貴族ですから

 

新文芸坐でヴィスコンティ「夏の嵐」鑑賞

夏の嵐(1954)
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
主演 アリダ・ヴァリ
原作 カミロ・ボイト『官能』
監督助手 フランコ・ゼフィレッリ

 
オーストリア占領下のヴェネツィアで、イタリア統一戦争を背景に、伯爵夫人とオーストリア士官の不倫と破局を描く。この士官がもう見るからにろくでなし。でも騙されちゃう。恋を知らない貴族の婦人だから。


いやもう、ぐうの音も出ないイタリア貴族の美意識で…
(ヴィスコンティ家はミラノを支配してきた貴族の家系です。紋章のビショーネは人をのみこむ蛇で、ミラノの紋章である十字とともにアルファロメオのエンブレムに使われています)

画面の隅々まで息苦しいほど美しい。本物しかない。
内容がメロドラマだろうが関係なく、ぼうっと見ているだけでいい動く名画。
もう、ドレスの裾の捌き方や座り方のフォルムひとつひとつが美しいです。
映画館で見る映画ですね。庶民の貧乏なインテリアの中で見る映画ではありません。
ティツィアーノの絵を飾れるくらいの家じゃなきゃムリ。
 
で、イタリア貴族の許さなさ。
やられたらやり返す、倍返しどころじゃない、ぶっ殺す。
ニーベルングの指輪のブリュンヒルデのように、ヨーロッパの

「泣き寝入りはしない。やり返す。私が間違っていた、OK死ぬ。でも世界も滅べ!」

な強さ、ぜひともアジアにも取り入れていただきたいものです。

NO泣き寝入り
蝶々夫人、死んでる場合じゃない、やり返し倍返しすべし
そんなときの為の始末人だよ。
マダム・バタフライwith始末人
高慢と偏見とゾンビみたいにリニューアルしよ?
 

イタリア貴族のインモラルと豪奢な美意識を見ると、英国貴族は田舎の人だなあと思ってしまいますし、ヴィスコンティとフェリーニはなぜか並べられることが多いけど、フェリーニは豪奢を描こうとしてもやっぱり貧乏の匂いがする。本物の貴族の感覚は庶民の想像ではわからない。
太宰治の斜陽が、地方地主の想像レベルなのと同じで、だから一般にわかりやすいのと似ています。

モラルは庶民を支配するためのツールで、貴族はそんなものには縛られない。
近親相姦、ペド、乱交、同性愛、不倫、殺人なんでもあり
貴族ですから。
ビョルン・アンドレセンの一番美しい時を無造作に摘んで散らす。
貴族ですから。
貴族は庶民のことなんかしったこっちゃないから。
描きたいとこだけ完璧に描いていきなりFIN
庶民のいいねや共感レベルになんか降りてこないから。
もうこちらはハァーって見てて突き放されてわからんけどとにかくぐうの音も出ない。
 
 
 
 
「ベニスに死す」を入門としたら、「ルートヴィヒ」「地獄に堕ちた勇者ども」から
合間に「熊座の淡き星影」「若者のすべて」などを挟み、最後に「家族の肖像」「山猫」の順にみるとだんだん大人の複雑な世界になってくる気がします。
映画館で。ありがとうございます名画座。
年齢と共にバート・ランカスターの気持ちがわかってきて、しみじみと名作の深みを味わいます。
 
 
ヴィスコンティのこだわりは実のところ同性愛ではなく母親だという点で、三島由紀夫に似ています。
 
前近代の階級の美意識を最後まで持ち続けるのは女性なので(男性は死んでしまうから)息子たちは滅びゆく貴族という未亡人の息子になってしまう。
 
 
 
 
「この許さなさを思うと、アンデルセンの人魚姫、気持ち悪い」
「アンデルセン、現代にいたら本当に気持ち悪いオタクだと思う」
「足が悪い、口がきけない、めそめそして最後は自分が死ぬ」
「しかも死体を残さない。泡になって消える」
「どんだけ都合がいいんだよ」
  「とことん弱くしないと妄想の対象にもできないのか」
  「被害者気分の自己憐憫に酔うヒロイン気質を語られるイラッと感」
「ディズニーのリトルマーメイドはよう知らんけど」
「そんなんじゃない、改変すべき」
「助けてやったらまず名乗り上げて謝礼を要求すべきだね」
「死ぬまで恩を忘れないよう首根っこ掴んでね」


いつもの店で飲んで帰る