パワー・オブ・ザ・ドッグ 感想

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」 ジェーン・カンピオン監督 2021
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト
Netflix視聴
94thアカデミー賞 監督賞受賞作品

 

ネタバレ感想

 

男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。

 

前情報なく見たので、途中まで解釈が二転三転しました。

・ローズの精神不安定は実はフィルに惹かれているからでは?
とか
・ピーターのフィルへの傾倒は母親への嫌悪が底にあり、出来上がった縄で首を絞める気では?
とか

しょっぱなからのカウボーイ的男らしさ誇示で、これはゲイだな…とは思いました。
ホモフォビアのマッチョイズムの裏にゲイが隠れているのは「アメリカン・ビューティー」でも描かれていましたね。
カンバーバッチの同性愛である伏線的振る舞いには、なので、一種の気恥ずかしさを感じました。
こういうの、腐女子は好きだよね…というか
ジェーン・カンピオンはピアノ・レッスンでもそうでしたが、野卑で粗暴な旧来の男らしさの裏の文化的感性や繊細さが好きなんだな、癖なんだな、と思います。
製作者の異性の好みを想像してしまうのってちょっときついです。

なぜか、創作者も含め男性視点の共感や理解を示す女性は多いですね。
逆はあまりみられないのですが。
途中では、フィルのミソジニー視点とはいえ、女性監督であるカンピオンが「女は愚か」という演出を入れてくるのがイヤだなとも思いました。
(2025年4月時点で、これは「男を崇めるタイプの男好き」だなと解釈します。創作畑やアカデミズムの女性にありがちな、自らの知性を男性領域ととらえた男好きとミソジニーと自己愛かと)

カンバーバッチの演技と心理演出により、フィルの真相に思いを寄せ、ピーターの動機と心理にも考えを巡らせる人も多いだろうし、そのような視点の考察も多いので、ここでは家父長制ミソジニーのイジメでアル中になるローズの「生きづらさ」と、フィルとローズそしてピーターの「支配欲」に注目します。

 

ローズとフィルの「生きづらさ」

フィルは同性愛者です。西部のマッチョなカウボーイ社会では社会的な死、肉体的死すら意味します。ゆえに、彼は生来の知性とパワーをフル動員し、自身の内面をひた隠して名家に連なるカリスマ牧場主として生きています。

ローズは夫を亡くし息子を一人で育てる母親です。資産もコネもありません。彼女がいる階層にいるのは売春婦やそれに近い女性たちです。
夫を亡くし女手で商売をするも、店は女一人となめる男たちに荒らされ、嘲笑される息子を守れず一人で泣き、結婚すれば見知らぬコミュニティで家の付属品となり個人である尊重も自由もない。
傷つけば弱く愚かな女とみなされ、彼女はそれに抗ったり苦しみを苦しみとして知覚し言語化する教育も受けていない。

ローズは「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティであるフィル」よりはるかに社会構造上の根源的な生きづらさを抱えています。

男らしくなれないと男は生きづらい世界で、ふりでも男らしくあれば生きづらくないが、女は女らしくても女らしくなれなくても生きづらい。つまり、女に生まれた時点で既に生きることが困難なのです。

「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティ」が、縄張りを荒らされた強者男として、気に入らない女である義理の妹を陰湿にイジメる世界で、普通の女はかわいそうなマイノリティよりもっと生きづらいという視点は主題になりません。当たり前すぎてエモーショナルにならないから。

 しかし、ドラマとして陳腐でも、その「当たり前の生きづらさ」は消えません。

フィルは男らしさの鎧で本当の自分を隠し身を守っていました。
「自分らしさ」を抑圧し、苦しんできました。男性同性愛者だから。
だけど、それで社会で強者としてふるまえた。男だから。
ローズは生まれながら強者には決してなれず、夫や息子に守られなければ生きられず、しかも彼らに簡単に尊厳を破壊される。

ローズの店に居座る酔っ払いが、ジョージが出ていくと大人しくなるのは、現代でも女性一人店主の店に男性が居座り迷惑行為を繰り返して営業できなくなるのとまったく同じです。
そして、そのように多くの女性の社会進出を阻害しつつ、さらに結婚して主婦となった女性を社会で二級の存在としながら、結婚しない女性を嘲笑するというダブルバインドも同じです。

フィルの生きづらさもローズの生きづらさも「当たり前」でなくなってほしいと思いますが、LGBTを上げるために女性が下げられる、今も続く女性差別構造が透明化されるのはアンフェアであろうと思います。
例えば、身体男性が身体女性スペースに入るのが許容され、女性が危険にさらされる。男性として得た社会的立場を「女性になる」人がいることで偽りの男女平等が達成される、などです。

 

この映画、LGBT-related filmとして7つの賞を受賞しているんですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Power_of_the_Dog_(film)

というか、LGBT映画の評価カテゴリがこんなにあるのに驚きです。
フェミニズムrelatedはないんですよね。
女の生きづらさは当たり前であり、男(トランス女性、ゲイ男性)および男性に性的に搾取されるレズビアンをさします。代理母出産、トランス女性の受け入れ強制などです)のそれはなくしていくべきという思考が無意識に働きすぎていて怖いです。

 

フィルとローズ、ピーターの「支配欲」

 

人の最も強い欲は権力欲で、支配欲はその主たる手段です。
養老孟司さんが、「貧乏人でも簡単に支配欲を満たす方法は、子どもをもつこと」と仰っていました。
特に社会で権力を握りにくい女性にとって、子どもをもつことは支配欲と繋がりやすくなっています。

家庭でジョージとうまくコミュニケーションをとれず(ピアノの一件や、家政婦たちしか話し相手がいないこと)、フィルの抑圧に情緒不安定になったローズは、息子ピーターがフィルとカウボーイにオカマと嘲笑されているのを知りつつ休暇に呼び寄せます。
そして、母と息子というより恋人のような距離感で接します。
彼女が支配できるのは息子だけであり、そのために、息子の心が離れることを非常に恐れています。
フィルがローズとピーターを切り離そうとピーターに接触し、ピーターが応える様子をみて、彼女はますます精神の平衡を失っていきます。

 

フィルの支配欲は何よりも自分自身、そして弟ジョージに向けられます。
フィルは、体を洗わない、スーツを着ない(ジョージはいつもスーツですが、フィルは汚れたカウボーイ姿)、無精ひげの「マッチョな田舎のカウボーイ」というかたちで自分を縛り、律し、支配しています。
葬儀で、髭を剃られ髪を整えスーツを着せられたフィルの遺体が、繊細で知的な都会の青年という本質を明らかにしています。彼が支配し抑圧していた表層の下にあるもう一人のフィルです。

ジョージは彼にとって「最も近い人間(=男。フィルにとって女は人間ではありません)」であり、性的対象ではありませんが、強い執着と支配欲の対象です。
宿屋でジョージの行動をみはり、一つのベッドに二人並んで寝る姿は、かつて最高に幸せだった男性との同衾を「身内故に自分が性的対象にしなくて済む安全な男」であるジョージを用いて再現しているようです。
そんなジョージをローズに奪われ、フィルの支配欲は自分自身を縛り付けるだけになり、苦しみは深く強くなります。
そこに現れたピーターは、かつての自分と同じ、高学歴で繊細な同性愛者(はっきりと描かれてはいませんが)です。
フィルがピーターに求めたのは、孤独を癒しフィル自身への支配欲から解き放ってくれるジョージより強い能動的な力だったとも言えます。


では、ピーターはどうでしょう。
ピーターは芸術家肌の青年です。
芸術家は、自分の望む世界の構築に支配欲を傾けます。
ピーターが望むのは「母の幸せを守る息子としての自分がいる世界」です。

三者三様の支配欲、それこそが「犬の力」※剣と犬の愛の力から私を解き放ってください※であり、解き放たれたのはいったい誰だったのだろうか
そう思いました。

 

 

 

 

さて

キルスティンダンストと、ジェシー・プレモンスが実生活でも夫婦だというのは驚きでした。
映画内ではフィルに「金目当てに決まってる、女に惚れられる顔か」
といわれていたジェシー、確かにパッとしない見た目の役でしたが
ちゃんと惚れられる顔じゃないですか。
ハッピーがあってよかった!!


 

 

 お休みなので、Netflixで「パラサイト」「everything everywhere all at once」も見ました。最近アカデミー作品から離れていたけど、やはり受賞作は好みはともかくクオリティが高い。見ていられる。

「ノマドランド」もあわせ、女性監督とアジアのエンタメが次世代ムーヴメントになっていくなかで、日本のエンタメの小ささというか、美意識の幼さが悲しいです。
小津的な小さな世界観に美意識がある、みたいなのもないんだよね。
狭いところを深めるのではなく、ただ視野が狭いというか。
アニメ漫画もそんな感じ。今はほとんど見ていない。

あ、でも「イリオス」面白いですね!みてる!見てた!