古典的少女漫画のミソジニーについて

 

「女は何を通して内面を語るのか」

でも触れたのですが、古典名作少女漫画において

「市井の少女のエンパワーメント、少女を自由にすることをあきらめ」

 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しない、と思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
というBL少年愛問題について考えてみます。
 
「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう
 
あるいは、さらに受け男性に自己同一化し、
 
「自分はその辺の女とは違う特別な存在」
 
という勘違いを内包させてしまうことがあるからです。
 
 
私は、山岸凉子先生を大変に尊敬しており、アラベスク、日出処の天子など大好きなのですが、
思い返せば日出処の天子はまさに、ミソジニーを内包した少女の物語だなと思います。
 
厩戸王子は、少年だけど女より美しく、女より女装が似合い、男性にも女性にも性的な好意を持たれ、天才で超能力者ゆえに周囲、特に母親に理解されない孤独を抱えています。
読者は「かくありたい(転生ラノベのように)無双スペックだが、愛されたい愛されない苦しみを抱えた特別で美しく悲劇的な主人公である私」あるいは「そんな受けを幸せにしたいと箱庭の外から見守りともに苦しむモブの私」です。
 
一方、女性キャラクターは揃いも揃って「ぶよぶよした女の肉体をもち、汚らわしく愚かでうっとうしい」「いやな女」として描かれます。
これは、成熟していく体、男性に「性的客体」としてニンゲンではなくモノ扱いの視線で見られる「女になる自身を持て余し嫌悪する少女」の心情に重なります。
それを「自分自身の問題」ではなく「美しい少年から見た女」として「嫌悪の対象のまま」にしてしまう。無意識に「少女のミソジニー」を育成する内容です。

厩戸王子は彼を取り巻く女性を憎んだり軽蔑したりしますが、その根本には「心底求めているのに自分を愛してくれず弟ばかりを可愛がる母への複雑な愛憎」があります。


 
厩戸王子は、おのれの孤独を癒す理解者として蘇我毛人を求めるのですが、
 
「あなたの愛は他者にどこまでも自分と同一のものを求める=思い通りにしたい愛であり、違いや理解の不能を認めない。それは本当の愛ではない」
 
と否定され、より深い孤独に陥ります。
それでも絶望の中で、歪みながらもある種前向きに、するべきことをして、虚しさを放り出さずに生き続ける
そこが素晴らしい、名作である所以だと今も心から思います。
 
しかしながら、名作であるがために「女性へのミソジニー」をある年代の女性、しかもある程度教育や文学素養のある女性へ植え付け内包させてしまった、という側面はあるのではないでしょうか。
萩尾望都先生にも、ミソジニーの内包を感じます。
昔の少女漫画では「恋愛至上主義のラブコメ」か「ミソジニーを内包した女性性の否定含む少年愛や”特別な自分”への自己愛」がメインであったように思います。(今もそうかも)
 
「普通の少女のエンパワーメント」…と思うと「不良少女や極道女」ものなんですよね。
「スケバン刑事」「やじきた学園道中記」「花のあすか組」など。
 
世代的に、清水玲子先生の漫画にも、すごいミソジニーを感じていました。白泉社っこだったので。美しくて物語も素晴らしくてだけど、なんでこんなに女性に冷たいんだろう…って思った。あと醜いニンゲンにとても冷たい。
性別のないエレナという美麗最強ロボットがたぶん、女の肉体のない「男に愛される存在」の理想なんですよね。


で、そういう漫画を読んで育った現在の中高年世代で、
なんとなく女性を侮っている女性がいるなというのは感じています。
別に読んでいなくても、そういう価値観がベースにある時代空気で育成されたんだな、って。自分もそうだったので。

その流れを、よしながふみ、田村由美、両先生の作品には私は感じています。
アップデートされているようだけど、わりと根本が「特別な私(BL文脈)」で
だからこそ男性にも受け入れられやすいのかなと。

幼少期、青年期に精神のベースになったものを否定するのは難しいですしその必要もないですが、おかしいところはあったな、というアップデートは必要だよね、
と思っています。



 
 
 思考更新:24/7/2
 
かつて、ゲイは「生殖」から排除されたゆえに性的なアピールを行った、生殖から排除されているのではなく「反生殖」すなわち「反権力」「反家父長制」だった
男性同性愛を愛でる女性は、女であるが故の肉体的「生殖」のおしつけや男という権力への反抗として自らの女性性を消し、男同士の恋愛を礼賛し、それで救われた。
古いBL(やおい、JUNE)は「反生殖としての男性同性愛による女消しという家父長制への反抗」だったが、現代BLは「娯楽としてのカップリングという箱庭を上から眺めて存在を消している女という消費者」になった
ポルノ見たり買春したりする男の透明化と同質の、資本主義・格差の消費者