映画・舞台

サーミの血 感想




自分もサーミ人なのにサーミを嫌う者がいます。つまり、アイデンティティを変えた者と、留まった者との対立が、私の一族の中にまだあるのです。両者は互いに話をしません。 
--------アマンダ・シェーネル監督



昨年、映画館で見逃していたものです。
Amazonプライムで見ました。

舞台は1930年代、スウェーデン北部ラップランド。
サーミ人(ラップランド人)の少女が、差別の中で葛藤し、逃れ、戦い、自分であるためにルーツを捨て去ろうとする物語です。
「人種差別と闘う」話ではありますが、主人公は、サーミ人であることで差別され、怒りを覚えるものの、一方で差別されるがままのサーミの血を悔しく呪わしく思っています。
自らのルーツ・民族を誇り、守ろうとするのではなく、捨てて逃れるための闘いです。いわば最初から負け戦であり、ゆえに苦しい物語です。
名前を偽りスウェーデン人のふりをしているときに妹から本名を呼ばれ、
「知らない。汚らしいサーミ人」といい放ち、先生から人種的に頭が悪いので進学できないといわれた後で妹へ同じことばをぶつけます。
「頭の悪いサーミ人、卑しくて泥棒」
黙って涙を流す妹と、酷い言葉を発した姉。どちらも苦しく、憎みあうことも愛し合うこともできずに別れてしまう。
この二人は、ノルウェーで実際にトナカイ放牧をしているサーミ人で本物の姉妹だそうです。


主人公はサーミ人用の寄宿中学校でスウェーデン語の教育を受けています。
教室の中では一番できる子です。優秀なのでスウェーデン人の先生にも好かれ、優しくされています。
ただし、この先生の好意はのちに出てくる都会(ウプサラ)の人々と同じく、「基本的に差別を持ったうえでの優しさ」です。

サーミ人への差別はあからさまに、あるいはひそやかに描かれます。
中学生の少女をもののように扱い、服を脱がせ、調査と称して写真を撮る。
脱いだ服を全裸の胸元に抱え、「腕を頭の後ろで組んで」という男性の命令に全身で拒否を訴える主人公の屈辱、苦しみ、窓からいつも自分たちを馬鹿にする近所の悪ガキがにやついて覗くなか、「みんなのお手本になって」と慕う教師から言われ、見向きもされないでいるシーンは眼を背けたくなるほど残酷です。


差別されているうちに主人公の中では「自分は周りのサーミ人とは違う。差別されるのはいやだ。ここから逃れたい」という気持ちが強くなります。
主人公の視点に寄っているためか、彼女と妹以外のラップ人同級生は愚鈍な風貌に描かれているように見えます。地元の田舎でサーミ人を差別するスウェーデン人の少年たちも同様に醜い。主人公を鞭打つ女性も醜いし、親や親せきも美しくはない。
一方で彼女が恋に落ちる都会のスウェーデン青年、その家族、周囲の人々は非常に美形です。
まるで「いい人はきれい、わるい人は醜い」というステレオタイプのようですが、表面的に美しく優雅で彼女に親切な都会人は陰で「ラップ人よ、何か魂胆がある、追い出して」といい、物珍しい見世物のようにサーミの歌”ヨイク”を余興に歌わせようとします。

サーミ人である自分を捨て、南部スモーランド出身のクリスティーナと名乗る主人公。
その戦いにおいて生きるための手段は暴力的で成り行き任せです。
偶然出会った男の子の家へ押しかけ、セックスし、追い出された後成り行きで学校へ紛れ込み、ドイツ人のふりをしたり、出身地を偽って周囲に溶け込もうとする。
でもその偽りは決して彼女の心を安らがせはしません。
スウェーデン人同士の中にも差別がある。イケてない服を着た少女を笑うグループの中で、彼女は一緒に笑いながらもその顔は引きつっている。
ばれたらどんな誹りを受けるか。
差別をする人は自分が属する集団以外を平気で蔑視し、それは連鎖し、外側だけではなく内側へも及んでいくという心が寒くなる構図が見えます。


スウェーデン人のふりをするため、やむなく人の服を盗み、お金を盗む。
「泥棒、愚かな民族」
そう自分のルーツを罵りながら、何よりも己がそうであるという矛盾。
望むように生きるためにそこから目を背けなくてはいけない。
でも、背けきれず受け継いだ短刀を守り、ヨイクを歌い、何も考えることなく恵まれたありのままの己を肯定している無神経な人々に憎しみを感じる。
差別の残酷さは差別されることだけではなく、自尊心を傷つけられ、自らが所属する世界を否定し、差別する側にまわり、嘘をついて生き続けることの悲劇。
美しい色で描かれた静謐な景色のなかに浮かび上がる、出口のない闇です。


冒頭とラストがリンクして、老女となった主人公がいまだに出身地を偽り、サーミ人を罵倒し、妹の葬式でおそらく何十年ぶりかに帰った変わらぬ故郷に溶け込もうとせず、頑なに異なってる姿が描かれます。
最後に彼女が歩く大地。
歩んでいく先にはなにがあるのか。彼女は自分を受け入れることができるのか。
死ぬまで逃れられない血の宿命にどう抗い、どう受け入れ、何を伝えて生きるのか、
形は違えど同じようなものが我々のなかに、周りにある。
考えさせられた作品でした。

 

 

 

 

 

 

桜の森の、満開の下…!

 

 

好きなものは、呪うか、殺すか、戦うかしなければならないのよ

新しく、何かを作ろうと思うのなら

落ちてきそうな広くて、青い空をつるして、

いま私を殺したように

 

立派な仕事をしてくださいね…

 

 

【坂口安吾原案 野田秀樹 作・演出『桜の森の満開の下』
 歌舞伎版(2017)・シネマ(2019)
 中村勘九郎:耳男 中村七之助:夜長姫 市川染五郎(現・松本幸四郎):オオアマ】

  

 

「素晴らしかった…何度見てもやっぱり泣いてしまいます」

「歌舞伎座で見た時とはまた違って、表情がアップで見られたのがよかったですね」

「七之助さんがもう、天才で…声を発した瞬間にぞわっとする…ラストの夜長姫のお顔が性別も人間も超えた精霊の美しさで…
もう、紅天女ここにいます!このかたです!亜弓さんとマヤを足して2にした人ですよ!って叫びたくなりました」

「野田さんのセリフが複雑で、言葉遊び『歴史の轢死』とか『深謀遠慮の棒の下に閉じ込められた』とか古事記からの引用とか、まだまだわからなくて。
政治や歴史、芸術、弱い者への隠された暴力、恋、陰謀、あまりにもたくさんのメッセージがあるけど、最後にすべて霧散して美しさだけが残るカタルシス…」

「『私は…』って言葉を切って『…おまえは私と一緒にいなければだめなのよ』『明日から私、いい子になるの』美しいのにかわいい! これを兄弟でやってるんだからたまらないものがあります」

「荷台に地獄を積んだ自転車で永遠の下り坂を笑いながらブレーキもかけず落ちていける夜長姫と、人間は永遠に落ちていけるほど強くない、という耳男ですね。最高」

「お兄ちゃんは真面目というか、お父さんと野田さんの演技をなぞってるんだなあという感じはしました」

「演じてる感じを与えてしまうんだよね。でも弟と父親が天才というのは辛いものがあるのではないでしょうか」

「天賦の才って残酷だよね…アマデウスとサリエリ」

「良かったとか感動とか簡単に言えなくて、どこを押されたかわからない心の鍵盤をババーーッツと奏でられてわけもわからず、すごい…って涙があふれる」

「役者さんによって見え方が変わるのも舞台の面白さですよね。昨年の深津さん版はもっと無垢で奥深いキャリア感がある気がしました」

「妻夫木さんの耳男がピュアでね、天海祐希さんの大海人皇子が美しくてかっこよくて、きっと早寝姫にも表の言葉以上の心があったに違いないって思える繊細さで」

「染五郎(当時)の大海人皇子はもう悪かったもんね~笑」

「アップで見ると『顔が悪い!』って震えたよ。色悪が似合うよね」

「俗物なので見るたびにマナコへ感情移入します」

「銀座の画廊でシャガールの絵を見て、素晴らしさに心がとけていくようなのに、俺の目は値札に引き寄せられてしまうんだ、一枚の絵を見て画家を志す者もいれば自分が俗物だと知る者もいる」

「あのシーンはしみますね。わかる!!」

「俗物だけど、鬼の息吹がないとこの世はダメになるって戦うのね」

「鬼は悪ではないからね…本当の悪は、歴史を改変して鬼を閉じ込めてなかったことにしようとする側だからね…」

 

 

 

「とにかく夜長姫が素晴らしくて」

「七之助さん…本当にすごかった…」

「『みーつけた!』『きりきり舞いよ!』『太陽になって、人が死んでいくのをずっと、見ていたいわ!!』

「松たか子さんもすごいけど、まっさんは荒ぶる神だから『殺します』って迷いがないから」

「逆鱗の時みたいにね。統合失調症をやらせたら日本一」

「でも野田地図の松さんが一番素晴らしいから、今年の新作に出てほしいな…YouTubeで『贋作 罪と罰』何度見ても震えて泣くもの」

「あーなんか、言葉では表現できないですね」

「クストリッツァの映画と同じで、あまりにも大きな世界観を受け止めるには自分はまだまだ心の畑が小さい!って思います」

「大学生の時みても、長くてつまらないと思ってました。この2、3年です」

「どこがって言えないけどすごい事だけとりあえずわかるようになりました」

「精神年齢がいつまでも低すぎるから、まだまだこのありさまなんですけどね」

 

 

「野田版歌舞伎の鼠小僧や研辰もですが、野田さんはいつも暴いてきますね。デビルマン的な人間の恐怖や邪悪を」

「ヘニング・マンケルがエッセイで『書くことは自分の心の懐中電灯で闇を照らし、隠されたものを暴くこと』って書いてましたけど、まさにその通り」

「先週今週とクストリッツァのアンダーグラウンド、桜の森とえぐえぐ泣いて、ブラッククランズマンとか、最近見たもの全部泣いてる気がする。全部暴いてくる。暴かれ泣き」

「めったに泣かないのにね。いい話とか、はあ? なにこの茶番?って唾を吐くようなクズなのに」

「心のジョーカーが荒ぶるからね」

「ホアキン・フェニックスがジョーカーってどうなのでしょうか」

「ちょっと悲しい話にしたいんじゃないのかな。おれたちのダークナイトジョーカーは違う」

「本当の意味であれを再現できるのは松たか子さんだけの気がします」

「……それ!!!」

 

 

 

 

泣きながら二人で昼から飲んで毒とかはいているので、店員さんに避けられているような気がしました(すぐ被害妄想に陥るタイプ)

 

 

 

最近見たもの感想1

映画 

「たちあがる女」(アイスランド)公開中

カウリスマキが好きな人はきっと好きな映画です。

試写会で見ました。


「独身女性、49歳、養女を迎える」
日本なら、私、お母さんになれるのかしら、子育てって大変、家族って何だろう、みたいな話になるかもしれませんが、全く違う。
そんなベタベタした生ぬるさは一ミリもない。子供自体も最後にちょっと出てくるだけ。それもすごく精神年齢が大人。無邪気かわいいもちもち、じゃない。意思や知性がある顔つきをして、無言で相手を見てくる子供。

そもそも
Kona fer í stríð(原題=Woman at War=戦場の女)
たちあがるじゃないんだよ。
邦題のつけ方がなんかもう、日本的。
女は立ちあがらないものだ、座ってるんだって最初からそういうスタンスです。
なんだかね。

主人公は未来の地球を守ろうとグローバル企業による環境破壊を止めるため、一人でテロ活動をしています。
一人で荒野に赴き、電線を切り、爆弾を仕掛け、鉄塔を切り倒し、死んだ羊の皮を被って警察から逃げます。
立ちあがるどころじゃない。まさに戦い。
自分の行動を正しいと信じていますが、もし自分が逮捕されたら養子に迎えた子供はどうなるだろうと思う。長年子供が欲しくて養子申請してきて、今やっと申請が通ったのに、仕事仲間もおめでとうと祝福してくれて、本当に嬉しい、でも、子供を迎えていいのだろうかと悩む。
だけど信念は曲げない。環境破壊を止めようとするテロ行為へひそかに協力する人もいるし、わからないなりに助けてくれる人もいる。犯人が彼女だとは思わず、経済的な影響や倫理を理由に、テロ行為を非難する人々もいる。
周りの人との関係性がすごくいいです。姉妹や疑似家族、仕事仲間との距離感。
それぞれ自分の主張がある。安易な同意や共感をしない。批判もする。だけど相手を尊敬している。いざという時無言で力を貸してくれる。そういう関係。


トークショーに登壇したアイスランド大使が女性で、男性だと思い込んでいた自分が恥ずかしかったです。駐日も在外も女性大使はけっこういると改めて知りました。
「女性活躍先進国からのメッセージ」とかなんとかイケてないテーマでくくられてたけど、大使は「女性に限った話ではない、人間としての話です」と若干戸惑っていた。本当に。人としてです。
孫がいる年ですと仰っていましたが、さらりと着こなしたミニのレザーワンピースにブーツがすごくおしゃれで素敵でした。夫は医学博士で、仕事を中断して日本へ一緒に来てくれたのだそうです。

「アイスランドではシングルマザーの大統領やレズビアンの首相もいました。現首相も40代の女性です」

知らんかった。

「16年間女性が大統領だったので、その間に育った子供はこの国では男性が大統領にはなれないのだと思っていたのです」

社会的な刷り込みってそういうものですね。
押しも幸せにする、社会全体の責任として子供たちも幸せにする。両方やらなくちゃいけないってのが大人のつらいところだな…覚悟はいいか。あっすみませんできてないがんばります。

「性別というより、一人の人間として真言(マントラ)を持つことが大事だと思います。人から与えられた言葉は自分のものではない」

「政党の立候補者に男女比の不公平があると、ソーシャルネットワークでとても非難されます」

ソーシャルネットワークのソーシャルって社会的って意味だもんな。当然だけど…
日本のソーシャルメディアは村感がすごく強いけど、社会の様相を反映しているからそうなるのだろうな。

「男女だけでなく、LGBTQすべての人に平等な機会を与える社会を目指しています」
「日本の女性は高い教育を受けていて優秀なのになぜかハッピーに見えませんね…そこまで謙虚でなくてもいいのでは」
「アイスランドは小さな社会なので変化が起こりやすく、日本は大きな社会で表面上はうまくいっているので変化は難しいのでしょうが」

言葉に気を遣っていただいて…

大使がものすごく魅力的で、知的で大人で、人としても社会全体としてステージが違いすぎて唖然でした。

社会人として周りを見て、年をとっても非常に視野が狭く幼い人がいると思うことがあります。自分も含めて。
もちろん凄くまともな人もいる。そうでないと回って行かない。
この映画の主人公に対しても日本では「人に迷惑をかけるな。身勝手だ」とかいう声があがるかもしれない。国土や経済力や人口と関係なく小さい。ほんとに小さい。
大使は、主人公の行動を肯定してはいなかったけど
「彼女は自分自身をとても信じて行動している。そこが面白い映画」
公私を交えてそういう感想を言えるのが、非常に大人で人間としてまさに立っていて、
意思を持って動く他者を尊敬する姿勢が、映画中の人間関係と同じ。
すごくいい。



「今年の流行語は”ソロ活動”だね」
「鉄塔倒してから出直してきな、っていうね」
「去年の流行語は”あの目で見るぞ”でした」
「フィンランドのアテネウム美術館、あの目だらけで圧巻だったわ」
「全人口の1%がメタリカのライブに行ったんだって」
「スオミすげーな」



飲んで帰る。















ブラック・クランズマン アカデミー脚色賞受賞



スパイク・リー監督、おめでとうございます!

心に紫の花が咲きました💜 ここ最近なかった熱い躍動!

初めての受賞とは、驚きでしたが、
サミュエル・L・ジャクソンとがっしり抱き合っている姿に、長い苦節だったんだな…とグッとしました。
これで観客動員が増えるといいな。
ブラック・クランズマン 3月22日公開です。


殿下のエンディング曲を聴きたくて、10月の旅行でヘルシンキの街中で
「やってる!」「殿下のお導き!」「見よう!!!」と見ました。
5月にカンヌで上映していたのに、日本公開がずっと未定で、最近は洋画を見る人が少ないから公開しなかったらどうしようと思って。
英語+スオミとスウェーデン語の字幕、どれもよくわからん! だったけど、
その分スパイク・リーの絵作りのカッコよさがすごくよくわかりました。
友人も同じことを言っていたので、…多分かっこいいはずです…。


差別への怒りとユーモアと愛と友情と、エンターテイメントとメッセージ性が絡み合う、うまく言えないけど、本当に今見るべき、見てよかった映画でした。

スパイク・リーはプリンスのMoney don't matter 2nightや、最近はキラーズのLand Of The Freeも監督しています。
メッセージ性が強いけどその辺りの映像が好みなら楽しめると思います。ジョジョ好きな人は好きだと思うなあ。


映画の予告編は宣伝のためか面白バディ映画みたいになってますが、実際はもっとハードです。
こういう、敷居の低い映画っぽくしないと観客が来ないと思ってる配給会社は見る側をバカにしすぎでは。
実際客が来ないんだよと言われると広告製作側としてはそうだろうね、現場はちがうんだろうね、決定権を持ってる人が悪いんだよね、とは思いますが、そしてクライアント側としては、前例と安パイが早く話が通るんだよ、こけたら誰が責任取ってくれるの? 自主規制と忖度が必要なんだよここでは、となるんですけど、
人間には多様性があるのだから商品にも多様性があり一律の成功論法では届くものも届かない。それを模索しないのは怠惰な仕事といわれても仕方がない。ブーメランブーメラン

映画は娯楽だけど、思想や実験やさまざまなテーマを内包しているもので、それがいいのに。
大画面だからこそ作りこんだ絵や音楽を楽しめるのに。
テレビをそのまま長くしたような映画を映画だと思わないんですが。
個人的には。もう少し志の高いもののはずだと思っています。





 


Spike Lee’s Tribute to Prince at the Oscars

https://nyti.ms/2GGnSXj

スターリンの葬送狂騒曲

スティーブ・ブシェミを見に行こうと誘われて新宿武蔵野館。

…怖かった! 
途中から全然笑えなくなった…こんな予告編のノリではない。
ノージャスティス…
やっぱりロシアと中国はレベルが違います。
忖度&隠蔽どころじゃない。
パワハラ村八分すっ飛ばしてスピード勝負即処刑。

同僚と飲んでいた時のことを思い出しました。


『仕事がだめでも悪い人でなければもういいですよ』
『あなたの思う悪い人ってどんな人』
『時代が違えばナチの協力者になり、隣人を密告し平気で弱者を迫害するような人が悪い人です』
『そんな悪い奴そうそういないよ~』


 …いや結構いるよ…



スターリンが死んで収容所を釈放され、帰ってきた父が息子を見る目と息子のやばいって顔…
夫婦だろうが親子だろうが自己保身のために相手を売る地獄。

そうさせる権力が悪なのか、追随して手先となる人を裁けるのか、ボクシングの選手が夜と霧を引用したニュースもあったし、何かのメッセージっでしょうか?

でも自分の中の悪魔が、映画館で靴を脱いでこちらに向けて足を組んでくる隣の人の足を切り落としたいと思っていた。エンドロール中に携帯メール見てる人とか。己の中の悪も直視させられる。
怖かったけど平成最後の夏に見られてよかったです。




 

 

ファントム・スレッド

映画の感想書いたよな~どこだっけ
と探して別のメモから移動

 

映画「ファントムスレッド」 を見ました。

支配/被支配with体調不良ものとして面白かったので、あらすじとネタばれと感想です (勝手な解釈なので、これから見ようという方にはお勧めできません💦)
 
監督・脚本・製作:ポール・トーマス・アンダーソン
出演:ダニエル・デイ・ルイス、ヴィッキー・クリープス
2017年 アメリカ

舞台は50年代イギリス。有名メゾンのデザイナー、レイノルズは仕事人間で独身、同じく独身の姉と確立されたライフスタイルを送っています。家には常にモデル兼愛人がいて、彼にとって鬱陶しくなればお役御免。身勝手に生きています。
田舎町のウエイトレス・アルマは彼の新しい生きたマネキンとして共に生活するようになります。レイノルズはお爺さんですが、上流階級の金持ちで仕事熱心で魅力があります。アルマは彼に愛し愛され、安定した世間に認められた関係になれると思うのですがそうはいきません。
レイノルズは傲慢でシスコンで仕事第一、アルマを人間として見ず、都合のいいように扱います。

二人の関係を構築したいアルマと、今のままでいたいレイノルズは言い争いをします。
アルマは「あなたを待っているだけの生活なんて」「全部あなたのゲーム」とレイノルズを非難し、レイノルズは嫌なら出ていけばいいと言います。
一見、道具扱いされているアルマに怒りの理があるようですが、ここまでの段階で、姉シリルとの会話を通じ、アルマが人の忠告を聞かず、自分の考えに固執しており、「相手に対して自分の幻想を強固に持っているのはむしろアルマのほうだ」という示唆がなされています。
レイノルズが仕事で疲れきっているとき、彼は寝たきりになり弱く素直で無力です。
それを再現するためアルマはレイノルズに毒キノコを飲ませます。
レイノルズは嘔吐し激しく発熱して病床に伏し、死の恐怖を感じます。アルマは献身的につきそい、看護します。弱っているレイノルズはアルマの意思に服従し、姉が呼んだ医者の診察を拒否します。そして回復したレイノルズはアルマに感謝し、結婚を申し込むのです。

しかし、元気になり強さを取り戻してきたレイノルズはこの結婚は間違いだったと感じ始めます。下品に音を立てて食事をする妻に嫌悪を覚える、というのはかなり強烈です。そしてアルマもそのレイノルズとの生活に不満を覚え、不機嫌な態度を表します。
夫婦になった二人は激しくマウントを取り合い、今までの自分の仕事、生活スタイルが崩される怒りをレイノルズは姉に打ち明けます。

アルマは再び毒キノコを使い、オムレツをつくります。レイノルズが大嫌いだと再三告げたバターを大量に入れたそれを傲慢に、「口にしてやろう」というレイノルズとテーブルで向かい合いながら、アルマは言います。
あなたには弱くいて欲しい。無力で、素直で、優しく。
大丈夫、死ぬまでにはならないから。
レイノルズは毒を盛られているのに気づき、倒れる前にキスをしてくれというのです。

さて、これがアルマの異常な愛をレイノルズが覚悟と諦めと共に受け入れたのだ、それが二人の愛の形だといえば収まりがいいのですが、レイノルズというのはマザコンでシスコンの男です。一見自分を強く持っているようでありながら病気になれば母の幻を見、やたらに母の話をし姉に何でも相談して頭が上がらない、依存心の強さを何度も見せています。
アルマを自分より格下の弱い人間と侮っていたレイノルズは、アルマの狂気に似た強さに気づき、支配されたいと望む。つまり彼が受け入れたのはアルマ自身ではなく、自分の弱さと性癖なのです。
そしてアルマは、やりすぎて彼が死んでも構わない、という。来世で生まれ変わって望み通りの彼とまた出会うから。
傲慢で弱い男と毒を盛る倒錯した女、最終的に見ているのは相手ではなく自分のエゴの幻想(ファントム)で、相手を支配するつもりが自らが糸(スレッド)に操られているという永遠の噛み合わなさと残酷さが怖い話でした。

見終わった後友達と「あれってどういうこと?」と話しながらこのように考えましたが、いろんな解釈ができる話だと思います。
言葉で説明するのではなく表情や態度や示唆されるものがいくつもあるので、何を受け取ったかにより変わってくるような映画です。
しかし体調不良ものって怖いですね。ミザリーですね。具合が悪くなって世話されるのも具合が悪い人の面倒を見るのも嫌なので(まあやらなければならないならやるけど)、心の動きは想像できるけど共感はできないなぁ。

 

追記:2024年にこの映画を思い出して読みかえしました。「愛の中にある支配欲」「支配されることによる支配」そして支配欲・被支配の支配欲自体が相手ではなく自分のためにある、ということかなと思ったり。

このころ二次創作の体調不良モノの人気にちょっと驚いていたので「支配、支配されることによる支配」の構造が興味深かったのですね。
そして恋愛・夫婦関係は「対等」ではなく「支配/被支配」の方が収まりがいいこともある。「女性が被支配者」だったり「受けが被支配者」だったり「被支配者の愛されによる支配」などもその流れで、体調不良も「力の不均衡」が支配に大きく影響します。
愛とは…みたいな気持ちになりました。支配されるなら犬がいいね。めちゃ散歩する。