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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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THE BEEと毟りあいと筒井康隆(1)

 

THE BEE

・原作 筒井康隆「毟りあい」
・英語脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン
・日本語脚本・演出:野田秀樹
・出演:阿部サダヲ、長澤まさみ、河内大和、川平慈英

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2021年11月10日、24日に池袋の東京芸術劇場で観劇。

 

前情報何もなしで一回目に見て、インタビューや原作や英語版の内容を知って二回目を見るつもりです。

 

<ストーリ>
平凡なサラリーマンの井戸(いど)がある日帰宅すると、自宅が警察に囲まれていた。凶悪犯の小古呂(おごろ)が脱獄し、井戸の妻子を人質に立てこもっているというのだ。警察とマスコミに振り回され“被害者”であることに限界を感じた井戸は、小古呂の妻の元を訪ねると突然豹変。小古呂の妻子を人質にとって立てこもり、“加害者”として小古呂に対峙。憎しみを応酬させていく。(WOWOWオンラインより)

 

私はNODA・MAP作品は2016年の逆鱗からなので、数は少ないのですが、THE BEEを一回目に見た時、今まで観たことがある野田作品と違いすぎて、途中まで混乱していました。
何が違うのかというとまず演者四人の密室劇であること、あからさまに暴力的なこと、非常に単純なつくりであることです。

英国で英語版初演なのは知っていたので、「向こうに合わせたのかな。少人数の密室劇っていかにも英国な感じがする(知らんけど)」「THE BEE→クイーンビー→女王陛下の英国なのかな」とか思って観ていました。

加害者と被害者が互いに加害者になって、段々と「家族を守る、家族に会いたい」が「あいつを打ち負かす」が目的の暴力と報復の連鎖になって、そこで犠牲になるのは子供と子供を守ろうとする女性で、最後には加害者被害者双方が自己破壊していく。

西洋の歴史の事なんだろうな、と観ながらぼんやり思ってました。

日本を含め各地に残る植民地支配の影響とか、西洋人が見て見ぬふりをしている歴史を象徴的に暴いてつきつけているのかなと。

 

 

インタビューで、アメリカの同時多発テロに触発されて、と野田さんが仰っていてそれは思わなかったけど、なるほど、そうかと。
世界10か国で上演したそうですが、アメリカ人は自分達のことだと全く思わなくて、イスラエルのひとは日本のサラリーマンの話なのにすぐに自分達の事だと思ったってのが本当米国そういうとこだぞ、と思います。

原作は1975年ですが、
「(何十年前の作品だろうと)クオリティがあれば見る人の想像力で今ある状況に引っ張られていく」
その想像の引っ張り力で作品をつくりあげてしまうのがすごい。

 

で、原作を読みました。
全く印象が違うので驚きました。

私の勝手な印象ですが、原作では「自分」が第一で、最初から妻子ではなく「俺があいつより上であること」が目的になっている。警察やマスコミ、全部が敵で加害者。
被害者ではなく加害者になる。周りの人全てへの憎悪というか怒りというかネガティブな感覚が強い。

作中で書いちゃってるけど、新左翼の内ゲバなんですよね。多分。

新左翼の内ゲバってわかるようでよくわからないから、ちょっと調べました。
「日本共産党や社会党などの既成左翼を否定して生まれた極左=新左翼の内部での路線対立や覇権争いによる暴力」
のようです。
文章も、内へ内へ自分の内部感覚って日本的な構造だと感じました。


それをイスラエル人に「俺たちの事だ」と感じさせる普遍の世界観に解釈した野田さんはやっぱりすごいと思う。
英国上演時には自身が女性を、英国女優が男性を演じていて、強姦を「英国のアジアへの植民地支配」と解釈できるようになっている演出もすごい。

でもそれは言葉にされたり、わかりやすく答えとして提示されたわけではなく


「見てる人が頭の中で組み立ててくれる」

という、受け手の想像力のフックとして提示されていて、受け手がそこから読み取る能力を信用し尊敬してくれているんだよね。

演者にも
「なんでこんなことするのかと聞かれたら、絶対人なんか殺さない人が戦争に行ったら人を殺す」そういうことだ、と答える。




筒井康隆は『時をかける少女』や『パプリカ』、『富豪刑事』などの原作者と知っていましたが、読んだのは初めてでした。

『全集17 七瀬ふたたび/メタモルフォセス群島』一冊読んだきりで言うのもなんですが
上手く言葉にできないんだけど、なんだか不快でした。
なにが不快って、いわゆる知識層による傲慢な差別感覚かもしれない。

七瀬ふたたびは七瀬という主人公と仲間の超能力者物語なんだけど、非超能力者を「普通人」と呼び、男は女を犯す事ばかり考えてて、女は妬み嫉み、子供も他人を傷つけようとする低劣な下種ども、主人公側の超能力者は美しくて知的で正義のために力を使いたいと思っているのに迫害される…という。
七瀬を崇め奉り上位意思として従う黒人男性、とか、そのまま奴隷じゃん…
内容はちょっと小難しくしたラノベなのに、性差別や人種差別におさまらない、もう人間差別の世界。


現在の異世界とか転生とか能力者ものって、現実がたいしたことない人のための慰めでしょう。例えば、自分が被害者だから報復していい、その力が与えられる、という構造。弱者の夢想。
でも筒井康隆は「大学に行けば人の上に立てる(若者たち1966)」時代で同志社大学を出て既に文化人として評価も得ていて、十分に強者の立場ではっきりそれを自覚しながら、この内容なんです。
立場として加害者側に立っているのに、被害者気分で、それは「お前らが低劣で下種で愚かだから」という目線。
持っていない人間への優しさや労わりが全く感じられない。
これが昭和から続いてる感覚なら、大衆側から反知性的に「利口ぶったエラそうな奴への攻撃」をしたくもなるだろうと思います。



私も言い方がひどいと承知でいえばバカは嫌いなんですが、何がバカかというと
「既得権益の上から弱い者いじめをする、大声で美意識がないヤツ」
だと思っていて、例えば東大に行ったから他人より自分がエライと思ってる人。(ハーバードでもオックスフォードでもIITでも同じく)
東大を創ったわけでもない、東大がスゴイと言われるのは先人の実績があるからであって、勉強しました合格しましたって、人が作った教科書や参考書を使って上澄みをさらっただけで、先人がなぜ積み重ねてきたかといえばアナタの小さな自尊心を満たすためでなく後から来る人達のため。そんな事もわからず「俺は凄い」と他人を見下せるのはバカで、職業や性別や人種その他「他人が歴史で積み重ねた既得権益の上から弱いものいじめをする」のはバカだ、と思っています。

で、その「いじめられる側」が既得権益層にすり寄って、さらに弱いものや歴史的に踏まれてきた側をいじめる。これもひどい愚か。

まあそういう人はたくさんいるし、自分にも要素があります。

それを恥じたりコントロールしようとするのが人間として、だと思うんだけど
理想は実現しないとわかりつつ持っていないと、ひどいことになるから。
socialで大声出しているわけではなく、自分のためにメモしてるだけなので、軽く流してください。

 

 

ちょっと、ヘンな方に思考がずれてしまったけど
この私自身の足りない思考を野田さんの舞台で少しは広げられればと思いつつ、
第二回目を楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足跡姫と桜の森の満開の下

 

友達の友達(遠い)がWOWOWで録画してくれた野田秀樹さんの舞台を見ました。


実際の舞台でも見ているのですが、むろん、なまの舞台と比べたら冷凍の解凍のようなのですが、でもセリフや表情が何度も見られるのは補足として違う感慨を呼びおこします。

 

 

足跡姫 
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(宮沢りえ、妻夫木聡主演。18代目中村勘三郎への野田さんの思いがつまっています)

 

 

出雲阿国にとりついた「足跡姫」
製鉄所でたたらを踏み、刀鍛冶をし、それにより政治的迫害を受けて将軍を恨んでいる。
将軍の前で踊ることが悲願の姉とその姉を支える劇作家の弟

 


ラストシーン

「足跡姫はこの世の無限を蹴散らした。だから無限は死にました

代わりに無限に続かない命が誕生したのです…終わりのある命が誕生したのです。そうして命は終わるようになりました
おわり、お、あ、い」


「姉さん!!


……幕だ、幕を引いてくれ!


ここで幕が引かれさえすれば芝居になる! 
幕の後ろで姉さんはまたけろっと起き上がる! 偽物の死になる!
そしてまた明日も姉さんは舞台に上がる!


姉ちゃん…
僕たちは舞台の上にいなくてはいけない!
何度も何度も!
偽物の死を死に続けなくてはいけない!

だのに姉さんの肉体が、ゆっくり、ゆっくりと、目の前で消えていく
消えていくのが見える
そして消えてしまったものが見える
いなくなってしまった姉さんが見える

姉さんはこういうだろう

お前はまだ、なにもつくっていない! なにひとつ作っていない!



よし、だったら姉さんが大好きだった起死回生のすじを、
どんでん返しをつくってみせる!
そこで、姉さんを、生き返らせるよ
姉さんの肉体が消えて、ここで、女歌舞伎の一座も消えてしまうだろう
僕はこの江戸にとどまろう
とどまって、江戸中町広小路あたりに一座をつくろう
なんて名にしよう
……さるわか、猿若座をつくる
そして僕はその初代、猿若勘三郎になる
女歌舞伎は消えたけど、これは大興行部だ!

そしていずれその初代猿若勘三郎の肉体も消える

だが、消えても、消えたのに消えることなく、ずっと続いてみせる!
僕が掘った穴から、地球の反対側から、いづこの御国の故郷から、次々と現れる!
二代目、三代目、いやもっと、六代、七代!いいや、十二、十三、十四、十五、十六、十七、…十八!!!
少なくとも、十八代目までは!

はは、ごめんよ
また大向こうの嫌いな数字の話をしちゃったよ


でもそこできっと、姉さんのひたむきは生き返る
あの、無垢の板で出来た花道の先、
大向こうで、
ひたむきな心は、いきかえる…!

 

 

この長セリフを最後に言う妻夫木さん
インタビューで仰っていました。

 「今回は何か、花道がずっと続いていく感じが、毎日そういうものを感じながらやれていたんですよ。
遠くに何か、ずーっと続いていく何かがある
そういうものが見えていたような気がしますね」

このストレートな、十八代目勘三郎への思いと、舞台が、役者が大きな物語に繋がって花道をゆくような、それは華やかだけれども枯れたら残らない花の、死んだら消えてしまう舞台の道だけれど、心は生きて、繋がっていく、じぶんはそういう脚本を書く、それが勘三郎さんとの約束で、いやそういう簡単に言葉にできるものではないのですが


泣くよね。ただ泣く。


贋作 桜の森の満開の下

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(主演:深津絵里、妻夫木聡 坂口安吾の「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」に飛鳥と飛騨の国争いと鬼門からやってくる鬼を交えて)

これも、表現者である耳男とミューズの夜長姫なのですが
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ」
この創作の厳しさよ

野田さんのインタビュー

「30年前はそこまで考えずに書いていたと思われるところを、ああなるほどこういうふうに解釈できるなと。例えば国をつくるためにはどういうことをしようと考えたのか、とか。自分なりに演出家として深読みは30年経ったのでできています」
「つくる、なににせよ、ものなのか国なのか、なににせよつくる、人間をつくるということに焦点を置いている」

「天皇の御幸と鬼の行列がクロスする瞬間
つまり自分たちが何かをつくる時っていうのは、必ず、作った人間ともう一つクロスするものがある、われわれがつくったがゆえにつくられないで土の下に籠ったもの」

 





妻夫木さんインタビュー

「あの人は言葉にならない何かを確実に演劇で表現しようとするんです
桜の森の満開の下で、たぶん、お客さん、すべて、理解できないと思うんだけど
その、涙の意味がちょっと、わからないんだけど、泣いちゃった、感動した
野田MAPの作品はどれもこれも全部そうだと思うんだけど
その感動の意味が分からない
言葉がないんですよね
説明できないんですよね
なにが素晴らしかった
それはもう、セットも、美術も、芝居も、表現、いろんなことの表現、桜だとか文化だとか全部素晴らしいですよ、やってることは
みんなが、つくり上げているのは人間なんだけれども
その中で生まれた感動の意味を事細かく言葉で説明しようとしてもできないんですよね
それってすごい、ですよね
説明できないんですよ、見たのに
59公演やった僕でも、説明できないんですよ、
実際、耳男を演じた自分自身も。こういうことで説明したんでしょって、そういう言葉自体が稚拙さと言うかなんだろう、本当に自分の小ささを思い知ってしまうし
うーん、なんだろうね
だからこそ、演劇はほんとうに、すごいな、芝居の力は、って
僕にとっては舞台の上で表現するってこと自体が、桜の森の満開の下にいる気分なので
野田秀樹っていうひとは本当に何を考えているかって僕は全然わかんないけど
やっぱ、天才ですね」



!!!
そう!そうなんです!
なんでかわからないけど心の鍵盤をかきたてられて暴かれて何に感動したのか感動なのかもわかんなくて、ただ、泣くんですよ!
いろいろあって、ただ最後は美しくて、美しいんだけどそれだけなわけがなくて
ただわけもわからず泣くの
演じている側もそうなんだ
そりゃボヤっと五、六回見ているだけじゃあたりまえですよね。
うん。

妻夫木さんはもう、お姉さんとおじさまに愛されます、それは
というゴールデンレトリバーの子犬のような謙虚なかわいさでした。


あと、天海さんの大海人皇子

古田新太さんが「身近にとびきりの王子様いた!」って
遠目でみても美しかったのに画面でアップでみたらフォルムが美しくて気品があってまあ王子様でした!



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 野田さんの舞台は私は2016年の逆鱗が初めてで、遅すぎて、高校生の時から見ていたという友達が羨ましいのですが、こどもの時は何が何だかわからなかっただろうなと思うと出会うべきものには出会う時期があると感じます。

出会うべきものに出会えるように、年を重ねられますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フェイクスピア(東京芸術劇場)


大々的にネタバレの感想
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脚本・演出: 野田秀樹
出演: 高橋一生、白石加代子、橋爪功、野田秀樹
衣装: ひびのこづえ

 

6/16昼、6/29夜、観劇しました。1階席のかなりいい場所だった!ありがたい。
チケットは二人で12回分申し込んで2回当選だったので、前より当選率が高いかもしれません。
コロナ状況で控える方もいらっしゃるのでしょう。


さて、

見終わって


「ありがとうございました…」
「ありがとうございました…!」


それしか言葉がない。二人で泣きながらアンケートを書いたよね。二回。計四枚。
伝わってください…我々はSNSで簡単に語れるタイプじゃないから、野田さんにだけ伝わればいいから…


二回見てもまだ全然野田さんの思うところを受け止め切れていないと思うのですが、できる範囲で感想を記録します。

  • ジョージ・バークリーの「誰もいない森で倒れた木の音は存在しないのか」で始まる。倒れる木と(言の)葉。言葉と声というテーマの提示

 

  • 白石加代子様登場。憑依女優はかつてイタコ修行をしていた。恐山のイタコではなく恐山にいた子、にしかなれなかった。それを野田さんが舞台にしました、というメタ的発言

 

  • イタコ修行中の白石加代子(元演劇部)のところへやってくる橋爪功と高橋一生による、「誰を呼び出してほしいのか」からシェークスピア劇憑依。高橋一生の女性役雰囲気ある。

    「娘三人に遺産相続」「嫉妬で妻を殺した」「妻にそそのかされて主君を殺害」こういうキーワードでリア王、オセロー、マクベスとわかるのって常識なのか教養なのか。観客の多くはわかって笑ってたけど、もしかして知らない人にとっては??なのだろうか。
    そして「わからない」という恥が怒りになったりするんでしょうか。関係ないけど後述

 

  • 高橋一生は「神から言の葉を盗んだ男」で、言葉の箱を持っている。神の使者から追われている。橋爪功は元演劇部の地下鉄職員。なぜだれを呼び出してほしかったのか自分でも分からない。

 

  • 神から盗まれた言葉は「死」。プロメテウスは火を盗んで人間に与えたが、高橋一生は江戸っ子だったので「ひ」が「し」になってしまったという言葉遊びが野田さん

 

  • 死を奪われた神は不死になり、言葉を失って不在になった。人間は死を知らねば誰もいない森で倒れる木と同じ。何時何分に死んだと認識しないひまわりと同じ。死んだことに気づかなければ死んでいても死は存在しない。

 

  • シェイクスピアの息子、フェイクスピア(野田秀樹)登場。ラップとダンスの切れがすごい。
    言ったもん勝ち、書き込んだもん勝ち、それが今の言葉の価値🎵
    そんな人間に言葉ってもはや必要なのだろうか??

 

  • シェイクスピアの四大悲劇のうち、(読んだ?悲劇、呼んだ?悲劇)まだよばれてないのはハムレット(ここ重要)

 

  • 星の王子さま(前田敦子)登場。本当に大切なものは眼に見えない。だから盗まれた言葉は声である。声は発せられたら空に昇って消えてしまう。


  • イタコ憑依をトランジットに例えたり、サンテグジュペリの夜間飛行など


もうサッとネタバレしてしまうのですが、

高橋一生と橋爪功は親子です。

橋爪功が子供の頃、若くして死んだ父親が高橋一生です。
そして、地下鉄に飛び込もうとして、隣の人に先に飛び込まれて出来なかった息子のために、「言葉」を伝えようとやってきたのです。
神から言葉を奪い、人に死を与えた高橋一生は息子から「子供の頃、家にひとごろし、と叫ぶ人たちがきた」と思い出を語られる。

箱をちょっとあけて出てくる言葉

「どーんといってみよう」

「頭を上げろ」(これは高橋一生が登場時から言っていて、何この人っておもわれているんですが)

「気合い入れろ」

「がんばれ、がんばれ」

 

「これ何!? こんなんで死ぬのやめようとか思う??」(息子=功)

 

知っている人はここでピンとくると思います。

1985年(​昭和60年)8月12日、日航ジャンボ機墜落事故です。

 

 

 

 

 

イタコ昇格試験で、最後のチャンスにかける白石加代子は、橋爪功の父親を呼び出そうとします。

彼女は死んだ母に会いたくてイタコ修行をしようと思った。
だけど自分に母が乗り移ったら、私はいなくなって、母は私を抱きしめることができない。

だから、演劇部の同級生だった橋爪功(タノ、という名前。タノ、しんで?って昔いい合って笑った、といいます)のために、イタコになれなくてもいい、いま、お父さんを呼び出してあげたい、と願います。

 

言の葉の箱がひらいて、言葉があふれ出します。

墜落していく飛行機のなかで、パイロット、副操縦士、CAが、沢山の乗客を乗せて何とか、生きようと、機体を持ち上げようと、命を救おうと、

「頭を上げろ!」

「ダメです!」

「スコーク7700!」

「ハイドロプレッシャーオールロス!」

「あーーーーっ」

「がんばれ、がんばれ!」

「どーんといってみよう」

「気合い入れろ!」


叫びながら必死で、何とかしようともがく。
人間の力ではどうにもならない、大きなものの前で、あがく。
その孤独、無力、でも最後まであきらめない。

ポールを掴んで、キャスター付きの椅子で、コックピットと乗客が上下する機体の中でバラバラになり、また何とか戻って一つになろうとする演出がすごい。
こんなシンプルな表現で、ジャンボ機の内部と混沌が伝わってくる。

そして18時56分30秒、人は、死んだことを認識しないひまわりではなく、森の中で倒れる木の音のように、言の葉を散らして墜落するのです。

 

 

父が届けたかった言葉を息子は抱きしめます。

 

「頭を上げろ」

「頭を上げろ」

 

生きろ

 

 「タノ、しんで、」

死んで、ではなく、楽しんで

橋爪功と白石加代子が二人並んで終幕。
二人の名優の「生きろ」という言葉を背負い、発する重み。

※あとで確認したら、「生きるよ」でした。そうだよね…生きろじゃなくて、生きるよ、なんだよね…未熟な記憶め…


もう途中からわけもわからず涙がとめどなく流れて、野田さんの舞台はいつもそうですが、感動や悲しみや、なんとかの名前をつけられる類の、エモーションではなくて、もっと、違うところにある人間の何か。私はそう感じますが、たぶん感じない人もいる。それはちょっと人それぞれという話ではないと思うけど置いておいて

 

日航機墜落事件を扱うことを、不謹慎と捉える人もいるらしい、と聞きました。

でも、そんなことは野田さん自身が一番わかっているんです。

なぜなら、シェイクスピアの息子、フェイクスピアに野田さん自身が扮しているから。
現実を弄ぶフィクション=フェイクだと自分自身を位置付けているから。
演劇の神様のバカ息子、フェイクスピアだと自ら称し、ノンフィクションをフィクションでフェイクにして弄ぶ、させてたまるか、という星の王子さま(キャラクター代表)
でもなお、言葉によって伝えたい、悲劇を悲劇で終わらせずにはいられない、と言っているからです。
ちゃんとセリフで言ってるよ!
それがわからないのはちょっと、それこそ言葉が必要ない類の人間ではないかと思う。

そして、題材ではなく、もっとその向こうにあるものを見ようとしているんだよ。
優れた表現というのは、美術でも音楽でも小説でも、そういうものでしょう。

例えば、声になった言葉は消えてしまう、残らないというのは演劇、舞台に一生をかけている人の「残らないものを紡いでいる」気持ちでもあるのではないかと思いました。

神から奪った生、
神から与えらえた生

神は紙で紙から奪われた言葉という声は、一番大切な目に見えないものかもしれない。
でも目の見えない人にとっては見えないのが当たり前。
声があれば、そこに人がいる。
墜落事故で失われた肉体に残った声を、「頭を上げて生きろ」へ舞台へと変化させて描き出した野田さんの言葉を、受け止めていきたいと私は思うのです。

 

 

 ろくでなしどものぼやき

[...]

パンドラの鐘(東京芸術劇場)

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野田秀樹さん脚本の舞台を見に行きました。

演出は野田さんではないのですが、去年のルーマニアの演出家(シルヴィウ・プルカレーテ氏)による「真夏の夜の夢」が野田演出とは違うところが素晴らしく良かったので、期待して。

 

 

 

うううううーーーーーーーーんん

 

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[...]

Q:A Night At The Kabuki

 

作・演出 野田秀樹
音楽 QUEEN
出演 松たか子 上川隆也 竹中直人 羽野晶紀

 

生存者が、責めや負い目、恥を感じずにはいられないのは、生き残ることが、他人の命を凌いだことに等しいからでした。たとえ強制収容所を生き延びたにせよ、「最もよき私自身」は二度と帰ってはこなかったのです。 
石原吉郎

 

野田版オペラ「フィガロの結婚」を見た後(村社会のお約束をぶっ壊したね、ってまた震えた)、友達が貸してくれたWOWOW放映版の「Q」を見ました。

去年、東京芸術劇場の舞台で見たのを、セリフや視線をアップで再確認して泣いちゃって、松さんの手紙の朗読を書き起こしたりしてました。

野田さんのインタビューで、シベリア抑留体験を綴った詩人の石原吉郎さんの話が出ていました。

「(石原さんは)大量殺戮というのは、大勢が死んだことよりも、実は一人の人間が名前を持たないまま死んでいることが一番大きいことだと感じると書いていて、
僕は無名戦士というと何か、尊い犠牲になった、美しいとまではいかないけど、殉死に近いようなイメージを勝手に浮かべるんですけど、実はその一人一人が決してそんなことはないんだと思って、そこが、『名前をお捨てになって』と軽々しくいってしまう若い恋人たちの言葉と非常に直接結びついて名前というのは一つ大きくありました」

 

源平合戦を舞台にしたロミオとジュリエットが生き残って、近代兵器戦で収容所に送られ死んでいくロミオが30年後のジュリエットへ手紙を送る。

 

『寒さで体が切り刻まれるたびに、そして眠るたびに、命が食べられていく。
そんな中でどうやって、あなたを愛するという言葉を紡ぎ続けることができるでしょう。
もしかしたらあの愛は、野戦病院のうわごとで、あなたを愛したことなどなかったのではないのか。
いにしえのうるわしの時をさえ疑ってしまう。
愛する力を、今の僕がどうすれば絞り出すことができるでしょう。

あなたを愛する力をください
あなたを愛する力を取り戻したい

果てしもなく故郷から遠い、すさびふゆがれた荒野で、朽ちた木のように横たわる僕に
あなたを愛していたときの力を下さい
そしてどうか、朽木の如く死んでいく私を忘れないでください

どうか、どうか
私を名もない兵士として葬らないでください
あわれんだ瞳で、無名戦士と呼ばないでください

もう二度と私に、


………(この間の松さんの表情…!)


『名前をお捨てになって』


などと、おっしゃらないでください


私には名前があった

ロウミオという名前があった。

一人の名前のある人間として
ここで死なせてください。


ロウミオよりジュリエへ
渾身の愛をこめて

 

シェイクスピアのセリフをこんな風に使うことができるなんて!

そして野田さんの反戦や歴史や人間集団に対する感性がいつも素晴らしくて

本当に心暴かれて号泣してしまう。

 

「でも戦争は終わったのよ!」
「戦争が終わった日に…戦争は終わらない!」 

 

203高地に眠る同胞を思う鶴見中尉の気持ちもなにかそういうものがあるのかもしれません。と思いました。

 

桜の森の、満開の下…!

 

 

好きなものは、呪うか、殺すか、戦うかしなければならないのよ

新しく、何かを作ろうと思うのなら

落ちてきそうな広くて、青い空をつるして、

いま私を殺したように

 

立派な仕事をしてくださいね…

 

 

【坂口安吾原案 野田秀樹 作・演出『桜の森の満開の下』
 歌舞伎版(2017)・シネマ(2019)
 中村勘九郎:耳男 中村七之助:夜長姫 市川染五郎(現・松本幸四郎):オオアマ】

  

 

「素晴らしかった…何度見てもやっぱり泣いてしまいます」

「歌舞伎座で見た時とはまた違って、表情がアップで見られたのがよかったですね」

「七之助さんがもう、天才で…声を発した瞬間にぞわっとする…ラストの夜長姫のお顔が性別も人間も超えた精霊の美しさで…
もう、紅天女ここにいます!このかたです!亜弓さんとマヤを足して2にした人ですよ!って叫びたくなりました」

「野田さんのセリフが複雑で、言葉遊び『歴史の轢死』とか『深謀遠慮の棒の下に閉じ込められた』とか古事記からの引用とか、まだまだわからなくて。
政治や歴史、芸術、弱い者への隠された暴力、恋、陰謀、あまりにもたくさんのメッセージがあるけど、最後にすべて霧散して美しさだけが残るカタルシス…」

「『私は…』って言葉を切って『…おまえは私と一緒にいなければだめなのよ』『明日から私、いい子になるの』美しいのにかわいい! これを兄弟でやってるんだからたまらないものがあります」

「荷台に地獄を積んだ自転車で永遠の下り坂を笑いながらブレーキもかけず落ちていける夜長姫と、人間は永遠に落ちていけるほど強くない、という耳男ですね。最高」

「お兄ちゃんは真面目というか、お父さんと野田さんの演技をなぞってるんだなあという感じはしました」

「演じてる感じを与えてしまうんだよね。でも弟と父親が天才というのは辛いものがあるのではないでしょうか」

「天賦の才って残酷だよね…アマデウスとサリエリ」

「良かったとか感動とか簡単に言えなくて、どこを押されたかわからない心の鍵盤をババーーッツと奏でられてわけもわからず、すごい…って涙があふれる」

「役者さんによって見え方が変わるのも舞台の面白さですよね。昨年の深津さん版はもっと無垢で奥深いキャリア感がある気がしました」

「妻夫木さんの耳男がピュアでね、天海祐希さんの大海人皇子が美しくてかっこよくて、きっと早寝姫にも表の言葉以上の心があったに違いないって思える繊細さで」

「染五郎(当時)の大海人皇子はもう悪かったもんね~笑」

「アップで見ると『顔が悪い!』って震えたよ。色悪が似合うよね」

「俗物なので見るたびにマナコへ感情移入します」

「銀座の画廊でシャガールの絵を見て、素晴らしさに心がとけていくようなのに、俺の目は値札に引き寄せられてしまうんだ、一枚の絵を見て画家を志す者もいれば自分が俗物だと知る者もいる」

「あのシーンはしみますね。わかる!!」

「俗物だけど、鬼の息吹がないとこの世はダメになるって戦うのね」

「鬼は悪ではないからね…本当の悪は、歴史を改変して鬼を閉じ込めてなかったことにしようとする側だからね…」

 

 

 

「とにかく夜長姫が素晴らしくて」

「七之助さん…本当にすごかった…」

「『みーつけた!』『きりきり舞いよ!』『太陽になって、人が死んでいくのをずっと、見ていたいわ!!』

「松たか子さんもすごいけど、まっさんは荒ぶる神だから『殺します』って迷いがないから」

「逆鱗の時みたいにね。統合失調症をやらせたら日本一」

「でも野田地図の松さんが一番素晴らしいから、今年の新作に出てほしいな…YouTubeで『贋作 罪と罰』何度見ても震えて泣くもの」

「あーなんか、言葉では表現できないですね」

「クストリッツァの映画と同じで、あまりにも大きな世界観を受け止めるには自分はまだまだ心の畑が小さい!って思います」

「大学生の時みても、長くてつまらないと思ってました。この2、3年です」

「どこがって言えないけどすごい事だけとりあえずわかるようになりました」

「精神年齢がいつまでも低すぎるから、まだまだこのありさまなんですけどね」

 

 

「野田版歌舞伎の鼠小僧や研辰もですが、野田さんはいつも暴いてきますね。デビルマン的な人間の恐怖や邪悪を」

「ヘニング・マンケルがエッセイで『書くことは自分の心の懐中電灯で闇を照らし、隠されたものを暴くこと』って書いてましたけど、まさにその通り」

「先週今週とクストリッツァのアンダーグラウンド、桜の森とえぐえぐ泣いて、ブラッククランズマンとか、最近見たもの全部泣いてる気がする。全部暴いてくる。暴かれ泣き」

「めったに泣かないのにね。いい話とか、はあ? なにこの茶番?って唾を吐くようなクズなのに」

「心のジョーカーが荒ぶるからね」

「ホアキン・フェニックスがジョーカーってどうなのでしょうか」

「ちょっと悲しい話にしたいんじゃないのかな。おれたちのダークナイトジョーカーは違う」

「本当の意味であれを再現できるのは松たか子さんだけの気がします」

「……それ!!!」

 

 

 

 

泣きながら二人で昼から飲んで毒とかはいているので、店員さんに避けられているような気がしました(すぐ被害妄想に陥るタイプ)