ポーの一族 萩尾望都先生

 

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例のDMM70%オフクーポンで色々買いました。その中に「ポーの一族」があります。
じつは、以前読んだときはあまりに抒情的でぴんと来ていなかったのです。
「銀の三角」や「半神」のほうが好きでした。
この機会にもう一度最新刊まで読んでみようと思ったのです。

 



これはなんという、本当に名作…!
素晴らしすぎて3度ほど読み返してぼーぜんとしてしまった…

 

 

にわかに関連書やインタビュー、評論をよみあさり
萩尾先生が漫画家になるきっかけとなった手塚治虫の「新選組」を求め
ファンサイトをめぐる日々です。
ちょっとまだそれらを読み切ってないので、話題の大泉の話までは当分いきつけそうにありません。

 

作品のすばらしさについては多くの方が書いておられますし、そのほかまだまだ自分が言葉にできるようなものではないです。


何をいうのも大変畏れ多く僭越ではあるのですが、
何というか、初めて萩尾先生の家庭の事情や人となりを垣間見て、そういう方だからこういう作品なのかな…と思いました。

 

 

 

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インタビューや対談を読んでいると、萩尾先生の純粋で、真面目な人となりが言葉の一つ一つから伝わってきます。まず人を責めない。

理不尽への怒りがない(ほとんどない)
理不尽への「なぜだろう」と痛みだけがある。

 

 

 

自分の話で恐縮ですが、私は怒りの感情が強い子供でした。
わりと大人になってからもそうです。
その怒りの根源は両親の理不尽さへの憤りです。
差別や抑圧、無理解、自分を守るための嘘、表面的な評価軸や俗物性に対して激しく怒っていました。尊重し理解しようとしてくれないことを怒っていました。
母はヒロイン気質が強く家庭内で自分が一番でありたいタイプ、
その母が突然の病気で他界した後、父は知らない女性を連れてきて
「俺の面倒を見る人間が必要だから同居するが、国立大学教授にふさわしい女ではないから結婚はしない」
と言った人です。
子どもの時からどうしても人として心を開けないと思っていました。
その気持ちが伝わるのか両親も私が苦手だったようです。



山岸凉子先生の「日出処の天子」の厩戸皇子は、自分を愛さず弟を溺愛する母に「あの子はまるで人間ではないような」と言われ、「私は人間だ!」と泣き、苦しみ怒る。
傷つきながらも愛を求め、得られず、母とは断絶したまま母に似た少女を愛人とし、己のすべき仕事を全うします。

 

萩尾望都先生の「イグアナの娘」のリカは、母はなぜ妹を可愛がるのに自分を愛せないのだろうと思った末、自分が人間ではないからだと結論付ける。「私は人間だ!(なのになぜ)」ではなく「私は人間ではないから、母は私を愛せないのだ」と思うのです。
そして、母も人間ではなくて、それを隠そうとしていたから同じように人間ではない自分を愛せなかったのだと知る。

 

厩戸皇子の怒りと苦しみ、反骨心は自分のことのように感じられたけれど、リカの気持ちには物語として美しく優れていると思っても寄り添えなかった。
自分に原因があり、それは誰のせいでもないとは思いたくなかった。
怒りを誰かに思い知らせてやりたかった。

苦しみの感情は必ず誰かの償いを求める
不満には復讐心が宿っているのだ

  F・ニーチェ

 

むくいを求める心に、萩尾先生の優しさはもの足りなかったのです。
「残酷な神が支配する」でもグレッグやサンドラではなく、なぜずっとジェルミだけが苦しんでいかなければならないのかと歯がゆく思っていました。

 

今回、萩尾先生、ご両親、ご姉妹のインタビューなどを読んで、萩尾先生は他者の理不尽を怒りという形ではなく、痛みとして疑問として心に深く残す方なのだろうと感じました。

 

ご両親のエピソード、
マンガ家をやめろと言い続けたり、アシスタントへお給料を払うのはなぜ?弟子がお金を払うもの、ですとか、絵本を描け(漫画では恥ずかしい)、妹さんの「母が姉はバカだというので、私はお姉さんはずっと白痴だと思っていたのよ」とか

白痴!!!

人に分かるように言えることは一部ですから、もっともっと小さな突き刺さる事があったのだと思います。

萩尾先生も、ご両親とは怒って喧嘩したとか、距離を置くなど激しい相克があったのでしょうが、一貫して攻撃や怒りや責める口調が出てくることはありません。

「作品の中でいつも母を殺してしまいます」
「イグアナの娘は私小説のようなものです」

とても重い告発だと思うのですが、お母様は何も響いていないように

「漫画家になることを反対したのを怒っているのでしょうね」

と仰る。その齟齬と相互不理解の歴然とした残酷。
きっとお互いに「わからない」と思っていて、萩尾先生だけが「なぜだろう、自分が悪いのだろうか」と思っている。



血縁は天災のようなもの。
他者のわからなさは残酷で、それは自分の「わかる」の中に勝手に入れてはいけないものですし、「家族だからわからなくてもいい」も違う。家族という関係性をいいものに収めようとする力は暴力でもあって、しかしそれは一面では家族の本質なのだと思います。


そしてどんな天才でも他者の心は見えない。
だから創作がある。

 

永遠性の哀しみやむなしさ、徒労や無力感、喪失感
そういうものが深く、音楽のように流れていく
20代で表現した奇跡のような完成を70代の今も同じように持ち続けていらっしゃる。
まさしく天才であり、神と呼ばれるのにふさわしい方だとしみじみとやっとしみいった春でした。