ソルベの夜

 

 

クラブのシートは所々空いていた。
チームの誰かを誘って来ればよかったか。
順繰りに奴らの顔を思い浮かべ、どいつもダメだなと大きく息を吐いてコロナエキストラの瓶を傾けた。
今夜のステージはアメリカ人のシンガー。
ガキの頃よく聴いたものだ。
イタリアのこの街でライブをするなんてめったにない機会で、オレは浮かれてジェラートを誘った。

「あ、悪い、その日仕事だ。朝から移動になる」
「そうか、じゃあしょーがねえな」

一人でクラブに赴くのが面倒で、まあいいやと見送るつもりだったが、当日、暑さにむしゃくしゃしたのもあって考えを変え、電話をすればまだチケットがあるという。
それで今ここに居るわけだ。

初めてのハコは思ったよりもずっと狭かった。一階フロアはテーブル席で客は酒を飲み食事をしながらステージを見る。二階三階はカウンター席で小さなスペースは壁に仕込まれた間接照明で仄かに照らされている。オレは最上階の端のカウンターに向かい、ドリンクをちびちび飲んでいた。

開演時間ぴったり。薄暗いステージに彼女が現れた。アコギの弾き語り。バンドはベースのみ。オレがガキの頃よりずいぶん年を取ったはずだが、彼女の姿も歌声も当時と全く変わっちゃいなかった。オレはえらく変わっちまったけど。

隣席に長い髪の若い女がやってきた。
瞬間的に危険かどうかをサーチして無害と断じステージへ集中を戻す。
がさがさ。なんだ? ビニールの音。うるせえ。
イラついて横を見れば、女がフィルムに入ったシートから錠剤を取り出そうとしている。ヤクかよ。酔って手元がおぼつかないのか雑な性格なのか、包装を破る音がうるさい。
このアマ。いつものオレならドタマにきてコロナの瓶を女の頭に叩きつけ顔中にガラスの破片を埋め込んで静かにさせたことだろう。
だが歌の世界に再び引き込まれ女は消えた。孤独な女王と兵士の歌。

またノイズが遮った。今度はなんだ。信じられねえ。女はコンパクトを出して鏡に向かい化粧を直している。どういうことだ? 歌を聴け歌を。見ろ、ステージを。
更にスマホを手に持ち何かをチェックしている。くだらねえSNSか? 液晶が眩しい
死ね。殺す。終わったら殺す。

その時その曲がはじまった。
子どもの歌。
僕の名前はルカ。二階に住んでいるんだ。うん、あなたの上の階。ぼくを見たことがあると思う。もしも、夜中にもめ事や喧嘩の声が聴こえても、何があったのって聞かないでね。僕がいけないんだ、だからだよ。何でって聞かないでね。言っても無駄だから。うん、大丈夫だと思うよ。だから大丈夫?って聞かないでね。あなたには関係のないことだから。一人になりたいな。そうしたらものが壊されたり投げつけられたりすることもないだろうから。今はただ、どうしてるって聞かないで。大丈夫かって。泣くまで殴られて、どうしてなんて尋ねないこと。それ以上、言い争っても無駄なんだ。だから言い争わないで。

 

瞼の端から涙が溢れた。鼻水も。嗚咽が漏れた。ガキの頃、兄貴が、血の繋がったやつじゃない、同じアパートの兄貴がCDをくれた。今は見ないプレーヤーで聴いた。何度も。美しくて明るいメロディ。澄んだ歌声。想い出が殴りつけるように蘇り、信じられない量の涙がカウンターに水たまりを作った。

ずずっと鼻を鳴らす。許そう。なにもかも、許せる。痛くなるほど拍手をした。隣の女も手を叩いていた。
いい夜だった。

フロアに明かりがついて、顔をびしょびしょに濡らしたオレが席を立つと、隣の女はオレのほうを向いた。バッグからハンカチーフを差し出しながら笑った。

「あんた、大泣きしちゃってさ、うるさかったわよ。よほどあの人好きなのね。ほら、これ、使いなさいよ。ひどい顔」

 

 

8/10 Suzanne Vega @Billboard LIVE TOKYO