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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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貴族ですから

 

新文芸坐でヴィスコンティ「夏の嵐」鑑賞

夏の嵐(1954)
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
主演 アリダ・ヴァリ
原作 カミロ・ボイト『官能』
監督助手 フランコ・ゼフィレッリ

 
オーストリア占領下のヴェネツィアで、イタリア統一戦争を背景に、伯爵夫人とオーストリア士官の不倫と破局を描く。この士官がもう見るからにろくでなし。でも騙されちゃう。恋を知らない貴族の婦人だから。


いやもう、ぐうの音も出ないイタリア貴族の美意識で…
(ヴィスコンティ家はミラノを支配してきた貴族の家系です。紋章のビショーネは人をのみこむ蛇で、ミラノの紋章である十字とともにアルファロメオのエンブレムに使われています)

画面の隅々まで息苦しいほど美しい。本物しかない。
内容がメロドラマだろうが関係なく、ぼうっと見ているだけでいい動く名画。
もう、ドレスの裾の捌き方や座り方のフォルムひとつひとつが美しいです。
映画館で見る映画ですね。庶民の貧乏なインテリアの中で見る映画ではありません。
ティツィアーノの絵を飾れるくらいの家じゃなきゃムリ。
 
で、イタリア貴族の許さなさ。
やられたらやり返す、倍返しどころじゃない、ぶっ殺す。
ニーベルングの指輪のブリュンヒルデのように、ヨーロッパの

「泣き寝入りはしない。やり返す。私が間違っていた、OK死ぬ。でも世界も滅べ!」

な強さ、ぜひともアジアにも取り入れていただきたいものです。

NO泣き寝入り
蝶々夫人、死んでる場合じゃない、やり返し倍返しすべし
そんなときの為の始末人だよ。
マダム・バタフライwith始末人
高慢と偏見とゾンビみたいにリニューアルしよ?
 

イタリア貴族のインモラルと豪奢な美意識を見ると、英国貴族は田舎の人だなあと思ってしまいますし、ヴィスコンティとフェリーニはなぜか並べられることが多いけど、フェリーニは豪奢を描こうとしてもやっぱり貧乏の匂いがする。本物の貴族の感覚は庶民の想像ではわからない。
太宰治の斜陽が、地方地主の想像レベルなのと同じで、だから一般にわかりやすいのと似ています。

モラルは庶民を支配するためのツールで、貴族はそんなものには縛られない。
近親相姦、ペド、乱交、同性愛、不倫、殺人なんでもあり
貴族ですから。
ビョルン・アンドレセンの一番美しい時を無造作に摘んで散らす。
貴族ですから。
貴族は庶民のことなんかしったこっちゃないから。
描きたいとこだけ完璧に描いていきなりFIN
庶民のいいねや共感レベルになんか降りてこないから。
もうこちらはハァーって見てて突き放されてわからんけどとにかくぐうの音も出ない。
 
 
 
 
「ベニスに死す」を入門としたら、「ルートヴィヒ」「地獄に堕ちた勇者ども」から
合間に「熊座の淡き星影」「若者のすべて」などを挟み、最後に「家族の肖像」「山猫」の順にみるとだんだん大人の複雑な世界になってくる気がします。
映画館で。ありがとうございます名画座。
年齢と共にバート・ランカスターの気持ちがわかってきて、しみじみと名作の深みを味わいます。
 
 
ヴィスコンティのこだわりは実のところ同性愛ではなく母親だという点で、三島由紀夫に似ています。
 
前近代の階級の美意識を最後まで持ち続けるのは女性なので(男性は死んでしまうから)息子たちは滅びゆく貴族という未亡人の息子になってしまう。
 
 
 
 
「この許さなさを思うと、アンデルセンの人魚姫、気持ち悪い」
「アンデルセン、現代にいたら本当に気持ち悪いオタクだと思う」
「足が悪い、口がきけない、めそめそして最後は自分が死ぬ」
「しかも死体を残さない。泡になって消える」
「どんだけ都合がいいんだよ」
  「とことん弱くしないと妄想の対象にもできないのか」
  「被害者気分の自己憐憫に酔うヒロイン気質を語られるイラッと感」
「ディズニーのリトルマーメイドはよう知らんけど」
「そんなんじゃない、改変すべき」
「助けてやったらまず名乗り上げて謝礼を要求すべきだね」
「死ぬまで恩を忘れないよう首根っこ掴んでね」


いつもの店で飲んで帰る

 

 

 

異端の鳥 感想

 

 

映画『異端の鳥』

イェジー・コシンスキー 原作
ヴァーツラフ・マルホウル 監督
チェコ・ウクライナ映画 2019

 

第二次世界大戦時。田舎の叔母の家に預けられた少年は、叔母の頓死により一人きりで世界に放り出され、旅をし、様々な人と様々な残酷と差別に遭遇していく。
子供が差別、虐待に晒されるという意味では、「サーミの血」や「存在のない子供たち」と同じジャンルですが、圧倒的に残酷で野蛮。

 


とりあえずのネタバレ感想

 

「いやちょっと、救いがなくてね。この話を受け止める心の畑が自分にはまだない」
「最後、ハーヴェイ・カイテルとジュリアン・サンズどこにいた!?ってびっくりしたよ」
「あの変態か。ジュリアン・サンズ『眺めのいい部屋』とか出てたよね」
「きれい系だったけどね、ここにきたか。ナイスキャスティング」

 


「変態(ペドフィリアのサディスト)も怖くて不快だけど痴女(性依存症の獣姦マニア)も怖いです」

「教育と文化がないと娯楽が性欲だけになるということがわかります。村こわい」

「『神聖なる一族24人の娘たち』と同じ、選択肢ゼロの村。もう怖い逃げたい」

「逃げても逃げてもおかしな奴が出てくる。そりゃあ馬にしか話しかけなくなる」

「馬を助けたかったのにね…あんな目に。子供の眼があの眼だもん。あの目で見るぞ※1」

「子どもを性的に搾取するのは言語道断だけど、女子どもと弱者は基本的にモノ扱いなんですよね。その中で互いに暴力を振るう」

「ユダヤ人(明言はしていないが)だから異物として迫害される、というけど、女や子どもや弱者は未発達な社会では異物であり搾取と迫害の対象なんじゃないかと思う。
子どもは大人に、女は男に、男は社会に守られていないと異端であり差別の対象になる。そこにさらに人種って勝手な理由をつけてイジメるのは、知的障害者や足を無くした子どもをイジメるのと同じ」

「その世界ではむろん女も弱者も子供もどの人種も加害者でありうる。被害者も加害者であり、加害はより異物に向かっていく。文化があれば表面的にでも抑えうる本質が剥き出しになる」

「異物を排除するのが人間の本質ってのは今更であって、そんな今更を他人事みたいにいってるのなんだよと思う」

「話が長いって会議から除け者にされる異物扱いを実感したことがない人なんじゃないの。性的搾取される屈辱や恐怖や怒りや絶望も感じたことがないヤツ」

「やっぱり教育が重要。対話がない、本を読まない、想像力がない、暴力と差別が直結する世界」

「橋本治が、平安時代400年で戦争をせず死刑を行わず政敵はイジメ殺していた日本の洗練について『平家物語』で語ってたけど、初めてそうだなって思った」

「まあでも差別の根っこは同じですからね。女は話が長くて会議にいらないっていうやつは時と場所が違えば女を殴るやつと同じところにいるからね」

「あとコサックこわい」

「ロシア許さないってなるよ。そりゃ一生許さないって」

「ドイツも許さんてなる。助けてくれた人いたけどそれはそれこれはこれ」

「子どもの命助けるなんて当たり前ですから。敵も味方も関係ない、どの軍隊も正義じゃない、極悪。巻き込まれた一般人にしたら」

「ナチスって絶対悪の象徴があるからごまかされてるけど」

「東欧の闇が深すぎて。北欧とはまた違う闇なんだよね」

「最終的には『アンダーグラウンド』のクロみたいに『許そう、だが忘れない』になりたいんだけど、なかなかそうはいかない。許すけど忘れないは難しい」

「鳥飼いとか水車小屋の夫婦とか、遭遇しただけで心が壊れそうになります」

愛してもらえるのかなって思った子どもを単に自分の性欲本位で利用してたのが一番ひどい。求めてたのは性的な触れ合いじゃなく心の繋がりなんだよね。プレゼント作って持って行ったのにヤギと交尾。そりゃゴッドファーザーするって。動物の頭寝室に放り込むって」

「もうあそこで壊れちゃった。成長とか逞しく生き抜くじゃない、何か大事なものを捨てた。老人を殴って物を奪うとか、暴力を弱いものに加える側に回った」

「焼き殺したり目を抉ったりの肉体的暴力シーンより、心のやわらかいところと尊厳を傷つけ取り返しがつかないほど損なう事のほうが残酷。ロシア兵が『目には目を歯には歯を』って子どもに人殺しを正当化して銃を与えるのもダメ」

「あと、『おれも大変だったんだ』ってあんな目にあってきた子どもに言っちゃ絶対ダメなやつ」

「ちょっと見せてきてたもんね、腕。そんなんでいい話で済むと思うなよ」

「けっこう撮影長かったのかな。子どもが太ってきた」

「成長期ですから。飢えの描写がないのはよかった。飢えはつらい」

「歴史から学んでアップデートできないなら、人間もう滅んでもいいなって思いました」

「教育だよ教育、人道教育」

 

一人で見るのはきついので、誰かと見て言語化することをお勧めします。
しばらく夢見が悪くなります。

 

補足

・言語はエスペラント語。地域や国を特定しないため
・作者のコジンスキーはこの作品で盗作や虚偽の疑いをかけられた。実際は不明。自殺している。
・JOC森発言の直後だったのでついそちらに話が流れがちに
※1 あの目
 エーロ・エリク・ニコライ・ヤルネフェルト「賃金奴隷」(1893)フィンランド アテネウム美術館蔵

 

 フリー絵画, エーロ・ヤルネフェルト, 風俗画, 農家, 焼畑農業, 火(炎), 煙(スモーク), 女の子, フィンランド

 

 

 

マイルスデイビスの映画

クールの誕生


ネットフリックスでも見られます。
でも映画館で友達と見てよかった。感想言い合えないと何か滓がたまるとこだった。

なんというか……うん、愛がないよね。
女性を殴るとかどんな理由があっても絶対ダメ。
しかも理由は他の男を褒めたからってチンケな嫉妬。
最初は男前なのにどんどん人相が悪くなっていくし。音楽性はともかく人としてちょっと。人種差別だって、俺はマイルスだぞーって言ってんのに殴られたって恨んでる。いつだって自分自分。

「でも若手の才能を見出して使ってたとこはえらい」

「それも若い奴は自分の言いなりになるからって気がするな…」

「ああ…まあ。そりゃコルトレーンももういいんで、って去るよね」


マイルスの周辺の人々ももう老体なのですが、若い頃綺麗だったとかすごかったとか肩書に関係なく、顔!顔に出ちゃうんだなと。
人類のDNAに書かれた寿命はどんなに平均寿命が延びても30台後半だといいます。
その年を超えると持って生まれた素材だけではやっていけなくなって、顔に人間性がありありと出ると実感しました。

そして殿下がずっと美しいのが奇跡!
ペイズリーパークの競演シーン、一瞬で全部持ってかれた。
魂の高貴さがお姿に現れてる…

信者の感想で最後は終わりましたが、いや本当に。

 
 

 

サーミの血 感想




自分もサーミ人なのにサーミを嫌う者がいます。つまり、アイデンティティを変えた者と、留まった者との対立が、私の一族の中にまだあるのです。両者は互いに話をしません。 
--------アマンダ・シェーネル監督



昨年、映画館で見逃していたものです。
Amazonプライムで見ました。

舞台は1930年代、スウェーデン北部ラップランド。
サーミ人(ラップランド人)の少女が、差別の中で葛藤し、逃れ、戦い、自分であるためにルーツを捨て去ろうとする物語です。
「人種差別と闘う」話ではありますが、主人公は、サーミ人であることで差別され、怒りを覚えるものの、一方で差別されるがままのサーミの血を悔しく呪わしく思っています。
自らのルーツ・民族を誇り、守ろうとするのではなく、捨てて逃れるための闘いです。いわば最初から負け戦であり、ゆえに苦しい物語です。
名前を偽りスウェーデン人のふりをしているときに妹から本名を呼ばれ、
「知らない。汚らしいサーミ人」といい放ち、先生から人種的に頭が悪いので進学できないといわれた後で妹へ同じことばをぶつけます。
「頭の悪いサーミ人、卑しくて泥棒」
黙って涙を流す妹と、酷い言葉を発した姉。どちらも苦しく、憎みあうことも愛し合うこともできずに別れてしまう。
この二人は、ノルウェーで実際にトナカイ放牧をしているサーミ人で本物の姉妹だそうです。


主人公はサーミ人用の寄宿中学校でスウェーデン語の教育を受けています。
教室の中では一番できる子です。優秀なのでスウェーデン人の先生にも好かれ、優しくされています。
ただし、この先生の好意はのちに出てくる都会(ウプサラ)の人々と同じく、「基本的に差別を持ったうえでの優しさ」です。

サーミ人への差別はあからさまに、あるいはひそやかに描かれます。
中学生の少女をもののように扱い、服を脱がせ、調査と称して写真を撮る。
脱いだ服を全裸の胸元に抱え、「腕を頭の後ろで組んで」という男性の命令に全身で拒否を訴える主人公の屈辱、苦しみ、窓からいつも自分たちを馬鹿にする近所の悪ガキがにやついて覗くなか、「みんなのお手本になって」と慕う教師から言われ、見向きもされないでいるシーンは眼を背けたくなるほど残酷です。


差別されているうちに主人公の中では「自分は周りのサーミ人とは違う。差別されるのはいやだ。ここから逃れたい」という気持ちが強くなります。
主人公の視点に寄っているためか、彼女と妹以外のラップ人同級生は愚鈍な風貌に描かれているように見えます。地元の田舎でサーミ人を差別するスウェーデン人の少年たちも同様に醜い。主人公を鞭打つ女性も醜いし、親や親せきも美しくはない。
一方で彼女が恋に落ちる都会のスウェーデン青年、その家族、周囲の人々は非常に美形です。
まるで「いい人はきれい、わるい人は醜い」というステレオタイプのようですが、表面的に美しく優雅で彼女に親切な都会人は陰で「ラップ人よ、何か魂胆がある、追い出して」といい、物珍しい見世物のようにサーミの歌”ヨイク”を余興に歌わせようとします。

サーミ人である自分を捨て、南部スモーランド出身のクリスティーナと名乗る主人公。
その戦いにおいて生きるための手段は暴力的で成り行き任せです。
偶然出会った男の子の家へ押しかけ、セックスし、追い出された後成り行きで学校へ紛れ込み、ドイツ人のふりをしたり、出身地を偽って周囲に溶け込もうとする。
でもその偽りは決して彼女の心を安らがせはしません。
スウェーデン人同士の中にも差別がある。イケてない服を着た少女を笑うグループの中で、彼女は一緒に笑いながらもその顔は引きつっている。
ばれたらどんな誹りを受けるか。
差別をする人は自分が属する集団以外を平気で蔑視し、それは連鎖し、外側だけではなく内側へも及んでいくという心が寒くなる構図が見えます。


スウェーデン人のふりをするため、やむなく人の服を盗み、お金を盗む。
「泥棒、愚かな民族」
そう自分のルーツを罵りながら、何よりも己がそうであるという矛盾。
望むように生きるためにそこから目を背けなくてはいけない。
でも、背けきれず受け継いだ短刀を守り、ヨイクを歌い、何も考えることなく恵まれたありのままの己を肯定している無神経な人々に憎しみを感じる。
差別の残酷さは差別されることだけではなく、自尊心を傷つけられ、自らが所属する世界を否定し、差別する側にまわり、嘘をついて生き続けることの悲劇。
美しい色で描かれた静謐な景色のなかに浮かび上がる、出口のない闇です。


冒頭とラストがリンクして、老女となった主人公がいまだに出身地を偽り、サーミ人を罵倒し、妹の葬式でおそらく何十年ぶりかに帰った変わらぬ故郷に溶け込もうとせず、頑なに異なってる姿が描かれます。
最後に彼女が歩く大地。
歩んでいく先にはなにがあるのか。彼女は自分を受け入れることができるのか。
死ぬまで逃れられない血の宿命にどう抗い、どう受け入れ、何を伝えて生きるのか、
形は違えど同じようなものが我々のなかに、周りにある。
考えさせられた作品でした。

 

 

 

 

 

 

最近見たもの感想1

映画 

「たちあがる女」(アイスランド)公開中

カウリスマキが好きな人はきっと好きな映画です。

試写会で見ました。


「独身女性、49歳、養女を迎える」
日本なら、私、お母さんになれるのかしら、子育てって大変、家族って何だろう、みたいな話になるかもしれませんが、全く違う。
そんなベタベタした生ぬるさは一ミリもない。子供自体も最後にちょっと出てくるだけ。それもすごく精神年齢が大人。無邪気かわいいもちもち、じゃない。意思や知性がある顔つきをして、無言で相手を見てくる子供。

そもそも
Kona fer í stríð(原題=Woman at War=戦場の女)
たちあがるじゃないんだよ。
邦題のつけ方がなんかもう、日本的。
女は立ちあがらないものだ、座ってるんだって最初からそういうスタンスです。
なんだかね。

主人公は未来の地球を守ろうとグローバル企業による環境破壊を止めるため、一人でテロ活動をしています。
一人で荒野に赴き、電線を切り、爆弾を仕掛け、鉄塔を切り倒し、死んだ羊の皮を被って警察から逃げます。
立ちあがるどころじゃない。まさに戦い。
自分の行動を正しいと信じていますが、もし自分が逮捕されたら養子に迎えた子供はどうなるだろうと思う。長年子供が欲しくて養子申請してきて、今やっと申請が通ったのに、仕事仲間もおめでとうと祝福してくれて、本当に嬉しい、でも、子供を迎えていいのだろうかと悩む。
だけど信念は曲げない。環境破壊を止めようとするテロ行為へひそかに協力する人もいるし、わからないなりに助けてくれる人もいる。犯人が彼女だとは思わず、経済的な影響や倫理を理由に、テロ行為を非難する人々もいる。
周りの人との関係性がすごくいいです。姉妹や疑似家族、仕事仲間との距離感。
それぞれ自分の主張がある。安易な同意や共感をしない。批判もする。だけど相手を尊敬している。いざという時無言で力を貸してくれる。そういう関係。


トークショーに登壇したアイスランド大使が女性で、男性だと思い込んでいた自分が恥ずかしかったです。駐日も在外も女性大使はけっこういると改めて知りました。
「女性活躍先進国からのメッセージ」とかなんとかイケてないテーマでくくられてたけど、大使は「女性に限った話ではない、人間としての話です」と若干戸惑っていた。本当に。人としてです。
孫がいる年ですと仰っていましたが、さらりと着こなしたミニのレザーワンピースにブーツがすごくおしゃれで素敵でした。夫は医学博士で、仕事を中断して日本へ一緒に来てくれたのだそうです。

「アイスランドではシングルマザーの大統領やレズビアンの首相もいました。現首相も40代の女性です」

知らんかった。

「16年間女性が大統領だったので、その間に育った子供はこの国では男性が大統領にはなれないのだと思っていたのです」

社会的な刷り込みってそういうものですね。
押しも幸せにする、社会全体の責任として子供たちも幸せにする。両方やらなくちゃいけないってのが大人のつらいところだな…覚悟はいいか。あっすみませんできてないがんばります。

「性別というより、一人の人間として真言(マントラ)を持つことが大事だと思います。人から与えられた言葉は自分のものではない」

「政党の立候補者に男女比の不公平があると、ソーシャルネットワークでとても非難されます」

ソーシャルネットワークのソーシャルって社会的って意味だもんな。当然だけど…
日本のソーシャルメディアは村感がすごく強いけど、社会の様相を反映しているからそうなるのだろうな。

「男女だけでなく、LGBTQすべての人に平等な機会を与える社会を目指しています」
「日本の女性は高い教育を受けていて優秀なのになぜかハッピーに見えませんね…そこまで謙虚でなくてもいいのでは」
「アイスランドは小さな社会なので変化が起こりやすく、日本は大きな社会で表面上はうまくいっているので変化は難しいのでしょうが」

言葉に気を遣っていただいて…

大使がものすごく魅力的で、知的で大人で、人としても社会全体としてステージが違いすぎて唖然でした。

社会人として周りを見て、年をとっても非常に視野が狭く幼い人がいると思うことがあります。自分も含めて。
もちろん凄くまともな人もいる。そうでないと回って行かない。
この映画の主人公に対しても日本では「人に迷惑をかけるな。身勝手だ」とかいう声があがるかもしれない。国土や経済力や人口と関係なく小さい。ほんとに小さい。
大使は、主人公の行動を肯定してはいなかったけど
「彼女は自分自身をとても信じて行動している。そこが面白い映画」
公私を交えてそういう感想を言えるのが、非常に大人で人間としてまさに立っていて、
意思を持って動く他者を尊敬する姿勢が、映画中の人間関係と同じ。
すごくいい。



「今年の流行語は”ソロ活動”だね」
「鉄塔倒してから出直してきな、っていうね」
「去年の流行語は”あの目で見るぞ”でした」
「フィンランドのアテネウム美術館、あの目だらけで圧巻だったわ」
「全人口の1%がメタリカのライブに行ったんだって」
「スオミすげーな」



飲んで帰る。















ブラック・クランズマン アカデミー脚色賞受賞



スパイク・リー監督、おめでとうございます!

心に紫の花が咲きました💜 ここ最近なかった熱い躍動!

初めての受賞とは、驚きでしたが、
サミュエル・L・ジャクソンとがっしり抱き合っている姿に、長い苦節だったんだな…とグッとしました。
これで観客動員が増えるといいな。
ブラック・クランズマン 3月22日公開です。


殿下のエンディング曲を聴きたくて、10月の旅行でヘルシンキの街中で
「やってる!」「殿下のお導き!」「見よう!!!」と見ました。
5月にカンヌで上映していたのに、日本公開がずっと未定で、最近は洋画を見る人が少ないから公開しなかったらどうしようと思って。
英語+スオミとスウェーデン語の字幕、どれもよくわからん! だったけど、
その分スパイク・リーの絵作りのカッコよさがすごくよくわかりました。
友人も同じことを言っていたので、…多分かっこいいはずです…。


差別への怒りとユーモアと愛と友情と、エンターテイメントとメッセージ性が絡み合う、うまく言えないけど、本当に今見るべき、見てよかった映画でした。

スパイク・リーはプリンスのMoney don't matter 2nightや、最近はキラーズのLand Of The Freeも監督しています。
メッセージ性が強いけどその辺りの映像が好みなら楽しめると思います。ジョジョ好きな人は好きだと思うなあ。


映画の予告編は宣伝のためか面白バディ映画みたいになってますが、実際はもっとハードです。
こういう、敷居の低い映画っぽくしないと観客が来ないと思ってる配給会社は見る側をバカにしすぎでは。
実際客が来ないんだよと言われると広告製作側としてはそうだろうね、現場はちがうんだろうね、決定権を持ってる人が悪いんだよね、とは思いますが、そしてクライアント側としては、前例と安パイが早く話が通るんだよ、こけたら誰が責任取ってくれるの? 自主規制と忖度が必要なんだよここでは、となるんですけど、
人間には多様性があるのだから商品にも多様性があり一律の成功論法では届くものも届かない。それを模索しないのは怠惰な仕事といわれても仕方がない。ブーメランブーメラン

映画は娯楽だけど、思想や実験やさまざまなテーマを内包しているもので、それがいいのに。
大画面だからこそ作りこんだ絵や音楽を楽しめるのに。
テレビをそのまま長くしたような映画を映画だと思わないんですが。
個人的には。もう少し志の高いもののはずだと思っています。





 


Spike Lee’s Tribute to Prince at the Oscars

https://nyti.ms/2GGnSXj

スターリンの葬送狂騒曲

スティーブ・ブシェミを見に行こうと誘われて新宿武蔵野館。

…怖かった! 
途中から全然笑えなくなった…こんな予告編のノリではない。
ノージャスティス…
やっぱりロシアと中国はレベルが違います。
忖度&隠蔽どころじゃない。
パワハラ村八分すっ飛ばしてスピード勝負即処刑。

同僚と飲んでいた時のことを思い出しました。


『仕事がだめでも悪い人でなければもういいですよ』
『あなたの思う悪い人ってどんな人』
『時代が違えばナチの協力者になり、隣人を密告し平気で弱者を迫害するような人が悪い人です』
『そんな悪い奴そうそういないよ~』


 …いや結構いるよ…



スターリンが死んで収容所を釈放され、帰ってきた父が息子を見る目と息子のやばいって顔…
夫婦だろうが親子だろうが自己保身のために相手を売る地獄。

そうさせる権力が悪なのか、追随して手先となる人を裁けるのか、ボクシングの選手が夜と霧を引用したニュースもあったし、何かのメッセージっでしょうか?

でも自分の中の悪魔が、映画館で靴を脱いでこちらに向けて足を組んでくる隣の人の足を切り落としたいと思っていた。エンドロール中に携帯メール見てる人とか。己の中の悪も直視させられる。
怖かったけど平成最後の夏に見られてよかったです。