桜の森の満開の下と火の鳥と戦争と

 

メモしてたと思っていたのですがどうやらしてなかったようなのでメモ

 

坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」
野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」の原案なのですが、
もともと野田さんは手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」を使わせてほしいと打診していたそうです。
「火の鳥・鳳凰編」も坂口安吾の「夜長姫と耳男」「桜の~」を取り入れて作られた作品です。茜丸と我王の芸術家としての苦悩と争い、我王と速魚の関係に安吾のテーマの昇華が見て取れます。
つまり、坂口安吾、手塚治虫、野田秀樹は同じテーマでつながっており、なるほど...と感慨深く思い、そこでこういう解釈があるのでは?と思いました。


野田秀樹作品には「戦争と歴史」をテーマにした作品が多い。
直接的にというより、「大きな力、勝利したものの裏にはいつも踏みつけられ、なかったことにされた人間がいる。彼らは生きていた。声があり、名前があった。その声を聴く、だれもいない森で、文字のない手紙で」という描き方です。

「贋作・罪と罰」の裏には幕末の戦いがあり、「贋作・桜の森」の下には大和朝廷の制圧により滅びて鬼となったクニがある。
そして、「パンドラの鐘」のように天皇制の元での太平洋戦争の批判が強くある。

では逆に坂口安吾の「桜の森の満開の下」には何があるのか?

これは、魔性の姫君と彼女に魅入られた芸術家の悲恋、芸術家としての成長、ミューズとしての女性の物語のように受け取れる話で、自分もそう思っていたのですが、

 

夜長姫の象徴するものとは、実は天皇なのではないだろうか?

ということです。

 

青い大空を落とし、尊く、純粋で、太陽のように彼方から大勢の死んでいく民を見ている姫君。

この姫がいては、チャチな人間世界は壊れてしまうと、姫を愛しながら殺す耳男。

「私を殺したように立派な仕事をして」と言い残す姫。

つまりこれは、アマテラス生ける神として民を超越してある「天皇」を「人」に降ろす=殺さねばならない、という太平洋戦争終了後の国民の愛と苦しみの話なのではないだろうか?

 

そういう解釈している人いるんじゃないだろうか、と思ったら、
自分程度が考えることは当然既に人が考えているので、天皇制と戦争にまつわる解釈をした学者の方がたがいらっしゃいました。

でも、「人の解釈」より「自分の解釈」によりたどり着く思考が大事なので、とてもすっきりしました。