2021年04月

インフォメーション

あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

    カテゴリー

ポーの一族 萩尾望都先生

 

000000.jpg

 

例のDMM70%オフクーポンで色々買いました。その中に「ポーの一族」があります。
じつは、以前読んだときはあまりに抒情的でぴんと来ていなかったのです。
「銀の三角」や「半神」のほうが好きでした。
この機会にもう一度最新刊まで読んでみようと思ったのです。

 



これはなんという、本当に名作…!
素晴らしすぎて3度ほど読み返してぼーぜんとしてしまった…

 

 

にわかに関連書やインタビュー、評論をよみあさり
萩尾先生が漫画家になるきっかけとなった手塚治虫の「新選組」を求め
ファンサイトをめぐる日々です。
ちょっとまだそれらを読み切ってないので、話題の大泉の話までは当分いきつけそうにありません。

 

作品のすばらしさについては多くの方が書いておられますし、そのほかまだまだ自分が言葉にできるようなものではないです。


何をいうのも大変畏れ多く僭越ではあるのですが、
何というか、初めて萩尾先生の家庭の事情や人となりを垣間見て、そういう方だからこういう作品なのかな…と思いました。

 

 

 

続きを読む

[...]

パンドラの鐘(東京芸術劇場)

IMG_20210423_083932.jpg

 

野田秀樹さん脚本の舞台を見に行きました。

演出は野田さんではないのですが、去年のルーマニアの演出家(シルヴィウ・プルカレーテ氏)による「真夏の夜の夢」が野田演出とは違うところが素晴らしく良かったので、期待して。

 

 

 

うううううーーーーーーーーんん

 

続きを読む

[...]

府中市美術館に行こう!!

 IMG20210414104728.jpg

府中市美術館の与謝蕪村展へ

雨の水曜日、人がいなくて良き。
待ち合わせた友達と「人がいなければあの世もこの世になる」「全くその通り」バルス的な言葉を交わしつつ公園の鳥や芝を堪能。

府中市美術館は、展示ごとにスタンプしおりや子ども向けのおまけ企画をつくってくれ、スタッフの方はやさしく、ミュージアムショップの品ぞろえ(今は亡き旧INAX出版のブックレットやフィンランドの古い切手がある)も素敵ですが、何と言っても

貶しながらいいところを語るキャプション


これがもうすごい。
キャプションが面白すぎて絵より見ちゃう。
批評を炎上させない文章テクニックとしてぜひ参考にしたいものです。


へた、ぎこちない、雑、不安になる、人まね、現代ならパクリの誹りを免れない、等々解説しつつ、無邪気、こころざし、個性、おかしみなど何か良いところを見つけて褒める。
よく読むと決して褒めてないんだけど、クスッと笑えて何となく優しいいい感じで終わらせる。
なんたる技巧。

日本絵画の中にある「ヘタウマ、へそまがり、ぎこちなさ、かわいさ」に着目し、新しい視点を提示しながらも、


円山応挙への揺るぎない推し


上手い絵、美的な見事さの頂点は応挙先生であり、個性やおかしみ、かわいさなどは本道の見事さを鑑賞する目があるからこそ。

このブレない視点が常に貫かれているため、どの展覧会でもどこかで必ず円山応挙に言及します。

「また応挙先生!」
「べた褒め」
「こんなに他の絵師をけなすのに、応挙先生には称賛オンリー」
「そりゃあね~与謝蕪村には悪いけど、ちょっとレベルが違うもん」
「しかも応挙先生、線三本で画面構成完璧にできるほど空間感覚が尖ってるのに、かわいい絵も得意」
「子犬とかね…しかもご本人の性格が謙虚」
「そりゃリスペクトしかない」

何だかんだ最後には、応挙先生すごいよね~という感想に落ち着くわけで
まんまと担当学芸員の手の平で踊らされているといえましょう。

 

メンバーカードをつくると一般2500円学生1500円で一年間何度でも観覧無料。
冊子を送ってくれ、喫茶店メニューも50円引きになる(ビールもあるよ!)

去年4/2に作ったカード、一年過ぎていましたがコロナ禍で休館が多かったため、3ヵ月延長してくれました。

何という優しさ!!! 心の底から言える

 

府中市美術館に行こう!!

 

子どもが興味を持つ工夫をとてもしているのに、あまり子どもが来ているところを見たことがありません。
公園では沢山遊んでいるのに。

「なんでかなあ。小中学生の観覧料150円だし、未就学児なんて無料だよ。安い」
「ミネアポリスが殿下の街で殿下があんなにもメッセージを送っているのに黒人射殺事件が起きるのと同じだよ」
「見ようとしなければ、聞こうと、考えようとしなければそこにあるものも存在しないんだね…我々も見えていないものがあるよきっと、気をつけないと」


府中市美術館に行こう!


伝わってください(花京院)

 

 

 IMG20210414115756.jpg

 

 一年延期になった動物の絵展。
2021年秋に!
モローや若冲や上様(徳川家光)の兎図やもちろん応挙先生の子犬もいるはずだよ!

 

 

 

 

 

 

 

ノマドランド


NOMADLAND

2021 アメリカ
監督: クロエ・ジャオ
原作者: ジェシカ・ブルーダー
音楽: ルドヴィコ・エイナウディ


映画館を出て友人と最初に交わした言葉

「運転免許取らなきゃ」
「そうだね、免許必要だね」


自分の能力を信用していないので、人を巻き込んで事故を起こしたらと思っていましたが、大自然で人けがないとこなら大丈夫、自由のために免許が必要な場合もあるな、と。

 


見る人によって受け取るものが違ってくる映画です。
おそらくどの表現作品もそうだろうと思いますが、この映画は見る側が何を自分の中に持っているかで受け取るものがかなり違ってくると思う。語られることより語られない事の方が重要で、人生や社会が複雑に絡み合っているので、経験や価値観によって視点の置き場が変わってくる。


個人的な所感

・主人公ファーンのキャンピングカーで季節労働をしながらの放浪生活は、喪失をきっかけとしているけれど、もともとそういう方向性の人間だったのであり、ノマド仲間も、社会からこぼれ落ち余儀なくされたのではなく、そういう人生を選ぶ人たちなのだと思う。最底辺でも悲惨でも落伍者でもなく、彼らにとってはデメリットもあるが、選びたい生活。
西行法師の「願わくば花の下にて春死なん」です。
少なくともファーンが関わる人々はそのように描かれています。
彼らは放浪生活のスキルを共有し、相互扶助しつつ、「訪問お断り」「寄ってかない?」「散歩してるからいい」と個の領域を優先する。
排他的な連帯や絆をもたない。人ではなく犬と旅する。
デイブは違います。
彼はファッションノマドです。だから息子夫婦の家に帰り裕福な屋根の下でまた定住を始め、車のタイヤがパンクしているとファーンに言われても「ああそう、もうどうでもいい」と流すことができる。
故障した車を手放して新しいのを買った方がいいと言われたファーンが「それはできない。手をかけてつくりかえてきたの。私の家なの」と断るシーンとは対照的です。

※ファーンとデイブ以外の出演者は、役者ではなく本物のノマドの人たちなのだそうです。


・人生はある地点まで、人間関係や地位やお金や不動産やキャリアなどさまざまなものを積み重ねていくものだけれど、どこかでそれを一つずつ手放して、失っていくものだと思う。そしてそれは寂しいことではなく、当然の、自然で、そう思って受け入れていけるかどうかが生き方を大きく左右するものだと思う。
残るのは、思い出だけ。
だから、スワンキーが、病気でもうすぐ死ぬのだといいながら、今までの人生で見た美しいものをいくつも言葉にしたとき、ああ、人生で真に必要なのはそれ以外にある? と思い、命の終わりが近づいたとき、どれだけ美しいものを見てきたかを思い出せる人生を送りたいと思いました。


・原作はノンフィクションで、高齢ワーカーがどのように巨大企業に搾取されているかを取材しているのかもしれない(読んでない)。おそらく語り方は映画と違うのでしょう。
映画ではアマゾンの工場は非人間的な現場と絵面では感じるが、働くノマドたちにとっては「稼げる悪くない場所」です。
ビーツの収穫でも巨大な非人間性システムを垣間見ることができる。
だが、人間はもはや自給自足で生きていく事はできない。
少なくとも文明社会の恩恵を受けている以上、ノマドたちも同じ。綿を育て服を自分でつくり、小麦を栽培してパンをつくり、車をつくり石油を採掘することは一人ではできない。排泄物を処理することもできない。
それらは分業で、巨大なシステムに依存することで相互補助の社会をつくりあげている。そのシステムが人を搾取しないように努力しなければならないけれど、個人の手が届かない怪物でもある。私たちは怪物に寄生して生きている。
一人で放浪するデメリットを知っているノマドたちはだからシステムの一部に依存し、責めることはない。
だが、それと、強欲を抑制せず意識的に人を踏みつける個人は違う。だからはっきり意見する。
ファーンが、姉夫婦の同僚の不動産関係者の「土地は儲かる。サブプライムローンの時もっと儲ければよかった」に対して「それは違う。返済能力のない人に借金をさせるのは、おかしいでしょう」と言うのは、そういうことである。
普通の、富裕な生活をしている姉夫婦にとっては厄介な義妹、だけれども、お姉さんがまともないいお姉さんでほっとしました。


・人を疑っているので、カリスマノマド氏がいつカルトのボスみたいになるのかとはらはらした。
人が誰かを見下したり利用したり故意に傷つけたりしない、やさしい話でした。


風景が美しい。人間がいない世界はほんとうに美しいね(滅びの呪文)

音楽がとても良かったです。ピアノ。
音楽担当のルドヴィコ・エイナウディはイタリア政府音楽大使で、祖父ルイージ・エイナウディはイタリア共和国第2代大統領を務めた経済学者だそうです。
教養と教育の正しい形…
クロエ・ジャオ監督も非常に教養の深い、どんな人へも敬意のある、知識ではなく知性を持つ方なのだろうと感じました。30代でこの映画を撮れる成熟度がすごい。

 

スワンキーのインタビュー

「この映画に出演するために、実生活の状況を少しの間、忘れることにしました。出演してよかったです。ジャオは、なんと、わたしの腕のギプスのことも映画の筋に入れてくれました。素晴らしい人でした」

フランシス・マクドーマンドは「まるでわたしが有名な映画スターで、彼女がわたしの熱烈なファンであるかのようにふるまってくれました。“一緒に映画に出られてとても嬉しい”と言ってくれました。なんだか、長い間離ればなれになっていた旧友に再会したような気持ちになりました。撮影中は今までに感じたことのなかったような愛、存在意義、感謝を感じました」

引用元 シネマカフェ 記事

 

 

 

わかりやすい、言葉にしやすい、多くの共感を得る作品は、受け手のポテンシャルに任せる部分が少ないものです。感情を全部セリフで説明してくれたりもする。
お客様扱いの答えがある説明、わかりやすい感情表現に慣れてしまうと、自分で考え感じねばならないことを不親切と思うようになったり不快に感じたりするようになります。
そういうものが売れがちな世の中でこういう映画がつくられ、きちんと評価されるアメリカは様々な点でガタがきているけど、まだまだ大丈夫だなと思いました(そして日本はあまり大丈夫じゃないと思った)

 

 

「自分の部屋がキャンピングカーみたいなもんだよね」
「うん、一番安心する」
「このちっちゃい自分の領域に守られて漂ってる」
「モリッシーの歌詞を刺青にしてるじゃん。もうそこから信用するね」
「アマゾンで全然働けるよ。掃除とか、まずいコーヒー作って配ったり」
「できるできる」

 

 


2021.4.26
アカデミー監督賞、作品賞、主演女優賞おめでとうございます。
中国人、女性、30代
日本では受け入れられない要素がある(嘆かわしいことに)かもしれないし
監督が漫画好きということが話題になるけど、そういう本筋とは違う自分たちにわかるラベルを貼って物事を引き出しに入れようとするの、やめたほうがいいと思います。
とりあえず見て。話はそれから。











 

六部アニメ化!

 

おめでとうございますウェルカム天国の時!!!

 

これでまた生きる気力が沸いてきた!

ぷっちたんのことをまたずっと考えるよ…好き…素数19くらいまでしか出てこないけど…

 

そしてペイズリーパークに行こう!(決意)

この機に! このタイミング、殿下が来いと仰っている!天国への階段を登れと!!

 

ビヨンセとレディー・ガガの女子刑務所MVがめちゃ六部

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイにおける父権と、対立理論としての谷垣、など

 
ウエジの過去エピソード
 
たった2ページだけど(次巻にも出てきますけど)、父権の抑圧に傷つけられてきたのがとても分かりやすくわかります。
 
父権というのは父親あるいは父親的なものを長とし権力を持たせる構造で、その構造を維持し成り立たせるため、おおっぴらにあるいはひそかに人間を支配する社会のシステムを指します。

金カムの中で、父権制により損なわれてきた男性たちと、彼らの比喩的な意味も含めた父殺しというのは非常に興味深いです。
 
生育史で何に損なわれたのかの中に、父親に傷つけられてきた(母親の場合も遠因に父親がいる)というのが続々出てくるんですが、男性作家が男性キャラクターを用いて、こういう形で父親を告発するのはとても珍しいと思う(フィクションの父殺しは大抵「伝説的父親を倒す、超える」で正負含めた父権の継承なので)
一人だけではなく、何人もいるのが、明確に意図されていると思うし、
鶴見中尉という「成り代わり」がいるのも象徴的ですよね。
 
女性だけでなく男性も様々な形で差別され傷ついてきたんだと、いまだに言えない抑圧があるのが前近代的父権制で、終わったのに死なない昭和です。家族はいいものかもしれない、でもそこで傷ついてきた人もいるんだよを描きながら、その被害者としてでなく加害者(殺人者)になってやりたいようにやる自由な姿を見せたり、時にストレートに父殺しをしたりで、父権の否定をしているのがとてもいいと思います。
 
 戦争やそこでの組織的な殺人も父権的な力と言い換えることが出来るでしょう。
 
メインキャラクターの中で、告発される父権と対照的に「父からの正しい継承」を体現する存在が谷垣です。
鶴見中尉に入り込まれるような心の穴を持ちながら、二瓶という師に会って兵士(組織的上下関係の中の殺人者)からマタギ(命の輪の中の平等な一人)に戻る。未熟な少年チカパシに自分の力で立つことを教える。
「勃起」という言葉は男根的マチズモではなく、「おのれに拠って立つ、奮起と気骨」であろうと思います。自分の勃起は自分のもの、自分で立たせるべきで、父権を中心とした組織の中で女性を玩具にし互いに擦りあって立たせるものではない、ということです。
 
谷垣は、インカラマッと出会い、いかにも美しい絵空事の恋愛ではなくリアルに成り行きからの情が深まるところから子供が出来て、新しい家族を作っていきます。
それは「愛し合う両親から生まれた祝福された子供」というより、もっと自然で、泥臭く、愛とか祝福とかの大袈裟な言葉を越えて寄り添いあう、いきものとして素直な人間の姿に見えます。
谷垣がマッチョで毛深く、いわゆる男性的な姿なのに、男性からセクハラされ、少女たちの中で自分が至らないと泣くところも、父権(いってしまえば女子ども弱いものを一段下の存在とすること)へのアンチテーゼと受け取れます。
いいよね、谷垣。作者にすごく愛されるのも無理はありません。
 
 
 
父権支配への告発と離脱の苦しさを描いている一方で、未来を背負わされ判断するキーパーソンがなぜ少女なのか?
なぜというか、それはどういうことなのだろうか?
 
 
・主人公たち(読者世代)が身を置いてきた戦争、仕事、社会、家族といった「男の」人生において、少女というのは「自分たち男の力によって関係を変えられる=何物でもない=無垢な」存在であること(「女」だと妻や恋人といった過去=父の既成概念に入ってしまうので、それでは自由になれない)
 
・旧世代の価値観(戦争という過ち)で人を殺し傷ついてきた主人公にとって、今まで触れてこなかった人生の側面=子供で女性であるゆえに、相棒として新しい未来を切り開ける希望の存在であること
 
・少年だった場合、あまりにも自らに近すぎリアルなので理想化した存在として未来を託せないし、相棒にもなれない。
なぜなら父権社会からまだ脱却できていないので、少年を「自らに教えを与える」「相棒」「尊い存在」として許容できないから
 
そういう感じもあるのかなと。
もちろん、ビジュアル的な良さや動かしやすさ、新しさの表現などいろいろな理由があると思います。 
少年少女が世界を変える! 的なフィクションを望む欲望は、現実にはグレタ・トゥーンベリの活動を支持する気持ちに繋がるとはあまり思えないんですよね。
その幻想や、妄想の仮託とは何なのだろうと思うんです。
女性側からの男性への妄想と欲望というか性欲リビドーも興味深いですけど、ちょっと痛くて…自分が…目が痛くて。あと女性の妄想と欲望は現実社会にさしたる力を及ぼさないのでね、今のところ、経済利用される以上の影響は、あまり。
 
 
作中でリパさんが「杉元は純粋だった頃の自分を私に重ねている」といいますが、
過去の自分を重ねるのなら少女ではなく少年である方が自然です。
なのに、少女に重ねている。
そこには何らかの欺瞞があるはずです。
少年はチカパシのように普通のバカでスケベな存在だと描きつつ
でも本来の主人公はこの少女のように清らかだった
人殺しなどしたくなかった。でも「男であることに疑問も嫌悪もない」
何かしら矛盾した感覚がある気がします。
尾形は勇作さんとアシリパを重ねていますが、杉元が勇作さんに「純粋だったころの自分を重ねる」のはありえないんですよね。

しかし古今東西、人間が心の穴を埋める幻想を求めるのは生存本能で、だからこそ物語を求める。その求められる物語が何か、というのに人間の普遍と時代の欲望という二つの形がある。と思います。まる。