2023/03/28
デクスターとパターナリズム
海外ドラマ「デクスター 警察官は殺人鬼」
(2006-2013 全8シーズン)
このドラマ、昔見たのをアマプラで見返したら、
めちゃパターナリズムを考える教材でした。
これこれ、これがパターナリズムや!というね。
前見たときは、実兄と義妹とデクスターの関係にたぎってたものでした。
【ざっくりあらすじ】
マイアミ署の血液専門鑑識官、デクスター・モーガンは、幼児期から殺人衝動を抑えられないシリアルキラー。警察官で亡くなった義父ハリーが定めた掟に従い「生き延びる」ため「殺人を犯した奴だけ」をこっそり殺している。誰にも本当の自分を見せられず、義妹デボラや恋人にも自分を隠して生活しており、中身が空っぽで孤独だと感じるが、殺人はやめられない。そこへ、新たなシリアルキラーが登場し彼に特別な親近感を抱くようになるのだが...
パターナリズムとはなにか
②Paternalism:英国:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)
②Paternalism:米国:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)
デクスターに対するハリーの「掟」
Code of Harry
これはシリーズを通して強固なコンセプトとして描かれます。
デクスターは、「殺人衝動を抑えられない」人間で、義父ハリーは彼を守るため「掟(CODE)」を与えます。警戒し、捕まらず、生き延びる、殺人犯以外は殺すな。
この掟はCodeです。RuleとCodeはともに規則・掟ですが、ルールよりコードは厳しく「仲間の掟」のような破ればペナルティが課される決まりを意味します。CodeのなかにRuleがあります。
デクスターはこの掟を守りながら、大人として自分の人生を選択していくにつれて逃れたいとも感じはじめます。
ハリー(記憶の中の神である義父)と現実のデクスターの精神状態、人間関係の相克が「パターナリズムに従っていれば安全だが、自分自身の人生を歩むことを困難にする」の典型的な状態をあらわしています。
さらにハリーはデクスターに彼自身の情報を隠していました。
デクスターの母が惨殺されたこと、その母とハリーが情報提供者と警察官で、愛人関係だったことなど
つまり
「権威ある側が良かれと思って相手の代わりに判断し、(自分に都合の悪い情報は避けて)教え導く」
です。
パターナリズムが帝国主義国家と植民地の関係も意味することを思うと、「(実際は自分たちの利益のための支配だが、それを隠しあたかも相手のためのように)教育やインフラなどを与えてやり搾取のバーターとすること」と同じ構造といえます。
シリーズを通して(まだシーズン4までしか見返してないけど)
デクスターは「父の代わりになる関係」を求め続けます。
実兄、愛人、友人、高齢シリアルキラー
彼らとの関わりにおいて、ハリーの亡霊というデクスターの内面が常に出現し、警告を発します。その関係は本当に大丈夫か、おまえは間違っている、引き返せと。
パターナリズムは「自己決定権を負担する=奪う」ことです。
ゆえに、自己決定力のない存在=劣った存在(帝国に対する植民地のように”劣等”)です。例えば、「未成熟な子供」に対して「保護を与える能力がある大人」がパターナリズムを発揮する場合があります。この際に多くは、「子供にメリットがある」ために「対象の自己決定権を奪う」という本来望ましくないことが承認されます。
問題は、「判断力がない劣等とされた存在(弱者といいかえることもできます)」が本当に「そう」なのか?
庇護を与えられた弱者は自分が劣等として支配されることに不満を覚えないか?(これはいわゆる反抗期として多くの一般人も経験する時期)
弱者が学び成長し、自己決定力をもつ準備ができたとき、与えられたパターナリズムが足を引っ張るのでは?(反抗期が失敗、成長できず子供でいつづける時期)
また、パターナリズムを与える側が、その権力を手放さないのではないか?(相手を劣等とおとしめ守るふりして支配する)
などです。
ハリーは「俺の神」としてデクスターを守り、縛ります。
「ハリーの掟を自分の掟に変えよう」
デクスターはそう考えつつも、何かを自分で決めよう、ハリーが否定するかもしれない行動をとろうとするたび、内面化されたハリーが彼を縛り付けます。
シーズン2でミゲルと友人になり秘密を共有しようとするデクスターにハリーの幻はいいます。
「ミゲルが実行することはお前の責任にもなるわけだからな」
自分で決めて行ったことが自分の責任になり、それを「俺の言うとおりにしていればよかったのに」と言われる。実体のハリーはそういわないかもしれない。でもデクスターの中で生きているハリーはいうのです。「失敗したらお前の責任なんだ。それでもお前は自分で決めるのか」
シーズン4で、ハリーの警告を顧みず妻と子をもち、殺人衝動と家庭を両立させようとするデクスターを襲う悲劇は、「それでも自分で道を歩んでよかったのか」という問いを人生に投げかけ、その問いはシーズンを通してデクスターの行動についてまわるのです。
また、家父長制およびペイトリアーキに対する反応もいくつも描かれています。
父親に放っておかれたと感じ、認められたいと願うデボラ、
妻と子をモラハラと暴力で支配するアンソニー、
女性の社会進出の困難さ、など
2000年代に始まったドラマなので、価値観が古い部分もありますが、「パターナリズムとは何か」「一部の(一般的な?)アメリカ人にとっての”父”なる存在」を考察する興味深いドラマになっていると思います。
「父親の罪は受け継がれていく
次々に
子から孫へと
それを誰かが、あんたが、終わりにしない限り」
母の罪は息子には受け継がれないんですね。
おそらく、”女”という属性が娘へ「母から受け継がれる」ものにされているのだと思いますが、男性の場合に受け継がれる属性が「父」であるというのが面白いです。
「男であれ」なんだけど「男であることの上位が父」なんですよね。
「女である」と「母である」は対立する概念と思われているでしょう。
「母である以前に女=恋とか性欲にとらわれる性的な存在」で
「母は父以外には性的な女ではなく、子供第一に考えるもの」みたいなやつ。
「父である」と「男である」は対立せず、男の上位である父は、母と違い、より社会的な存在とされている。
生殖の際に「男は自分では子を生み出すことができない。だからどこか空虚でよりどころがない」からこそ父が「父」という属性に付属する権力にこだわる現象こそ、家父長制、パターナリズム、ペイトリアーキの根底にあるんではないかと思うと、それにとらわれた父と息子というのはわりとかわいそうな存在であるわけです。こういうこというと怒られると思うけど。
デボラとデクスターの対比も面白いですね。
クインが「お前みたいな女は滅多にいない。おまえはまるで…男だ。駆け引きをしない。俺ですら知らないような汚い言葉で本音を言う」という愛の告白をするんですけど、モテマッチョイケメンであるクインがデボラを好きなのは「まるで男」だからなんですね。
そしてデボラは「私と兄貴は正反対」という。
デクスターはそうすると、まるで女ということになる。
まるで男、とか、まるで女、という判断基準とは一体何か?
青が好きな人間は男でピンクが好きな人間は女なのか?
実際には20世紀半ばまで、青は聖母マリアの象徴で女性の色で、ピンク含む赤は活力ある男性の色でした。
どの色を好きかなんて、実際は、個別性にすぎないのに、属性のように語られるそれこそが、ジェンダー刷り込みというものなんですね。
また、リタは「母親であり性的な女」で、彼女が死んだあと子どもの世話で趣味の殺人ができなくなるデクスターが「リタがいてくれたら」と思うんですが、お前にとってのリタってなんだよ!都合のいい世話係か!みたいな気分になるんですけど
息子の世話をベビーシッターに丸投げしたり。
「男」として社会で「生き延びようとする」デクスターが、家族を持つことによる不自由を「女」に押し付けるのも興味深いです。
season5からはデクスターの孤独がより際立ってきます。
新しい母=リタ=本当の彼を無理に知ろうとせず見えている彼を許し価値を見出しセックスし息子(デクスターにとって生まれ直しであるハリソン)を産んでくれる女性を失い「世界に一人で放り出された男」としてのデクスターです。
season5では復讐者ルーメンとともに犯罪者を殺しますが、復讐を終えたルーメンは彼の元から去ります。
season6は、キリスト教(宗教)と殺人者の内なる闇と光について語られます。Doomsday killer(最後の審判キラー?)では、ヨハネ黙示録に従い連続殺人を導くゲラーとトラビスという疑似父&子関係のシリアルキラーが現れます。
一方、デクスターにはブラザーサムという元殺人犯の改宗者が現れ、彼の内なる「光の側面」を見ろと諭します。サムは撃たれても犯人を許せといい、幻のハリーもサムに従えといいますが、デクスターは犯人への怒りを抑えられず殺してしまいます。
そこにseason1ぶりの兄、ブライアンの幻が現れ、「父の教えを守らない息子」「同じ心をもつ男」として「突き進め」というのは非常に興味深い演出です。
ハリーの代わりにデクスターの隣で対話に応えるブライアンは、「殺せ、楽しめ、自分自身であれ」と煽りたてます。二人が車に乗って父と同じく殺人を犯したトリニティキラーの息子を殺しに行くのは、「父から独立する息子たち(一人ではできない)」の象徴ともいえます。
一方、デボラは警部補に昇進し、父を超えることで「父さんに認められたくて苦しかった、だから父さんが死んだときどこかほっとした」自分を超えていきます。性依存症的に恋愛を繰り返し、父親のような男と関係を持つこともあったデボラは、プロポーズを機に「楽しいだけで深いところには届かない関係と気づいた」クインとは別れます。
ちなみに、このデボラの異性関係を「手に入らない、ふさわしくない相手ばかりと恋をしたのは、デクスターが好きだったから」というアクロバティック後付け展開もあるんですが、そこんとこはどうなの~とちょっと違う話です。
エンジェル・バティスタ、クイン、デクスターは、共に寂しく、女や車や殺人に耽溺し続け、誰かとの深い関係を求めながらもそれを正しく方向づけられず、「人恋しくて女を買」ったりします。
(クインが”今夜80ドルつぎこんだこの女と寝られなければ、別の女にイチからやり直しだ”というのは、ギャンブルのように相手を獲得する存在と見なしているわかりやすいシーンです)
孤独なデクスターは、幻の父の代わりに幻の兄という、身近で共感性が高く、経験知と理性に欠ける相手を導き手としますが、これは実生活でもよくあることです。現実には「父」はつまり社会の総合経験知で、そこから学び自立することが必要ですが、若者はそれに反発し反抗期を迎えるのです。
season6の7話、ジョーイを殺しにいくデクスターの隣で囁くブライアン。デクスターは行きずりの女の子とセックスし銃を盗み車を飛ばして撃ちまくる。「自分よりオトナの友達とつるむ反抗期の少年」を満喫し、デボラからの電話を無視する。
デクスター、トリニティキラーの息子ジョーイ、ゲラーに従うトビアス、彼らは「父の影響下のゆがめられた息子」です。デクスターはハリーの影響から脱しようとしてブライアンを心の友にする。ブライアンと一体化したデクスターはそれまでの慎重さを捨て、短絡的で自分の欲望第一に攻撃的になる。
社会で「先輩、兄、親分」的な人の同様な在り方を内面化させた少年一般に、よくある傾向です。
ジョーイの「望まない形で父の子である自分を消し去りたい」に対し、デクスターは「殺さない」決断をし、うちなるブライアンは「死ぬのを見たいはずだ、殺せ」といい、二人は闘います。
「俺はおまえより強い」とデクスターがブライアンを退けるシーンは、父と子、友人、兄弟でも「強さ」により支配と被支配が決まる、さっきまでの一体感はうわべの平穏だったと見せつけてきます。
例えばここに「女や子どもや弱者という”劣等者”」がいれば、「彼ら」より自分たちはともに「上」であるという幻想のもと男同士の連帯は脅かされずにいられる、という構造があるといえます。これがいわゆるホモソーシャルであり、ホモソーシャルがミソジニーを内包しやすいのは当然で、彼らの連帯を維持するため女性は「同等もしくは上」にきてはならないからです。
※ホモは同質をあらわす接頭語なので、女性その他にもホモソーシャルはありますが、現在社会構造的に有害といわれる男性同士のホモソーシャルをここでは”ホモソーシャル”としています。
男尊女卑は男同士が殺しあわないためのシステムである。じつのところそれは女を抜きにした「男同士の問題」で、「弱い」存在は支配されるべき、という思考が根底にあるのです。
最後にブライアンを引き殺し、ジョーイを殺さず、デボラと息子の元に帰るデクスター。
『ひかりは闇に打ち勝つ
闇が光によってつくり出されるなら闇だけでは存在しないのかも
ならば光はどこかで待っているはずだ。見つけ出されることを』
そして、ハリーが「おかえり、デクスター」と助手席に乗り込んでくる。
不穏な音楽から陽気なテンポ。俯瞰に映る道路。
さて、トビアスは実はゲラーを殺して多重人格的に「内なるゲラー」とともに殺人を犯していました。父殺しとその罪を内包した息子というのも昔からフィクションでよくあるテーマです。
デクスターにとってどんな自分でありたいかは、「ハリソンにとっていい父親になりたい」です。このドラマでは一貫して「父と息子」がテーマなのです。