女は何を通して内面を語るのか

 
 
<進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか>
 
で、「男は女を通してしか自らの内面を語れない」を考察したのですが、
 
 
ポーの一族を読みかえしていて、
 
「女は自らの内面を何を通して語るのか」
 
と思いました。
 
むろん、「自分という女、他者という女を通して」はあります。
 
男性と違って「男を通して」はあまりない。
男性が社会と一体化しているゆえに、「社会と一体化するスタンスにない」女性にとって、どの関係性でも男性は
「その男性が社会でどうあるか」が大きくて、ゆえに、彼を通して社会を語ることができても(例えば家事をしない夫、など)彼によって自分の内面を語ることはない。なぜなら彼には内面そのものがないから、とも言えます。


そこに「内面を見出す」のが、少女漫画の古くは「少年愛」だったりするのかな、と思いました。
 
萩尾望都先生、よしながふみ先生が、二人とも、
 
「女性では描けなかった」「女の子には制約がおおすぎて、描いてもおもしろくなかった」
「男女の恋愛は対等になれない、男同士なら対等になれる」
 
ということを、おっしゃっているんですね。
 
以前は、なるほど、そういうところはあるよなあ、と納得していたのですが、
今はこう思います。
 
 
「そう思うなら、なぜ、自由な少女や、男性と対等になれる関係性や世界観(SFでもいい)を描いてくれなかったのか。 
”少年”ではなく、”少女”を解き放って、少女を通して理想を描いてくれなかったのか」
 (そういった作品もあるのは知っていますが、弱い、というか、例えば「11人いる!」のフロルは雌雄同体であり、長子以外は強制的に女にさせられる社会から逃れるため宇宙船に乗っています)
 
そして読者である自分に対しても
 
 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しないと思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
と思います。
 
 
BLという「隠された女を仮託した男」の人間関係や恋愛、性愛を消費するのではなく、現実の女と男の人間関係を「それに近づける」フィクションがあるべきじゃないのかと。
もちろん、現実ではないからこそ楽しめる、もわかります。
それで、現実とそれに結びついたフィクションを「楽しめないもの」のままにしていていいのだろうか、という話です。
 
多分、肉体的なハンデは大きいです。
性愛は女性だけにリスクがあるし、リスクがあるということは弱みで、弱みがあることは「対等」にはなりにくい。
 
でも、それを弱みとしてしまうのは、妊娠出産や家事育児、ケア労働を「女の無料奉仕分野」にしてしまうことでもある。
 
現実にそこから逃れられなくて、妄想で男同士の関係を夢るのはわかります。
しかし、娯楽の妄想は現実にも影響を及ぼすので、結局「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう危険がある。
 
「対等な関係」を求める、というのは、理想が高いことです。
理想は実現できないが、理想を持つのは大事。
だけどそれを男女に求めることはできないんだろうか、フィクションですら。
と思うのですが、
わりと対等に近づいている北欧ですら難しいですから、難しいとは思う。
でも努力は必要ですね。
 
あ、「パワー」みたいに、女に電撃超能力がある世界、というのはあるけど、
暴力により対等になるしかないという解釈は最もリアルとはいえ、きついよねえ。ホモサピエンスとして。賢い人って意味だからね。