2023年11月

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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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古典的少女漫画のミソジニーについて

 

「女は何を通して内面を語るのか」

でも触れたのですが、古典名作少女漫画において

「市井の少女のエンパワーメント、少女を自由にすることをあきらめ」

 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しない、と思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
というBL少年愛問題について考えてみます。
 
「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう
 
あるいは、さらに受け男性に自己同一化し、
 
「自分はその辺の女とは違う特別な存在」
 
という勘違いを内包させてしまうことがあるからです。
 
 
私は、山岸凉子先生を大変に尊敬しており、アラベスク、日出処の天子など大好きなのですが、
思い返せば日出処の天子はまさに、ミソジニーを内包した少女の物語だなと思います。
 
厩戸王子は、少年だけど女より美しく、女より女装が似合い、男性にも女性にも性的な好意を持たれ、天才で超能力者ゆえに周囲、特に母親に理解されない孤独を抱えています。
読者は「かくありたい(転生ラノベのように)無双スペックだが、愛されたい愛されない苦しみを抱えた特別で美しく悲劇的な主人公である私」あるいは「そんな受けを幸せにしたいと箱庭の外から見守りともに苦しむモブの私」です。
 
一方、女性キャラクターは揃いも揃って「ぶよぶよした女の肉体をもち、汚らわしく愚かでうっとうしい」「いやな女」として描かれます。
これは、成熟していく体、男性に「性的客体」としてニンゲンではなくモノ扱いの視線で見られる「女になる自身を持て余し嫌悪する少女」の心情に重なります。
それを「自分自身の問題」ではなく「美しい少年から見た女」として「嫌悪の対象のまま」にしてしまう。無意識に「少女のミソジニー」を育成する内容です。

厩戸王子は彼を取り巻く女性を憎んだり軽蔑したりしますが、その根本には「心底求めているのに自分を愛してくれず弟ばかりを可愛がる母への複雑な愛憎」があります。


 
厩戸王子は、おのれの孤独を癒す理解者として蘇我毛人を求めるのですが、
 
「あなたの愛は他者にどこまでも自分と同一のものを求める=思い通りにしたい愛であり、違いや理解の不能を認めない。それは本当の愛ではない」
 
と否定され、より深い孤独に陥ります。
それでも絶望の中で、歪みながらもある種前向きに、するべきことをして、虚しさを放り出さずに生き続ける
そこが素晴らしい、名作である所以だと今も心から思います。
 
しかしながら、名作であるがために「女性へのミソジニー」をある年代の女性、しかもある程度教育や文学素養のある女性へ植え付け内包させてしまった、という側面はあるのではないでしょうか。
萩尾望都先生にも、ミソジニーの内包を感じます。
昔の少女漫画では「恋愛至上主義のラブコメ」か「ミソジニーを内包した女性性の否定含む少年愛や”特別な自分”への自己愛」がメインであったように思います。(今もそうかも)
 
「普通の少女のエンパワーメント」…と思うと「不良少女や極道女」ものなんですよね。
「スケバン刑事」「やじきた学園道中記」「花のあすか組」など。
 
世代的に、清水玲子先生の漫画にも、すごいミソジニーを感じていました。白泉社っこだったので。美しくて物語も素晴らしくてだけど、なんでこんなに女性に冷たいんだろう…って思った。あと醜いニンゲンにとても冷たい。
性別のないエレナという美麗最強ロボットがたぶん、女の肉体のない「男に愛される存在」の理想なんですよね。


で、そういう漫画を読んで育った現在の中高年世代で、
なんとなく女性を侮っている女性がいるなというのは感じています。
別に読んでいなくても、そういう価値観がベースにある時代空気で育成されたんだな、って。自分もそうだったので。

その流れを、よしながふみ、田村由美、両先生の作品には私は感じています。
アップデートされているようだけど、わりと根本が「特別な私(BL文脈)」で
だからこそ男性にも受け入れられやすいのかなと。

幼少期、青年期に精神のベースになったものを否定するのは難しいですしその必要もないですが、おかしいところはあったな、というアップデートは必要だよね、
と思っています。



 
 
 思考更新:24/7/2
 
かつて、ゲイは「生殖」から排除されたゆえに性的なアピールを行った、生殖から排除されているのではなく「反生殖」すなわち「反権力」「反家父長制」だった
男性同性愛を愛でる女性は、女であるが故の肉体的「生殖」のおしつけや男という権力への反抗として自らの女性性を消し、男同士の恋愛を礼賛し、それで救われた。
古いBL(やおい、JUNE)は「反生殖としての男性同性愛による女消しという家父長制への反抗」だったが、現代BLは「娯楽としてのカップリングという箱庭を上から眺めて存在を消している女という消費者」になった
ポルノ見たり買春したりする男の透明化と同質の、資本主義・格差の消費者
 
 
 
 
 
 
 
 

進撃の巨人 アニメファイナル 最終感想

 

進撃の巨人については、いくつか感想を記録してきました。

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/251

 

それ以外にも、ヒトラーのための虐殺会議感想でもふれました。

エンドロールまで無音。音楽無しによる
「これはエモーショナルで消費していい話ではない」
という主張の重要性。

進撃の巨人アニメファイナル、いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

 

読みかえして、自分でもいいこと言ってるなと思いました。ほんとそれな。

ファイナル後編の冒頭からの戦い。エモーショナルというか、冗長というか、自己陶酔が過ぎない?ベタベタじゃない?と思いました。

 

あと、アルミンとの記憶対話の追加。あれ正直いらんかった。長すぎた。

「地獄で会おう」ってなんだよ、BLか。

『進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか』で「男は女を通してしか内面を語れないし、男がはじめた物語を終わらせることができない」といいましたが、

終わらせることができない男の物語を共有し抱き合って泣くホモソ劇場

 

あれ? バックラッシュしちゃった? ちょっとドラマが安いよ...

 

 

過去の感想で「アドルフに告ぐ」にもふれたのですが、
ナチスとユダヤ二人のアドルフがその後、中東戦争に舞台を変えて戦う様子が、現在のイスラエルとパレスチナの戦争で、SNSでも言及されているんですね。

イスラエルとパレスチナの「壁」や難民、ユダヤと迫害などのモチーフは進撃でも指摘されるのですが、結局「キャラクターがテーマより大きくなった作品は消費財となり、受け手の意識を超えることができない」になってしまっているのではないか。
残念、という気持ちがあります。

ゴールデンカムイもそうだけど、エンタメで消費していい題材じゃないものを中途半端に扱うと、現実のほうが貶め軽んじられてしまう恐れがある。

フィクションでは何をどう描いてもいい、というのは、ある程度の知性がある人々が受け手の場合であって、ものを知らない人が耽溺し影響を受けるフィクションは当然危険であり、モラルが必要です。
社会がフィクションにモラルを求めるのは、大衆の情報入手経路が主に高尚さのないエンタメであり、だからこそそこにモラルがないと社会の秩序や公共性が失われる。

聖徳太子だって「お前たちは徳が低くてすぐ派閥をつくったりまともに議論するレベルに達していないから、和を以て貴しとしなさい」といったのです。
我々は、自分で思うよりかなり程度が低い。慢心してはいけない。バカだからバカなものにすぐ影響を受けます。


発信者(この場合は作者というより、編集者や周辺の公式関係者)はもっとそれを恐れたほうがいいのに、目先の金めあてで作品を落としてしまっているんではないでしょうか。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀・エレン・イェーガー、ひどかったもんな。

開始10分でそっとじしましたよ...ああいうのはちゃんとした大人がちゃんとした場所でやることではないよ