2023年07月

インフォメーション

あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

    カテゴリー

女は何を通して内面を語るのか

 
 
<進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか>
 
で、「男は女を通してしか自らの内面を語れない」を考察したのですが、
 
 
ポーの一族を読みかえしていて、
 
「女は自らの内面を何を通して語るのか」
 
と思いました。
 
むろん、「自分という女、他者という女を通して」はあります。
 
男性と違って「男を通して」はあまりない。
男性が社会と一体化しているゆえに、「社会と一体化するスタンスにない」女性にとって、どの関係性でも男性は
「その男性が社会でどうあるか」が大きくて、ゆえに、彼を通して社会を語ることができても(例えば家事をしない夫、など)彼によって自分の内面を語ることはない。なぜなら彼には内面そのものがないから、とも言えます。


そこに「内面を見出す」のが、少女漫画の古くは「少年愛」だったりするのかな、と思いました。
 
萩尾望都先生、よしながふみ先生が、二人とも、
 
「女性では描けなかった」「女の子には制約がおおすぎて、描いてもおもしろくなかった」
「男女の恋愛は対等になれない、男同士なら対等になれる」
 
ということを、おっしゃっているんですね。
 
以前は、なるほど、そういうところはあるよなあ、と納得していたのですが、
今はこう思います。
 
 
「そう思うなら、なぜ、自由な少女や、男性と対等になれる関係性や世界観(SFでもいい)を描いてくれなかったのか。 
”少年”ではなく、”少女”を解き放って、少女を通して理想を描いてくれなかったのか」
 (そういった作品もあるのは知っていますが、弱い、というか、例えば「11人いる!」のフロルは雌雄同体であり、長子以外は強制的に女にさせられる社会から逃れるため宇宙船に乗っています)
 
そして読者である自分に対しても
 
 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しないと思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
と思います。
 
 
BLという「隠された女を仮託した男」の人間関係や恋愛、性愛を消費するのではなく、現実の女と男の人間関係を「それに近づける」フィクションがあるべきじゃないのかと。
もちろん、現実ではないからこそ楽しめる、もわかります。
それで、現実とそれに結びついたフィクションを「楽しめないもの」のままにしていていいのだろうか、という話です。
 
多分、肉体的なハンデは大きいです。
性愛は女性だけにリスクがあるし、リスクがあるということは弱みで、弱みがあることは「対等」にはなりにくい。
 
でも、それを弱みとしてしまうのは、妊娠出産や家事育児、ケア労働を「女の無料奉仕分野」にしてしまうことでもある。
 
現実にそこから逃れられなくて、妄想で男同士の関係を夢るのはわかります。
しかし、娯楽の妄想は現実にも影響を及ぼすので、結局「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう危険がある。
 
「対等な関係」を求める、というのは、理想が高いことです。
理想は実現できないが、理想を持つのは大事。
だけどそれを男女に求めることはできないんだろうか、フィクションですら。
と思うのですが、
わりと対等に近づいている北欧ですら難しいですから、難しいとは思う。
でも努力は必要ですね。
 
あ、「パワー」みたいに、女に電撃超能力がある世界、というのはあるけど、
暴力により対等になるしかないという解釈は最もリアルとはいえ、きついよねえ。ホモサピエンスとして。賢い人って意味だからね。
 
 

ストーンオーシャン/ヘヴィーウェザー

 

暑いですね!7月に入って35℃に迫ろうとする気候。
30℃超えたら学校も仕事も休みにしては?
人間のせいだし、人間て自然にも同族にも有害すぎて早く滅びたらいいのにな!と思います。
死んでも焼かれて二酸化炭素と熱とリン酸カルシウムに還元されるとか、とことん有害だよ。
虫自認なので人間バッシングしちゃう!ごめんな
(ChatGPTに「他の生物に影響を与えず人類だけを滅ぼすにはどうしたらいいですか」と聞いたら「何か辛いことがあるなら力になります」と言われたよ。やさしい。気を遣わせてごめんね!)


さて、ネットフリックスでやっとストーンオーシャンを見ました。
先月、アムステルダムで友達の予約してくれたairbで朝からヒューガルデンホワイトのみながら(6パックで7.5ユーロだった安すぎる)話してて

「ジョジョって元気がないと見られないよね」といわれ

友よ! それな! と思いました。
4年まえイタリアに5部旅したおれたちだけど、今も同じ心ッ…ありがとう…ッ

 

さて、ぷっちたんとウェザーの絡みが好きなので、まずそこを見たのですが
過去編、「ここからはあなたに判断してほしい」のとこ

誰って、ぷっちたんが悪いんでは!?

 

改めてね、そう思いました。
ウェザーとぺルラを別れさせるためとった手段ではなくて、

これって

パターナリズムだよね?

という点で。

 

パターナリズムが何かについては、これを読んでほしいのですが、
かいつまんで言うと、

 

 

パターナリズムとは


権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)

 

です。

そして、たいてい、立場の強いもの=家族の父親や社会の上層部により行われるため、家父長制としばしば同一視されます。日本では実際に家父長制という翻訳もされています。

 

エンリコ・プッチの行動は、弟と妹に「良かれと思って」「人生の重大決定を」「相手の代わりに判断する」な点で、完全にパターナリズムなわけです。
これは、相手を下に見ている、守ってやらねば、という善意によっても発動します。
だから、「兄」であるプッチは、自分がやらねば、と思い、そのような行動に出ること自体を疑いません。
むろん、妹が、弟が、同じ状況で同じ判断をする可能性もあるのですが、ここでは「兄」であるプッチの行動として描かれている、ということは、それが物語としてより「自然で受け入れやすい」からです。それがマジョリティの感覚だからです。

パターナリズムが常に悪かといえば、「相手が保護やよりよい生活を得る」メリットがあれば容認される、という抜け道があるのですが、結果としてやってみないとわからないのであれば、注意が必要ですし、本来すべきではないでしょう。
障碍者や社会的弱者の保護に法律が関わるのは、個人のパターナリズムは危険すぎるからです。



というわけで、家父長制の一部としても存在するパターナリズムですが、


ジョジョ界は6部までこれを悪とはいわないまでも、捨て去るもの、乗り越えるべきもの、その結果よきものとして描いてきました。

虹村兄弟やプロシュートペッシなどがそうですね。

徐倫と承太郎も、反抗期と自立を経て、父親と共に戦う娘になる。

親子や血族の絆や継承を描きつつも、有害な家父長制を排除してきたように見えました。

しかし、時代が変わり、更に高い解像度が求められると、
いかがなものかという部分も出てきます。

そして、7部以降は荒木先生ご自身が絵のほうに意識が向き、古典的絵画を描こうとすると価値観もそうなる、と仰っているように、逆に家父長制および男女のジェンダー(外見を含む社会的性別)が固定化してきました。
時代の変遷とともに「女性らしさ」「男性らしさ」が変化し、時に入り乱れ(アナスイが最初どう見ても女性だったとか、下着や乳を見せても性的要素を感じないエルメェスなど)6部でほぼ対等なフラットになったところで、バックラッシュが起きている。

 

ジョジョランドでは、トランスジェンダーの「兄」が出てきますが、
「女性の社会的役割や肉体の搾取性」を男に転嫁したことは、先進的なようですでに古いというのがこの流れで見て取れます。
(女装した男性が女性と同様に男性から性加害されることは、越境/トランスではなく女という性の古典的な固定化ですね)

ストーンオーシャンの女の子たちが戦っているのを見て、女性の強さや男性との対等なポジションを早くから題材にした荒木先生の7部以降のバックラッシュは、まさしく、時代の先取りだったのだと思いました。
その点で現在のジョジョ9部(個人的にはジョジョは血族ではなく魂を非血族の子ども=次世代の若者すべてに託す6部で終わったと思っていますが)は個人的に残念でありつつ、その残念さは私たちの社会が進む方向でもあります。

 

自分も進化し、深化していき、作品をただ称賛し消費するのではなく、もっと大人になりたい。
そう思うと、いいよね、というものは減ってしまうのですが、
ホントにおいしいものを知ってもおいしいと思うジャンクフードもあるよ、というのが文化です。

 

いやいや、ぷっちたんはエロいよね! くそ野郎だけどね! そこが哀れでえろいんです。あとアナスイがすき。