくなっていると思うからです。
 
 
 
①家父長制:家長たる男性(父とは限らない)が権力を独占し,父系によって財産の継受と親族関係が組織化される家族形態にもとづく社会的制度。父権制ともいう。(小学館マイペディア)
 
②パターナリズム:UK:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)
 
②’パターナリズム:US:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)
 
 
③ペイトリアーキ:UK:最年長の男性が家族の長である社会。または、彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会(ケンブリッジ辞書)
 
③’ペイトリアーキ:US:一族・家族における父親の優位性、妻子の法的依存、および父系相続によってより大きな社会単位を支配する社会組織形態、社会(Merriam-Webster)
 
 
はい、もうなんかややこしいです!
 
ざっくりいうと家父長制(イギリス英語・アメリカ英語含む)は
 
A:血族単位で男性が家長となり財産権をはじめその血族・一族・家族で権力を持つ制度

B:権力を持つ男性が彼らの利益のためにコントロールする社会
 =Aではないが、Aのような仕組みをベースにしている場合もある

C:A,Bが支配下、コントロール下の人間の自己決定権や責任を奪うが、保護や利益をもたらすかもしれないので擁護されているシステム
 
です。
 
そして、日本語の「家父長制」は語義的にはAを指すのですが、英語翻訳の「家父長制」が入ってくることにより、現在では、拡大された意味をもっています。
しかし、その拡大された意味は、人によって認識レイヤーが異なるため、Aを話しているつもりの人とBの話をしているつもりの人は同じ「家父長制」を用いてもさっぱり話が通じない、ということになります。
 
「うちもうちの地域も父親に権限や権力なんかない、家父長制なんてありません」
「いや、あなたの所属をとりまくTVやメディア、政治からの影響は確実にあり、その観点からは明らかに家父長制がありますよね」
「家族制度の話ですよね? うちの家長は女性です」
「相続する財産のない核家族に家父長制なんてものはありません」
「家父長制はシステムなので女性も当然権力をふるうことがあります」
「財産に関係なく判断や行動をコントロール・管理されることもあります」
「パターナリズムは必要です」
「パターナリズムは家父長制ではありません」
「なにいってるのかわからない」
「こちらもわからない」
 
 
不条理劇みたいになります。
 
この場合は、どの意味で「家父長制」を用いているかをお互い確認するところから始める必要がありますが、なぜかそれをすっ飛ばして議論になったりする。
 
明治以来の日本語と英語のおかしな関係(一方的に日本語がおかしくなっているだけ)の弊害が大きいと思います。インボイスとか。インボイスの意味ってなに?英語としてなに?なぜその言葉を使う?マイナンバーとは?なぞジャパニーズイングリッシュ…
パターナリズムはまだしもペイトリアーキって使わないですよね。言いにくいから。スペルも覚えにくいし…でも語義的にはこれが一番いまの「家父長制」に近いと思います。
家父長制打倒!と訳されたのはpeg the patriarchyでしたよね。
 
閑話休題
 
 
とりあえず、自分がこのノートで使う「家父長制」は「ペイトリアーキ」=「最年長の男性が家族の長である社会。または彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会」であるということだけ覚えていただければ幸いです。
 
 
 
 
 
 追記と転記
 
尾形がやっていることのすべての根本にあるのは、母親殺しと向き合えない、という事だと思うんですね。
尾形には自分の道理が大事で、その理屈において「死んだら父に会えるから母は救われる」で母を殺したのに、父は来なかったので、残ったのは母を殺した自分だけになってしまった。
そして、「母の為」の理屈の裏には、自分を見てくれなかった母への苦しみや悲しみや怒りや怨みといった感情があるはずなんです。
でもそれに向き合う事は出来ない。
母を救うために行った殺人は、自分より父を愛して求めている母の為だったのに、父が母を愛していなかったらその父を自分よりも求めていた母に求められなかった自分の存在があまりに虚しくて、怨みや悲しみだけが残ってしまうから。
子供がそういう心の動きをして殺人を犯してしまう事は、不自然ではないと思います。罪だけど、刑罰を受ける必要はない。子供だから。
だから尾形に必要なのはその時点でのカウンセリングや周囲の理解でした。
それがかなわないので、一人で、生きていくために道理を求めて迷走しているように見える。

勇作さんに殺人を求めるも拒否され、「人を殺して罪悪感を覚えない人間はいない」これが勇作さん殺しの切っ掛けだけれども
罪悪感を感じたら母親ごろしは罪になってしまうから受け入れられないんですね。
弟も自分と同じ人間だと思いたかったのに拒否され、今度は「自分が父に愛されていたら、父に愛されている弟と同じであり、弟も殺人をする人間と同じだと証明できる」
というめちゃくちゃな方向に行ってしまう。
そして「最後に色々話したかったから」と会った父親は母子にたいして全く愛情がなかったとわかり、父親を殺して「愛されていないから自分はこんな人間になった」
と結論づけるわけです。

元々、「父に愛されていない」から殺人を犯したわけではなく、「殺人を犯した自分なりの道理」いわば正当化ですけれども、それを求めていった結果
「父に愛されていたのならあの殺人は罪ではない」が否定され、「祝福されていない道を歩む自分」がいました。
本当は「母に愛されていない」から殺人を犯したのだけど、それに向き合えないから「父に愛される自分」の理屈を求めたのだと思いますし、
母との関係を消化できない限り本質とは違う理屈を求め続けるのではないでしょうか。


ところで、尾形の中ではもう一つ
「殺される人間には殺されるだけの理由がある」
という理屈があるんですね。
母親にも父親にも殺されるだけの理由があった。
それはもちろん「自分を愛さなかったことで傷つけた」からですが。
でも、勇作さんは明らかに肉親として自分に好意を持っていた。
その勇作さんを、身勝手な理由で殺してしまった。
勇作さん殺しに対して尾形は道理を見つけられないのです。自己否定する存在だから殺してしまった。勇作さんに罪がないことは心の底でわかっている。
だから、勇作さんの夢をみるし、罪悪感の象徴のように悪霊として顕れる。
逆に、母の夢は見る事ができないのではないかと思います。
尾形にとって最も向き合えないのは母殺しに関する感情なので、勇作さんの存在を通して向き合って受け入れられるようになるといいよね…と思ったけど結局最後まで逃げる事を選んだんですね。

と思うと、前近代的父権制の父たる花沢幸次郎は正直どうでもいい、中身のない存在で、その表面的な重々しさに比べ内実の薄さが
the家父長制の面倒なところじゃないかと思えてきます。