2021/10/18
バナナブレッドのプディング
大島弓子先生の「バナナブレッドのプディング」を最近初めて読みまして
すごい!!と思ったので、感想を書きます。
プロの評論家をはじめ色々なかたが語っておられるので、自分ごときが今さらなのですが、人の言葉ではなく自分で言葉にすることに意味がある!GO!
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(もう、この冒頭がすごいよね。そんじょそこらの作家ではこんなにもさらっと扱えないセリフ)
1980年作です。41年前です。
昭和55年。この年の主な出来事は、ジョン・レノン銃殺事件、山口百恵・三浦友和の結婚、日本の自動車生産台数が世界1位になり経済はイケイケドンドン
ゲーム&ウオッチが発売され、竹の子族が踊り、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』がベストセラーとなりました。
さて、「バナナブレッドのプディング」はどういう話か。
ざっと箇条書きにします。
- 主人公は「世間に後ろめたさを感じている同性愛者」とつきあい、彼が本当に愛する人と生活するための仮面彼女として助けになりたいと思っている
- 主人公の女友達は、この子は何かこじらせている!と考え、対策として兄(ヘテロ)を同性愛者と偽って紹介する
- 女友達は、同級生の男子生徒が好き
- しかし彼は本物の同性愛者で、女友達の兄が好き
- なので女友達は男装して兄のふりをして彼に近づく
- 彼は自分の思いが伝わらない事を知っているので、大学教授の同性愛者の愛人をしている
- 主人公は夜中にトイレに行くと得体の知れないばけものが出てきて喰われると思っているので、兄についてきてもらう
(主人公の精神不安定のトリガーは姉の結婚)
- 兄は主人公を好きになりはじめるが、嘘をついている後ろめたさと、彼女が自分と接することができるのは、女性に対して性的欲望をもたない同性愛者だと思っているからなので、本当の事を言い出せない
- 女友達は、君が本当に求めているのは兄との近親相姦だよ、と言われる
- 嘘をつかれていたのを知った主人公は、大学教授の「仮面妻」になる
- 主人公は大学教授を刺してしまう
- 主人公は兄の元へ行って「私はあなたも刺してしまうかもしれない」という
- 兄は「いいよ」と答える
という話
なぜ?? どういうこと???
と思われるかもしれませんが、読み終えて、なるほどなあと思うのです。
おそらく、当時この漫画を読んで「なるほどなあ」と思った少年少女、男性女性は沢山いたのではないかと思います。
この漫画は、主人公が「世間一般」の大人の女性になる=大人の肉体と性欲をもつ、ことに対する恐怖と忌避感と受容を描いているといわれます。
少女漫画なので、彼女の感情を尊重してくれる王子様がちゃんと現れるのですが、
それは「世間一般の」大人になるを意味するわけではありません。
男の子は怖くないのよ、セックスしても大丈夫よ、ではなく
怖いのは私、あなたを傷つける可能性があるのも私、その私を受け入れるあなたがいる、なのです。
「少女の自己受容」ではなく「世界が少女を受容する」なのです。
そして大島弓子先生の他の作品にもあることだけど、
重要な点のひとつは
友情や家族愛や敬愛の範囲に収まらない感情がある
それは今のところ、必ずしも性欲を伴ってはいない
しかし世の中は「恋愛とは性欲を伴うもの」であるとしている
(なので恋愛はその先に性的な関係性を必然的に内包する)
では、確かにここにある「性欲を伴うわけでなく、その先にも求めないだろう特定の相手への強い好意」とは何なのか?
当時も今も、少年漫画の少年が抱く少女への強い感情はその先の「性欲と成就=恋愛」が明確で、そこへの疑いがまるでないけれど、70年代から80年代の少女漫画は現代のLGBTQのずっと先を行っていて
それはつまり、
人類史上において、長いこと男性の肉体が中心となってつくりあげてきた「恋愛とは異性への性欲を伴うもの」なる文化に対して「それはたいへん粗雑な分類である」
ということの提示です。
その間にあるものは名前をもたない。
現代なら同性であれば「BL」「百合」に含まれるかもしれません。
しかし、その言葉が適当かと言われると、それも非常に雑なくくりと言わざるを得ない。
BL、百合は「(ベクトルとして性的関係を伴う公然と認められてはいない)恋愛感情」だからです。
そして異性との関係において「BL/百合的友情」に相当する表現はないですね。(プラトニックラブという言葉があったけど、恋愛とは性欲を伴うを前提とした対論なので、そういうことじゃない)
特定の人に対する、つきあったり、セックスしたり、結婚したり、子どもを作ることを志向しない、強い好意をあらわす言葉はいまだ存在しないのです。
70年代から80年代初めにかけての少女漫画にはそういう哲学、というか、すごく先進的な思想や感覚の提示があった。
しかし、バブル期になり、「そんなめんどくさいこと考えるのはいやだ、貧乏くさい」「楽しく恋愛しようよ」 男性は金をかけて女性とつきあい、女性もその金に相当するほど自分を磨く、という巨大恋愛市場が生まれる。
好意の先は、つきあう、恋愛、でその成就は「セックスした」で「選び選ばれる」で、それだけの価値をもつ自分、であって、性欲と恋愛とカネは不可分となった。
それから30年かけて日本は貧しくなっていって、気づいたら、金はないけど欲望だけはある。じゃあどうしようというところで、「金のかからない(二次元の)推しへの性的妄想」が恋愛市場に登場し、オタク市場がメジャーになってきたのだと思います。
いや、推しにめちゃめちゃ貢いでるよ!
という人もいるでしょうが、それは貢げば自分が納得できる程度の見返りがあり、否定され傷つけられることがない、いつでも自分の都合でやめられて、やめても恨まれたり相手を傷つけることのない慰めの対価としての「金」です。
課金が過ぎて自己破産したとしても、「関係性」はない。
「なにもないけど慰められた自分だけ」が残る。
一方、性的欲望は「女にも性欲がある(そして妄想で充足可能)」を普及させはしたけれど、一方で、「性欲を伴わない様々な感情がある」はBL、百合という概念にとどまっています。
それらも結局のところ「性欲を伴う」へスムーズに移行できる。
つまり、「性欲を伴わない様々な感情のひとつ」として描かれた感情は、簡単に性的妄想に転化できるし、一般的に、多くは、その先の解釈として受け入れ可能だから。
そして、現実は置いてきぼりで、いまだに夫婦別姓も同性婚も認められていない石器時代。
結婚って法とか税に関する特典付き戸籍世帯支配だからさー
ただの制度だから
特典が欲しい人同士は性別とか、もう恋愛性愛に関係なく好意ベースでしていいと思う
そんで養子をもらって子供を育てる権利を与えればいいじゃん
親ガチャでハズレを引いた!
とか言われるより、養子縁組するだけの経済力や人品人柄があるか法でチェックするほうがよっぽど幸福率が高くなると思うよ
もうほんと、家族の絆で社会を守る!とか、竹槍で戦争に勝つ!と同じレベルの妄言だから
閑話休題
カネがあればいいよ!めんどくさい貧乏くさいことやめようよ!
って考える事をやめた結果、貧乏になって考えることができなくなった今だけが残った。
世界の先を行っていたはずなのに、すっかり遅れちゃったね…
大島弓子先生は本当にすごい。
キューブリックの「2001年宇宙の旅」について
「私なら地上でやりますけれど」と仰ったそうです。
軽々超えていくなあ…
思い返したのですが「クソデカ感情」という言葉がありましたね。
一部の人には「そういうこと!そういう感情!」と理解されたのかもしれないけど
私は全然違うと思った。まず言葉が汚いし、雑。少なくとも、大島弓子作品で描かれている感情は「クソデカ感情」で表現できるとは思わない。
わかりやすく表現したい、その模索は必要だし続けるべきだけど
粗雑で簡単な言語に落とし込んで満足するのは更なる「考えない」を生むだけじゃないかなと思う。