へうげもの

※ネタバレ

 

『へうげもの』山田芳裕 2005年~2017年 講談社モーニング連載

 

望郷太郎が面白かったので読んでみたのですが、面白かった!

信長、秀吉に仕え、大阪夏の陣の際、徳川家康に豊臣との内通を疑われて切腹させられた文化人・武人
古田織部が主人公です。

戦国時代を、文化の側面からとらえた漫画
小野於通を主人公にした大和和紀『イシュタルの娘』と同じ時代、テーマですが
interpretationと画風の違いがすごいです。

近衛信尹(このえのぶただ)のビジュアルの差とかもうすごい。
イシュタルは少女漫画なので恋愛にも重きが置かれています。
へうげものは性欲と夫婦愛かな。

どちらも

政権交代における文化の立ち位置と重要性

を読み取れる漫画です。

 

社会の支配権をめぐる争いは常に、武力、政治、経済がからみあっており、
戦国時代後期~安土桃山~江戸初期はそれが非常に短い時間に凝縮されているのですが、
文化のありかたもそこに密接に関わっている。
すなわち文化闘争でもある、という側面がクローズアップされています。

へうげものでは、
本能寺の変の裏に、秀吉を操った千利休がいました。
千利休の求める「わび」、秀吉の求める「派手」、織田の「粋」、家康の「野暮」が覇権を争い、殺し合う。
そこに古田織部の「へうげ(ひょうげ)」が絡んでいくわけです。
へうげ、は甲乙丙丁の「乙」をめざし、丁を野暮とする。「へうげ」はいいが「かぶき」は悪しとする。
ハイカルチャーではなくサブカルチャーであり、カウンターカルチャーはよしとしない、ということです。

「イシュタルの娘」では、千利休に対して秀吉は

「生まれ育ちが金持ちの利休は地味にわびさびの美を感じるかもしれないが、俺は貧しい育ちだ、それは見慣れた嫌なものなんだ、明るく派手がいいんだ」

といいます。
へうげものでは、各々の「自分の美」をいかに世の中に広め残すかに焦点が置かれていて、利休はその為に「権力者を選ぶ目利き」の位置に己を置こうとします。

両作品に共通なのは、豊臣側の視点であること。
どの登場人物にもやさしい目線があることですね。

石田三成と明智光秀に対する上げ方、特にへうげものの明智光秀は裏主人公と言ってもいいと思います。
これを読むと、徳川幕府に対して上方がいい気持ちを持てないのは当然かなあと思ってしまいます。

大奥では上下関係と世襲により「戦争のない泰平の世」を目指す徳川が出てきますが、
へうげものでは「それは皆の泰平ではなく徳川の泰平」「息苦しい」といわれ
徳川家康が

「責任をもつと自我をもつ、自我をもつと抗い乱世になる、だから民ではなくそれを管轄する人間に責を負わせ、民は子供のまま愚かでいさせる」

という。
なかなかシビアで、大阪夏の陣における各武家の政治的立ち回りの悩みなどは、読んでいてつらいです。誰も戦いたくないのに、家康が「武人をできるだけ殺しておきたい」「豊臣を廃す」を譲らないために…プーチンか…

 家康にも家康のつらみがあるのですが、
もうさ~秀吉もだけどさ~~~

おまえらちゃんと友達つくれよ!

君らが本当に求めているのはそれだよ!!!

ほんと、権力闘争とマウントじゃなく、縦じゃなく、横の関係つくれよ!

家康、明智殿に思い入れすぎ! 明智殿ステキすぎ!

 

 

しかし、文化闘争としての政権交代を考えると

平安時代後期、平氏と武士の成立以降の戦いは、

田舎者VS都会人

でもあって

 

常に田舎が勝つ

 

なんですね。


平氏←源氏←(後醍醐天皇)←足利氏←織田信長←豊臣秀吉←徳川氏←薩長


鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇はすぐ覆されてしまうし、
明治政府は天皇をかついだ薩長のクーデターなわけです。

日本において、文化エスタブリッシュメントは田舎のダサカルチャーに征服されるが、それがエスタブリッシュメントになると、また倒されるんですね。
千年以上そうだったわけですが、西洋文化が入ってくると文化としての都会、があいまいになる。東京は文化の中心のようだけど、それは西洋のうわべを取り入れただけで、本当の文化ではない。
薩長的田舎は洗練されることなく、そこにあり続けている。
一方、洗練の都、京都は権力闘争からは距離を置き、新しい文化を生むより過去の遺産を守る。
田舎は勝ち続けるというわけです。

インテリ、左翼(ってなんかしらんけど)界隈が勝てないのは歴史的根拠がある当然ともいえます。

しかし書いてて思ったんですが、「いなかもの」、「とかいじん」、ってひどいですね。
ものってなんだ、ひとじゃないんだ…そりゃあムカつくよね。