2023/09/05
「男は女を通してしか自らの内面を語れない」
北海道近代美術館の田中武作品が炎上した件、
前から言ってますが
「男は女を通してしか内面を表現できない」問題です。
多くの男性は自己の内面というものがない、あるいは、内面を持つ必要がない。
そのため様々な問題がおこります。
内面を持つ必要がない人間というのは恐ろしいものですが、
「肩書」「年齢」「性別」「国籍」といった属性のみで構成され
社会生活に支障のない人間はたくさんいるのですね。
むろん、そういう女性もいます。
しかし田中武作品が「年齢も職業も違うさまざまな女性」を、女性であるだけで「表裏のある、”男にとって”醜悪で、見下してかまわない存在」と表現したとき、「どのような女性」も「女性という肉体をもつ」だけでその視線の対象にされるのです。
逆は非常に成立しにくく、まれです。
対称としては「おじさん」があげられるかと思いますが、中高年男性には外見・内面・行動で女性に対するミソジニー・有害さが少なくなく、「おじさん」が嫌がられる存在として表現される理由はあるのです。実際、多くの「おじさん」自身が自分以外の「おじさん」を嫌いでしょう。
しかし、「剃毛する老女」や「六法全書を持つ若い女」や「顔パックする女」が男性にとってどう有害でしょうか。
そこに見える欲望は「女をバカにしたい」でしかありません。
描かれているのは女性の姿ではなく、「女をバカにしたい」という男の内面です。
しかし、見えているのは「女性」の姿だけです。
これは、男性が自らの欲望や内面を認知して表現できず、女性に投影して表現しているからです。
主体的に欲望を持つのは男なのに「女に誘惑された」というのと同じです。
自分自身の欲望を把握できないのです。
そしてその自覚がなく、みずからの内面の照射で浮かび上がる「女というのはこういうもの」であり、「自分にはそれを観察し分析し嘲笑する権利と立場が当たり前にある」と考えている。
それが「男は女を通してしか自分の内面を表現できない」ということです。
これらの女性に投影された醜さ、嘲笑は、男性自身が最も恐れていること、つきつけられたくないことです。つまり、「見下されたくない」「見下す側でいたい」です。
なお、女性の中にもミソジニーは存在します。
男性の投影と同じ目線で女性を嘲笑し見下す人はいます。たとえば「化粧してブスを隠す女」を笑ったり「性的に消費される女」を男性と同じように消費することで「自分は違うけど女とはそういうもの」と位置付ける女性です。
ここでいう男性というのは、「社会と一体化した男を生み出す男社会に適応した人々」という意味です。
あなたは男性ですが、どういう男性ですか、という問いです。
「すべての男性」じゃないですよ、というのは当然です。
むろん、女性も同じです。あなたは「社会と一体化した男を生み出す男社会に適応した人々が規定する女におさまって、平気な人ですか」という意味です。
男性から「愚かな女一般」とみなされることに距離を取りたい女性は、
「女性を軽んじ、ステレオタイプな性的対象とみなし、若年女性を手下、労働力とみなし、消費し、男性に差し出す」など、男性にすり寄ったメンタルをもつことで疑似男性化します。
彼らは女性ですが、ミソジニーを内面化しているため、女性にとって有害です。
ひいては自分自身に有害なのですが、一時的に自分を守るためのふるまいが染みついてしまい、老人になっても脱せない人はいます。