映画・舞台

最近見たもの

 

「マックイーン:モードの反逆児」(2018)

 

U-NEXTお試し期間で見ました。

 

ファッションデザイナーのアレキサンダー・マックイーンのドキュメンタリー映画です。

・マックイーン、作品がすごく尖っているのに本人の見た目が英国ブルーカラーフーリガン風でデザイン学校の教師に「みすぼらしくて魅力がない外見だった」といわれる

・サヴィル・ロウで働き、イタリアへ単身渡ってロメオ・ジリで働くなど、10代で凄く頑張る

・才能があるが、厄介な人たちが群がってくる

・40歳、母の葬儀の前日に自殺

 

幼少期に義兄から虐待を受けたとか、生育環境にも問題があって、若くして現場で才能を発揮して、周囲に消費されながら燃え尽きてしまう

 

友人「嫌いじゃないけど、踊らされたな、って感じ」

 

残酷だけど「踊らされる」ってすごく、的を射ている…

彼は人並外れた才能があるから踊らされ方も並外れていたけれど、凡人もだいたい踊らされているよね。

イヴ・サンローランも若い時から有名メゾンで才能を発揮し、兵役で性的虐待を受けたり薬物依存に陥ったりと重なるところがありますが、周りの人には恵まれていたのかもしれない。

才能に群がる厄介な凡人たち、今はSNS発信で承認欲求を満たしているのだろうか。本物は発見されにくくなるけど、ある意味平和といえば平和…
 
ドリスヴァンノッテンのドキュメンタリー映画、庭を愛する職人仕事がとてもよかったなと思いました。
 
 
 
 




 

 

 

THE BEEと毟りあいと筒井康隆(1)

 

THE BEE

・原作 筒井康隆「毟りあい」
・英語脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン
・日本語脚本・演出:野田秀樹
・出演:阿部サダヲ、長澤まさみ、河内大和、川平慈英

 IMG20211110183506.jpg

2021年11月10日、24日に池袋の東京芸術劇場で観劇。

 

前情報何もなしで一回目に見て、インタビューや原作や英語版の内容を知って二回目を見るつもりです。

 

<ストーリ>
平凡なサラリーマンの井戸(いど)がある日帰宅すると、自宅が警察に囲まれていた。凶悪犯の小古呂(おごろ)が脱獄し、井戸の妻子を人質に立てこもっているというのだ。警察とマスコミに振り回され“被害者”であることに限界を感じた井戸は、小古呂の妻の元を訪ねると突然豹変。小古呂の妻子を人質にとって立てこもり、“加害者”として小古呂に対峙。憎しみを応酬させていく。(WOWOWオンラインより)

 

私はNODA・MAP作品は2016年の逆鱗からなので、数は少ないのですが、THE BEEを一回目に見た時、今まで観たことがある野田作品と違いすぎて、途中まで混乱していました。
何が違うのかというとまず演者四人の密室劇であること、あからさまに暴力的なこと、非常に単純なつくりであることです。

英国で英語版初演なのは知っていたので、「向こうに合わせたのかな。少人数の密室劇っていかにも英国な感じがする(知らんけど)」「THE BEE→クイーンビー→女王陛下の英国なのかな」とか思って観ていました。

加害者と被害者が互いに加害者になって、段々と「家族を守る、家族に会いたい」が「あいつを打ち負かす」が目的の暴力と報復の連鎖になって、そこで犠牲になるのは子供と子供を守ろうとする女性で、最後には加害者被害者双方が自己破壊していく。

西洋の歴史の事なんだろうな、と観ながらぼんやり思ってました。

日本を含め各地に残る植民地支配の影響とか、西洋人が見て見ぬふりをしている歴史を象徴的に暴いてつきつけているのかなと。

 

 

インタビューで、アメリカの同時多発テロに触発されて、と野田さんが仰っていてそれは思わなかったけど、なるほど、そうかと。
世界10か国で上演したそうですが、アメリカ人は自分達のことだと全く思わなくて、イスラエルのひとは日本のサラリーマンの話なのにすぐに自分達の事だと思ったってのが本当米国そういうとこだぞ、と思います。

原作は1975年ですが、
「(何十年前の作品だろうと)クオリティがあれば見る人の想像力で今ある状況に引っ張られていく」
その想像の引っ張り力で作品をつくりあげてしまうのがすごい。

 

で、原作を読みました。
全く印象が違うので驚きました。

私の勝手な印象ですが、原作では「自分」が第一で、最初から妻子ではなく「俺があいつより上であること」が目的になっている。警察やマスコミ、全部が敵で加害者。
被害者ではなく加害者になる。周りの人全てへの憎悪というか怒りというかネガティブな感覚が強い。

作中で書いちゃってるけど、新左翼の内ゲバなんですよね。多分。

新左翼の内ゲバってわかるようでよくわからないから、ちょっと調べました。
「日本共産党や社会党などの既成左翼を否定して生まれた極左=新左翼の内部での路線対立や覇権争いによる暴力」
のようです。
文章も、内へ内へ自分の内部感覚って日本的な構造だと感じました。


それをイスラエル人に「俺たちの事だ」と感じさせる普遍の世界観に解釈した野田さんはやっぱりすごいと思う。
英国上演時には自身が女性を、英国女優が男性を演じていて、強姦を「英国のアジアへの植民地支配」と解釈できるようになっている演出もすごい。

でもそれは言葉にされたり、わかりやすく答えとして提示されたわけではなく


「見てる人が頭の中で組み立ててくれる」

という、受け手の想像力のフックとして提示されていて、受け手がそこから読み取る能力を信用し尊敬してくれているんだよね。

演者にも
「なんでこんなことするのかと聞かれたら、絶対人なんか殺さない人が戦争に行ったら人を殺す」そういうことだ、と答える。




筒井康隆は『時をかける少女』や『パプリカ』、『富豪刑事』などの原作者と知っていましたが、読んだのは初めてでした。

『全集17 七瀬ふたたび/メタモルフォセス群島』一冊読んだきりで言うのもなんですが
上手く言葉にできないんだけど、なんだか不快でした。
なにが不快って、いわゆる知識層による傲慢な差別感覚かもしれない。

七瀬ふたたびは七瀬という主人公と仲間の超能力者物語なんだけど、非超能力者を「普通人」と呼び、男は女を犯す事ばかり考えてて、女は妬み嫉み、子供も他人を傷つけようとする低劣な下種ども、主人公側の超能力者は美しくて知的で正義のために力を使いたいと思っているのに迫害される…という。
七瀬を崇め奉り上位意思として従う黒人男性、とか、そのまま奴隷じゃん…
内容はちょっと小難しくしたラノベなのに、性差別や人種差別におさまらない、もう人間差別の世界。


現在の異世界とか転生とか能力者ものって、現実がたいしたことない人のための慰めでしょう。例えば、自分が被害者だから報復していい、その力が与えられる、という構造。弱者の夢想。
でも筒井康隆は「大学に行けば人の上に立てる(若者たち1966)」時代で同志社大学を出て既に文化人として評価も得ていて、十分に強者の立場ではっきりそれを自覚しながら、この内容なんです。
立場として加害者側に立っているのに、被害者気分で、それは「お前らが低劣で下種で愚かだから」という目線。
持っていない人間への優しさや労わりが全く感じられない。
これが昭和から続いてる感覚なら、大衆側から反知性的に「利口ぶったエラそうな奴への攻撃」をしたくもなるだろうと思います。



私も言い方がひどいと承知でいえばバカは嫌いなんですが、何がバカかというと
「既得権益の上から弱い者いじめをする、大声で美意識がないヤツ」
だと思っていて、例えば東大に行ったから他人より自分がエライと思ってる人。(ハーバードでもオックスフォードでもIITでも同じく)
東大を創ったわけでもない、東大がスゴイと言われるのは先人の実績があるからであって、勉強しました合格しましたって、人が作った教科書や参考書を使って上澄みをさらっただけで、先人がなぜ積み重ねてきたかといえばアナタの小さな自尊心を満たすためでなく後から来る人達のため。そんな事もわからず「俺は凄い」と他人を見下せるのはバカで、職業や性別や人種その他「他人が歴史で積み重ねた既得権益の上から弱いものいじめをする」のはバカだ、と思っています。

で、その「いじめられる側」が既得権益層にすり寄って、さらに弱いものや歴史的に踏まれてきた側をいじめる。これもひどい愚か。

まあそういう人はたくさんいるし、自分にも要素があります。

それを恥じたりコントロールしようとするのが人間として、だと思うんだけど
理想は実現しないとわかりつつ持っていないと、ひどいことになるから。
socialで大声出しているわけではなく、自分のためにメモしてるだけなので、軽く流してください。

 

 

ちょっと、ヘンな方に思考がずれてしまったけど
この私自身の足りない思考を野田さんの舞台で少しは広げられればと思いつつ、
第二回目を楽しみにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足跡姫と桜の森の満開の下

 

友達の友達(遠い)がWOWOWで録画してくれた野田秀樹さんの舞台を見ました。


実際の舞台でも見ているのですが、むろん、なまの舞台と比べたら冷凍の解凍のようなのですが、でもセリフや表情が何度も見られるのは補足として違う感慨を呼びおこします。

 

 

足跡姫 
2021092701.jpg


(宮沢りえ、妻夫木聡主演。18代目中村勘三郎への野田さんの思いがつまっています)

 

 

出雲阿国にとりついた「足跡姫」
製鉄所でたたらを踏み、刀鍛冶をし、それにより政治的迫害を受けて将軍を恨んでいる。
将軍の前で踊ることが悲願の姉とその姉を支える劇作家の弟

 


ラストシーン

「足跡姫はこの世の無限を蹴散らした。だから無限は死にました

代わりに無限に続かない命が誕生したのです…終わりのある命が誕生したのです。そうして命は終わるようになりました
おわり、お、あ、い」


「姉さん!!


……幕だ、幕を引いてくれ!


ここで幕が引かれさえすれば芝居になる! 
幕の後ろで姉さんはまたけろっと起き上がる! 偽物の死になる!
そしてまた明日も姉さんは舞台に上がる!


姉ちゃん…
僕たちは舞台の上にいなくてはいけない!
何度も何度も!
偽物の死を死に続けなくてはいけない!

だのに姉さんの肉体が、ゆっくり、ゆっくりと、目の前で消えていく
消えていくのが見える
そして消えてしまったものが見える
いなくなってしまった姉さんが見える

姉さんはこういうだろう

お前はまだ、なにもつくっていない! なにひとつ作っていない!



よし、だったら姉さんが大好きだった起死回生のすじを、
どんでん返しをつくってみせる!
そこで、姉さんを、生き返らせるよ
姉さんの肉体が消えて、ここで、女歌舞伎の一座も消えてしまうだろう
僕はこの江戸にとどまろう
とどまって、江戸中町広小路あたりに一座をつくろう
なんて名にしよう
……さるわか、猿若座をつくる
そして僕はその初代、猿若勘三郎になる
女歌舞伎は消えたけど、これは大興行部だ!

そしていずれその初代猿若勘三郎の肉体も消える

だが、消えても、消えたのに消えることなく、ずっと続いてみせる!
僕が掘った穴から、地球の反対側から、いづこの御国の故郷から、次々と現れる!
二代目、三代目、いやもっと、六代、七代!いいや、十二、十三、十四、十五、十六、十七、…十八!!!
少なくとも、十八代目までは!

はは、ごめんよ
また大向こうの嫌いな数字の話をしちゃったよ


でもそこできっと、姉さんのひたむきは生き返る
あの、無垢の板で出来た花道の先、
大向こうで、
ひたむきな心は、いきかえる…!

 

 

この長セリフを最後に言う妻夫木さん
インタビューで仰っていました。

 「今回は何か、花道がずっと続いていく感じが、毎日そういうものを感じながらやれていたんですよ。
遠くに何か、ずーっと続いていく何かがある
そういうものが見えていたような気がしますね」

このストレートな、十八代目勘三郎への思いと、舞台が、役者が大きな物語に繋がって花道をゆくような、それは華やかだけれども枯れたら残らない花の、死んだら消えてしまう舞台の道だけれど、心は生きて、繋がっていく、じぶんはそういう脚本を書く、それが勘三郎さんとの約束で、いやそういう簡単に言葉にできるものではないのですが


泣くよね。ただ泣く。


贋作 桜の森の満開の下

2021092702.jpg

 

(主演:深津絵里、妻夫木聡 坂口安吾の「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」に飛鳥と飛騨の国争いと鬼門からやってくる鬼を交えて)

これも、表現者である耳男とミューズの夜長姫なのですが
「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ」
この創作の厳しさよ

野田さんのインタビュー

「30年前はそこまで考えずに書いていたと思われるところを、ああなるほどこういうふうに解釈できるなと。例えば国をつくるためにはどういうことをしようと考えたのか、とか。自分なりに演出家として深読みは30年経ったのでできています」
「つくる、なににせよ、ものなのか国なのか、なににせよつくる、人間をつくるということに焦点を置いている」

「天皇の御幸と鬼の行列がクロスする瞬間
つまり自分たちが何かをつくる時っていうのは、必ず、作った人間ともう一つクロスするものがある、われわれがつくったがゆえにつくられないで土の下に籠ったもの」

 





妻夫木さんインタビュー

「あの人は言葉にならない何かを確実に演劇で表現しようとするんです
桜の森の満開の下で、たぶん、お客さん、すべて、理解できないと思うんだけど
その、涙の意味がちょっと、わからないんだけど、泣いちゃった、感動した
野田MAPの作品はどれもこれも全部そうだと思うんだけど
その感動の意味が分からない
言葉がないんですよね
説明できないんですよね
なにが素晴らしかった
それはもう、セットも、美術も、芝居も、表現、いろんなことの表現、桜だとか文化だとか全部素晴らしいですよ、やってることは
みんなが、つくり上げているのは人間なんだけれども
その中で生まれた感動の意味を事細かく言葉で説明しようとしてもできないんですよね
それってすごい、ですよね
説明できないんですよ、見たのに
59公演やった僕でも、説明できないんですよ、
実際、耳男を演じた自分自身も。こういうことで説明したんでしょって、そういう言葉自体が稚拙さと言うかなんだろう、本当に自分の小ささを思い知ってしまうし
うーん、なんだろうね
だからこそ、演劇はほんとうに、すごいな、芝居の力は、って
僕にとっては舞台の上で表現するってこと自体が、桜の森の満開の下にいる気分なので
野田秀樹っていうひとは本当に何を考えているかって僕は全然わかんないけど
やっぱ、天才ですね」



!!!
そう!そうなんです!
なんでかわからないけど心の鍵盤をかきたてられて暴かれて何に感動したのか感動なのかもわかんなくて、ただ、泣くんですよ!
いろいろあって、ただ最後は美しくて、美しいんだけどそれだけなわけがなくて
ただわけもわからず泣くの
演じている側もそうなんだ
そりゃボヤっと五、六回見ているだけじゃあたりまえですよね。
うん。

妻夫木さんはもう、お姉さんとおじさまに愛されます、それは
というゴールデンレトリバーの子犬のような謙虚なかわいさでした。


あと、天海さんの大海人皇子

古田新太さんが「身近にとびきりの王子様いた!」って
遠目でみても美しかったのに画面でアップでみたらフォルムが美しくて気品があってまあ王子様でした!



 IMG_20210916_193727.jpg

 

 

 野田さんの舞台は私は2016年の逆鱗が初めてで、遅すぎて、高校生の時から見ていたという友達が羨ましいのですが、こどもの時は何が何だかわからなかっただろうなと思うと出会うべきものには出会う時期があると感じます。

出会うべきものに出会えるように、年を重ねられますように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フェイクスピア(東京芸術劇場)


大々的にネタバレの感想
 IMG20210629184820.jpg

脚本・演出: 野田秀樹
出演: 高橋一生、白石加代子、橋爪功、野田秀樹
衣装: ひびのこづえ

 

6/16昼、6/29夜、観劇しました。1階席のかなりいい場所だった!ありがたい。
チケットは二人で12回分申し込んで2回当選だったので、前より当選率が高いかもしれません。
コロナ状況で控える方もいらっしゃるのでしょう。


さて、

見終わって


「ありがとうございました…」
「ありがとうございました…!」


それしか言葉がない。二人で泣きながらアンケートを書いたよね。二回。計四枚。
伝わってください…我々はSNSで簡単に語れるタイプじゃないから、野田さんにだけ伝わればいいから…


二回見てもまだ全然野田さんの思うところを受け止め切れていないと思うのですが、できる範囲で感想を記録します。

  • ジョージ・バークリーの「誰もいない森で倒れた木の音は存在しないのか」で始まる。倒れる木と(言の)葉。言葉と声というテーマの提示

 

  • 白石加代子様登場。憑依女優はかつてイタコ修行をしていた。恐山のイタコではなく恐山にいた子、にしかなれなかった。それを野田さんが舞台にしました、というメタ的発言

 

  • イタコ修行中の白石加代子(元演劇部)のところへやってくる橋爪功と高橋一生による、「誰を呼び出してほしいのか」からシェークスピア劇憑依。高橋一生の女性役雰囲気ある。

    「娘三人に遺産相続」「嫉妬で妻を殺した」「妻にそそのかされて主君を殺害」こういうキーワードでリア王、オセロー、マクベスとわかるのって常識なのか教養なのか。観客の多くはわかって笑ってたけど、もしかして知らない人にとっては??なのだろうか。
    そして「わからない」という恥が怒りになったりするんでしょうか。関係ないけど後述

 

  • 高橋一生は「神から言の葉を盗んだ男」で、言葉の箱を持っている。神の使者から追われている。橋爪功は元演劇部の地下鉄職員。なぜだれを呼び出してほしかったのか自分でも分からない。

 

  • 神から盗まれた言葉は「死」。プロメテウスは火を盗んで人間に与えたが、高橋一生は江戸っ子だったので「ひ」が「し」になってしまったという言葉遊びが野田さん

 

  • 死を奪われた神は不死になり、言葉を失って不在になった。人間は死を知らねば誰もいない森で倒れる木と同じ。何時何分に死んだと認識しないひまわりと同じ。死んだことに気づかなければ死んでいても死は存在しない。

 

  • シェイクスピアの息子、フェイクスピア(野田秀樹)登場。ラップとダンスの切れがすごい。
    言ったもん勝ち、書き込んだもん勝ち、それが今の言葉の価値🎵
    そんな人間に言葉ってもはや必要なのだろうか??

 

  • シェイクスピアの四大悲劇のうち、(読んだ?悲劇、呼んだ?悲劇)まだよばれてないのはハムレット(ここ重要)

 

  • 星の王子さま(前田敦子)登場。本当に大切なものは眼に見えない。だから盗まれた言葉は声である。声は発せられたら空に昇って消えてしまう。


  • イタコ憑依をトランジットに例えたり、サンテグジュペリの夜間飛行など


もうサッとネタバレしてしまうのですが、

高橋一生と橋爪功は親子です。

橋爪功が子供の頃、若くして死んだ父親が高橋一生です。
そして、地下鉄に飛び込もうとして、隣の人に先に飛び込まれて出来なかった息子のために、「言葉」を伝えようとやってきたのです。
神から言葉を奪い、人に死を与えた高橋一生は息子から「子供の頃、家にひとごろし、と叫ぶ人たちがきた」と思い出を語られる。

箱をちょっとあけて出てくる言葉

「どーんといってみよう」

「頭を上げろ」(これは高橋一生が登場時から言っていて、何この人っておもわれているんですが)

「気合い入れろ」

「がんばれ、がんばれ」

 

「これ何!? こんなんで死ぬのやめようとか思う??」(息子=功)

 

知っている人はここでピンとくると思います。

1985年(​昭和60年)8月12日、日航ジャンボ機墜落事故です。

 

 

 

 

 

イタコ昇格試験で、最後のチャンスにかける白石加代子は、橋爪功の父親を呼び出そうとします。

彼女は死んだ母に会いたくてイタコ修行をしようと思った。
だけど自分に母が乗り移ったら、私はいなくなって、母は私を抱きしめることができない。

だから、演劇部の同級生だった橋爪功(タノ、という名前。タノ、しんで?って昔いい合って笑った、といいます)のために、イタコになれなくてもいい、いま、お父さんを呼び出してあげたい、と願います。

 

言の葉の箱がひらいて、言葉があふれ出します。

墜落していく飛行機のなかで、パイロット、副操縦士、CAが、沢山の乗客を乗せて何とか、生きようと、機体を持ち上げようと、命を救おうと、

「頭を上げろ!」

「ダメです!」

「スコーク7700!」

「ハイドロプレッシャーオールロス!」

「あーーーーっ」

「がんばれ、がんばれ!」

「どーんといってみよう」

「気合い入れろ!」


叫びながら必死で、何とかしようともがく。
人間の力ではどうにもならない、大きなものの前で、あがく。
その孤独、無力、でも最後まであきらめない。

ポールを掴んで、キャスター付きの椅子で、コックピットと乗客が上下する機体の中でバラバラになり、また何とか戻って一つになろうとする演出がすごい。
こんなシンプルな表現で、ジャンボ機の内部と混沌が伝わってくる。

そして18時56分30秒、人は、死んだことを認識しないひまわりではなく、森の中で倒れる木の音のように、言の葉を散らして墜落するのです。

 

 

父が届けたかった言葉を息子は抱きしめます。

 

「頭を上げろ」

「頭を上げろ」

 

生きろ

 

 「タノ、しんで、」

死んで、ではなく、楽しんで

橋爪功と白石加代子が二人並んで終幕。
二人の名優の「生きろ」という言葉を背負い、発する重み。

※あとで確認したら、「生きるよ」でした。そうだよね…生きろじゃなくて、生きるよ、なんだよね…未熟な記憶め…


もう途中からわけもわからず涙がとめどなく流れて、野田さんの舞台はいつもそうですが、感動や悲しみや、なんとかの名前をつけられる類の、エモーションではなくて、もっと、違うところにある人間の何か。私はそう感じますが、たぶん感じない人もいる。それはちょっと人それぞれという話ではないと思うけど置いておいて

 

日航機墜落事件を扱うことを、不謹慎と捉える人もいるらしい、と聞きました。

でも、そんなことは野田さん自身が一番わかっているんです。

なぜなら、シェイクスピアの息子、フェイクスピアに野田さん自身が扮しているから。
現実を弄ぶフィクション=フェイクだと自分自身を位置付けているから。
演劇の神様のバカ息子、フェイクスピアだと自ら称し、ノンフィクションをフィクションでフェイクにして弄ぶ、させてたまるか、という星の王子さま(キャラクター代表)
でもなお、言葉によって伝えたい、悲劇を悲劇で終わらせずにはいられない、と言っているからです。
ちゃんとセリフで言ってるよ!
それがわからないのはちょっと、それこそ言葉が必要ない類の人間ではないかと思う。

そして、題材ではなく、もっとその向こうにあるものを見ようとしているんだよ。
優れた表現というのは、美術でも音楽でも小説でも、そういうものでしょう。

例えば、声になった言葉は消えてしまう、残らないというのは演劇、舞台に一生をかけている人の「残らないものを紡いでいる」気持ちでもあるのではないかと思いました。

神から奪った生、
神から与えらえた生

神は紙で紙から奪われた言葉という声は、一番大切な目に見えないものかもしれない。
でも目の見えない人にとっては見えないのが当たり前。
声があれば、そこに人がいる。
墜落事故で失われた肉体に残った声を、「頭を上げて生きろ」へ舞台へと変化させて描き出した野田さんの言葉を、受け止めていきたいと私は思うのです。

 

 

 ろくでなしどものぼやき

[...]

パンドラの鐘(東京芸術劇場)

IMG_20210423_083932.jpg

 

野田秀樹さん脚本の舞台を見に行きました。

演出は野田さんではないのですが、去年のルーマニアの演出家(シルヴィウ・プルカレーテ氏)による「真夏の夜の夢」が野田演出とは違うところが素晴らしく良かったので、期待して。

 

 

 

うううううーーーーーーーーんん

 

続きを読む

[...]

ノマドランド


NOMADLAND

2021 アメリカ
監督: クロエ・ジャオ
原作者: ジェシカ・ブルーダー
音楽: ルドヴィコ・エイナウディ


映画館を出て友人と最初に交わした言葉

「運転免許取らなきゃ」
「そうだね、免許必要だね」


自分の能力を信用していないので、人を巻き込んで事故を起こしたらと思っていましたが、大自然で人けがないとこなら大丈夫、自由のために免許が必要な場合もあるな、と。

 


見る人によって受け取るものが違ってくる映画です。
おそらくどの表現作品もそうだろうと思いますが、この映画は見る側が何を自分の中に持っているかで受け取るものがかなり違ってくると思う。語られることより語られない事の方が重要で、人生や社会が複雑に絡み合っているので、経験や価値観によって視点の置き場が変わってくる。


個人的な所感

・主人公ファーンのキャンピングカーで季節労働をしながらの放浪生活は、喪失をきっかけとしているけれど、もともとそういう方向性の人間だったのであり、ノマド仲間も、社会からこぼれ落ち余儀なくされたのではなく、そういう人生を選ぶ人たちなのだと思う。最底辺でも悲惨でも落伍者でもなく、彼らにとってはデメリットもあるが、選びたい生活。
西行法師の「願わくば花の下にて春死なん」です。
少なくともファーンが関わる人々はそのように描かれています。
彼らは放浪生活のスキルを共有し、相互扶助しつつ、「訪問お断り」「寄ってかない?」「散歩してるからいい」と個の領域を優先する。
排他的な連帯や絆をもたない。人ではなく犬と旅する。
デイブは違います。
彼はファッションノマドです。だから息子夫婦の家に帰り裕福な屋根の下でまた定住を始め、車のタイヤがパンクしているとファーンに言われても「ああそう、もうどうでもいい」と流すことができる。
故障した車を手放して新しいのを買った方がいいと言われたファーンが「それはできない。手をかけてつくりかえてきたの。私の家なの」と断るシーンとは対照的です。

※ファーンとデイブ以外の出演者は、役者ではなく本物のノマドの人たちなのだそうです。


・人生はある地点まで、人間関係や地位やお金や不動産やキャリアなどさまざまなものを積み重ねていくものだけれど、どこかでそれを一つずつ手放して、失っていくものだと思う。そしてそれは寂しいことではなく、当然の、自然で、そう思って受け入れていけるかどうかが生き方を大きく左右するものだと思う。
残るのは、思い出だけ。
だから、スワンキーが、病気でもうすぐ死ぬのだといいながら、今までの人生で見た美しいものをいくつも言葉にしたとき、ああ、人生で真に必要なのはそれ以外にある? と思い、命の終わりが近づいたとき、どれだけ美しいものを見てきたかを思い出せる人生を送りたいと思いました。


・原作はノンフィクションで、高齢ワーカーがどのように巨大企業に搾取されているかを取材しているのかもしれない(読んでない)。おそらく語り方は映画と違うのでしょう。
映画ではアマゾンの工場は非人間的な現場と絵面では感じるが、働くノマドたちにとっては「稼げる悪くない場所」です。
ビーツの収穫でも巨大な非人間性システムを垣間見ることができる。
だが、人間はもはや自給自足で生きていく事はできない。
少なくとも文明社会の恩恵を受けている以上、ノマドたちも同じ。綿を育て服を自分でつくり、小麦を栽培してパンをつくり、車をつくり石油を採掘することは一人ではできない。排泄物を処理することもできない。
それらは分業で、巨大なシステムに依存することで相互補助の社会をつくりあげている。そのシステムが人を搾取しないように努力しなければならないけれど、個人の手が届かない怪物でもある。私たちは怪物に寄生して生きている。
一人で放浪するデメリットを知っているノマドたちはだからシステムの一部に依存し、責めることはない。
だが、それと、強欲を抑制せず意識的に人を踏みつける個人は違う。だからはっきり意見する。
ファーンが、姉夫婦の同僚の不動産関係者の「土地は儲かる。サブプライムローンの時もっと儲ければよかった」に対して「それは違う。返済能力のない人に借金をさせるのは、おかしいでしょう」と言うのは、そういうことである。
普通の、富裕な生活をしている姉夫婦にとっては厄介な義妹、だけれども、お姉さんがまともないいお姉さんでほっとしました。


・人を疑っているので、カリスマノマド氏がいつカルトのボスみたいになるのかとはらはらした。
人が誰かを見下したり利用したり故意に傷つけたりしない、やさしい話でした。


風景が美しい。人間がいない世界はほんとうに美しいね(滅びの呪文)

音楽がとても良かったです。ピアノ。
音楽担当のルドヴィコ・エイナウディはイタリア政府音楽大使で、祖父ルイージ・エイナウディはイタリア共和国第2代大統領を務めた経済学者だそうです。
教養と教育の正しい形…
クロエ・ジャオ監督も非常に教養の深い、どんな人へも敬意のある、知識ではなく知性を持つ方なのだろうと感じました。30代でこの映画を撮れる成熟度がすごい。

 

スワンキーのインタビュー

「この映画に出演するために、実生活の状況を少しの間、忘れることにしました。出演してよかったです。ジャオは、なんと、わたしの腕のギプスのことも映画の筋に入れてくれました。素晴らしい人でした」

フランシス・マクドーマンドは「まるでわたしが有名な映画スターで、彼女がわたしの熱烈なファンであるかのようにふるまってくれました。“一緒に映画に出られてとても嬉しい”と言ってくれました。なんだか、長い間離ればなれになっていた旧友に再会したような気持ちになりました。撮影中は今までに感じたことのなかったような愛、存在意義、感謝を感じました」

引用元 シネマカフェ 記事

 

 

 

わかりやすい、言葉にしやすい、多くの共感を得る作品は、受け手のポテンシャルに任せる部分が少ないものです。感情を全部セリフで説明してくれたりもする。
お客様扱いの答えがある説明、わかりやすい感情表現に慣れてしまうと、自分で考え感じねばならないことを不親切と思うようになったり不快に感じたりするようになります。
そういうものが売れがちな世の中でこういう映画がつくられ、きちんと評価されるアメリカは様々な点でガタがきているけど、まだまだ大丈夫だなと思いました(そして日本はあまり大丈夫じゃないと思った)

 

 

「自分の部屋がキャンピングカーみたいなもんだよね」
「うん、一番安心する」
「このちっちゃい自分の領域に守られて漂ってる」
「モリッシーの歌詞を刺青にしてるじゃん。もうそこから信用するね」
「アマゾンで全然働けるよ。掃除とか、まずいコーヒー作って配ったり」
「できるできる」

 

 


2021.4.26
アカデミー監督賞、作品賞、主演女優賞おめでとうございます。
中国人、女性、30代
日本では受け入れられない要素がある(嘆かわしいことに)かもしれないし
監督が漫画好きということが話題になるけど、そういう本筋とは違う自分たちにわかるラベルを貼って物事を引き出しに入れようとするの、やめたほうがいいと思います。
とりあえず見て。話はそれから。











 

貴族ですから

 

新文芸坐でヴィスコンティ「夏の嵐」鑑賞

夏の嵐(1954)
監督 ルキノ・ヴィスコンティ
主演 アリダ・ヴァリ
原作 カミロ・ボイト『官能』
監督助手 フランコ・ゼフィレッリ

 
オーストリア占領下のヴェネツィアで、イタリア統一戦争を背景に、伯爵夫人とオーストリア士官の不倫と破局を描く。この士官がもう見るからにろくでなし。でも騙されちゃう。恋を知らない貴族の婦人だから。


いやもう、ぐうの音も出ないイタリア貴族の美意識で…
(ヴィスコンティ家はミラノを支配してきた貴族の家系です。紋章のビショーネは人をのみこむ蛇で、ミラノの紋章である十字とともにアルファロメオのエンブレムに使われています)

画面の隅々まで息苦しいほど美しい。本物しかない。
内容がメロドラマだろうが関係なく、ぼうっと見ているだけでいい動く名画。
もう、ドレスの裾の捌き方や座り方のフォルムひとつひとつが美しいです。
映画館で見る映画ですね。庶民の貧乏なインテリアの中で見る映画ではありません。
ティツィアーノの絵を飾れるくらいの家じゃなきゃムリ。
 
で、イタリア貴族の許さなさ。
やられたらやり返す、倍返しどころじゃない、ぶっ殺す。
ニーベルングの指輪のブリュンヒルデのように、ヨーロッパの

「泣き寝入りはしない。やり返す。私が間違っていた、OK死ぬ。でも世界も滅べ!」

な強さ、ぜひともアジアにも取り入れていただきたいものです。

NO泣き寝入り
蝶々夫人、死んでる場合じゃない、やり返し倍返しすべし
そんなときの為の始末人だよ。
マダム・バタフライwith始末人
高慢と偏見とゾンビみたいにリニューアルしよ?
 

イタリア貴族のインモラルと豪奢な美意識を見ると、英国貴族は田舎の人だなあと思ってしまいますし、ヴィスコンティとフェリーニはなぜか並べられることが多いけど、フェリーニは豪奢を描こうとしてもやっぱり貧乏の匂いがする。本物の貴族の感覚は庶民の想像ではわからない。
太宰治の斜陽が、地方地主の想像レベルなのと同じで、だから一般にわかりやすいのと似ています。

モラルは庶民を支配するためのツールで、貴族はそんなものには縛られない。
近親相姦、ペド、乱交、同性愛、不倫、殺人なんでもあり
貴族ですから。
ビョルン・アンドレセンの一番美しい時を無造作に摘んで散らす。
貴族ですから。
貴族は庶民のことなんかしったこっちゃないから。
描きたいとこだけ完璧に描いていきなりFIN
庶民のいいねや共感レベルになんか降りてこないから。
もうこちらはハァーって見てて突き放されてわからんけどとにかくぐうの音も出ない。
 
 
 
 
「ベニスに死す」を入門としたら、「ルートヴィヒ」「地獄に堕ちた勇者ども」から
合間に「熊座の淡き星影」「若者のすべて」などを挟み、最後に「家族の肖像」「山猫」の順にみるとだんだん大人の複雑な世界になってくる気がします。
映画館で。ありがとうございます名画座。
年齢と共にバート・ランカスターの気持ちがわかってきて、しみじみと名作の深みを味わいます。
 
 
ヴィスコンティのこだわりは実のところ同性愛ではなく母親だという点で、三島由紀夫に似ています。
 
前近代の階級の美意識を最後まで持ち続けるのは女性なので(男性は死んでしまうから)息子たちは滅びゆく貴族という未亡人の息子になってしまう。
 
 
 
 
「この許さなさを思うと、アンデルセンの人魚姫、気持ち悪い」
「アンデルセン、現代にいたら本当に気持ち悪いオタクだと思う」
「足が悪い、口がきけない、めそめそして最後は自分が死ぬ」
「しかも死体を残さない。泡になって消える」
「どんだけ都合がいいんだよ」
  「とことん弱くしないと妄想の対象にもできないのか」
  「被害者気分の自己憐憫に酔うヒロイン気質を語られるイラッと感」
「ディズニーのリトルマーメイドはよう知らんけど」
「そんなんじゃない、改変すべき」
「助けてやったらまず名乗り上げて謝礼を要求すべきだね」
「死ぬまで恩を忘れないよう首根っこ掴んでね」


いつもの店で飲んで帰る

 

 

 

異端の鳥 感想

 

 

映画『異端の鳥』

イェジー・コシンスキー 原作
ヴァーツラフ・マルホウル 監督
チェコ・ウクライナ映画 2019

 

第二次世界大戦時。田舎の叔母の家に預けられた少年は、叔母の頓死により一人きりで世界に放り出され、旅をし、様々な人と様々な残酷と差別に遭遇していく。
子供が差別、虐待に晒されるという意味では、「サーミの血」や「存在のない子供たち」と同じジャンルですが、圧倒的に残酷で野蛮。

 


とりあえずのネタバレ感想

 

「いやちょっと、救いがなくてね。この話を受け止める心の畑が自分にはまだない」
「最後、ハーヴェイ・カイテルとジュリアン・サンズどこにいた!?ってびっくりしたよ」
「あの変態か。ジュリアン・サンズ『眺めのいい部屋』とか出てたよね」
「きれい系だったけどね、ここにきたか。ナイスキャスティング」

 


「変態(ペドフィリアのサディスト)も怖くて不快だけど痴女(性依存症の獣姦マニア)も怖いです」

「教育と文化がないと娯楽が性欲だけになるということがわかります。村こわい」

「『神聖なる一族24人の娘たち』と同じ、選択肢ゼロの村。もう怖い逃げたい」

「逃げても逃げてもおかしな奴が出てくる。そりゃあ馬にしか話しかけなくなる」

「馬を助けたかったのにね…あんな目に。子供の眼があの眼だもん。あの目で見るぞ※1」

「子どもを性的に搾取するのは言語道断だけど、女子どもと弱者は基本的にモノ扱いなんですよね。その中で互いに暴力を振るう」

「ユダヤ人(明言はしていないが)だから異物として迫害される、というけど、女や子どもや弱者は未発達な社会では異物であり搾取と迫害の対象なんじゃないかと思う。
子どもは大人に、女は男に、男は社会に守られていないと異端であり差別の対象になる。そこにさらに人種って勝手な理由をつけてイジメるのは、知的障害者や足を無くした子どもをイジメるのと同じ」

「その世界ではむろん女も弱者も子供もどの人種も加害者でありうる。被害者も加害者であり、加害はより異物に向かっていく。文化があれば表面的にでも抑えうる本質が剥き出しになる」

「異物を排除するのが人間の本質ってのは今更であって、そんな今更を他人事みたいにいってるのなんだよと思う」

「話が長いって会議から除け者にされる異物扱いを実感したことがない人なんじゃないの。性的搾取される屈辱や恐怖や怒りや絶望も感じたことがないヤツ」

「やっぱり教育が重要。対話がない、本を読まない、想像力がない、暴力と差別が直結する世界」

「橋本治が、平安時代400年で戦争をせず死刑を行わず政敵はイジメ殺していた日本の洗練について『平家物語』で語ってたけど、初めてそうだなって思った」

「まあでも差別の根っこは同じですからね。女は話が長くて会議にいらないっていうやつは時と場所が違えば女を殴るやつと同じところにいるからね」

「あとコサックこわい」

「ロシア許さないってなるよ。そりゃ一生許さないって」

「ドイツも許さんてなる。助けてくれた人いたけどそれはそれこれはこれ」

「子どもの命助けるなんて当たり前ですから。敵も味方も関係ない、どの軍隊も正義じゃない、極悪。巻き込まれた一般人にしたら」

「ナチスって絶対悪の象徴があるからごまかされてるけど」

「東欧の闇が深すぎて。北欧とはまた違う闇なんだよね」

「最終的には『アンダーグラウンド』のクロみたいに『許そう、だが忘れない』になりたいんだけど、なかなかそうはいかない。許すけど忘れないは難しい」

「鳥飼いとか水車小屋の夫婦とか、遭遇しただけで心が壊れそうになります」

愛してもらえるのかなって思った子どもを単に自分の性欲本位で利用してたのが一番ひどい。求めてたのは性的な触れ合いじゃなく心の繋がりなんだよね。プレゼント作って持って行ったのにヤギと交尾。そりゃゴッドファーザーするって。動物の頭寝室に放り込むって」

「もうあそこで壊れちゃった。成長とか逞しく生き抜くじゃない、何か大事なものを捨てた。老人を殴って物を奪うとか、暴力を弱いものに加える側に回った」

「焼き殺したり目を抉ったりの肉体的暴力シーンより、心のやわらかいところと尊厳を傷つけ取り返しがつかないほど損なう事のほうが残酷。ロシア兵が『目には目を歯には歯を』って子どもに人殺しを正当化して銃を与えるのもダメ」

「あと、『おれも大変だったんだ』ってあんな目にあってきた子どもに言っちゃ絶対ダメなやつ」

「ちょっと見せてきてたもんね、腕。そんなんでいい話で済むと思うなよ」

「けっこう撮影長かったのかな。子どもが太ってきた」

「成長期ですから。飢えの描写がないのはよかった。飢えはつらい」

「歴史から学んでアップデートできないなら、人間もう滅んでもいいなって思いました」

「教育だよ教育、人道教育」

 

一人で見るのはきついので、誰かと見て言語化することをお勧めします。
しばらく夢見が悪くなります。

 

補足

・言語はエスペラント語。地域や国を特定しないため
・作者のコジンスキーはこの作品で盗作や虚偽の疑いをかけられた。実際は不明。自殺している。
・JOC森発言の直後だったのでついそちらに話が流れがちに
※1 あの目
 エーロ・エリク・ニコライ・ヤルネフェルト「賃金奴隷」(1893)フィンランド アテネウム美術館蔵

 

 フリー絵画, エーロ・ヤルネフェルト, 風俗画, 農家, 焼畑農業, 火(炎), 煙(スモーク), 女の子, フィンランド

 

 

 

Q:A Night At The Kabuki

 

作・演出 野田秀樹
音楽 QUEEN
出演 松たか子 上川隆也 竹中直人 羽野晶紀

 

生存者が、責めや負い目、恥を感じずにはいられないのは、生き残ることが、他人の命を凌いだことに等しいからでした。たとえ強制収容所を生き延びたにせよ、「最もよき私自身」は二度と帰ってはこなかったのです。 
石原吉郎

 

野田版オペラ「フィガロの結婚」を見た後(村社会のお約束をぶっ壊したね、ってまた震えた)、友達が貸してくれたWOWOW放映版の「Q」を見ました。

去年、東京芸術劇場の舞台で見たのを、セリフや視線をアップで再確認して泣いちゃって、松さんの手紙の朗読を書き起こしたりしてました。

野田さんのインタビューで、シベリア抑留体験を綴った詩人の石原吉郎さんの話が出ていました。

「(石原さんは)大量殺戮というのは、大勢が死んだことよりも、実は一人の人間が名前を持たないまま死んでいることが一番大きいことだと感じると書いていて、
僕は無名戦士というと何か、尊い犠牲になった、美しいとまではいかないけど、殉死に近いようなイメージを勝手に浮かべるんですけど、実はその一人一人が決してそんなことはないんだと思って、そこが、『名前をお捨てになって』と軽々しくいってしまう若い恋人たちの言葉と非常に直接結びついて名前というのは一つ大きくありました」

 

源平合戦を舞台にしたロミオとジュリエットが生き残って、近代兵器戦で収容所に送られ死んでいくロミオが30年後のジュリエットへ手紙を送る。

 

『寒さで体が切り刻まれるたびに、そして眠るたびに、命が食べられていく。
そんな中でどうやって、あなたを愛するという言葉を紡ぎ続けることができるでしょう。
もしかしたらあの愛は、野戦病院のうわごとで、あなたを愛したことなどなかったのではないのか。
いにしえのうるわしの時をさえ疑ってしまう。
愛する力を、今の僕がどうすれば絞り出すことができるでしょう。

あなたを愛する力をください
あなたを愛する力を取り戻したい

果てしもなく故郷から遠い、すさびふゆがれた荒野で、朽ちた木のように横たわる僕に
あなたを愛していたときの力を下さい
そしてどうか、朽木の如く死んでいく私を忘れないでください

どうか、どうか
私を名もない兵士として葬らないでください
あわれんだ瞳で、無名戦士と呼ばないでください

もう二度と私に、


………(この間の松さんの表情…!)


『名前をお捨てになって』


などと、おっしゃらないでください


私には名前があった

ロウミオという名前があった。

一人の名前のある人間として
ここで死なせてください。


ロウミオよりジュリエへ
渾身の愛をこめて

 

シェイクスピアのセリフをこんな風に使うことができるなんて!

そして野田さんの反戦や歴史や人間集団に対する感性がいつも素晴らしくて

本当に心暴かれて号泣してしまう。

 

「でも戦争は終わったのよ!」
「戦争が終わった日に…戦争は終わらない!」 

 

203高地に眠る同胞を思う鶴見中尉の気持ちもなにかそういうものがあるのかもしれません。と思いました。

 

マイルスデイビスの映画

クールの誕生


ネットフリックスでも見られます。
でも映画館で友達と見てよかった。感想言い合えないと何か滓がたまるとこだった。

なんというか……うん、愛がないよね。
女性を殴るとかどんな理由があっても絶対ダメ。
しかも理由は他の男を褒めたからってチンケな嫉妬。
最初は男前なのにどんどん人相が悪くなっていくし。音楽性はともかく人としてちょっと。人種差別だって、俺はマイルスだぞーって言ってんのに殴られたって恨んでる。いつだって自分自分。

「でも若手の才能を見出して使ってたとこはえらい」

「それも若い奴は自分の言いなりになるからって気がするな…」

「ああ…まあ。そりゃコルトレーンももういいんで、って去るよね」


マイルスの周辺の人々ももう老体なのですが、若い頃綺麗だったとかすごかったとか肩書に関係なく、顔!顔に出ちゃうんだなと。
人類のDNAに書かれた寿命はどんなに平均寿命が延びても30台後半だといいます。
その年を超えると持って生まれた素材だけではやっていけなくなって、顔に人間性がありありと出ると実感しました。

そして殿下がずっと美しいのが奇跡!
ペイズリーパークの競演シーン、一瞬で全部持ってかれた。
魂の高貴さがお姿に現れてる…

信者の感想で最後は終わりましたが、いや本当に。