2023年02月

インフォメーション

あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

    カテゴリー

シグルイ

シグルイ 原作:南條範夫「駿河城御前試合」・作画:山口貴由 秋田書店 2003-2010チャンピオンRED連載

 

 

「覚悟のススメ」ちょっと触れて、散様の、兄なのに女体で何の説明もなし!(あとであるけど)に衝撃を受け、シグルイ読んでみました。
こっちの方が自分のジャンルかなと思って。
シグルイってタイトル、無知なのでモンゴル系遊牧民かしらと思ったら葉隠の「死狂ひ」とのことです。おっふ。

 

いやすごかった!! 

こういう漫画がよみたかった!
 

共感やら理解の及ばぬレイヤーにあるものを見たいのです。


徳川忠長(三代将軍徳川家光の弟。幼い頃より優秀だったが将軍職を継げなかった恨みから行状が悪化し幕府により切腹を命じられる)の御前試合で闘う、藤木源之介と伊良子清玄。二人がそこに至るまでの因縁の過去編が全15巻のほぼ全編にわたる

ぶっとび、イカレ、グロリョナエロ描写連続ともいえるのですが、不快にならない。ただただ圧倒され受け入れ賛美してしまう理由は

・男女隔てないエログロ

・消費目的で描かれていない

・笑いでごまかさない

・趣味嗜好を超えた凄み

・絵が超絶うまい

・人体描写が正確で美しすぎる

 

でしょうか

 

美意識がある。

 

ジョジョにもそういうレイヤーの向こう側を感じていたし今も好きだけど、なんかおしゃれ漫画になっちゃったから…受け手の解釈もあると思いますが
シグルイはかわいい絵やらほのぼの二次創作できる作品じゃない。
ゴカムを変態漫画とかいうな!これが本物のへんたいまんがです!

 

原作未読ですが、漫画とは違うエンディングらしく
それではこの残酷描写をどう結末づけるのかと思いましたが、
なんたるスタンディングオベーション!!!!

 

徳川封建制以降、「武人」が「自分の意思ではなく上の人間の命に従うだけの傀儡=侍=はべるもの」となり果てるしかない絶望の話でした!!!

武士(ぶし、もののふ 士は有徳有能の統治階級を意味する)が、侍(サムライ 侍は従う、侍るを意味する)になる。
同じように使われがちだけど言葉の意味が違うんですよね。
戦国時代にいるのは武士で、江戸時代は侍。この変化は大きい。

戦国のあと江戸幕府による太平の世は、圧倒的上下社会

へうげもので、「管理する人間に責を負わせ末端には思考させることなく幼児でいさせよ」と、徳川家康が命じたその「忠義」の狂い

お上に命じられるままに敵の名誉も命も敬意なく踏みつける。
それはサムライではなく傀儡よと。


敵の名誉はおのれの誇り。
それを踏みにじり、切り捨て、残るのは忠義を果たした「自分」という無自覚な地獄のみ

いやいや、明治日清日露第二次世界大戦の兵士や特攻隊とか、まさにこれですよね。

明治以降も徳川封建制は生き続け、新たなるお上に従うだけのサムライ気取りの農民が利用され続けているわけですよ。

それを描き切っている凄み!!!!



源之助が忠長の命令で伊良子を辱めたのを、

本当はやりたくなかったが、徳川が規定するサムライとして「お家=三重さまが体現する岩本家」のため、三重さまとの「勝ったら契りを結ぶ」という約束のため、と絶望のなかですがるのを、三重さまは傀儡になり果てた男への拒否により自害している、この地獄!!!!


三重さま、作品の中でも一二を争うイカレっぷりなんですが、
だからこそ、その三重さまのために自らの「サムライ」を貫くために間違ってしまった清らかな真面目な源之助と、その間違いを押し付けた権力の醜さが際立ちます。

三重様は、伊良子に恋していたわけではないんです。
父・虎眼が命じた公開初夜の際に「男はみな、傀儡」と絶望で死を覚悟したとき、伊良子だけが、虎眼に命じられて性行為をするのを拒否し、結果、三重の自尊心を救った。

階級社会と戦う伊良子は、人間としても男としても相当なろくでなしだけれど、上下権力への追従を拒否する「自由で強靭な精神をもつ人間」なわけです。
正義感や倫理からじゃない。伊良子にそんなものはない。ただ自分の律するところ、荒々しくある美意識によって、他者の支配を拒んでいる。
その「傀儡ではない男」に希望をみているのです。


最強最悪の父・虎眼ですら、大名にへつらいの笑いをする。
伊良子は、巧言で大名をかわすが、へつらい媚びて従いはしない。

三重様にとって、伊良子だけが、傀儡ではない、意志をもつ「士(さむらい)」で、彼女が選びたい男、と無意識の底で知っている。
封建社会、階級社会で「女」は、「権力のある男の持ち物で自由な心が許されない」から、彼女が伊良子を求めるのは、男の持ち物ではなく自由意志を持つ人間でありたい、ということです。
だから、公開初夜に参加したが、誰に何と言われようと仇討をやり遂げようとする藤木源之助が「士」になったのかもしれない、と思い、結婚の約束をした。

しかし、士同士の戦いで勝利した藤木は、命じられるままに伊良子を辱める「傀儡=侍=さぶらうもの」になり果てる。

その絶望で死ぬのです。






ところで、作品中臓物飛び男性器焼き鏝女体切断など虐待描写がたわわななかで
一番衝撃を受けたのは、権左衛門の「素手でのセルフ去勢」です。
覚悟決まりすぎ。

山口先生が原作者南條先生にお会いした際のあとがきなども濃さがぶっとんでいました。
素晴らしい作品をありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒトラーのための虐殺会議

 

「ヒトラーのための虐殺会議」映画 2022年制作 ドイツ

 

ユダヤ人特別処理のためのナチス高官によるヴァンゼ―会議を、議事録を元に映画化した作品。

 

1100万人という膨大なユダヤ人を殺し全滅させるという「目的」に対し、いかに効率よくきちんと処理するかという「課題」を、延々と中高年男性が相談する話です。

きちんとというのは、親族にユダヤ人がいるドイツ人から抗議されないように、とか
軍需産業の工人など優秀なユダヤ人を殺すとドイツ人にとって損だがどうするか、とかです。

効率、簡素化、迅速、数字、目的に対し結果を出すための議論は、資本主義ビジネスの会議とほぼ同じですね。

モラルや人倫は「利益」「目的の前」では無力

そしてそもそもの「目的」へ誰も疑問を持たない。

これ、目的が「ユダヤ人全滅」も「会社利益追求」も「少子化解決」も根本的に同じ。

「なぜユダヤ人を全滅する必要があるのか」「奴らは世界戦争の黒幕で悪だから」

「会社利益追求」「利益を出さないと会社が潰れるから」

「少子化解決」「子供が増えないと困るから」

 

それほんと?みたいなね。

 

ユダヤ人は世界戦争の黒幕ではないし、会社が潰れても社員は別の会社で働けばいいし、子どもが増えなくてもそれで持続可能な手段をとれば困らない。

目的を問わない疑わないのが、ものすごく優秀な武官、文官の限界かなって気がしました。

だから、「目的を設定する」人間の質が問われるんだよね。
施政者のありかたについて学問が昔からあるのはそういうこと。


我々は日々、ナチと同じようなことを小さなレイヤーでやってる
そういう危険性に気づいていたほうがいい。ナチスは邪悪で異常な人たちではなく、真面目で実行能力に優れた「自分でほんとうには考えようとしない人々」です。

まあ、日本の会議はもっとなあなあで最初に結論が決まっていて誰も発言しないだろう こんな丁々発止の利益の綱引きにはならない

・処刑を特別処理、財産没収をアーリア化と言い換えるなどの、言葉のごまかし。
プーチンも特別作戦といってますね。
実際を都合よくいいかえてごまかすのは権力がある卑怯な人間たちがよくやること。噓つきは泥棒の始まり的に注意が必要だと思います

 

・エンドロールまで無音。音楽無し。

音の民族ドイツ人ならではの

「これはエモーショナルで消費していい話ではない」

という主張を強く感じました。

 

正直なところ、戦争に関する映像にはこの意識を強く持っていてほしいと思っています。
進撃の巨人のアニメファイナル、すごくいいアニメだけど、
いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

進撃なんかは原作をしっかり読んでいる人が多いと思うけど、
原作未読でアニメだけ見る人もいるよね。
漫画は苦手という人もいるし。
でも無音で、自分の時間で文字(漫画も意味のある絵という象形文字による小説と考えてます)を読むのは大事です。
読解力はだいじ。


世代的に、もうハンジさんや団長の方なので

次の世代のために微力ながらでもなにか礎になるようなことが出来ないかと思うけど
ほんと、大人として無力だなあ…

歴史に向き合う作品をつくる人はすごい。ハンジさんすごい。

でもきちんと見て評価して考えることを続けるのも大事と思うことにする

そうしないと「戦争についてずっと真正面から検証し続ける」人がいなくなってしまうし見るひとがいないと作品もつくれなくなってしまうので。

よしちょっとポジティブになった!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蜜蜂 マヤ・ルンデ

ネタバレあり

蜜蜂 マヤ・ルンデ  2015年 池田真紀子訳 NHK出版(2018年日本翻訳刊)

ノルウェーの作家、マヤ・ルンデによるSF小説

といっても、SF部分は三分の一で、物語は三つの時代が交互に語られ、蜜蜂というキーワードで繋がる展開になっています。

1852年のイギリス 父と娘と息子
2007年のアメリカ 父と息子
2098年の中国 母と息子

三つの時代でこの関係性を中心に話が進みます。

優れた小説がそうであるように、これも読み手の立ち位置によって見えるものが違ってくる作品です。
自分が感じたところをとりあえずざっくり


・19世紀は完全な家父長制社会
父親が妻や娘を人間扱いせず、家庭の中で同じ階層である息子にのみ過剰な期待をかけ、抑圧している。
養蜂で父に等しい学者に認められるという男社会への承認欲求と、幼稚な身勝手と自己愛で周囲を見ている。息子と妻の癒着関係と疎外感。息子の闇堕ち。娘の一人だけが無言で学び父の研究を支えている


・21世紀初期は父権の崩壊 
父親は息子に代々の養蜂業を継いでほしいが、息子は大学に行きベジタリアンになり文筆業をやっていきたいと思っている。ジェネレーションギャップ。ここでも息子と妻の絆は深く父は疎外感を感じる。仕事仲間との友情。父権のゆらぎにより強くなるホモソーシャル。息子との融和。


・21世紀終わりは女性の社会
人間の自然破壊による蜜蜂の絶滅で、作物が実を結ばなくなった世界。
中国の人工授粉果樹園で働く夫婦と小さな息子。母は学びたかったが肉体労働に従事し、息子に夢をかけている。子供優先による夫の排除。子供が病気で突然北京に連れ去れらたのを追って一人で北京にいく。最高指導者は女性。息子に対する母の愛が全編にただよっているが、最後は…

 

蜜蜂の絶滅に至る人間社会のあり方は、家父長制の呪い
(Patriarchy:最年長の男性が家長となる社会、または、自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会
が原因の一つと感じました。

この「自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会」
(そこに同化したり、せざるをえない女性もいるけど)って
仕事を頑張ろう、他より抜きん出よう、利益を出そう、認められよう、その利益を自分の子供へ継がせよう、そのために何かを踏みつけようとすることで、
紀元前8000年、西暦2000年にかけて続いてきて
一人の人間としては決して悪ではないかもしれないが、社会となって蓄積すると外部への悪となり自らにかえってくる、のでは? ということ。

もう、楳図先生の14歳を思い出しましたよね。虫だけに!

それが、最後の

 

帰ってきたミツバチは花蜜と花粉を携えている。こどもを育てる栄養分だ。ただし、自分が育てるこどものためだけに持ち帰るのではない。どのミツバチも全体のために、全員のために、彼らが一体となって構成する大きな有機体のために、働く。

 

子どもを愛し、何を捨てても取り戻そうとしていたタオがたどりつく、

「誰か一人の人生、誰か一人のあらゆる肉も心も思考も思いも夢も、それを大きな文脈に置き、同じ夢が世界のすべての人に当てはまることに気づけずにいるかぎり、なんの意味もない」

という部分に込められているように思いました。


つまり、自分、自分の子供、自分の属する社会が、もっと大きな、人類、のみならず自然、地球、すべてに繋がっていると認識してはじめて、個をただひとつの個として尊重することができる。それは対立でなく両立である。という愛の姿。

シャーロットがアメリカに渡り、つなげた巣箱の図面、
トムが書いた本が数十年後にタオにつなげた発見、
シャーロットもトムも自分の父親と共に働いたけれど、それが影響を与えた相手は、自分の子供でも、同じ国の人でも同じ性別でも同じ時代の人でもなかった。

それはとても尊く、ラストのタオとともに未来への希望を感じます。


ところで、昔から西洋SFでは、崩壊後の世界で唯一うまく生き残るのが中国人、というのがときどきあるのですが、
やはり、中国の歴史文化の長さ、計り知れなさ、深さに、怖れと夢のような感覚があるのでしょうか。


ミツバチ消失事件は現実にあります。
蜜蜂がいるからニンゲンが口にする様々な植物の受粉ができている。
大事にしなきゃ! ほんとにね!

 

 

 

へうげもの

※ネタバレ

 

『へうげもの』山田芳裕 2005年~2017年 講談社モーニング連載

 

望郷太郎が面白かったので読んでみたのですが、面白かった!

信長、秀吉に仕え、大阪夏の陣の際、徳川家康に豊臣との内通を疑われて切腹させられた文化人・武人
古田織部が主人公です。

戦国時代を、文化の側面からとらえた漫画
小野於通を主人公にした大和和紀『イシュタルの娘』と同じ時代、テーマですが
interpretationと画風の違いがすごいです。

近衛信尹(このえのぶただ)のビジュアルの差とかもうすごい。
イシュタルは少女漫画なので恋愛にも重きが置かれています。
へうげものは性欲と夫婦愛かな。

どちらも

政権交代における文化の立ち位置と重要性

を読み取れる漫画です。

 

社会の支配権をめぐる争いは常に、武力、政治、経済がからみあっており、
戦国時代後期~安土桃山~江戸初期はそれが非常に短い時間に凝縮されているのですが、
文化のありかたもそこに密接に関わっている。
すなわち文化闘争でもある、という側面がクローズアップされています。

へうげものでは、
本能寺の変の裏に、秀吉を操った千利休がいました。
千利休の求める「わび」、秀吉の求める「派手」、織田の「粋」、家康の「野暮」が覇権を争い、殺し合う。
そこに古田織部の「へうげ(ひょうげ)」が絡んでいくわけです。
へうげ、は甲乙丙丁の「乙」をめざし、丁を野暮とする。「へうげ」はいいが「かぶき」は悪しとする。
ハイカルチャーではなくサブカルチャーであり、カウンターカルチャーはよしとしない、ということです。

「イシュタルの娘」では、千利休に対して秀吉は

「生まれ育ちが金持ちの利休は地味にわびさびの美を感じるかもしれないが、俺は貧しい育ちだ、それは見慣れた嫌なものなんだ、明るく派手がいいんだ」

といいます。
へうげものでは、各々の「自分の美」をいかに世の中に広め残すかに焦点が置かれていて、利休はその為に「権力者を選ぶ目利き」の位置に己を置こうとします。

両作品に共通なのは、豊臣側の視点であること。
どの登場人物にもやさしい目線があることですね。

石田三成と明智光秀に対する上げ方、特にへうげものの明智光秀は裏主人公と言ってもいいと思います。
これを読むと、徳川幕府に対して上方がいい気持ちを持てないのは当然かなあと思ってしまいます。

大奥では上下関係と世襲により「戦争のない泰平の世」を目指す徳川が出てきますが、
へうげものでは「それは皆の泰平ではなく徳川の泰平」「息苦しい」といわれ
徳川家康が

「責任をもつと自我をもつ、自我をもつと抗い乱世になる、だから民ではなくそれを管轄する人間に責を負わせ、民は子供のまま愚かでいさせる」

という。
なかなかシビアで、大阪夏の陣における各武家の政治的立ち回りの悩みなどは、読んでいてつらいです。誰も戦いたくないのに、家康が「武人をできるだけ殺しておきたい」「豊臣を廃す」を譲らないために…プーチンか…

 家康にも家康のつらみがあるのですが、
もうさ~秀吉もだけどさ~~~

おまえらちゃんと友達つくれよ!

君らが本当に求めているのはそれだよ!!!

ほんと、権力闘争とマウントじゃなく、縦じゃなく、横の関係つくれよ!

家康、明智殿に思い入れすぎ! 明智殿ステキすぎ!

 

 

しかし、文化闘争としての政権交代を考えると

平安時代後期、平氏と武士の成立以降の戦いは、

田舎者VS都会人

でもあって

 

常に田舎が勝つ

 

なんですね。


平氏←源氏←(後醍醐天皇)←足利氏←織田信長←豊臣秀吉←徳川氏←薩長


鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇はすぐ覆されてしまうし、
明治政府は天皇をかついだ薩長のクーデターなわけです。

日本において、文化エスタブリッシュメントは田舎のダサカルチャーに征服されるが、それがエスタブリッシュメントになると、また倒されるんですね。
千年以上そうだったわけですが、西洋文化が入ってくると文化としての都会、があいまいになる。東京は文化の中心のようだけど、それは西洋のうわべを取り入れただけで、本当の文化ではない。
薩長的田舎は洗練されることなく、そこにあり続けている。
一方、洗練の都、京都は権力闘争からは距離を置き、新しい文化を生むより過去の遺産を守る。
田舎は勝ち続けるというわけです。

インテリ、左翼(ってなんかしらんけど)界隈が勝てないのは歴史的根拠がある当然ともいえます。

しかし書いてて思ったんですが、「いなかもの」、「とかいじん」、ってひどいですね。
ものってなんだ、ひとじゃないんだ…そりゃあムカつくよね。