進撃の巨人 最終巻

 

 

たいへん個人的な感想などなど

 

 

まず諌山先生、11年7か月に及ぶ連載お疲れ様でした。完結おめでとうございます。
素晴らしい作品を読ませていただいて、色々と考えさせられました。
本当にありがとうございました!

 

34巻

加筆凄かったですね。ミカサの頭痛とか色々あるけど、ラスト追加で、ええっ!!
となりますよね。

エレミカで終わったのにジャンミカ(の可能性)!?


こいつぁ強火のエレン推し、エレミカ層が炎上するのでは…
ですが、割合と近視眼的に終了した本誌より、俯瞰で終わり再度ループになっていくという歴史感覚は個人的によりよい終わり方だと思います。
ミカサが最後までマフラー巻いていたのが、鳥は攻撃してくるかもだけど肩や手を支えてるのがいいジャンきっといろいろあるジャン、でも包容力あるジャン…
ふざけてる場合ではないですが、それもいいではないか…というか結局誰と誰がくっついたとかそういう話になるか!? うんまあ…

最終巻で急に「ミカサの愛」が「ユミルの愛」を解放する、という展開になって
それまで家族、友人、上司部下、その他人間同士の愛情に対して恋愛要素は等価だったところに結構がっつり「(男女の性)愛」がぶっこまれてきて、戦争や差別や憎悪や殺し合いや人類の愚かな過ちの歴史といったシリアスなテーマをどう決着つけるのかと思っていましたが、

そういう愛って飛び道具出されたらそりゃもう何も言えません


そこが王道に少年漫画っぽくて賛否両論もあるけど良かったと思います。まあでも、ここまでジェンダーレスな世界観を構築したならなにも男女愛にする必要もなかったのになあ、でもハンジさんが公式性別不明だからいいか。
エレンがミカサ大好きすぎて驚きでした。
こんなツンデレみたことありません。いつから誤魔化してたの?この駆逐ボーイが。

 

エレン、もう一度質問させてくれ
「君のどこが 自由なのか」って
そこから引きずり出した後…

 

33巻の終わり、アルミンが、君のどこが自由なのか、と問いかけました。
エレンは未来を見ること、始祖ユミルの意思に触れることでミカサの選択がもたらす結果に行きつくために進み続けた。仕方がなかった、というエレンはあんなにも自由を求めていたのに、知りすぎたことであまりにも不自由な場所に来てしまった。
だけど、それがなくてもこの世を平らにまっさらにしただろう
「何でかわかんねぇけどやりたかった、どうしても」
というエレンの「自由」

友人たちを英雄にするために殺戮者になった、というのは虐殺の理由としてひどく生ぬるく疑念を覚えるけれども、それがなくても「どうしてもやりたかった」というエレンはやっぱりエレンでした。

最終戦で歴代の「九つの巨人」が出てきたとこ、ナルトを思い出したよ
歴代の影たちが敵に!みたいな。俺たちの味方になってくれる!とか

巨神兵の火の七日間に飛ぶ救い手はナウシカみたいでした。

ミカサがエレンを誰よりも思いながら殺す選択をすることが、二千年にわたる呪いと殺戮の歴史を終わらせる。
二人だけの隔離された幸せな世界にいる事を拒否して、残酷な世界に残酷な存在としてあることを選ぶ。それはより深い愛情をひらくことを意味し、世界とつながり、続いていくことを意味する。
壁の中、という具体的にも象徴的にも閉ざされた場所から広い世界へ全員が出て行って、そして人はまた同じ間違いを繰り返し、でもそれが歴史で、その中で一人一人が生きている。
陳腐な結末といってしまえばそうかもしれないけれど、わかりやすさを選ばず12年間本気で真正面から紡がれてきた物語の力は陳腐を普遍に変える力がある。と思いたい。それは読者の消化の仕方や経済的搾取のされ方によるので、今後、キャラグッズ的な消費のされ方をしていくのだとしたらかなり残念です。

ただ、34巻は終わらせるための蛇足といった面が感じられて、物語としての思想やテーマは32、33巻あたりの、人類虐殺に進撃するエレンを止めるために、マーレとエルディアの壁を超えて進むアルミンやコニーやジャンやピークや、「正しいと信じる事」の為に「正しいと思えない事をする」葛藤、マガトやキース、ハンジさんの「葛藤しながらも進む未来に、後に続くものたちの為に礎となる」部分が頂点であって、34巻のエレンとミカサの話は正直些か作品を矮小化してしまったなあというところはあると思います。
矮小化とは何かといえば、「世界は残酷だ」に対する回答が「だが世界は美しい」であり、人間が残酷でありながらなぜ命や自然の美しさがわかるのか、というのは人類が数百世代を超えて持っている力と謎のひとつであって、人同士の愛情や絆はそのうちの一つにすぎないからです。
それが賛否の否の部分だというのはとてもよくわかります。
わかるけど、漫画という媒体自体が諌山先生が表現したい事」において最適でもあり不適でもあったのではないかと思います。そのへんは個人的な考え方なので以下に


 

 

 

 ついでの話

 

進撃の巨人第一巻が出たばかりの頃、中学からの偽兄弟(オタ友)が
「すっごい、怖い漫画があるの知ってる? 巨人が人を食べるの。絵が怖いの」
と教えてくれたのが昨日の事のようです(大げさ)
怖いとしかいえない漫画で、巨人のビジュアルのある種精神異常的な怖さ、壁の中に閉じ込められ出たら喰われる。その閉塞的な恐怖は、確かに2000年代の予兆を掬い取るものだったような気がします。

伊集院光がラジオで「すごいって周りでも騒いでるけど、確かに面白いけど、でも10年経って巨人の謎とか明かされてきたら、あれ?俺ら騒ぎすぎじゃなかった?って思うんじゃないか」と言っていたのを覚えています。

騒ぎはしなかったけど、新しいな、すごいなと思って読んでいて、
途中二回くらい読まない時期があって
一度目はアニが巨人でユミルが巨人でライナーたちも巨人でクリスタは王族で、って

みんな同級生って世界が狭すぎるだろ!どんだけ中二設定!?

と思ったとこ、その後エルヴィン死亡やエレン巨人化の秘密あたりでまた面白いなと思ってから、巨人は人間兵器でしたとマーレ編に入ったとこです。

描きたいことは凄くよくわかりますし、その志の高さも尊敬する。
でも、漫画という媒体は世界の矛盾や戦争や対立する正義の回答のない複雑さを真正面から取り上げるのには向いていないんです。最大公約数の共感に対して通りのよい情動がなければならない。読者を納得させる形で終わらねばならない。落としどころを見つけねばならない。ゆえに浅くなってしまう。だから、あー、なると思ったけどなっちゃったか、と思った。

漫画は絵も話も単純化することで成り立つ表現です。
だから素早く多くの人にアピールする一方、本当に複雑なテーマにはあまり向いていない。
荒木飛呂彦先生が、四部の仗助も父親がいない事の葛藤がある、そういうエピソードも頭にはあったけど、話のスピード感がなくなるので省略した、とおっしゃっていましたが、どこまで省略して言いたいことを伝えられるかが作者の腕の見せ所だと思います。

例えば、書籍「夜と霧」や映画「アンダーグラウンド」のような戦争と人間に関する深い作品世界を漫画で表現できるかと言ったらできないと思う。
その代わり、漫画には漫画にしかない心理表現や荒唐無稽な物語表現ができる。
絵と話を空間でつなぎ合わせ、行間、想像の余地を持たせて、表現しきれない部分をカバーする。特に心理描写にすぐれているので、感情表現による共感を描くのに適した表現方法です。
エモーショナルな表現が過多になり、それが読者の共感を得やすいのは、思想がなく狭く単純化された世界では最終的に感情しか訴えるものがなくなってくるからです。


閑話休題

社会や歴史における人間の複雑さを描く作品としては手塚先生の「火の鳥」が最高峰だと思うけど、手塚先生ですら超越的火の鳥という存在を通して、しかも完結させることができなかったわけで、凄く難しいのですが、その困難に諌山先生が自らの信じるところに従って挑戦し描こうとした事は本当にすごいです。と、いうところで最終巻です。
めちゃくちゃ漫画的に終わらせてきた!
これはこれでものすごい着地で、そんな高いところからそんなところにって空中でどんだけ回転して高速で斜め上に降りてきましたかってもうスタンディングオベーションです。


2021.7.12追記
手塚先生の「アドルフに告ぐ」と「火の鳥」を再読して、上記の未熟な内容をお詫びします。火の鳥、すごすぎる。手塚治虫は漫画の枠を普遍の芸術作品にした日本というより世界で類のない作家です。
私の言いたいことは松岡正剛さんがこちらで余すところなく語ってくださっています。

https://1000ya.isis.ne.jp/0971.html 

 特にこれ!と思った部分
・手塚治虫はゲーテであってドストエフスキーであって、アレクサンドル・デュマである。つまり文豪だが漫画家に対して文豪に類する言葉がない。手塚治虫の為に新しくその言葉がつくられるべき。

・「愛」「罪」「悪」等々のテーマは文豪以外にとっては陳腐か恥ずかしいもので到底扱えない。それが文豪の手にかかるとほかのすべてを含んでよどみなく永遠に見える。

・悪が多く、善は見つかりにくい。火の鳥における普遍において、「読者は自分の共感や反意を登場人物にも託せず(なぜならすべての登場人物はすでにその感情と意識を描き切られているから)、といって自分の内側にも行けない(なぜなら読者の内側よりずっと大きな意識のドラマが描き切られているのだから)」ので作者に意識が向いてしまう。
「そこを凡百の通俗作家たちは善ばかりを終盤に残して、ドラマを消費財にしてしまうものである」


これはすごい、自分が何となく思っていたことをずばり言葉にしてくれています。
そして意識を内側に向けられない人はどんな作品でも消費財にしてしまうのだと思います。
さらに

・「つまりはこれは至芸や名人芸というもので、ワイドショー的なるもの、糸井コピー的なるもの、吉本お笑い的なるもの、パパラッチ的なるもの、そしてアンニュイ的なるもの、アンチ芸術的なるもののいっさいと、激しく対立するものだったのである」

つまり大衆的流行物・曖昧な情感やセンスやエモーションと本質的に真逆の古典芸術的な方向を向いているし、それ以外にできないということでしょうか。
文章を読んでこうだと思った事を再度言葉にするのは難しい…
手塚治虫先生の偉大さはまだ全然、自分のサイズでは難しいです。
死ぬまでに読み返しながらもう少しずつ大きくなっているとよいのですが。