季節のない街に眉毛兄弟はいる

 

友達が眉毛兄弟のマンチェは山本周五郎の季節のない街、というので青空文庫で読みました。

なんといっていいか…とても胸につかえて言葉にならない。

山本先生は赤ひげ診療譚もですが、貧しい市井の人間模様を描くけれど、ささやかに懸命に助け合って生きる人々という安直な美化をしません
そんな単純なヒューマ二ストじゃない。だからこそ本当に優しいのです。

 

例えば、隣近所へ醤油や味噌を借りに行くのは、足りていたとしても「あの家よりうちはましだ」と優越感を与えるための隣人愛の発露である、という。
貧しい人が剥き出しで虚飾もなく生きているのが時に美しく見えるのは、感情や思考を深めるお金も時間も余裕がないからで、浅く見透かされる素直さであり哀しいという。
そこで犠牲になるのは(死ぬのは)子供だと書いている。
美しいのではなく、哀しいのです。哀しいから美しいのです。その哀しさを哀しいで終わらせない。憤りがある。それを誰にぶつけて正義を気取ることもなく、ただ離れたところから歯を食いしばって人を信じたいと書いているのです。

その街で星は冷酷な傍観者として輝き、いまのうちに眠っておけ、明日もまた踏みつけられ生きてかなきゃいけないのだからな、という

私は星を美しく仰ぐ克己心の象徴のようなもの(『あたしは星を見るわ』というように)と思っていたので、この描写に泣きたいほどの気持ちになって、自分の秤で人を測る事の愚かさを突きつけられた気がしました。

衣食住足りて教育を受けたのに自分を縛ったり飾ったりして生きづらいのであれば、解決策は、やりたいようにやれ、誰かのせいだ、自己責任だではなく感情と思考を正しく深めなさいであるはずです。

それをせず近視眼的な幸不幸や手近な快楽や思考停止やルサンチマンに陥り、ありのままの私を振る舞うのはただの怠慢と傲慢だと、そういう事を考えていました。

『年の瀬の音』の最後の節が私の思う周五郎先生の端的なイメージです。

いま仕事部屋の外で宣伝カーなるものがわめいている。いよいよ押し詰ってまいりました。私はなんのためともなくぞっとし、机の前で身をちぢめる。私は赤児を背負って雨にぬれながらゆく男であり「おばちゃん」はうちにいて会うことはできたけれど、目的ははたされずに子をつれてむなしく帰る若妻に似ているのである。これをもし舞文曲筆だなどという人があったら、その人こそ年末の秒読みを感ずることのない、幸福なしかし恵まれざる楽天家というほかはないでしょう。そういう人たちはすでにもうめでたいので、めでたいと申し上げても皮肉にはならないと思う

 

 

あと眉毛の兄弟はいますね、あの街に。見えました

 

 

 

「先生は静かに見ていらっしゃるんだけど一度だけ我慢出来ずに出て来ちゃう。きみ、どうしてあの子を病院へ連れていかないんだ、あの子が見えないのか、って 」

「あと、家の事耐えて耐えて好きな男の子を刺しちゃう女の子の話。どうして?って聞かれて、怖かったのって、死のうと思ったらあんたに忘れられるのが怖くて堪らなくなったって 男の子がまた無邪気で、なんで?忘れたりしないよって… もうさ、もう…」

話しながらカレーやで泣く。今も思い出して一人泣く

 

 

毒づき

「山本先生は小学校卒だから文壇から低く見られてたんだと思う」
「山本周五郎賞ができた時ファンが激怒したって言うもん」
「あ~ほんと! 先生があらゆる賞を辞退していた気持ちがわからないのかって」
「長谷川町子先生のご家族が文才があってさ、菊池寛に会ったときのどんな人っていう絵が着物の胸元から札びらが出てる絵だった」
「さすが町子先生。風刺が効いてる」
「太宰なんて帝大仏文科ですけど、芥川賞下さいって手紙書いて」
「自分のことばかり言ってんの。ボクはダメ人間です人にどう見られてるか気になって」
「どうでもいい」
「山本先生が人を描きながら人が嫌いで訪ねてくる人にも会わなかったってよくわかる」
「少数の人との交流を大事にしていたね」
「ジョン・メリックだよ。大事なものはそっと心にしまっておかねばならない」
「なぜなら人間が怖いからです、ってね」