進撃の巨人 アニメファイナル 最終感想

 

進撃の巨人については、いくつか感想を記録してきました。

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/251

 

それ以外にも、ヒトラーのための虐殺会議感想でもふれました。

エンドロールまで無音。音楽無しによる
「これはエモーショナルで消費していい話ではない」
という主張の重要性。

進撃の巨人アニメファイナル、いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

 

読みかえして、自分でもいいこと言ってるなと思いました。ほんとそれな。

ファイナル後編の冒頭からの戦い。エモーショナルというか、冗長というか、自己陶酔が過ぎない?ベタベタじゃない?と思いました。

 

あと、アルミンとの記憶対話の追加。あれ正直いらんかった。長すぎた。

「地獄で会おう」ってなんだよ、BLか。

『進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか』で「男は女を通してしか内面を語れないし、男がはじめた物語を終わらせることができない」といいましたが、

終わらせることができない男の物語を共有し抱き合って泣くホモソ劇場

 

あれ? バックラッシュしちゃった? ちょっとドラマが安いよ...

 

 

過去の感想で「アドルフに告ぐ」にもふれたのですが、
ナチスとユダヤ二人のアドルフがその後、中東戦争に舞台を変えて戦う様子が、現在のイスラエルとパレスチナの戦争で、SNSでも言及されているんですね。

イスラエルとパレスチナの「壁」や難民、ユダヤと迫害などのモチーフは進撃でも指摘されるのですが、結局「キャラクターがテーマより大きくなった作品は消費財となり、受け手の意識を超えることができない」になってしまっているのではないか。
残念、という気持ちがあります。

ゴールデンカムイもそうだけど、エンタメで消費していい題材じゃないものを中途半端に扱うと、現実のほうが貶め軽んじられてしまう恐れがある。

フィクションでは何をどう描いてもいい、というのは、ある程度の知性がある人々が受け手の場合であって、ものを知らない人が耽溺し影響を受けるフィクションは当然危険であり、モラルが必要です。
社会がフィクションにモラルを求めるのは、大衆の情報入手経路が主に高尚さのないエンタメであり、だからこそそこにモラルがないと社会の秩序や公共性が失われる。

聖徳太子だって「お前たちは徳が低くてすぐ派閥をつくったりまともに議論するレベルに達していないから、和を以て貴しとしなさい」といったのです。
我々は、自分で思うよりかなり程度が低い。慢心してはいけない。バカだからバカなものにすぐ影響を受けます。


発信者(この場合は作者というより、編集者や周辺の公式関係者)はもっとそれを恐れたほうがいいのに、目先の金めあてで作品を落としてしまっているんではないでしょうか。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀・エレン・イェーガー、ひどかったもんな。

開始10分でそっとじしましたよ...ああいうのはちゃんとした大人がちゃんとした場所でやることではないよ