ゴールデンカムイと家父長制①

 
 
ゴールデンカムイと家父長制について改めて考える前に、家父長制とは何かを整理しておきたいと思います。
 
というのは、日本語の「家父長制」とその英語訳とされる「パターナリズム(Paternalism)」「ペイトリアーキ(Patriarchy)」は微妙に意味が違い、それをフィードバックして日本語「家父長制」に用いるケースがあるために、話が伝わりにくい、混乱が起きやすくなっていると思うからです。
 
 
 
①家父長制:家長たる男性(父とは限らない)が権力を独占し,父系によって財産の継受と親族関係が組織化される家族形態にもとづく社会的制度。父権制ともいう。(小学館マイペディア)
 
②パターナリズム:UK:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)
 
②’パターナリズム:US:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)
 
 
③ペイトリアーキ:UK:最年長の男性が家族の長である社会。または、彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会(ケンブリッジ辞書)
 
③’ペイトリアーキ:US:一族・家族における父親の優位性、妻子の法的依存、および父系相続によってより大きな社会単位を支配する社会組織形態、社会(Merriam-Webster)
 
 
はい、もうなんかややこしいです!
 
ざっくりいうと家父長制(イギリス英語・アメリカ英語含む)は
 
A:血族単位で男性が家長となり財産権をはじめその血族・一族・家族で権力を持つ制度

B:権力を持つ男性が彼らの利益のためにコントロールする社会
 =Aではないが、Aのような仕組みをベースにしている場合もある

C:A,Bが支配下、コントロール下の人間の自己決定権や責任を奪うが、保護や利益をもたらすかもしれないので擁護されているシステム
 
です。
 
そして、日本語の「家父長制」は語義的にはAを指すのですが、英語翻訳の「家父長制」が入ってくることにより、現在では、拡大された意味をもっています。
しかし、その拡大された意味は、人によって認識レイヤーが異なるため、Aを話しているつもりの人とBの話をしているつもりの人は同じ「家父長制」を用いてもさっぱり話が通じない、ということになります。
 
「うちもうちの地域も父親に権限や権力なんかない、家父長制なんてありません」
「いや、あなたの所属をとりまくTVやメディア、政治からの影響は確実にあり、その観点からは明らかに家父長制がありますよね」
「家族制度の話ですよね? うちの家長は女性です」
「相続する財産のない核家族に家父長制なんてものはありません」
「家父長制はシステムなので女性も当然権力をふるうことがあります」
「財産に関係なく判断や行動をコントロール・管理されることもあります」
「パターナリズムは必要です」
「パターナリズムは家父長制ではありません」
「なにいってるのかわからない」
「こちらもわからない」
 
 
不条理劇みたいになります。
 
この場合は、どの意味で「家父長制」を用いているかをお互い確認するところから始める必要がありますが、なぜかそれをすっ飛ばして議論になったりする。
 
明治以来の日本語と英語のおかしな関係(一方的に日本語がおかしくなっているだけ)の弊害が大きいと思います。インボイスとか。インボイスの意味ってなに?英語としてなに?なぜその言葉を使う?マイナンバーとは?なぞジャパニーズイングリッシュ…
パターナリズムはまだしもペイトリアーキって使わないですよね。言いにくいから。スペルも覚えにくいし…でも語義的にはこれが一番いまの「家父長制」に近いと思います。
家父長制打倒!と訳されたのはpeg the patriarchyでしたよね。
 
閑話休題
 
 
とりあえず、自分がこのノートで使う「家父長制」は「ペイトリアーキ」=「最年長の男性が家族の長である社会。または彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会」であるということだけ覚えていただければ幸いです。
 
 
 
 
 
 追記と転記
 
尾形がやっていることのすべての根本にあるのは、母親殺しと向き合えない、という事だと思うんですね。
尾形には自分の道理が大事で、その理屈において「死んだら父に会えるから母は救われる」で母を殺したのに、父は来なかったので、残ったのは母を殺した自分だけになってしまった。
そして、「母の為」の理屈の裏には、自分を見てくれなかった母への苦しみや悲しみや怒りや怨みといった感情があるはずなんです。
でもそれに向き合う事は出来ない。
母を救うために行った殺人は、自分より父を愛して求めている母の為だったのに、父が母を愛していなかったらその父を自分よりも求めていた母に求められなかった自分の存在があまりに虚しくて、怨みや悲しみだけが残ってしまうから。
子供がそういう心の動きをして殺人を犯してしまう事は、不自然ではないと思います。罪だけど、刑罰を受ける必要はない。子供だから。
だから尾形に必要なのはその時点でのカウンセリングや周囲の理解でした。
それがかなわないので、一人で、生きていくために道理を求めて迷走しているように見える。

勇作さんに殺人を求めるも拒否され、「人を殺して罪悪感を覚えない人間はいない」これが勇作さん殺しの切っ掛けだけれども
罪悪感を感じたら母親ごろしは罪になってしまうから受け入れられないんですね。
弟も自分と同じ人間だと思いたかったのに拒否され、今度は「自分が父に愛されていたら、父に愛されている弟と同じであり、弟も殺人をする人間と同じだと証明できる」
というめちゃくちゃな方向に行ってしまう。
そして「最後に色々話したかったから」と会った父親は母子にたいして全く愛情がなかったとわかり、父親を殺して「愛されていないから自分はこんな人間になった」
と結論づけるわけです。

元々、「父に愛されていない」から殺人を犯したわけではなく、「殺人を犯した自分なりの道理」いわば正当化ですけれども、それを求めていった結果
「父に愛されていたのならあの殺人は罪ではない」が否定され、「祝福されていない道を歩む自分」がいました。
本当は「母に愛されていない」から殺人を犯したのだけど、それに向き合えないから「父に愛される自分」の理屈を求めたのだと思いますし、
母との関係を消化できない限り本質とは違う理屈を求め続けるのではないでしょうか。


ところで、尾形の中ではもう一つ
「殺される人間には殺されるだけの理由がある」
という理屈があるんですね。
母親にも父親にも殺されるだけの理由があった。
それはもちろん「自分を愛さなかったことで傷つけた」からですが。
でも、勇作さんは明らかに肉親として自分に好意を持っていた。
その勇作さんを、身勝手な理由で殺してしまった。
勇作さん殺しに対して尾形は道理を見つけられないのです。自己否定する存在だから殺してしまった。勇作さんに罪がないことは心の底でわかっている。
だから、勇作さんの夢をみるし、罪悪感の象徴のように悪霊として顕れる。
逆に、母の夢は見る事ができないのではないかと思います。
尾形にとって最も向き合えないのは母殺しに関する感情なので、勇作さんの存在を通して向き合って受け入れられるようになるといいよね…と思ったけど結局最後まで逃げる事を選んだんですね。

と思うと、前近代的父権制の父たる花沢幸次郎は正直どうでもいい、中身のない存在で、その表面的な重々しさに比べ内実の薄さが
the家父長制の面倒なところじゃないかと思えてきます。