2023年05月

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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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桜の森の満開の下と火の鳥と戦争と

 

メモしてたと思っていたのですがどうやらしてなかったようなのでメモ

 

坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」
野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」の原案なのですが、
もともと野田さんは手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」を使わせてほしいと打診していたそうです。
「火の鳥・鳳凰編」も坂口安吾の「夜長姫と耳男」「桜の~」を取り入れて作られた作品です。茜丸と我王の芸術家としての苦悩と争い、我王と速魚の関係に安吾のテーマの昇華が見て取れます。
つまり、坂口安吾、手塚治虫、野田秀樹は同じテーマでつながっており、なるほど...と感慨深く思い、そこでこういう解釈があるのでは?と思いました。


野田秀樹作品には「戦争と歴史」をテーマにした作品が多い。
直接的にというより、「大きな力、勝利したものの裏にはいつも踏みつけられ、なかったことにされた人間がいる。彼らは生きていた。声があり、名前があった。その声を聴く、だれもいない森で、文字のない手紙で」という描き方です。

「贋作・罪と罰」の裏には幕末の戦いがあり、「贋作・桜の森」の下には大和朝廷の制圧により滅びて鬼となったクニがある。
そして、「パンドラの鐘」のように天皇制の元での太平洋戦争の批判が強くある。

では逆に坂口安吾の「桜の森の満開の下」には何があるのか?

これは、魔性の姫君と彼女に魅入られた芸術家の悲恋、芸術家としての成長、ミューズとしての女性の物語のように受け取れる話で、自分もそう思っていたのですが、

 

夜長姫の象徴するものとは、実は天皇なのではないだろうか?

ということです。

 

青い大空を落とし、尊く、純粋で、太陽のように彼方から大勢の死んでいく民を見ている姫君。

この姫がいては、チャチな人間世界は壊れてしまうと、姫を愛しながら殺す耳男。

「私を殺したように立派な仕事をして」と言い残す姫。

つまりこれは、アマテラス生ける神として民を超越してある「天皇」を「人」に降ろす=殺さねばならない、という太平洋戦争終了後の国民の愛と苦しみの話なのではないだろうか?

 

そういう解釈している人いるんじゃないだろうか、と思ったら、
自分程度が考えることは当然既に人が考えているので、天皇制と戦争にまつわる解釈をした学者の方がたがいらっしゃいました。

でも、「人の解釈」より「自分の解釈」によりたどり着く思考が大事なので、とてもすっきりしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか

 

進撃の巨人ファイナルのアニメ、後編楽しみですね。

最終回を読んだときから考えていたのですが、

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

 

進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのだろうか?

 

これ、連載当時も、かなり不思議でした。
それまでミカサは「エレン厨」で、「最強筋肉女子」で、
ちょっと笑いのネタにされるほど「エレンが一番優先」で、だけどエレン側からの特別な矢印はなさそうな描かれ方で、マーレ視察のシーンでやっとエレンも何か気づき始めたのかな~位の感触でした。

そのミカサがエレンを殺す、というのが大事ではあるのですが、
突然

”始祖ユミルが待っていたのは、愛を終わらせることができるミカサだった、最初からそうだった”

”ミカサに男ができるなんていやだ!一生オレだけを想っててほしい‼”

といわれても、え? 唐突! いやいいけど、なぜ急に? となりませんか。
私はなりました。

 

 

個人的に、こう考えられないだろうか、と思う点があったので考察します。 

 

橋本治の「窯変源氏物語」という源氏物語現代語訳とその解説書「源氏供養」という本があります。その中で

「男は女を通してしか自らの内面を語れない」

という主旨の解説が出てきます。

 
主語が大きすぎる?
とはいえ、つまるところ、個別性の話は個別でしか成立しないので、全体の傾向を語るには総括的に語るしかないところはあります。
人それぞれ、では、木を見て森を見ず、森の役割や状態がわかりません。
そして人は社会的生物であるため、個別性より全体性が社会を動かしています。
ですから「男」「女」というくくりは大きいけれども、有効な側面があるわけです。
※その後、SNSで「自分の内面を語るのは女のすることだと男は考えている」という話があり、そうか?と驚いた次第です。自分の内面を言語化できない人は知性が子どもで勇気がないのだと思っていました。


「男は女を通してしか自らの内面を語れない」とは一体どういうことか

 

男性は男性を通して社会を語ることはできます。
その社会での夢や希望(=成功)、理想、人(=男)という一般化も哲学もできます。
でも個である自身の内面に向き合い、社会や人から切り離して語る方法がない。
女性と違い、男性は既存社会と一体化しているので、そこからこぼれても、疎外された自分のつらさを語るしかなくて、社会において男性であることから離れ、または男性自身を改革して自由になる方法がない。

確かに、ハムレットのオフィーリア、罪と罰のソーニャ、村上春樹作品の不思議女性たち(村上春樹の主人公「僕」はかなり社会から外れているのですが、その「僕」をそこで成り立たせてるのは女性たちです)、生きづらい惨めな男性を突然現れて救う女性像など、「女により自身の内面を表現する男のフィクション」に思い当たるところはあります。

(※女性向け恋愛フィクションの<惨めな女性を突然現れて救う王子様的男性>は、女性が男性を<自分の魅力で支配する>ことで社会的権力・支配力を持つことを表しています。だからおとぎ話の継母はヒロインを支配し、王子様と結婚したヒロインは意地悪な継母や義姉に復讐するのです。支配欲と権力欲ですから、男性向けだとバトル・ビジネスものに相当します)

 

進撃の巨人もこれでは?

 

と思いました。

 

つまり、
父から始まった物語を終わらせるには、
自分が愛し愛されている女を通じて語るしかなかった、
ということです。

 

『お前が始めた物語だろ』

と、エレンの父グリシャはクルーガーとエレンから言われます。

お前が始めた物語なんだ、途中で責任を放り出すな、続けろ、という意味です。

物語とは、グリシャの人生であり、クルーガーから引き継ぎ、エレンへ引き継ぐ「進撃の巨人」の物語です。

 

では、「お前が始めた物語」は、どうやって終わらせたらいいのか?

 

始めた物語は、続けねばならない。
放り出すことでは終わらない。
では、それをどうやって終わらせるのか。

その答えは、

 

 

 

というわけです。

「男性は女性を通してしか、自らの内面を語ることができない」から
男性が始めた自由になるための物語の内的原因は、ある男への愛のために巨人の力を戦争に使った始祖ユミルという女の愛への囚われで、その愛を終わらせるのは女性であるミカサなのです。


男性は、自分たちで始めた物語を終わらせる力をまだ見いだせない。

世界を手に入れるのではなく、壊そうとすることでしか自由になれない。

壊れた世界を一人で見るのは耐えられない。

愛してくれる女に傍にいてほしい。

 

 

 

 

友人アルミンはエレンに「壁の向こうに何があるのか知りたい」という希望を与えます。
それは「進むこと」です。
しかし「進むこと」の先には「絶望」があり、「進み続ける」の先には「人類虐殺」がある。

壁の向こうに人間がいるのに絶望したエレンは、まっさらの自由な世界などなく、自分もまた続けねばならない物語の中にいる存在でしかない、という不自由に絶望する。

それは例えば、子供のころは無限の未来があると思ったのに、社会に出て働き続ける以外の選択肢を与えてもらえない「男」の絶望でもあります。


「女」には、外で働くか、結婚し家で働くか、産むか産まないかなどの選択肢が望むと望まざるとにかかわらず存在します。選択肢の多さゆえのデメリットもあります。男にはそれらがないように見えます。働かない選択肢はあっても、食べていけない、「社会」で軽んじられたり居場所がなくなる。その社会は「男社会」だからです。
働き続ける=食べていく、社会で立場を得る、です。社会で立場のない男は食うに困り劣った存在になり、社会と一体化できなくなる。だからその時も「女」より上であるという命綱を必要としてしまう。女性を妬み憎んでしまう。


彼らはそうして歴史をつくり、進み続ける。
だが、その先にあるのは終わらない憎しみと絶望です。
だから、ジークは「強制断種」という計画をたてる。
暴力ではなく生殖を断とうとする。
エレンはそれを受容できない。
では、エレンはどうやって「自由になりたい自分」の物語を終わらせたらいいのか。


 

進撃の巨人は、男女の性差と権力勾配の描写がとても少ない作品です。
古い価値観の集団では上位職の女性が少ないが、新しく自由な集団では長になる、という描写もされます。
作中で「異性を性的にまなざす」視線もほぼありません。
恋愛でも、描かれるのは異性同性含め「人」への「好意」で、肉体により喚起される欲望ではない。
女性の風呂を覗いたり胸や尻、下着に意識を向けたり、少女も含め女性を女体として見る視線がない。
逆に男性を腕力や肩書や身長で「カッコイイと称賛したりキャーキャーする」女性の視線もない。
だから、「男とはこう」「女とはこう」のような描写も少ない。



なのに「男が始めて続けた物語を終わらせるには、愛をもつ女がいなければいけない」という唐突さが非常に不思議でした。


エレンを殺すのは、アルミンや兵長ではいけなかったのか。

 

しかしおそらく、あの山小屋の「本当はこんなことをしたくなかった、誰かと一緒に逃げたかった」の誰かがアルミンや兵長ではいけないのです。ここでは成り立たないんです。

アルミンや兵長は「物語を続ける側の人=男性」だからです。

男の物語から、男は降りられない。
降りるために「なにか」を捨てることが、できない。
(この「なにか」は「古い男らしさ」が一つの大きななにかであり「男らしさ」に紐づくあり方を捨てる男は”女”とみなされます)
「命」を捨てることはできる。それが一番重いと考える。
しかし、それは「引き継がれてきた男の」物語の終わりではなく、美化と継続にすぎないのです。


女には物語がない。だから、降りる必要がなくそこに「いる」。

女は始祖ユミルのように個別的であり「物語を続ける原動力」を与える。
「ユミルのように内側から生み出すもの」で「だからミカサのように外側から終わらせることができる」
女は男の物語のきっかけであり、終わらせる力であり(グリシャの妹やエレンの母もそうであるように)、それができるのは、

女の物語は「この世にまだ生まれていない」からです。

なぜ生まれていないかというと、歴史上、女性たちは権力を持ち社会的なマジョリティになって自ら歴史を動かし語ったことがないからです。
そして、男性はすでに力を持つマジョリティであることで解放されており、それ以上の権利や自由のためには他人のそれを奪うしかないのですが、女性にはまだ自由や権利を求める余地がある。この「求める」を「奪う」と感じる男性(側の人)にとって、「求めてくる」女性(側の人)は簒奪者であり侵略者であり、敵です。

※男、女、という表現について、ここでは外見を含む社会的性別(ジェンダー)が男、女であり、かつ「雌性配偶子のみをもつ人=女」「雄性配偶子を持つ人=男」としています。それが、歴史的な男女の区別であり、それを前提にした構造の文脈を背景に考察しているからです。



男の呪いは女のうちから生まれた、というのは生誕であり、
それを父親が続けさせる、というのは既存社会を継続し生きることであり、
その地獄を終わらせるのは、終わらない物語を続けるよりも「唯一の俺」を優先してくれる女であり、
その女はまた母になっていく。
そして物語はまた生まれ、続いていく。

 

進撃の巨人の終わり方というのはそういうことで、

男性が始めた物語=戦争と憎しみと暴力の連鎖は男性には終わらせられない、

というのはなかなか厳しい結論です。

※女性兵士もいる、というのは「戦争が女の物語になる可能性もある」だけです。家庭で家事労働をする男性もいるから、「家庭内衣食住マネジメント・親族地域付き合い・子育てが男の物語=ナラティブになる可能性があるが今はまだ違う」のと同じです。

アルミンがいうように「対話」が一つの解決に向かう希望ではありますが、結局、同じことが繰り返されていくのが歴史です。
正直、それをどうやったら”男性が”終わらせられるのか、という物語も見てみたいという気もしています。
あるいは、”女性の”物語がどう生まれ語られることができるのか、それを続けていかねばならない苦しみの先にあるもの、でもいい。


もちろん、進撃の巨人は、「まだそれができるほど人類は成熟しておらず、この先も成熟しないだろう」ところまで含めて描き切ったのがすごいと思えるのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”女は金のある男、暴力的な男が好き”にはちゃんと理由がある

 

私は仕事ができる人が好き、とずっと思っていたのですが

仕事ができる人が好きなわけではなく、仕事ができる人はわたしにとって無害だからでは?

なぜならこっちがある程度仕事できてるうちは仕事できる人は無害なので好きですが、
仕事を離れたら人として特に好きでもないからです。
説明が難しいのですが、世の中のすべての好意は

「相手が自分にとって無害かどうか」

がベースにあるんじゃないでしょうか。


小さくてかわいいものを多くの人が好きなのはそれが基本的に自分にとって無害だから
多くの人が優しい人が好きなのはそれが基本的に自分にとって無害だから
多くの男性がなんとなく女性一般が好きなのは女性が基本的に男性にとって身体的に無害だからで
多くの女性がなんとなく男性一般を嫌いなのは男性が基本的に女性にとって有害(身体的に可能性として)だからじゃないでしょうか。


肉体的に比較的無害でも、老人より子供のほうが好かれるのは、老人は老人特有の頑なさや「身体含む外見や態度が感覚に与える有害」さがあるからではないかと思います。有害無害というのは物理危険だけでなく不快感や嫌悪感も含むので。
いわゆる非モテ男性は「優しくていい人である自分たちがモテないのは女の見る目がないから」と思いがちですが、この「身体含む外見や態度が感覚に与える有害さ」を知覚できていないのではないでしょうか。

 


男性の女性への興味・好意は性欲の問題というより、「だいたいの女は俺にとって身体的に無害」がまず大きいのです。
だから精神的に害(不快)を与えられたりすると「無害だと思ってたのに害をあたえやがった!」と激高する。
 


女性が「暴力的な男性に惹かれる」というのは、
自分に対して時に暴力的である男性は、そのほかの世界にも同じように暴力的であり、つまり「私に対するほかの男性の有害さを無害にしてくれるのではという期待」がある、双方に都合よくいえば「守ってくれる」「守ってやる」
これは金銭的魅力のある男性についても、本人が無害かどうかより
「貧困から私を守ってくれる」という「有害の無害化」に意味があるんだと思います。

「女は金のある男、暴力的な男が好き」

にはあたりまえに理由があるのです。

 

で、男性にとって有害な存在は「ほかの男」なのですが、ここで

「女は金のある男、暴力的な男が好き」と同じ

「男は金のある男、暴力的な男が好き」が構造としてあります。

金のある男や暴力的な男と仲良くしたらメリットがある。だから男はなつく。

その会社・地域・業界の実力者=金があり場合により暴力を用いることができる=権力者の機嫌を取り、従う男性はとても多い。

彼らについていれば「不都合なことから守ってくれる、特権が与えられる=有害の無害化」があるからです。

それを「金のある男、暴力的な男が好き」ではなく「仲間」「絆」「党派」といいかえたりしますが、本質は女性が求める「有害の無害化」と同じくそういう男に守られたいのです。

 

家族や友達が好きなのも「彼らが自分に害を及ぼさない」からで
毒親や悪友って害を及ぼしてくるから距離をおかねばならない。

二次元や推しを愛せるのは彼らが自分に直接的な害を及ぼすことがないから。

 

ちなみにこれらの「好き」には「敬意」が欠けていることが多いです。
問題はそこかと思います。

相手が思い通りにならない、が、即「自分にとって有害」になり、攻撃的になる。
無害な相手は無害なだけで、根本では「軽蔑している」こともある。
内心で相手を軽蔑している関係性はゆがみます。







で、自分も含め多くの人って

「自分の加害性には無神経で、被害者であることにはやたら敏感」

なんですよね。で、これってとても幼児性なんだよね。
こわいですね。

加害と被害、有害と無害、についてもうちょっと考えたい。