2024年01月

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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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源氏物語「なぜ一夫多妻制なのに嫉妬するのか?」

 

友人が女子大で源氏物語の講義をして、学生から

「一夫多妻制なのに、なぜ嫉妬をするんですか」と質問されたそうです。

面白いなあと思いました。

これ、「人の心はそういうもの、制度にかかわらず心は動くから」

ともいえるのですが、

「女性は嫉妬するもの」というイメージや物語(ナラティブ)が、古代から言説やフィクションで刷り込まれてきた、ともいえるんですね。

ではなぜ「女は嫉妬深い、嫉妬するもの」という設定が成り立ってきたのでしょうか。


「支配欲」が一つの要因ではないかと考えます。

もう一つは「男性のネガティブ感情の女性への投影という自己欺瞞」です。
さて、人間の強い欲望である「支配欲」

男性がこれを発揮する手段は「暴力」「金」「仕事」「権力・名誉」「女の所有」などいくつもあります。

しかし女性は、支配の根源である暴力をもたず、社会で金銭をはじめ何かを所有し支配する手段がほとんどありませんでした。

「女性は恋愛が好き」は「恋愛が女が他者を支配する方法」だったからともいえます。

長いことほとんど唯一の方法だった。
もう一つは「子どもを持つ」ですが、子どもは父親に属するという家父長制時代下ではその支配欲は制限されます。


恋愛には支配欲が含まれます。

「他者の時間、精神、肉体へ権利を主張できる関係」「性的に相手を操ることができる関係」だからです。

これが結婚になると「資産への権利、配偶者の地位・名誉の共有権利」も加わります。

 

女性にとって、恋愛は男性(権力者)を所有し支配する大きな手段です。
つまり「嫉妬=恋愛による他者(権力)支配の闘争」です。

女性向けフィクションによく見られる「愛され、執着・溺愛される私」は
「私を所有するために我を失い自分の力を用いるニンゲン(男)がいる」です。
その男性は往々にして外見カースト上位でありなんらかの「権力者」です。
「束縛されたい」、も、それだけ相手が自分を欲しがっている=相手を感情的に支配しているということです。
束縛という支配をされると、逆に相手を支配していると実感できるのです。
※あくまでフィクション上の妄想設定で、現実では大抵DVになります。束縛も執着も男性側からすれば別種の支配欲であり、残念ながら対象はあなたではなく「自分が所有する女という属性」だからです。

男性が恋愛相手に束縛されるのを嫌がるのは、男性の支配欲は女性とは違うからです。
男性には他に相手を支配する方法がいくらでもあるので、「愛される」という方法に執着する必要がないのです。
※逆に、男性が他の支配欲を満たせていない場合、「モテ」に異様に執着することがあります。これは「女を所有する」がその人の支配欲を満たす最後の手段だからともいえます。

「溺愛される私」は、支配されることが愛という権力の幻想で、そういう幻想が魅力的に映るほど、他者を支配する権力を欲しながら恵まれてこなかった女性の歴史があるのでしょう。

 例えば、女性同士の恋愛ファンタジーでそういった「嫉妬、束縛による支配」表現はほぼありません。レイプや監禁、束縛行為もない。肉体的に暴力が難しいというより、精神的に女性は他の女性をそのような形で支配する必要を感じないからです。また、あらゆる支配を「女性に」される権力勾配に女性自身が抵抗感を持つのでしょう。

逆に、一部の少女漫画や男性同士の恋愛ファンタジー(BL)では「嫉妬、束縛による支配」がよくあります。
男性の支配欲はしばしば暴力性と共に描かれ、受け側の男女はそれを「愛」という支配ととらえます。
それらを欲する女性の支配欲は「男であること、男を支配する(愛される)こと」に傾いているといえます。
BLを好む女性には「潜在的に何らかの支配欲がかなり強く、現実ではそれが満たされていないか、物足りない」傾向があると思っています。BLの性描写が激しい・必須なのもその一つと捉えられます。
男性向けのフィクションは、戦い(バトル、スポーツ)とエロ(女体)で、男性同士の支配、女性への支配欲が描かれます。恋愛以外にも全方位的に支配欲が強い、強く求めるべきの思い込みがあると感じます。

恋愛以外で女が女を支配しようとすることはあります。(恋愛以外で男が男を支配しようとするのは普通すぎるので透明化されがちです。これはかなり根深い問題だと思います)

虐め、女の争い、などといわれたりするものです。

これには「男を争う」「生活レベル(夫の収入)で争う」「美醜で争う」「マウンティング」などがあり、結局は「男に欲望されることで支配力を得る」「他の女を自分の侍女として仕えさせる(男性のケアもさせる)」ことの争いです。
※男性同士のマウンティングは、「自分の目下として仕えさせる」ですが、相手を女性へケア係として差し出すことはないので、その点が違います。

フィクションではこういった「女特有の」嫌らしさが好んで描かれることがあります。
男性向けでも女性向けでもよくあります。
これは、フィクションに歴史的に存在する「男性上げ、女性下げ」でもあります。
実際、現実の男性よりフィクションの男性はよく、女性は悪く描かれる場合が多いと感じます。現実にヒーローのような正義感ある男性は少なく、悪女のような或いは性的に都合いい女性も少ない(ビジネスは別として)。

男性が絡まない女性同士の場合、支配欲は権力欲なので、相手を支配することで権力を感じられないとあまり魅力的ではありません。
そして、女性は女性に支配されるのを嫌います。同等と思っているからです。
この「同等」は無意識に女を「男の下位である同じ立場」とみているともいえます。

歴史的にずっと、社会で権力を持ち、その権力を自分たちのために使っているのは男性です。これがペイトリアーキ(patriarchy)で、家父長制といわれるものです。
その根源には「暴力」があります。戦争がいまだに行われているのは、暴力が最も支配に有効な最終手段であることを示しています。

女性が恋愛により異性を支配する願望をもつのは、それが歴史的に女性に許された「力」だったためです。なぜ許されたかというと、男性側にもメリットがあるからです。

 

だが、今は違う!???(ギュッ!)

 

それが「一夫多妻制でなぜ嫉妬するのか」という女子学生の質問に繋がる気がします。

「結婚は、相互同意ルールのもとで行われる利益共有契約システム」という意識があるから「なぜ嫉妬するのか、ルールに納得して結婚したのではないか」が出てくる。
一夫多妻制システムでも妻が同じ権利(支配権)をもつのであれば「嫉妬する必要がない」ということです。
現代女性は、恋愛以外で権力を持つ手段=主に経済力、家庭内労働への敬意などを得られるようになり、人権を得てきたので、これまでのルールが女性に納得できない形で成り立っていたことが理解しにくいのです。

男性の恋愛における嫉妬は「俺の所有物のくせに裏切った、生意気だ、舐められた」という女性を罰する怒りが多く見られます。
女三宮と柏木の密通を源氏が不快に思うのは、女三宮に特別な愛情はないが、自分の所有物を盗まれた、顔を潰されたという怒りがあるからです。
源氏自身も人妻を寝取り密通しているのですが、「情緒・美意識」がある「密通」は罪ではなく「雅を解さない粗雑な若者の恋愛」は許しがたいという物語の背景もあります。
同じことをしてもケースバイケースで許される。平安貴族の「支配ツール」には「美意識」があるからです。


女性の嫉妬は、多くの場合男性よりも相手の女性に向かってきた。つまり、「私の’愛されるという支配力’を奪われたくない」です。男性に対し、男性のように「私の所有物のくせに裏切った、生意気だ、舐められた」とはなりにくかった。

女性向けのエンタメでは、恋愛相手の男性に「執着し嫉妬される」を好む。
また、相手の女性と憎みあい戦う感情が強い。

それは生来の属性ではなく、社会的な権力勾配、支配力勾配によるものが大きいのではないでしょうか。

愛する相手に裏切られたらまず「悲しい」だと思いますが、「怒り」「ねたみ」「復讐心」がでてくるのはやはりそこに支配欲があるからだと思います。
そしてそういったフィクションが受けるのは、見る側にも強い支配欲と加害欲があるからでしょう。

紫の上は、源氏の子供を産んだ明石の君や正妻女三宮の登場で嫉妬し、大きく心を乱されます。これは「子どもをもつ」「正妻という立場」は「権力」であり、権力は支配の源泉だからでもあります。愛情という権力による支配は、具体的な「子ども」「正妻」に比べよりどころが「男の心」にしかない。だからこそ嫉妬が強くなる。しかし、その心のあり様に苦しみ、昇華させたいという思いが美意識にもなる。どう支配欲を手放すか、女性の嫉妬にはこの苦しみがありますが、男性の場合は、ほかに支配欲を満たせる場所があるためこのような苦しみ方はしない。それは性差というより、やはり社会構造でもある気がします。

 

 

 

 

ところで、ここで、「自分が悪かったからだ」と思うタイプは、
人に自分を支配させる方向で支配欲を満たしているともいえます。
相手の支配欲と自身の支配欲を同一視しているんですね。

「あの人は私がいないとダメだから」
とか。

ブラック企業や独裁体制の末端支持者も、同じように、強者に支配欲を重ねることで、支配され害を被っている事実を隠蔽したい心理です。

私はものづくりの人をかなり信用していますが、

彼らの支配欲は人に向かってこないからという理由が大きいです。

ただ、ものづくりを通して人を支配したい(金銭、名誉、承認欲)人も多いので、そちらは苦手です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パワー・オブ・ザ・ドッグ 感想

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」 ジェーン・カンピオン監督 2021
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト
Netflix視聴
94thアカデミー賞 監督賞受賞作品

 

ネタバレ感想

 

男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。

 

前情報なく見たので、途中まで解釈が二転三転しました。

・ローズの精神不安定は実はフィルに惹かれているからでは?
とか
・ピーターのフィルへの傾倒は母親への嫌悪が底にあり、出来上がった縄で首を絞める気では?
とか

しょっぱなからのカウボーイ的男らしさ誇示で、これはゲイだな…とは思いました。
ホモフォビアのマッチョイズムの裏にゲイが隠れているのは「アメリカン・ビューティー」でも描かれていましたね。
カンバーバッチの同性愛である伏線的振る舞いには、なので、一種の気恥ずかしさを感じました。
こういうの、腐女子は好きだよね…というか
ジェーン・カンピオンはピアノ・レッスンでもそうでしたが、野卑で粗暴な旧来の男らしさの裏の文化的感性や繊細さが好きなんだな、癖なんだな、と思います。
製作者の異性の好みを想像してしまうのってちょっときついです。

なぜか、創作者も含め男性視点の共感や理解を示す女性は多いですね。
逆はあまりみられないのですが。
途中では、フィルのミソジニー視点とはいえ、女性監督であるカンピオンが「女は愚か」という演出を入れてくるのがイヤだなとも思いました。
(2025年4月時点で、これは「男を崇めるタイプの男好き」だなと解釈します。創作畑やアカデミズムの女性にありがちな、自らの知性を男性領域ととらえた男好きとミソジニーと自己愛かと)

カンバーバッチの演技と心理演出により、フィルの真相に思いを寄せ、ピーターの動機と心理にも考えを巡らせる人も多いだろうし、そのような視点の考察も多いので、ここでは家父長制ミソジニーのイジメでアル中になるローズの「生きづらさ」と、フィルとローズそしてピーターの「支配欲」に注目します。

 

ローズとフィルの「生きづらさ」

フィルは同性愛者です。西部のマッチョなカウボーイ社会では社会的な死、肉体的死すら意味します。ゆえに、彼は生来の知性とパワーをフル動員し、自身の内面をひた隠して名家に連なるカリスマ牧場主として生きています。

ローズは夫を亡くし息子を一人で育てる母親です。資産もコネもありません。彼女がいる階層にいるのは売春婦やそれに近い女性たちです。
夫を亡くし女手で商売をするも、店は女一人となめる男たちに荒らされ、嘲笑される息子を守れず一人で泣き、結婚すれば見知らぬコミュニティで家の付属品となり個人である尊重も自由もない。
傷つけば弱く愚かな女とみなされ、彼女はそれに抗ったり苦しみを苦しみとして知覚し言語化する教育も受けていない。

ローズは「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティであるフィル」よりはるかに社会構造上の根源的な生きづらさを抱えています。

男らしくなれないと男は生きづらい世界で、ふりでも男らしくあれば生きづらくないが、女は女らしくても女らしくなれなくても生きづらい。つまり、女に生まれた時点で既に生きることが困難なのです。

「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティ」が、縄張りを荒らされた強者男として、気に入らない女である義理の妹を陰湿にイジメる世界で、普通の女はかわいそうなマイノリティよりもっと生きづらいという視点は主題になりません。当たり前すぎてエモーショナルにならないから。

 しかし、ドラマとして陳腐でも、その「当たり前の生きづらさ」は消えません。

フィルは男らしさの鎧で本当の自分を隠し身を守っていました。
「自分らしさ」を抑圧し、苦しんできました。男性同性愛者だから。
だけど、それで社会で強者としてふるまえた。男だから。
ローズは生まれながら強者には決してなれず、夫や息子に守られなければ生きられず、しかも彼らに簡単に尊厳を破壊される。

ローズの店に居座る酔っ払いが、ジョージが出ていくと大人しくなるのは、現代でも女性一人店主の店に男性が居座り迷惑行為を繰り返して営業できなくなるのとまったく同じです。
そして、そのように多くの女性の社会進出を阻害しつつ、さらに結婚して主婦となった女性を社会で二級の存在としながら、結婚しない女性を嘲笑するというダブルバインドも同じです。

フィルの生きづらさもローズの生きづらさも「当たり前」でなくなってほしいと思いますが、LGBTを上げるために女性が下げられる、今も続く女性差別構造が透明化されるのはアンフェアであろうと思います。
例えば、身体男性が身体女性スペースに入るのが許容され、女性が危険にさらされる。男性として得た社会的立場を「女性になる」人がいることで偽りの男女平等が達成される、などです。

 

この映画、LGBT-related filmとして7つの賞を受賞しているんですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Power_of_the_Dog_(film)

というか、LGBT映画の評価カテゴリがこんなにあるのに驚きです。
フェミニズムrelatedはないんですよね。
女の生きづらさは当たり前であり、男(トランス女性、ゲイ男性)および男性に性的に搾取されるレズビアンをさします。代理母出産、トランス女性の受け入れ強制などです)のそれはなくしていくべきという思考が無意識に働きすぎていて怖いです。

 

フィルとローズ、ピーターの「支配欲」

 

人の最も強い欲は権力欲で、支配欲はその主たる手段です。
養老孟司さんが、「貧乏人でも簡単に支配欲を満たす方法は、子どもをもつこと」と仰っていました。
特に社会で権力を握りにくい女性にとって、子どもをもつことは支配欲と繋がりやすくなっています。

家庭でジョージとうまくコミュニケーションをとれず(ピアノの一件や、家政婦たちしか話し相手がいないこと)、フィルの抑圧に情緒不安定になったローズは、息子ピーターがフィルとカウボーイにオカマと嘲笑されているのを知りつつ休暇に呼び寄せます。
そして、母と息子というより恋人のような距離感で接します。
彼女が支配できるのは息子だけであり、そのために、息子の心が離れることを非常に恐れています。
フィルがローズとピーターを切り離そうとピーターに接触し、ピーターが応える様子をみて、彼女はますます精神の平衡を失っていきます。

 

フィルの支配欲は何よりも自分自身、そして弟ジョージに向けられます。
フィルは、体を洗わない、スーツを着ない(ジョージはいつもスーツですが、フィルは汚れたカウボーイ姿)、無精ひげの「マッチョな田舎のカウボーイ」というかたちで自分を縛り、律し、支配しています。
葬儀で、髭を剃られ髪を整えスーツを着せられたフィルの遺体が、繊細で知的な都会の青年という本質を明らかにしています。彼が支配し抑圧していた表層の下にあるもう一人のフィルです。

ジョージは彼にとって「最も近い人間(=男。フィルにとって女は人間ではありません)」であり、性的対象ではありませんが、強い執着と支配欲の対象です。
宿屋でジョージの行動をみはり、一つのベッドに二人並んで寝る姿は、かつて最高に幸せだった男性との同衾を「身内故に自分が性的対象にしなくて済む安全な男」であるジョージを用いて再現しているようです。
そんなジョージをローズに奪われ、フィルの支配欲は自分自身を縛り付けるだけになり、苦しみは深く強くなります。
そこに現れたピーターは、かつての自分と同じ、高学歴で繊細な同性愛者(はっきりと描かれてはいませんが)です。
フィルがピーターに求めたのは、孤独を癒しフィル自身への支配欲から解き放ってくれるジョージより強い能動的な力だったとも言えます。


では、ピーターはどうでしょう。
ピーターは芸術家肌の青年です。
芸術家は、自分の望む世界の構築に支配欲を傾けます。
ピーターが望むのは「母の幸せを守る息子としての自分がいる世界」です。

三者三様の支配欲、それこそが「犬の力」※剣と犬の愛の力から私を解き放ってください※であり、解き放たれたのはいったい誰だったのだろうか
そう思いました。

 

 

 

 

さて

キルスティンダンストと、ジェシー・プレモンスが実生活でも夫婦だというのは驚きでした。
映画内ではフィルに「金目当てに決まってる、女に惚れられる顔か」
といわれていたジェシー、確かにパッとしない見た目の役でしたが
ちゃんと惚れられる顔じゃないですか。
ハッピーがあってよかった!!


 

 

 お休みなので、Netflixで「パラサイト」「everything everywhere all at once」も見ました。最近アカデミー作品から離れていたけど、やはり受賞作は好みはともかくクオリティが高い。見ていられる。

「ノマドランド」もあわせ、女性監督とアジアのエンタメが次世代ムーヴメントになっていくなかで、日本のエンタメの小ささというか、美意識の幼さが悲しいです。
小津的な小さな世界観に美意識がある、みたいなのもないんだよね。
狭いところを深めるのではなく、ただ視野が狭いというか。
アニメ漫画もそんな感じ。今はほとんど見ていない。

あ、でも「イリオス」面白いですね!みてる!見てた!