2021/04/02
ゴールデンカムイにおける父権と、対立理論としての谷垣、など
ウエジの過去エピソード
たった2ページだけど(次巻にも出てきますけど)、父権の抑圧に傷つけられてきたのがとても分かりやすくわかります。
父権というのは父親あるいは父親的なものを長とし権力を持たせる構造で、その構造を維持し成り立たせるため、おおっぴらにあるいはひそかに人間を支配する社会のシステムを指します。
金カムの中で、父権制により損なわれてきた男性たちと、彼らの比喩的な意味も含めた父殺しというのは非常に興味深いです。
生育史で何に損なわれたのかの中に、父親に傷つけられてきた(母親の場合も遠因に父親がいる)というのが続々出てくるんですが、男性作家が男性キャラクターを用いて、こういう形で父親を告発するのはとても珍しいと思う(フィクションの父殺しは大抵「伝説的父親を倒す、超える」で正負含めた父権の継承なので)
一人だけではなく、何人もいるのが、明確に意図されていると思うし、
鶴見中尉という「成り代わり」がいるのも象徴的ですよね。
女性だけでなく男性も様々な形で差別され傷ついてきたんだと、いまだに言えない抑圧があるのが前近代的父権制で、終わったのに死なない昭和です。家族はいいものかもしれない、でもそこで傷ついてきた人もいるんだよを描きながら、その被害者としてでなく加害者(殺人者)になってやりたいようにやる自由な姿を見せたり、時にストレートに父殺しをしたりで、父権の否定をしているのがとてもいいと思います。
戦争やそこでの組織的な殺人も父権的な力と言い換えることが出来るでしょう。
メインキャラクターの中で、告発される父権と対照的に「父からの正しい継承」を体現する存在が谷垣です。
鶴見中尉に入り込まれるような心の穴を持ちながら、二瓶という師に会って兵士(組織的上下関係の中の殺人者)からマタギ(命の輪の中の平等な一人)に戻る。未熟な少年チカパシに自分の力で立つことを教える。
「勃起」という言葉は男根的マチズモではなく、「おのれに拠って立つ、奮起と気骨」であろうと思います。自分の勃起は自分のもの、自分で立たせるべきで、父権を中心とした組織の中で女性を玩具にし互いに擦りあって立たせるものではない、ということです。
谷垣は、インカラマッと出会い、いかにも美しい絵空事の恋愛ではなくリアルに成り行きからの情が深まるところから子供が出来て、新しい家族を作っていきます。
それは「愛し合う両親から生まれた祝福された子供」というより、もっと自然で、泥臭く、愛とか祝福とかの大袈裟な言葉を越えて寄り添いあう、いきものとして素直な人間の姿に見えます。
谷垣がマッチョで毛深く、いわゆる男性的な姿なのに、男性からセクハラされ、少女たちの中で自分が至らないと泣くところも、父権(いってしまえば女子ども弱いものを一段下の存在とすること)へのアンチテーゼと受け取れます。
いいよね、谷垣。作者にすごく愛されるのも無理はありません。
父権支配への告発と離脱の苦しさを描いている一方で、未来を背負わされ判断するキーパーソンがなぜ少女なのか?
なぜというか、それはどういうことなのだろうか?
・主人公たち(読者世代)が身を置いてきた戦争、仕事、社会、家族といった「男の」人生において、少女というのは「自分たち男の力によって関係を変えられる=何物でもない=無垢な」存在であること(「女」だと妻や恋人といった過去=父の既成概念に入ってしまうので、それでは自由になれない)
・旧世代の価値観(戦争という過ち)で人を殺し傷ついてきた主人公にとって、今まで触れてこなかった人生の側面=子供で女性であるゆえに、相棒として新しい未来を切り開ける希望の存在であること
・少年だった場合、あまりにも自らに近すぎリアルなので理想化した存在として未来を託せないし、相棒にもなれない。
なぜなら父権社会からまだ脱却できていないので、少年を「自らに教えを与える」「相棒」「尊い存在」として許容できないから
そういう感じもあるのかなと。
もちろん、ビジュアル的な良さや動かしやすさ、新しさの表現などいろいろな理由があると思います。
少年少女が世界を変える! 的なフィクションを望む欲望は、現実にはグレタ・トゥーンベリの活動を支持する気持ちに繋がるとはあまり思えないんですよね。
その幻想や、妄想の仮託とは何なのだろうと思うんです。
女性側からの男性への妄想と欲望というか性欲リビドーも興味深いですけど、ちょっと痛くて…自分が…目が痛くて。あと女性の妄想と欲望は現実社会にさしたる力を及ぼさないのでね、今のところ、経済利用される以上の影響は、あまり。
作中でリパさんが「杉元は純粋だった頃の自分を私に重ねている」といいますが、
過去の自分を重ねるのなら少女ではなく少年である方が自然です。
なのに、少女に重ねている。
そこには何らかの欺瞞があるはずです。
少年はチカパシのように普通のバカでスケベな存在だと描きつつ
でも本来の主人公はこの少女のように清らかだった
人殺しなどしたくなかった。でも「男であることに疑問も嫌悪もない」
何かしら矛盾した感覚がある気がします。
尾形は勇作さんとアシリパを重ねていますが、杉元が勇作さんに「純粋だったころの自分を重ねる」のはありえないんですよね。
しかし古今東西、人間が心の穴を埋める幻想を求めるのは生存本能で、だからこそ物語を求める。その求められる物語が何か、というのに人間の普遍と時代の欲望という二つの形がある。と思います。まる。