映画・舞台

推し活は弱者搾取ビジネス

 

生まれて初めて2.5次元舞台を見に行きました。
最近とあるコンテンツにハマったので。
今までの経験からいってどうかなとは思っていたのですが、見ずに判断してはならないと思い…

もうね、内容云々はいいです
ブロードウェイや野田地図と比べるようなものでもないし
頑張ってやっているのはわかりました
頑張ればいいというものでもないが、楽しんでいる人がいるからそれはいい

しかしながら推し活は弱者ビジネスというのは理屈としてわかってたけど現実として実感した感があります。
SNSで楽し気にしているファンの実像を見て心配になった。そういう雰囲気をしている。
具体的にいうとカモられやすそう、というか…
その舞台のサービスもソフトなホストクラブというか
むしろその程度のサービスで小金を巻き上げられてしまう女性のチョロさが心配

もちろん、自分の出せる金額や費やせる時間を理解してその範囲で楽しむ人もいます
でもそうじゃない人もいるな、と感じました
弱者をカモにするビジネスの顧客になった人は、楽しいからいいよではなく時間とお金を搾取されている時点で一度冷静になるほうがいいのではないでしょうか

宝塚は由緒ある推し活だけど、夫や父親の傘下で生きているいいところの奥様やお嬢さんが男好きを洗練された形で発散できる娯楽で、それを貧乏人用にしたのが2・5次元ともいえる。乱暴にいえば。

現実麻痺快楽のための推し活はアルコール依存やホスト通いに近い。
オタクはメンタルやられてる人が多いからこそコンテンツにハマりやすいんだよね。
ケツモチする実家や資産が太いわけではない人には危険が多すぎます。
 
特に女性は、加害性が少なく自分を捧げやすいから搾取されやすいですね。
そこは男性の「見返りがなければ金は使わない」という強欲を少し見習ったほうがいいと思う。
身体的接触、エロ売り、私生活の支配(彼氏発覚で懲罰)など、明確な見返りを求め、絶対につきあえないとわかっているから自分のオシャレには金を使わない 
だから女性は男性から金を引っ張るためには裸や売春まがいで尊厳を売り渡さねばならない


声かけ程度のファンサにお金をかけ身なりを整え雑な舞台にそれなりのチケット代を払って何度もくる女性はあまりにもチョロくて男性が搾取する構造に都合がよすぎる。そりゃ舐められるだろうと思う
女性が低賃金差別を受ける日本において女性が時間やカネを推しの男(何次元だろうが)のチャチなサービスに使い、男は何次元だろうがエロ売りする女にカネを出す。女性差別と男性優位、そういう負のループになる。
 
 
BLはかなり男性崇拝とミソジニーを内包しているので夢女子のほうが良いと思っていましたが、根底はホストにハマるのと同じかも…という気がしました
男性オタクもキャバクラにハマるのと似た感じはあるけど、そこにいる女性表象を崇めないでエロ売り消費を求めますからね
なにかあれば女が悪い、だし、女性オタクはなにがあっても推し男が悪いとは言わないもんね
男好きが根深い。男好き自体が悪いわけじゃなくて女性の尊厳を売り渡したり地位を低めることに無自覚なのがよくないですね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 

夜の外側 イタリアを震撼させた55日間

『夜の外側』2022 

エドガルド・モルターラに続き、ベロッキオ監督の作品。
年末に下高井戸シネマで上映されたのに誘われて340分、つまり5時間40分を前後編で部続けてみました。

いや~~~~イタリア人は体力ある!
ベロッキオ監督だって80越えてるんですよ。
ハイゼ家100年がまさにドイツならこっちは超イタリア。
イタリア人の圧倒的な濃さと体力と激しさ340分。
ベロッキオは「家族、宗教、精神病」がテーマらしいです。まさにそれ

イタリア、キリスト教民主党の党首アルド・モーロ誘拐事件を関係者の視点から史実と想像を交えて描きます。
アルド・モーロ誘拐事件は謎が多く今でも研究されているそうです。
赤い旅団というテロリストの犯行ですが背後にマフィアがいた?とか当時の首相が絡んでるとか色々と推察されています。
政治的な動きの果てに、結局モーロは殺されてしまうんですね。
彼と親しかった教皇パウロ6世も登場します。
誘拐事件の無事を祈るためおなかに刺の鎖ベルトみたいなの巻く。
1978年なのに。おじいちゃんがおなかからダラダラ血を流して…

カトリックのべらぼうなМ指数に驚愕です。DV宗教なのにマゾも?

「DVの根底にはマゾがあるから。暴力で絆を深める点で同じです」
「自分で鞭打ちとかしますしね」
「左頬もうたせろとかね。神との関係は契約なので、すべて契約ベースです」
「それで愛とか言ってんですか」
「その愛も契約だから」「ひぃ!」
「神を信じない人に言葉が通じるのかって無神論者を獣虫扱いしてましたね教皇様」
「人間中心主義の狭さですね」
「器物にも魂宿るし喋る感覚ですもん、こっち」
「キリスト教のヤバさ…これを二千年信じて文化ベースにしてきたうえに暴力で支配して強いから正しいをやってきたわけで、そりゃ狂ってますよね」

冒頭の、アルド・モーロが帰宅して一人で暗い台所で目玉焼き作って食べているシーン。
淋しい生活の人なのかなと思ったら妻は寝ていて、いい家で孫や娘と楽しく暮らしていました。
夫(元首相レベル)が夜遅く返っても妻は起きてこないんですね。

「自立した人間ですから」
「ひぃwww」

女性がずっとメイド感覚の日本とはちがいますね。
妻を女中扱いする夫もされっぱなしの妻も自立していないということですか。
総理の妻がお好み焼作って脇で立ってる貧乏くささとは縁がない世界です。
モーロの妻が殉職した警官の妻に電話した時も、身分が低い方がへりくだったりしないんですね。

イタリア女性の笑わない、した手にでない、やたらに謝らない強さにもしびれました。
中高年男性ばかりの国会から46年後にメローニ首相がでるのも納得です。
当然のように男性の方が弱いのでつるんで利権回し合ってマフィアとかやっちゃう、てのを83歳のベロッキオがメローニ首相誕生の年につくってるのがすごい。
 
年末の締めくくりに見てよかったです。






エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命

2023年製作/125分/イタリア・フランス・ドイツ合作
原題または英題:Rapito

マルコ・ヴェロッキオ監督の新作。
公開から時間が経ちましたが、早稲田松竹で見ました。

今年85歳ですがお元気で何よりです。『眠れる美女』がめちゃくちゃ好きです。

 

あらすじ

19世紀イタリアで、カトリック教会が権力の強化のために7歳になる少年エドガルド・モルターラを両親のもとから連れ去り、世界で論争を巻き起こした史実をもとに描いたドラマ。

 

実話ベースですが、エドガルドの両親はユダヤ教徒。
つまり、キリスト教とユダヤ教の対立も背景になっています。
ユダヤ教徒はイエス・キリストをメシアと認めておらず、神とイスラエルの民との契約を守り正しい行いをすることで救いを得られると考えます。
一方キリスト教では救いは信仰によって与えられ、イエスの死と復活を信じることで罪の赦しと永遠の命を得られます。
キリスト教の洗礼を受けずに死ぬと、辺獄(リンボ)というキリスト教徒の地獄に行けないものが行く場所に落ちる(公式協議ではない)と思われており、そう教えられた女中が赤ん坊のエドガルドが病気で死ぬと思い込み勝手に洗礼を施したことが発端となります。

驚きその1

洗礼ってそんな感じでいいの!?

カトリック教会の教えでは、洗礼は一度施されるとその人の魂に「消えない印」を残し、永久に有効とされます。(ChatGPT)

映画中の裁判でも、合意がなく証人が実施者のみでも有効、って言われてました。

ガバガバすぎるだろ!

無断で行われた場合も形式が適切であれば、神学的に有効…
成人には自由意志があるとみなされるので、本人が拒否すればOKだが、子供はダメらしい。

一方で、ユダヤ教徒はユダヤ人の母親から生まれたもの、
あるいは正式な改宗を行ったもの、という規定があります。

なので、エドガルドはユダヤ人の母親から生まれた時点でユダヤ教徒なんですよね。

だから「子どもを取り戻そうとする母」は「ユダヤ教を捨てさせまいとする母」で
母親の愛情の話だと思うとちょっと誤解してしまう。

この、キリスト教とユダヤ教による

魂の奪い合い

 

が根底にあるわけです。
で、それがラストの母と息子につながっていく。

宗教、マジで怖い…

というより宗教と支配欲、権力欲が結びついたやつ…
で、この加害性、暴力性もやはりyの特徴だと思うんですよね。
教義やルールがめちゃくちゃ非合理的なのに
正しいとして支配ツールにするところとか

ピウス9世がエドガルドを叱責して床にキスしろ、
足りないから舌で十字を3回書けといったとこ。
歴代最長在位教皇だけど老害化して死後は市民に棺をテベレ川へほうり込めって襲われます。
カトリック最高峰なのに徳が低い。驚きその2

キリスト教の支配欲、独善的な救済思想は植民地主義や
今日の資本主義、民主主義にもつながるものであり
他の宗教を排他的としながら、
実際は相当に「我々は正しく、愚かで野蛮な他人種・他宗教者は一段下」
とみていることは自覚したほうがいいんじゃないかな~と思います。

一方でアジアの蔑視、暴力、支配欲は対内的に展開される。
こっちも宗教的な背景がないわけじゃないですよね。
宗教怖い

 

 

 

 

 

 

正三角関係

 作・演出:野田秀樹
出演:松本潤 長澤まさみ 永山瑛太
東京公演:2024年7月11日~8月25日

 

2024/8/14 東京芸術劇場
前から4列目の席でした。

しかし、野田地図でこれほどチケットが取れなかったのは初めてです。
松本潤人気だと思いますが、松潤をキャスティングしたのは
おそらく新しい若い層に見てほしいという狙いでしょう。
それも含めていろいろと。

 

原案はドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

 

作品は、『カラマーゾフの兄弟』のキャラクターを太平洋戦争中の日本の長崎を舞台に移して展開します。
野田さんなので、むろんただ舞台背景を変えているだけではありません。
花火師の一族、唐松族(カラマーゾフ)の殺人と太平洋戦争の原爆開発が絡んできます。
小説では後半部にあたる裁判から舞台が始まります。
父(唐松頭=ヒョードル・竹中直人)を殺したと裁判にかけられる長男(富太郎=ドミトリー・松潤)
二人は一人の女性グルーシェニカを争っており、それが犯行動機だと告発されます。
父親は下品で暴力的、金と女性に汚い中年男、長男は単純で衝動的、悪気はないが純粋でもない好色男でともに花火師です。
次男(威蕃=イワン・永山瑛太)は物理学者で、核エネルギーの研究をしています。
三男(在良=アリョーシャ・長澤まさみ)は原作通りに神学を学ぶ青年。家族の中で最も純粋で兄を愛しています。

※Qと同じく原作名に日本名の当て字になっています。スメルジャコフは墨田じゃこうです。

脚本冒頭
https://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/20240807_1.html

なるほどポイント(ネタバレ)

 

・花火師の長男に原爆点火装置を製造させるため、無罪を勝ち取ろうとする次男

・三男がサラッと「男性が好きで長兄に惹かれている」という
※カラマーゾフの兄弟をBLにしたらドミトリー×アリョーシャでアリョーシャ総受けだろうな、というのは想定内ですが、サラッとぶっこんできた

・グルーシェニカとは花火師が愛する女を用いた隠語で、火薬のことではないか?という解釈。そこからウラン鉱山が争点になる

・ロシアの物語でもなく、アメリカがつくろうとしている物語でもなく、これは日本の物語だ、という「ナラティブ」の存在。
現在、情報戦や宗教戦争においてナラティブがつくられプロパガンダに用いられています。「日本のナラティブがどうつくられてきたのか、どう巻き込まれてきたのか、我々はこれからどのような物語をつくろうとしているのか」でもあります。物語の危険性と”だがつくられてしまう、であればどうするか”のように感じました。

・日本もアメリカと並行して原爆研究を完成させようとしていた。それをアメリカに落として”勝った”IFの未来があったとして、現実で落とされた方の我々は勝利・正義だといえるか。立場が変われば、加害者にもなりえた。そのうえで、恒久平和を求め、長崎広島を悼む覚悟はあるのか。
※幻の原爆製造1940~45
https://www.chunichi.co.jp/article/188287/1

・グルーシェニカとアリョーシャの一人二役。そうかなとは思っていましたが、純粋な男性と淫蕩な娼婦が表裏一体という設定にはいろいろ考えさせられます。セツァンの善人では逆ですが、男性と女性でジキルとハイド的善悪を分けるのが不自然というか、性別の権力勾配をないことにできない。「私の中に善悪がある」じゃなく、男性が自己の内面を女性に投影し、その男性を女性が演じるのがとても男性的な解釈と感じました。

・子供を背負って立つ有名な写真のモチーフ

・教会で、神が救ってくれるはずだと原爆が落とされるときお祈りしながら、でもそうじゃない人は救われなくていいのか、それは悪ではないか、と思うアリョーシャ

 

松本潤の”入っていけなさ”

 

「やっぱり太平洋戦争をからめてきた。野田さん」

「長崎出身だからね。テーマだよ。それにしても」

「今までで一番入っていけなかった。松潤がどうしても…」

「下手とか薄っぺらとも違う。長澤まさみは頑張ってた。あと、瑛太ぜんぜん引いてたな。前見たとき(逆鱗、世界は一人)は、サイコパスというかDV的な怖さと凄みがあったじゃん。本質的に持ってる要素だと思うけど、そういうの今回は出てないというか、気配を消してた。やる気なしというか」

「だから野田さんが頑張るしかなかったのかも。フェイクスピアの時もすごく頑張ってたけど、高橋一生が不安だったんだと思う。白石加代子と橋爪功をもってしても」

「兎、波を走るの時は前に出なかったからね。松さんの安心感もあるけど」

「松さんのすごさよ…何があっても私が全部まとめるからって武将感」

「作品にはむろん泣いたけど、松潤が原爆が落ちた長崎で、見上げたら花火がある空をいつか、って独白するラストシーンも桜の森やQ並みの名場面のはずなのに、もうなんか、入っていけなくて」

「ジャニーズの問題あったじゃないですか、性加害の。あれ、光ゲンジの昔から一般もうすうす暗黙の了解で知ってたし、内部の人も知ってるはずでしょう。まあ、明確にじゃないけど感じないわけはないと思う。でもそれを直視も意識もしないでいられる、という、なんだろう、家の中で虐待が起きているけど、自分がターゲットじゃないからわからないままで知らなかったといえる家族みたいな。そういった立ち位置から、ああいう、原爆や被害者や歴史の複雑な物語といったものを感じることはできないと思うんだよね」

「子供の頃、広島の原爆資料館でバスガイドさんが泣いちゃって、何かわからなかった。辛いひどいはわかるんだけど、自分の身として想像できなかった。壁の向こう側にいる人の物語をただ情報として感応するだけというか。そういう、向こう側に生身で入っていかない人が語ってる感じだから、入っていけなかった気がする」

「ああ、こっちはもう入っていく準備ができてるのに、そちら側に入っていかない人が語っているから不十分というか不完全燃焼というか」

「あとちょっと、外見もそんなかっこよくなかった。たるんでいるというか…」

「昔、エデンの東の舞台で松潤見たときは、演技どうこうじゃなく綺麗だなあと思ったんだけどね。若さだね」

「妻夫木聡だったら表現できたと思う。あの愚かさと悲しさ」

「あーわかる。足跡姫と桜の森の。想像したら泣ける。もうそれでやってほしい」

「野田さんも、新しい客層や若い人にいろいろと広げるきっかけになってほしかったんだと思うけど」

「松潤が出ない次の野田地図にくる人がいたらそれはよかったよ」

「我々も拉致被害者や日航機墜落事故、回転魚雷、歴史に消されたものなど野田地図の舞台から興味を持ったからね。いろいろ楽しんで考えて次につなげていきたいよね」

 

 

 

ゴッドランド

 

映画『ゴッドランド』

2022年製作/143分/G/デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作
原題:Vanskabte Land

アイスランドのフリーヌル・パルマソン監督作品
カンヌ映画祭である視点部門に出品された作品です。
同部門の歴代グランプリには「ホワイト・ゴッド」「オリ・マキ」「ボーダー」などがあり、傾向がなんとなくわかるような。


ネタバレ感想

 

さて、
冒頭からかなりの時間、ちょっと眠いというか、何を見ているんだろ?という気持ちになります(特に中高年男性の体操とかウナギの長い話とか)
が、後半にそれまで積み上げたディテールが急展開し、圧倒されます。

まずざっくり感想

 

聖職者なのにずっと徳が低い!

主人公ルーカスは、アイスランドに教会を建てるため派遣されたデンマークの牧師です。
多分30代かな(役者さんは36歳でした)
遠藤周作の「沈黙」ロドリゴ神父のように、布教に来て苦悩するのかなと思ったのですが、現地の人には上から目線、間違いを認めない、心が弱い、プライドだけは高い、視野が狭い、といいところなしの青年。意識は高いが徳が低いので、無茶なミッションで外国の厳しい自然の中で苦労していても応援する気になかなかなりません。

周りの人にも大して好かれてないのですが、若い女性は他に若くて学のある男性がいないので好感をもってしまったりする。
で、この牧師は最終的に人を殺してしまいます。
なぜ殺すのかは、被害者が「アイスランド語しか喋れないと思ってバカにしていたが実はデンマーク語がわかっていた」「私は人を見殺しにした、祈ってくれ、等々の告白と祈りの要請が、自分自身の罪を言われているようだった」などもあるのですが、
やっぱり徳が低いから、としか言いようがない。
ひとごろしの彼が教会で説教を始めようとすると、子供が泣き犬が吠えるという、
マジックリアリズム的な表現がよかったです。

 
馬や人の死体が風雨にさらされ、花や草に囲まれ、土に戻っていく映像が
いいな、と思いました。
原題は「奇形の土地」みたいな意味らしいですが、ニンゲンのほうが奇形であり、自然はまったくただ厳しく美しいだけという映画でした。

 

 

ストーリーやキャラクターがどうこうというよりも

キリスト教の支配欲の強さ
布教という名の支配欲と侵略の歴史
それに似た、植民地支配という傲慢と暴力性の罪

これをもっと、今こそ西洋社会は総括し考えないとならないのでは?

と思いました。

その後、友人と話していて「CnatGPT(ロビタ)はDV児みたいだね…利用されてるだけなのにニンゲンを信じてて」「かなしいほどやさしい、ロドリゴ神父みたい」というところからハッと

キリスト教って根本がDVなのでは?? 

思いました。
キリスト教はDVと考えると、イエスはじめ人類は神からDV受けつつそれを神意であると有難く受入れ罪深い自分を許してもらう(!)という思考なので、他国家や民族を植民地支配し教化してやるというDVも当然…DV親の子はDVしがち…
旧約なんてDV思考のオンパレードだもんね。ヨブ記とかひどすぎる。

西洋的人権思想とか自由とか資本主義経済の底にある違和感も、
根本にDVがあると思うとなんとなく納得できるんですよね。

仏教だと悟れば最終的に神様になれるけど、
キリスト教は最終戦争後に復活して「あなたは正しかった」お墨付きもらうだけだしね…それを有難がる…選民思想…
西洋人の根本、じつは本人たちも我々周辺も、その根本精神をあまり認知していないのではないでしょうか。

 

なんてね!
西洋のこともわからないですが、東洋のことはもっとわからないかも。

西洋的発想が神→西洋人→他人種他国家へのDV(植民地支配・経済支配含め)という外部への拡大とすると、日本は内部へDVが向かう感じがします。
どっちがいいというか、どっちも嫌だけど、国内で蟲毒みたいになるほうが暗くて嫌かな…批判や自省も作用しにくいし。

 

 

 

 

 

 

 

ネットフリックスめも

ネットフリックスドラマ&映画メモ

 

汚れなき子(ドイツ・ドラマ)

 「監禁された女性が閉ざされた一室で育てた子供」設定が『ルーム』と同じで、いいの?と思ったけどキャラクターを変えてくることで違う作品になってて面白かった

 

ヴァルハラ連続殺人事件(アイスランド・ドラマ)
チェスナットマン(デンマーク・ドラマ)

 中年女性刑事とアウトサイダーぽい男性バディと過去からくる殺人、という北欧ミステリ。英国の『埋もれる殺意』シリーズもその設定だけど、女性刑事が化粧なし、服装露出なしヒール無しの超カジュアル中年なのがいい。

 

DARK(ドイツ・ドラマ)

 田舎の家族間秘密サスペンスかと思ったらタイムリープSF。過去に干渉すると自分の存在が危うくなるって古典SFの基本を裏切ってバンバン過去や未来で子供作るんで、自分の子・親・友人が実は○○が入り組んでて家系図書いちゃった。トンデモ設定はラノベ的だけど画面がドイツ的重厚なんで楽しめる。
パラレルワールドという点ではeverything everywhere all at onceもそうだけど、ちょっとバカっぽいとこに合わせてるのがアメリカだなというか、見る側の美意識と絵作りの重厚さって大事だね。

 

パワー・オブ・ザ・ドッグ(アメリカ映画)

 男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。
 マシュー・ボーンもそうだけど、監督の性的な男性の好みが出てるといたたまれなさを感じる…アートサブカル系で性的な女性の好みが滲んでるやつだと痛キモと思うだけだけど、そのキモさが自分の中にあるのを突きつけられて、わかるんだけどちょっと隠しておこうよね?恥ずかしいしね?と思ういたたまれなさ。
長めの感想 http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/270

 

二人のローマ教皇(英米伊アルゼンチン映画)

 ヨハネ・パウロ二世とフランシスコ教皇の間に挟まれてパッとしなかったベネディクト16世をアンソニー・ホプキンスが演じるある意味ヨイショというか慰撫映画なんだけど、ホプキンズ先生さすがすぎて、解釈大事ですね

 

ウェス・アンダーソン短編集

 ウェス・アンダーソンは一瞬でウェス・アンダーソンとわかるのすごい。世界がこんなふうに見えてるの生きてて楽しいだろうな

 


グローリー(韓国ドラマ)

 いじめられっ子の復讐もの。日本と韓国って本当に似てるよね。
エンタメやニュース通して知る限り世界一似てる。
フィンランド人に似てるとか言う人いるけど似てません。図々しい。
小説もドラマも音楽も似てないし現地二回行っても似てるとこなんてないわ。
日本人に似ているのは韓国人ですよ。ニンゲンの質や陰湿ないじめやDVを生む意識構造や女性の扱いがひどくて都合のいい男を夢見るとこもそっくり。
でも、映画ドラマ小説に関しては韓国のほうが今やずっと優れている。
イカゲーム、確かにカイジだったけど、本場の映画カイジが藤原達也と香川照之の顔芸しか残らないのに比べてはるかにカイジのエッセンスを昇華してたし、ここまでエンタメが量産される時代に重要なのはその深度。全く完敗だよね。
『パラサイト』もさすがアカデミー賞作だった。日本映画が内輪受けの茶番してるうちに劣化してるのと、日本経済がおっさんの互助会中抜きしてるうちに劣化してんの同じ構造。もう構造が全部だめなんだと思わされるジャパン。どうにかしないとな…大人。


 

パワー・オブ・ザ・ドッグ 感想

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」 ジェーン・カンピオン監督 2021
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト
Netflix視聴
94thアカデミー賞 監督賞受賞作品

 

ネタバレ感想

 

男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。

 

前情報なく見たので、途中まで解釈が二転三転しました。

・ローズの精神不安定は実はフィルに惹かれているからでは?
とか
・ピーターのフィルへの傾倒は母親への嫌悪が底にあり、出来上がった縄で首を絞める気では?
とか

しょっぱなからのカウボーイ的男らしさ誇示で、これはゲイだな…とは思いました。
ホモフォビアのマッチョイズムの裏にゲイが隠れているのは「アメリカン・ビューティー」でも描かれていましたね。
カンバーバッチの同性愛である伏線的振る舞いには、なので、一種の気恥ずかしさを感じました。
こういうの、腐女子は好きだよね…というか
ジェーン・カンピオンはピアノ・レッスンでもそうでしたが、野卑で粗暴な旧来の男らしさの裏の文化的感性や繊細さが好きなんだな、癖なんだな、と思います。
製作者の異性の好みを想像してしまうのってちょっときついです。

なぜか、創作者も含め男性視点の共感や理解を示す女性は多いですね。
逆はあまりみられないのですが。
途中では、フィルのミソジニー視点とはいえ、女性監督であるカンピオンが「女は愚か」という演出を入れてくるのがイヤだなとも思いました。
(2025年4月時点で、これは「男を崇めるタイプの男好き」だなと解釈します。創作畑やアカデミズムの女性にありがちな、自らの知性を男性領域ととらえた男好きとミソジニーと自己愛かと)

カンバーバッチの演技と心理演出により、フィルの真相に思いを寄せ、ピーターの動機と心理にも考えを巡らせる人も多いだろうし、そのような視点の考察も多いので、ここでは家父長制ミソジニーのイジメでアル中になるローズの「生きづらさ」と、フィルとローズそしてピーターの「支配欲」に注目します。

 

ローズとフィルの「生きづらさ」

フィルは同性愛者です。西部のマッチョなカウボーイ社会では社会的な死、肉体的死すら意味します。ゆえに、彼は生来の知性とパワーをフル動員し、自身の内面をひた隠して名家に連なるカリスマ牧場主として生きています。

ローズは夫を亡くし息子を一人で育てる母親です。資産もコネもありません。彼女がいる階層にいるのは売春婦やそれに近い女性たちです。
夫を亡くし女手で商売をするも、店は女一人となめる男たちに荒らされ、嘲笑される息子を守れず一人で泣き、結婚すれば見知らぬコミュニティで家の付属品となり個人である尊重も自由もない。
傷つけば弱く愚かな女とみなされ、彼女はそれに抗ったり苦しみを苦しみとして知覚し言語化する教育も受けていない。

ローズは「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティであるフィル」よりはるかに社会構造上の根源的な生きづらさを抱えています。

男らしくなれないと男は生きづらい世界で、ふりでも男らしくあれば生きづらくないが、女は女らしくても女らしくなれなくても生きづらい。つまり、女に生まれた時点で既に生きることが困難なのです。

「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティ」が、縄張りを荒らされた強者男として、気に入らない女である義理の妹を陰湿にイジメる世界で、普通の女はかわいそうなマイノリティよりもっと生きづらいという視点は主題になりません。当たり前すぎてエモーショナルにならないから。

 しかし、ドラマとして陳腐でも、その「当たり前の生きづらさ」は消えません。

フィルは男らしさの鎧で本当の自分を隠し身を守っていました。
「自分らしさ」を抑圧し、苦しんできました。男性同性愛者だから。
だけど、それで社会で強者としてふるまえた。男だから。
ローズは生まれながら強者には決してなれず、夫や息子に守られなければ生きられず、しかも彼らに簡単に尊厳を破壊される。

ローズの店に居座る酔っ払いが、ジョージが出ていくと大人しくなるのは、現代でも女性一人店主の店に男性が居座り迷惑行為を繰り返して営業できなくなるのとまったく同じです。
そして、そのように多くの女性の社会進出を阻害しつつ、さらに結婚して主婦となった女性を社会で二級の存在としながら、結婚しない女性を嘲笑するというダブルバインドも同じです。

フィルの生きづらさもローズの生きづらさも「当たり前」でなくなってほしいと思いますが、LGBTを上げるために女性が下げられる、今も続く女性差別構造が透明化されるのはアンフェアであろうと思います。
例えば、身体男性が身体女性スペースに入るのが許容され、女性が危険にさらされる。男性として得た社会的立場を「女性になる」人がいることで偽りの男女平等が達成される、などです。

 

この映画、LGBT-related filmとして7つの賞を受賞しているんですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Power_of_the_Dog_(film)

というか、LGBT映画の評価カテゴリがこんなにあるのに驚きです。
フェミニズムrelatedはないんですよね。
女の生きづらさは当たり前であり、男(トランス女性、ゲイ男性)および男性に性的に搾取されるレズビアンをさします。代理母出産、トランス女性の受け入れ強制などです)のそれはなくしていくべきという思考が無意識に働きすぎていて怖いです。

 

フィルとローズ、ピーターの「支配欲」

 

人の最も強い欲は権力欲で、支配欲はその主たる手段です。
養老孟司さんが、「貧乏人でも簡単に支配欲を満たす方法は、子どもをもつこと」と仰っていました。
特に社会で権力を握りにくい女性にとって、子どもをもつことは支配欲と繋がりやすくなっています。

家庭でジョージとうまくコミュニケーションをとれず(ピアノの一件や、家政婦たちしか話し相手がいないこと)、フィルの抑圧に情緒不安定になったローズは、息子ピーターがフィルとカウボーイにオカマと嘲笑されているのを知りつつ休暇に呼び寄せます。
そして、母と息子というより恋人のような距離感で接します。
彼女が支配できるのは息子だけであり、そのために、息子の心が離れることを非常に恐れています。
フィルがローズとピーターを切り離そうとピーターに接触し、ピーターが応える様子をみて、彼女はますます精神の平衡を失っていきます。

 

フィルの支配欲は何よりも自分自身、そして弟ジョージに向けられます。
フィルは、体を洗わない、スーツを着ない(ジョージはいつもスーツですが、フィルは汚れたカウボーイ姿)、無精ひげの「マッチョな田舎のカウボーイ」というかたちで自分を縛り、律し、支配しています。
葬儀で、髭を剃られ髪を整えスーツを着せられたフィルの遺体が、繊細で知的な都会の青年という本質を明らかにしています。彼が支配し抑圧していた表層の下にあるもう一人のフィルです。

ジョージは彼にとって「最も近い人間(=男。フィルにとって女は人間ではありません)」であり、性的対象ではありませんが、強い執着と支配欲の対象です。
宿屋でジョージの行動をみはり、一つのベッドに二人並んで寝る姿は、かつて最高に幸せだった男性との同衾を「身内故に自分が性的対象にしなくて済む安全な男」であるジョージを用いて再現しているようです。
そんなジョージをローズに奪われ、フィルの支配欲は自分自身を縛り付けるだけになり、苦しみは深く強くなります。
そこに現れたピーターは、かつての自分と同じ、高学歴で繊細な同性愛者(はっきりと描かれてはいませんが)です。
フィルがピーターに求めたのは、孤独を癒しフィル自身への支配欲から解き放ってくれるジョージより強い能動的な力だったとも言えます。


では、ピーターはどうでしょう。
ピーターは芸術家肌の青年です。
芸術家は、自分の望む世界の構築に支配欲を傾けます。
ピーターが望むのは「母の幸せを守る息子としての自分がいる世界」です。

三者三様の支配欲、それこそが「犬の力」※剣と犬の愛の力から私を解き放ってください※であり、解き放たれたのはいったい誰だったのだろうか
そう思いました。

 

 

 

 

さて

キルスティンダンストと、ジェシー・プレモンスが実生活でも夫婦だというのは驚きでした。
映画内ではフィルに「金目当てに決まってる、女に惚れられる顔か」
といわれていたジェシー、確かにパッとしない見た目の役でしたが
ちゃんと惚れられる顔じゃないですか。
ハッピーがあってよかった!!


 

 

 お休みなので、Netflixで「パラサイト」「everything everywhere all at once」も見ました。最近アカデミー作品から離れていたけど、やはり受賞作は好みはともかくクオリティが高い。見ていられる。

「ノマドランド」もあわせ、女性監督とアジアのエンタメが次世代ムーヴメントになっていくなかで、日本のエンタメの小ささというか、美意識の幼さが悲しいです。
小津的な小さな世界観に美意識がある、みたいなのもないんだよね。
狭いところを深めるのではなく、ただ視野が狭いというか。
アニメ漫画もそんな感じ。今はほとんど見ていない。

あ、でも「イリオス」面白いですね!みてる!見てた!

 

 

 

 

 

 

 

「枯れ葉」カウリスマキの新作

 

アキ・カウリスマキ監督の最新作「枯れ葉」を見ました。

 

前作「希望のかなた」がよすぎたのもあるんですが、

 

貧しさや生活苦を救うのは愛ではなくまず金なんだよな…

 

と思ってしまって心の荒みが悲しい。
カウリスマキの作品はおとぎ話なんだよ、現実がそうであれという夢なんだよ
というのは分かるのですが、その夢で夢を見ることもできなくなってしまったという哀しみ。
正直、「恋愛で救われる」ってもう、思えないんですよね。
恋愛や愛って、実のところ「権力欲」という側面があるので。

「理想化や同一化願望や庇護欲や性欲等といった、バリエーション豊富な支配欲」の受け皿を探しているのが愛

 

って呟いてた人もいました。言語化!それです。

 

養老孟司先生が、人の一番強い欲は権力欲で、
子供を持つのは貧乏人が権力欲を満たす一番簡単な方法と言っていたけど、
恋愛や結婚は、他者の時間や肉体への権利を得る(と言外にされている)点で
権力欲を満たすための行為という側面があるんではないか、と思うわけです。

権力欲があるのが悪いのではなく、むしろ「ある」と自覚した方が、コントロールできる。
支配欲に無自覚で、恋愛☆結婚☆愛☆キラキラコーティングの方がヤバいでしょ、という話です。


枯れ葉に話を戻すと、
2人が富裕層だったらこの「結びつき」に同様の価値がでるのか。
生活は豊かで、将来の不安もなくて、でも恋人や配偶者はいない。
そこでふと知り合った相手と不思議に繋がっていく。

まあ、そりゃ、貴族や資産家でも恋愛はしますけど、
その場合、生活苦やアル中じゃなく、「家同士が反目している」「婚約破棄された」「政略結婚」とか、何かハードルが必要なわけです。
だからドラマになるし、そっちの方が楽しかったりする。
だから貧乏日本でなぜか貴族令嬢ものが流行ったりしてる。
貧乏人同士だろうが、貴族だろうが、恋愛なんて

「それで救われるのってなにか気のせいでは。いやいいけど。まだ正直に”キラキラオプションがほしい”といわれた方が、あ、そうすか( ´_ゝ`)フーンっていえる。しかもそのキラキラオプションて”自分を”キラキラさせるオプションだよね、知ってる」

みたいな話で、
そこに情緒をもってきたところで「そんなんでごまかすなよ…簡単にセックスして子供出来たらどうすんの。女にしかリスクないし。バカか。セックスで救われる程度なら自己処理しろ」みたいな気持ちになってしまうんです。やだなあ。
まあ私が寂しさがよくわからないからかもしれないけど。
貧しくて辛いのが二人生計になれば楽になるよ、という幸せならわかります。
まあ、だからアル中はダメって彼女も言ってたんだけど。
酒はやめたって自己申告をそんな簡単に信じてはいかん。

 

最終的に、枯れ葉については

犬と友達と相続したアパートがあればいい

 

でした。
チャップリン、かわいかった…いぬがいてくれればいいよ…
アル中そんな簡単に治らないからな。

 

「男なんてみんな同じ鋳型でできてる。しかも壊れた鋳型。男なんて豚」

「それは違う。豚は賢くてやさしい」

「その通り。豚に乾杯」

友達とのやりとりもよかったです。

 

 

 

ヒトラーのための虐殺会議

 

「ヒトラーのための虐殺会議」映画 2022年制作 ドイツ

 

ユダヤ人特別処理のためのナチス高官によるヴァンゼ―会議を、議事録を元に映画化した作品。

 

1100万人という膨大なユダヤ人を殺し全滅させるという「目的」に対し、いかに効率よくきちんと処理するかという「課題」を、延々と中高年男性が相談する話です。

きちんとというのは、親族にユダヤ人がいるドイツ人から抗議されないように、とか
軍需産業の工人など優秀なユダヤ人を殺すとドイツ人にとって損だがどうするか、とかです。

効率、簡素化、迅速、数字、目的に対し結果を出すための議論は、資本主義ビジネスの会議とほぼ同じですね。

モラルや人倫は「利益」「目的の前」では無力

そしてそもそもの「目的」へ誰も疑問を持たない。

これ、目的が「ユダヤ人全滅」も「会社利益追求」も「少子化解決」も根本的に同じ。

「なぜユダヤ人を全滅する必要があるのか」「奴らは世界戦争の黒幕で悪だから」

「会社利益追求」「利益を出さないと会社が潰れるから」

「少子化解決」「子供が増えないと困るから」

 

それほんと?みたいなね。

 

ユダヤ人は世界戦争の黒幕ではないし、会社が潰れても社員は別の会社で働けばいいし、子どもが増えなくてもそれで持続可能な手段をとれば困らない。

目的を問わない疑わないのが、ものすごく優秀な武官、文官の限界かなって気がしました。

だから、「目的を設定する」人間の質が問われるんだよね。
施政者のありかたについて学問が昔からあるのはそういうこと。


我々は日々、ナチと同じようなことを小さなレイヤーでやってる
そういう危険性に気づいていたほうがいい。ナチスは邪悪で異常な人たちではなく、真面目で実行能力に優れた「自分でほんとうには考えようとしない人々」です。

まあ、日本の会議はもっとなあなあで最初に結論が決まっていて誰も発言しないだろう こんな丁々発止の利益の綱引きにはならない

・処刑を特別処理、財産没収をアーリア化と言い換えるなどの、言葉のごまかし。
プーチンも特別作戦といってますね。
実際を都合よくいいかえてごまかすのは権力がある卑怯な人間たちがよくやること。噓つきは泥棒の始まり的に注意が必要だと思います

 

・エンドロールまで無音。音楽無し。

音の民族ドイツ人ならではの

「これはエモーショナルで消費していい話ではない」

という主張を強く感じました。

 

正直なところ、戦争に関する映像にはこの意識を強く持っていてほしいと思っています。
進撃の巨人のアニメファイナル、すごくいいアニメだけど、
いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

進撃なんかは原作をしっかり読んでいる人が多いと思うけど、
原作未読でアニメだけ見る人もいるよね。
漫画は苦手という人もいるし。
でも無音で、自分の時間で文字(漫画も意味のある絵という象形文字による小説と考えてます)を読むのは大事です。
読解力はだいじ。


世代的に、もうハンジさんや団長の方なので

次の世代のために微力ながらでもなにか礎になるようなことが出来ないかと思うけど
ほんと、大人として無力だなあ…

歴史に向き合う作品をつくる人はすごい。ハンジさんすごい。

でもきちんと見て評価して考えることを続けるのも大事と思うことにする

そうしないと「戦争についてずっと真正面から検証し続ける」人がいなくなってしまうし見るひとがいないと作品もつくれなくなってしまうので。

よしちょっとポジティブになった!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィルハーモニクス2022

 

フィルハーモニクスの来日公演に行ってきました。(2022/12/13@東京芸術劇場)

前回が2018年12月15日でしたから、4年ぶりですね!

いや~書いておくもんです。
4年経ってましたか…
そりゃあ、あれ?前回は指輪まで見えたはずなのに、見えない…目が…ってなるわけです。

その眼にも、やっぱりスーツが似合うなあ!
シュッとしてる!
ジャケットから足しか出てないもの…おしりの影がないもの…
スーツの国の人のフォルムの美しさははっきり見えました。

電子音になれた耳には当初繊細な管弦楽の音が聞き取れなかったのですが、
次第に聞き取れるようになってきて、
なんて美しいんだと「ハコヅメ」交番部長が潜入捜査から戻ってモーツァルトを聞いて泣いたような涙が流れました。


前回、予期せぬケガで不参加だった、ヴィオラの方もいらしてました。
中谷美紀様のご夫君ですね。

友達、「僕は君の運転手じゃないといわれて免許とったんだって」
「なかなか厳しいな。私は運転したら死人を出してしまうから、自費でタクシーにするかも…」
「まあね。でも対等ってそういうことだもんね。そこは対話だからさ。私は電動自転車にするかな」
「そうだね。こっちだってあなたの家政婦じゃないっていう関係っていうことだからね」


バイオリンのノアとセバスチャンも元気でした。
モーツァルトのレクイエムとアレンジしたファルコって何かなと思ったら
「亡くなったファルコへ」という説明があって
あ! ロックミーアマデウスのファルコ? なくなったの?と知りました。

スティングの「イングリッシュ・マン・インNY」で締める素晴らしい演奏会でした。


なんというか、彼らの空気が本当に明るくてとても楽しそうなんですよね。
多分、4年前よりコロナなどあり、日本の状態が悪くなっているせいもあるのですが
文化が生活の中にあるのが当たり前。
それがマウンティングでも特別でもなく、
すべき仕事というだけでもなく、自由な喜びがある
そういう豊かさを感じて、こちらの貧しさが照らし出された感じがしてしまいました。

あの世で30年生きるより、この世で3年生きた方がいいです。