楳図かずお先生!グワシ!

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まことちゃんは読んでいないんですけど

 

もう12月も23日! 早いですね~~~

ドイツ大使館のtweetで

を見て、日本のお正月か~と思いました。そりゃあ憂鬱にもなりますよね。
去年は焚火を焚いていた眉毛弟も、

「息子が来た(here comes son)」とつぶやいており、ジーンが孫を連れてきたのかとウォッチャーが色めき立っています。誰もレノンと思わないのがまた。

 

さて、この1カ月ほど、楳図かずお先生の漫画を読んでいました。
たまたま「14歳、傑作といわれてるけど読んだことないな~」と思い、そこから『わたしは真悟』『洗礼』『おろち』『漂流教室』を読んでいたところ、2022年1月に森アーツで『楳図かずお大美術展』が開催されると知り、シンクロニシティに震えたものです。

 

漂流教室は読んだことがあったのですが、関谷怖いしか残らなくて…

怖いですけどね、関谷。でも大事なのはそこじゃなかった。

本当に「読む、見る」には適した年齢があります。過去の名作、傑作といわれる作品は子供の時に見てもわからないし面白くない。経験を重ねてからこそ読むべきです。

 

で、楳図かずお先生のすごさ!

もうすごいの!

こんなのはじめて!

ってくらいすごい。そして清らかでまじめ。絵がものすごく上手い。

漫画太郎先生や徳弘正也先生や楳図かずお先生の作品を

「絵が汚くて下品でなんか生理的にむり、気持ち悪い」

と思っていたのに、読み返したら「清らか、まじめ、フェアでピュア、絵が上手い」になったとき、私は大人になったのだな…と思いました。

子どもって肉の味とかわからないでしょう。本当に美味しいものとか。
癖が強いな、って感じる。実際に周りの子どもがそうだから「子供だからね」と思う。
いつかわかってください。そして感動してください。

死ぬまでずっと、分からなかった事を知り人類の遺してきた遺産に触れていける。楽しみです。

 

14歳は楳図作品すべてのエッセンスがつまっているぶん、「あの作品にもあった」モチーフが多く存在します。

・のばらと「洗礼」さくら、老人の脳を移植された恐怖の幼女
・死ぬと本性が現れる「神の左手悪魔の右手」
・人類は世代交代しても成長しない「漂流教室」
・虫や動物や無機物が人間と同列にある「わたしは真悟」
・親の強烈な愛「漂流教室」

まだまだあると思いますが

宇宙人襲来や、宇宙は死にかけたアオムシだった…というミクロマクロの転換は「三体」を思い起こさせますし(むろん昔からあるSFモチーフですが、そこに至る筋書きを含めたディストピアが)、人が成長するとは何かを考えさせられます。

そして

 

老人の脳を移植された幼女が計画的に性行為を行ったらそれは性加害・性被害の犯罪になるのか?

 

ってこと。

 

さくらやのばらは脳が老女や老爺なんです。邪悪な。
それが裸になり、意図して成人男性の風呂に入って性器を弄ったり、幼女に股を舐めさせたりしているわけです。
でも、見ている側は

「これは見た目は美しい幼女だけど中身が邪悪で醜い狂った老人だから気持ちが悪い」

と思って見ているのです。だから物語としては性加害なのですが、絵面としては児童性被害なのです。かなり強烈に女児の裸体が性的に描かれています。
でも少なくとも私は児童ポルノとは感じませんでした。
これが、「知能の高い幼女の能動的な行為」だとか「強かな美女の脳を持つ幼女の自発的性欲」だと「都合のいい妄想うたってんじゃねーよ」な不快感を覚えるのだろうけど、脳が老人殺人者設定なのでペド被害には見えないのです。

しかしこれが

「老人の脳が移植されていると思っている幼女」

だと話は変わってきます。
これは「病気」として扱われます。
つまり、本人の自認の問題ではなく、周囲の認識の問題であるわけです。つまり、見る側である私の問題、社会の問題です。作品内でもそう言っていて、重要なのはここ。
フィクションとしては「描かれ方の問題」です。

 

そうするとですね、

「肉体性と精神性の自認が異なる場合、それは病気なのか本質なのか」

って話になるじゃないですか。

「自分が幼女だと思って周囲の人々との間に齟齬を感じる高齢男性」はおそらく認知症や統合失調症の男性という扱いで、トランス女性ではないですよね。

私はトランスフォビアでもないしトランスジェンダーの存在について「いて当然」と思っているのですが、こういう事を考えだすと性別に関してだけこころとからだの自認が違うというカテゴライズを容認するのはちょっと理論的な非多様性を免れないのでは?と思っている事に気づきます。

心と体の自認が違うのは「国籍に紐づく肉体的人種はフランス人だが心は日本人」とか「肉体は50代だがこころは中2」と何が違うんでしょうか。
「からだは60代の女性だがこころは20代の男性」だってありだし、「20代の男性として扱って欲しい」という権利を主張してもおかしくないのでは?

 

だからトランスはおかしい、という話ではなく逆にすべてカテゴライズせず「存在」として扱えばいいのでは。そう思います。机上の空論的に。感覚的に。
一人の人間の中に年齢性別様々な人間がいて、その傾向がある方向に強化されたり打ち消し合ってゼロになったりは当たりまえなので、何も新しいカテゴリーや名前を付けて区別する必要はないのでは。
「肉体は80代の男性だが性自認は15歳の少女」という人は、そう思っていればいいし、そうふるまえばいいし、でも女風呂とか女子化粧室とか身体測定とか肉体性を含む公の場で肉体性が少女の人たちと同じには扱えないよ、社会的な権利は簡単には与えられないよってことでいいんじゃないですか。

性別その他の社会でのあり方を決めているのは本来性ではなく社会性で、(年齢立場にふさわしい行動、女性らしい男性らしい外観など)、そこに関係なく自分の好きな外観ふるまいをすることを社会が容認できればカテゴライズはなくなります。だが社会は約束事で成り立っているのでカテゴライズはなくならず、誰もが本来性とは関係ない枠をある程度我慢せねばならない。その枠と我慢の不均等をできるだけなくしていくのが、近代であり民主主義、殺しあわない為の共同生活のすり合わせ。理屈ではそうなるかと思います。

 

と思ったりしますが、実際は思考の遊びなのでどうでもいいというか、人類はそんな、理屈の理想に決して到達しないし、ましてや市民でなく村民の間では性別差別や同性婚や夫婦別姓すらまだまだまだまだまだなのに私は社会でトランスの事を考えるレベルにない、何を言う気もないですし言えるとも思いません。
ただし遊びであっても思考は次のステップに繋がりますので、必要だと感じています。

いい作品は今まで思い至らなかった様々なことを考えさせてくれます。

動植物、昆虫、無機物、人間、あらゆるものを同列に「存在」として扱う楳図先生の目線は究極に平等で、だからこそ激しく残酷でグロテスクで美しく尊い。

平等や自由は優しい世界ではない。こういうこと。

楳図先生ありがとうございます。

内覧会抽選券、当たるといいな。