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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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最近の眉毛兄弟 ネブワース22

 

 

リアム・ギャラガー ネブワース22 見てきました。

 

オアシスから26年ぶりのネブワース公演のドキュメント映画
いやいや、人って50近くなって成長するものですね!

ウォッチャーのざっくり感想

・病気のちっちゃい女の子が喜んでくれてよかった!なによりも!

ちょっと天才児なんだろうな…大変な病気で生きるの大変だからこそ、リアムの野生じみた乱暴なピュアに惹かれたのでしょう。
前に幼稚園に行ったときも小さな女の子に「かわいいわね」っていわれてたし。
いきものとして同じレイヤーなんだろうと思います。

・ジーンがそんなとこにいた!!!

ドラム叩いてました!
多分デビ―が「音の出ないヤツならいい、でもスタッフではないからちょっと映すだけ」と許可したんだろうと推察。

 

・ママ、ペギーを招待

親孝行したね!!
ノエルなんか50歳のパーティーにもよばなかったのに。
ヘリコプターで会場まで連れてって、さらにデビ―が手を添えてつきそってくれてました。
友達「なんか髪を染めた女の子、あれ看護婦じゃないかと思って。デビ―ならそこまで手配する」
それは気づかなかった!さすがです。


・デビ―が相変わらずで安心

後ろからついて歩く姿、完全な犬使い。
マネージャー、「リアムは周囲に優れた人間がいれば、とてつもないことができる」
一人ではどうしたらいいかわかりませんが
そう、優秀な人に囲まれてこその今。
本人もそれをわかってて、昔はチャラチャラしてバカだったと反省。えらい。

 

・本当はバンドがやりたい

ソロのネブワースという成功を得ても思うのはオアシス。

ノエルはオアシスの歌を使わせないとか、オアシスファンが歌うことを批判するとか、オアシス一番思ってるのはリアムなのに気の毒です。
ノエルの新曲や言動のダサさ、ほんと、弟の声あってのオアシスだって認めてください。…しょっぱすぎ


・エンドロールに DJ ポール・ギャラガー

さすがに今回はカメラマンとしては出てこなかった、映りもしなかったニートの長男ポール
多分デビ―に厳しくされているんだと思うけど、エンドロールに出てきました。DJって

 

・レノン、彼女と見に来る
ところが映ってました。モリ―は来たのかな…

 

ギャラガー一族の定点観測ができてよかったです。

ボンへは闘病中だけど、きっと見てたね。早く帰ってきてほしいですね。

 

 

「イギリスの階級意識の強さにちょっとびっくりした」

「労働者階級、庶民階級って、40代だけじゃなくて10代や20代もいってる」

「労働者階級じゃないのってなに? 貴族? 貴族そんなにいるの?」

「日本は士農工商ぜんぶ労働者だから感覚がわかんねえな…公家や将軍家に対しておれたち労働者階級って思わないじゃん」

「リアムは魂がブルーカラーだからね、セレブ気取りのノエルとは違う。そこが愛され」

「白いパーカーだったね。26年前も着てたけど勝負色なのかな」

「自分がかわいく見える色がわかってんじゃないの」

「あーそういう。まあ自分のビジュアルがいいと思ってるワンコだから…」

「毛並みぼさぼさだけどね」

「元気でがんばっててえらかったよ。ココナッツからこんなになるとはねえ」

「お酒飲まないで喉だいじにしてたしね」

「バンドメンバーもちゃんとしてたね」

「いい仕事にはいいスタッフが必要なんだよね」

「ハサミではない」

「弟に版権で意地悪するくらいしかできないあいつ…遠くなるばかりだね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キリンの首

『キリンの首』
ユーディット・シャランスキー (著) 細井 直子 (翻訳)
河出書房新社



辛辣。でも主人公は生物学教師で、同性愛者や出産適齢期を過ぎた女性にも手厳しい。
というより人間全体を生物種の中で特別と思っていない。キノコの方が優れている。確かに菌類は生産的だ

面白さや感情移入を意図的に排除して、なおもにじみ出てくる何かを味わうよう小説でした。
わかりやすい感情も説明もなにもない。
現代美術のインスタレーションを見ているよう。
空間に構築された何かをみているんだけど、それが何の意味があるのか、何を伝えようとしているのかは提示されていない
最後に作家のキャプションを読んで、こうかもな、と思う。

多分、子供の頃に読んでもこの教師を生きづらい、不幸な人だと思うだけだったろうけど、
「彼女を好きになってもらうつもりで書いた」という作者の意図は今は分かる
周囲の人、生徒や娘に有害ですらある彼女のぶ厚い自他境界線の中に屹立してある頑なを最後には好きになる
貫かれる距離感が美しいと思う

生物学と一体化したような、夫も子供もいる50代の女性が、生徒の1少女に向ける不可思議な、それは恋だよとか巨大感情だよ執着だよと安易な言葉化ができない、どのラベルもつけられない何か、というのが、生物学と一体化した彼女には決して認識できないのだけど、読者にも易々と理解され共感をえるようなものではないのもいい

楳図かずお先生が、「わかりやすく描いているつもりですが、わからないというのは、それは奥行きなので」と仰っていたのを思い出します。
これは「わかりやすくも書かないし、奥行きがあるかどうかはあなた次第」で
意地悪だけど誠実な小説だと思う


『ハイゼ家100年』とか、延々と単調なモノローグで状況を語っていくの
「すごいドイツっぽい!」ばかっぽいけどほんとそういう感想








最近の眉毛兄弟

 

久しぶりの眉毛メモ。

Twitterでは友達とこまめにツッコミ入れてるんですが、
リアムもソロが順調で、
ちょくちょく精神不安定さを垣間見せてウォッチャーを心配させてはいるものの、
大きな事件も起こらずにいました。

ノエルのつまらないやつぶりも加速してツッコむまでもないというか。

しかし久しぶりに来ました。

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お兄ちゃんを名指しで罵ってきましたね!

なにがあった!と思ったら、ネブワースのソロライブドキュメンタリー映画にオアシスの曲を使わせないとノエルが言ったことが原因のようです。

https://nme-jp.com/news/121901/

「オアシスの曲はまったくないんだ。怒り心頭の奴から断られたからな」
「テイラー・ホーキンスのトリビュート・コンサートでもオアシスを歌うのを許可しなかったんだ。最低なチビだよな」
「これがノエルに残されている唯一の権力なんだ。忘れ去られるほうに向かっていることを分かっているんだよ」


ノエルは相変わらず、オアシスは再結成しない、そんなことをしなくても売れ続けてるといいます。
眉毛の弟はただお兄ちゃんとまた音楽やりたいだけなのにね。

カネカネってほんとつまんねえやつになってさ。
リアムもそれが腹が立つしかなしいんでしょうね。

オアシスの曲は俺が作った、才能があるってことがつっかい棒で、
実際には弟の歌の方が重要だってことを認めたくないんだろうと思います。
ちっちぇえ。

ところでネブワース22映画トレイラー。

50歳のロッカーという古臭い存在であるはずのリアムが
なぜこれだけの人数を集め支持されるのかわかる気がします。

 

成功してもセレブ的なカネの匂いが全然しないが
ダサいわけでもなく誰かとつるむわけでもなく
ずっと荒っぽいブルーカラーの貧乏の匂いがするノラ犬で
しかも戦略的にそうしているわけでも右翼左翼的な政治臭がするわけでもなく
単にそういう生き物っていうところ

ファンじゃないけど、この珍しい生き物の生態をつい追ってしまう
ウォッチャーです。

 

 

 

 

クララとお日さま

 

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(早川書房) 感想※ネタバレ

 

遅ればせながら読みました。ドイツではまだベストセラー平積み書店がありましたし、飛行機内で読んでいる方も見ました。

 

【あらすじ】

クララはAF(Artificial Friend 人口親友)いわゆる子ども向けの、情緒教育用友だちロボットです。太陽光を主のエネルギー源としています。
最新型ではありませんが、店頭で外を見てはそこで起こることを彼女なりに考え解釈し、観察、思考力に優れた個性を持つと評されます。ジョジーという女の子のAFとして買われたクララは、その家で人間関係やジョジーの心模様を観察し、ジョジーのために一番よいことを叶えるべくお日さまと秘密の交渉を進めていくのですが…

 

 

読み終えて、クララの純粋があまりにも美しくて涙がでました。
聖人や童話のような、フィクションの中でしかありえない利他的な純粋を人間で描こうとするといまやどうしても無理が出てしまう。
罪と罰のソーニャのような人が表現する美しさは、都合のいい偶像に対象を閉じ込めるものと今の多くの人は思うでしょう。わたしもそう思います。
だから作者はクララを、自己犠牲を役割として考えられる非人間としたのでしょう。

クララは推定14歳ほどの少女ですが、ロボットであるためロボットの目線で世を見ています。
クララが見る社会には「向上処置」「置き換えられた」「クーティングス・マシン」「ボックス」などの言葉が出てきますが、それらの言葉はその社会で当たり前であるため、説明されることはありません。そのため、読み手はこれはなんだろうと自分で推測する必要があります。そして答えがないため、どこまでも考えるのです。子どもの語り口調で平易に語られる物語ですが、非常に理知的に構築されており、その多重性が読み応えとなっています。


「向上処置(lift)」は、子どもの能力を向上させる手術のような処置で、処置を受けない子どもは未処置(unlifted)の劣った存在として差別される

「置き換えられた」は、大人が何か不適切と思われる(おそらく政治的な)言動かなにかで左遷のような、それまでの地位を追われてやはり差別される存在になること
リックの家庭環境の描写や、クララが最新機種と比較されるように、ここが「差別的な格差社会」であることは強く暗示されています。

「クーティングス・マシン」は、大気を汚染する大型清掃機械のようなもの

「ボックス」は、ロボットであるクララの視界が人間と同じではなくピクセルや情報処理によってもたらされていること


私はこのように思いました。おそらく、多くの人も似たような解釈を持つのではないかと思います。

 

向上処置を受けた子どもは健康に害が出る場合があり、ジョジーの姉サリーはそれでなくなっています。ジョジーも徐々に弱って具合が悪くなっていきます。
母親は、子どもを失うことに耐えられず、ジョジーの姿をもつロボットに、ジョジーの思考と行動をトレースさせたクララの頭脳を埋め込む計画を立てています。
向上処置を受けさせるか、子どもをロボットに置き換えるかという親の命題もありますが、私は、ジョジーの心はどこまでトレースできるのか、そもそも人間は複製し継続できない特別な存在であるのか、というテーマに興味を持ちました。
心は扉のようなもので、開ければそこに幾つもの扉がありその連なりをすべてトレースすることはできないと、ジョジーの父はいいます。
クララは、とても難しいことですが、可能であると考えます。
しかし、クララはジョジーを助けること、ジョジーのためによいことのみをずっと願い、自らを損なってでも行おうとします。
そこで行われる「お日さまとの取引」は、信仰に似た思い込みでありながら、クララのひたすらにひたむきな願いと純粋さがあふれていて、最後に願いがかなったことをクララ以外の誰も知らない。そもそもその願いは祈りでしかないのかもしれない。だけど結果としてジョジーは救われ、クララは静かに廃品置き場へ引退し、継続不可能なジョジーの特別とはジョジー自体に宿るのではなく、彼女の周りの人たちの中にある、と語る。そしてそれは、クララの中にもジョジーが存在している、リックや母親、すべての人間が代わりの利かない者として存在しているということです。
それは、科学的に物事を観察し、人間の寂しさに寄り添おうとする機械から、弱く哀れで人間同士でさえ替えが効くと思いかねない人間への、無償の、大きな福音であるようにも思えるのです。


クララの視線は冷静だけれども真摯で純粋で優しい。
そして自分とは何なのかや、自分の感情のことではなく、常に周りの人間のことを考えています。
だからこそ、読み手であるわたしは「人間」の側のことを考えてしまう。我々が人間だから。
友達、といいながら、AFは人間の子どもにとって全く対等ではなく、ある種の奴隷のような存在であることは、物語の端々から読み取れます。人間の邪魔にならないよう冷蔵庫に向かって立ち続けるクララ、最新機種にしておけばよかったかもといわれるクララ、子どもに嫌われて常に数歩後ろを歩かされるAF…
そして、その愚かで身勝手で利己的な人間を決して責めることなく、人間の在り方に頓着することなく、最善を尽くそうとするクララに、哀しみではなく神のような尊さを感じました。

66歳の成功した男性小説家であるカズオ・イシグロが、女の子のロボットを題材に、子どもの語り口調で、このような物語を描き出せたことに強く感動します。小説を読む、その世界に入り込み享受する喜びを深く与えてくれる一冊でした。

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイ 最終感想(仮)

 

完結しましたね。読めなくなってしまいましたといいつつ、やっぱり読みました。
終わり良ければ総て良しを期待したところもあり。
無料公開がきっかけで一気に読んだ方と、週刊で追ってたのでは温度差があるのは仕方がありません。考える時間があるほど深く、時には余計な事を考えてしまうものなので。

 

さて、

加筆修正があると思うので今時点での感想は仮になるのですが、
最終回、アイヌ問題、あと白石の侵略問題? の描き方が一部で批判を受けているようです。
私はというと、特に気になりませんでした。
大団円で良かった、楽しませていただきました、というよりも、そんな現実とリンクする複雑な事象を扱える作品だと思っていなかったから。
批判をしている方は期待していたのでしょうし、期待するだけのものがあったのだろうと思います。そしてそういう期待していた人にとっては期待通りではない終わり方だったのは理解できます。また、扱えないなら雑に触るな、という面もあるでしょう。


自分が最初にひっかかって、ああこういう作品なんだなと思ったのは、親分と姫の描き方です。
ひと目でわかる有名俳優をモデルにして、あの描き方はないのではないだろうか。
私は仲代達矢のかっこいいイメージがあったので(鬼龍院花子の生涯とか)、現実の俳優をモデルにしてなぜこの描き方と思ったし、特徴をとらえて上手いけど、リスペクトがないなと思った。故人や同性愛者を笑いものにしていいとも思えませんでした。これをブラックユーモアというなら、いじめを笑いというのと同じベクトルと思う。
その、ディテールは緻密で面白く描いているけれど、素材にした現実に対する思考や配慮にどこか欠けているところが、最終的にすべてに影響を及ぼしたように感じられます。


親分姫のところで一度読むのをやめて、網走襲撃から樺太編が面白くて本誌を追い始めたのですが、樺太編は本当に面白かった!いやほんと。あそこで月島さんがすきになりました。仕事をきちんとやろうとする人が好きなのです。

 

 

かわいそうなアイヌを描かないでほしいといわれ、そうした、というお話を目にしました。女性や子供を含め、現実で弱者で被害者である歴史や状況があった/ある存在を強く明るいものとして、なかったこと…もといポジティブに描く一方で、一部の成人男性がたいへん己への被害者意識が強く、他者への加害意識が薄いという対照性も興味深かったです。

その対照性がね…とても現代、というかちょっと古いところから引き続きある「今」という感じがしました。

あと、かわいそうとはなにかなあ…という。
北欧少数民族の少女の映画「サーミの血」を見て、苦しいけどかわいそうとは思わなかったな。差別は隔絶されたものではなく、差別する側の人は自分達の内部でも差別をしあっている問題、と思ったし。イケてる子がイケてない子を笑うとか、根本は同じ、という、自分の中の問題。かわいそうって他人事だよね…。ああいう苦しい人生を描いてほしかったとは全く思わないけど、根本にあるものは触れられると思うよね、エンタメでも。



で、「親に愛されなくて傷ついた」「戦争で人を殺して傷ついた」「愛するものを奪われて傷ついた」そんな俺がかわいそうについて、家父長制のなかで男も傷ついたはどんどん訴えていくべきなのですが、「なぜ傷ついたのか」がキャラクターの独りよがりで終わってしまって、より高次の視点がぼんやりとしか感じられなかった、これが残念。

尾形は愛してくれる人をころした罪悪感に耐えられず死んだのではなく、最後まで自分の罪悪感を見ることを拒否して死んだのだと思うし、その罪悪感の根源は勇作さんではなく母親であるべきだったと思ったし、今も思っています。
私は、尾形の母親が殺されるほど悪い母だったとは思えないのですが。
ネグレクトといっても食事をつくり、添い寝して歌い言葉もかけているし。
それが「愛してほしい自分が望んでいるものと違った」から「愛する男に会わせてやるため」という自己欺瞞で殺人を犯した、という己の内面を見られないから、絶対に見たくないから「祝福されなかった自分」という理由を作り出し、ああいう行動をとりつづけたのだし、殺す必要もない勇作さんも殺したんでしょう。そうとしか思えない。

でもその「自覚の拒否」がすごくかわいそうだとは思うし、そういう描かれ方で描き切られてしまったのが、かわいそうだと思う。


あの母親の、「哀れな女」の描き方って、ちょっと「流されやすくて水商売をして男にのめり込む妾女」への差別というか嫌悪に近いものを感じます。多分作者がそういう人が好きでないのだろうけど。彼女はむしろ社会や状況の被害者であって、殺されていいほど加害者ではないはずなのに、「母親は強く明るくどんな時も子ども第一であるべきなのにそうではなかったから殺されて当然」みたいな暗い固定観念を感じる。


あと、鶴見の「ウイルクのせい」

…いや、みっともないのなかでもかなり口にしない方がいいやつですよ、「○○のせい」って。


登場人物の多くが自分の傷には敏感で、誰かのせいだと思っているけど、他者を傷つけ加害していることには鈍感なんですね。

で、この「かわいそうな私」に酔う被害者意識って、多くの人、特にオタクと親和性が非常に高いと思いますね。
多くの日本人が、自国の歴史を学ばず向き合わないのもこれ。


手塚治虫の火の鳥を読もうとして読めなかった人が「人間の本質に入っていくのが怖くて読み進められなかった」といっていて、人間の本質に入っていくものほど深く面白いのではないか、と驚いたのですが、「怖くて見たくない」という人と「それこそを見たい」という人の間にはすごい溝がある。
どちらがいい悪い優れているいないではないけど、どっちかが多くなりすぎるとそういう社会はバランスが悪いんじゃないでしょうか。

 

結局、こうやってごちゃごちゃ言ってしまうのも面白かったからで、それはそれとして、という議論を呼ぶくらいの内容があるという事だと思います。
様々な意見があるのは、「自分に都合の悪い、残酷で深いところも目を凝らして見たい」人向けではなく、最終的に「受け入れられるモノ以外見ないで楽しみたい」人向けだったのに、前者向けのような感じを含んでしまったところかもしれません。
だから前者には黙ってろ、というのはちょっと暴力的だよね。前者も後者もいるよ、そして互いにいることを認めつつ、自分の力で考えるべき。



とはいえ数年たって読み返したらまた違う感想かもしれません。
名作は読み返すたびに発見があるものですから。
自分が至らないという自覚をもっての今の感想としてのこれです。

 

 

くらもちふさこ「天然コケッコー」感想1

 

くらもちふさこ先生の「天然コケッコー」感想です。

 

むかし読んだのですが、再読して「全然感想が違う」(こればっか)
年を取るって、自分がいかに子どもだったか思い知らされることばかりです。

 

再読一回目、大沢もそよも、登場人物の誰一人として深くは共感できず、好きでもないのにものすごく「良いものを読んだ」気持ちになりました。
田舎の風景や空気感、だけではない
これはなんだろう??? と思ってもう一度読みました。



天然コケッコーのなにがすごいか、それは

他者の思い通りにならなさを排除しない

かなあと。


廃校寸前の学校にいる7人の小中学生と小さな村の住人を中心に、温かな日常に当たり前にある人間関係の面倒くささや負の側面が淡々と描かれます。
何が面倒で負かといえば、主要人物=読者側の人間にとって「思い通りにならない」からです。
そして、天然コケッコーは、キャラクター=読者側の人間にとって都合の悪い、他者の思い通りにならなさを、強さや能力や正しさで思い通りにしようとは決してしない。
これは並大抵でできることではないと思いました。

普通の漫画などの創作、もっといえば、普通に生きている私たちには「自分の秩序」によって他者を思い通りにしたいという願望があります。
「女はこう」「男はこう」「家族はこうあるもの」「性欲」「勧善懲悪」「やさしい世界」「弱肉強食」「実力主義」「学歴主義」「家父長制」「人権思想」「宗教」「新旧」その他あらゆる生活の中に「自分の秩序」がある。
その秩序を乱されると、不快や怒りを感じます。
プーチン大統領の大ロシア主義もこれで、正義や悪というより、それぞれが自分の秩序を求めており、その秩序に反する相手を断罪し、暴力を用いても排除しようとする。
それがまかり通ると社会が荒むので、法律という「みんなの秩序」があるのですが、法律は完全ではなく、いまの状況で仮に設定された最低限の秩序で、状況が変われば変わるものです。法律という共通秩序が人権を脅かすほど高圧的になると、独裁国家や監視国家になります。死刑だって暴力による秩序維持のための排除なわけです。
ですから法律を補う準共通秩序として、社会通念やマナーやモラルがあります。
全員の秩序のレイヤー数が違うので、社会はあやうい均衡の上にあり、流動的で、複雑で、混沌としています。すごく面倒くさいし疲れる。


だから、一人の人間が頭の中で組み立てた秩序によるフィクション=エンターテインメントは楽しいし安心するし、残酷な設定でも感情移入できる。
二次創作もそうだよね。私もやるけど。
「このキャラの関係性はこうあらまほしき」狭く小さい自分の世界秩序だから。
だからフィクションは自由な一方、「誰かの都合で作られた一方的な秩序」なので、社会通念にそぐわない特殊描写、弱者や子どもに加害的な題材を用いたフィクションなどはレーティングやゾーニングが必要となります。




それ以外のオープンなフィクション作品を楽しめない=ハマれない、場合は、「自分の秩序にあわない」からで「なぜあわないのか」について、楽しんだ側が「批判するな」「ターゲットではないだけ」と断罪するのは己の秩序を乱す他者の排除で、まあ、暴力ですよね。
その逆もそう。合う人もいる、合わない人もいる、その違いはなんだろう?
これを考えず排除しようとする人って、ちょっと怖いですよ。
だからフィクションの危険性は意識せねばなと思います。
現実とフィクションの区別がついている!と断言する人ほど、現実との接点が少なそうだし。自分も気をつけないと。



天然コケッコーには「自分以外の秩序」が「厄介だが排除も否定もされない」ものとしてある。
シゲちゃんの空気の読めなさ、遠山のずるさ、比世子のメンヘラ、大沢母によろめくお父さん、距離の近い噂好きの村人
もちろん、本格的に暴力的な人が出てこない、政治や経済が見えない、平和で普通の未完成な子どもの世界を大人(作者)が優しい視点で見ているからでもありますが、でも一方では子どもこそ「自分の秩序で他者を排除する」をむき出しでやったりする。
そこでは、重要でない他者は「モブ」だったり不快な他者は「嫌なやつ、加害者」だったり、そもそも視界に入っていなかったりする。

漫画的な世界って基本そうですよね。
主要人物以外は適当な顔で、装置にすぎなかったり。
読者の現実はモブだけど、自分が魅力も能力もないつまらない人間だと思いたくない、見たくないから、主要人物以外のザコキャラには非常に冷淡だったりする。
むろん、そういう慰めが必要だから現実を忘れるためのフィクションがあるわけです。

ただ、自分が弱者である現実を忘れるためのフィクションを消費する側が、「経済を回す(…)」お客様で強者であるという、非対称性の歪みは認識したほうがいいかと思う。



作品の話へ戻ると、

天然コケッコーでは、周囲の人のほうが陰影が深く、主人公二人が書割のようだ、という鋭い考察を見ました。
モブ=現実の私たち、で、主人公二人=心地よいフィクションで、大沢とそよの二人の世界(恋愛)の外で生きて、感じて、見ている側の生々しさがすごいんですよね。
大沢に憧れて自作漫画の中で都合のいい妄想をしているあっちゃんが、読者人気が高いのはわかるし、先生も「本来ならあっちゃんが主人公なのが少女漫画」とおっしゃる。
あっちゃんは大沢とそよを応援して見守る、推しを壁で見ていたいオタクの立ち位置で、「モブの自分には手に入らない世界を愛でたい」、でもあっちゃんにとっては現実だから、やっぱりつらい。
地元を愛し排他的で、そよと大沢がつながっている限り大沢との縁は切れないから、そよ以外の人とつきあってほしくない。
そんなあっちゃんに無言で淡い思いを寄せる浩太郎(将来性あるいいヤツ年下イケメン)に、「気づいていないけれどあなたを見ている人がいるよ」というまさに少女漫画の視線があり、淡雪のように消えていく詩情が切ないのです。。




 

 

14歳 Fourteen

IT WILL ALL END AT FOURTEEN 

 

"Fourteen", the manga drawn by Umezu Kazuo has gave me a lot of emotions, especially since the invasion of Ukraine.

Humans end at the age of 14.
they were childish and selfish, couldn't grow up to 14 years or older even if they changed generations. That is the fatal reason.

 

When they die, they show ugly true nature.
This is abstract expression but digging out real human essence as grotesque. it exist always under human's social shallow skin, but just invisible in ordinally life

They can not understand how ugly themselves. This is why the earth will dead and human being destroy all being to the point where it cannot be recovered in the story.

最近読んだもの2

 

「運命と復讐」
ローレン・グロフ 光野多恵子訳 新潮社
 

タイトルの響きが「忍者と極道」っぽいですが、そんなに違わない(意外と)

復讐編の破壊力が凄まじくて面白かったです。
前半の「運命の神々」が夫側から、後半の「復讐の神々」が妻側からの物語です。


売れない役者から劇作家となり成功した夫・ロットは富豪の育ちだが、女の子との問題でブレップスクールに入れられ孤独な少年時代を送る。その後、大学で出会ったマチルドと結婚。マチルドを認めない母から絶縁され貧しい時代を妻に支えられて、悩みながら自分の創作の道を見出していく

だが、ガラスのように純粋で気高い妻だと思っていたマチルドには決して人に言えない過去があった…



「怒り・邪悪」「純粋・優しさ」といった対立する心情が絡みあい溶けあって「愛」になり、その「愛」が性愛/友情/家族/親子の中で互いを刺す。

英語圏の文芸はシェークスピアとギリシア悲劇を出さずにいられないのかと思いますが、そこがやっぱりゆるぎない物語の基礎としてあるのでしょうか。
劇作家の話だから、エラスムス「隻眼の王」とか引用も多い。為になる。

人生を分け合う夫婦の一方から見る世界と、違う世界、アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」の表面と裏面を別の人で見せられた感じでした。

 

ロットがマチルドに使う「受動的攻撃性」という言葉も面白い。
実際はマチルドは能動的攻撃性の人で「今度は私が攻める番」という復讐パートでロット目線からは見えなかった悪意と報復があふれ出すんだけど、ロットを愛する人々の業の深さの曲げられなさは決して不快ではありません。

むしろロットその他「優秀で愛されるいい人」の薄さが人生これでいいのかというか、大勢に愛される強い魅力のある人の内部にはたいてい大きな空洞がある、そこに響く自分の声を人は愛するというその「空っぽ」感が美しいというか哀しい。

ブラックホールは光すら吸い込む密度と重力だけど、その逆で密度も重力もない「自己愛の美しい器」みたいな、アイドルとか推しの空洞性ってそういうものだと思ったりしました(とばっちり)

同性との性愛描写も夫婦ともさらっと出てくるのですが、「相手の肉体よりも、肉体の中に閉じ込められた輝きを得たい」という、性別を超えたところにある行為で、LGBTQ的なカテゴリではないのが良かった。なんかそういう、名前を付けて何かの感情にしてしまうのは逆じゃないのか、その枠を解体したほうが本当じゃないかと常々思う。
性愛=恋愛とは限らないし、そうではない愛も沢山あって特定の物差しでは測れない。

だからチョリーの感情もそういう事ではなくてああいうことでこうなんだな、とスッと入ってくる。

 

 サリーおばさんが一番好きです。こういう地味で独身女性でケア担当みたいだけれどその裏に「眩いばかりの自由」がある人

夫を強く深く愛してはいたが、「彼女の人生そのものの方が、愛よりもずっと大きかった」
けれど彼と出会ったことで「握りしめた拳のような彼女が大きく開いた掌のような人間になった」というのがよかった。

 

あと、『子犬が癒せないものはこの世にほとんどない』真理です。

 

 

『丸い地球のどこかの曲がり角で』の方が美しいのですが、ドラマ的破壊力はこっちのほうが強いので好み次第です。

 

 

 

最近見たもの

 

「マックイーン:モードの反逆児」(2018)

 

U-NEXTお試し期間で見ました。

 

ファッションデザイナーのアレキサンダー・マックイーンのドキュメンタリー映画です。

・マックイーン、作品がすごく尖っているのに本人の見た目が英国ブルーカラーフーリガン風でデザイン学校の教師に「みすぼらしくて魅力がない外見だった」といわれる

・サヴィル・ロウで働き、イタリアへ単身渡ってロメオ・ジリで働くなど、10代で凄く頑張る

・才能があるが、厄介な人たちが群がってくる

・40歳、母の葬儀の前日に自殺

 

幼少期に義兄から虐待を受けたとか、生育環境にも問題があって、若くして現場で才能を発揮して、周囲に消費されながら燃え尽きてしまう

 

友人「嫌いじゃないけど、踊らされたな、って感じ」

 

残酷だけど「踊らされる」ってすごく、的を射ている…

彼は人並外れた才能があるから踊らされ方も並外れていたけれど、凡人もだいたい踊らされているよね。

イヴ・サンローランも若い時から有名メゾンで才能を発揮し、兵役で性的虐待を受けたり薬物依存に陥ったりと重なるところがありますが、周りの人には恵まれていたのかもしれない。

才能に群がる厄介な凡人たち、今はSNS発信で承認欲求を満たしているのだろうか。本物は発見されにくくなるけど、ある意味平和といえば平和…
 
ドリスヴァンノッテンのドキュメンタリー映画、庭を愛する職人仕事がとてもよかったなと思いました。
 
 
 
 




 

 

 

侵略戦争

 

侵略、の歴史を考えていて、

日本は明治になるまで、戦争のない400年の平安時代、300年の江戸時代があった事がすごいと改めて思いました。

むろん、政治権力のいじめ構造や庶民の搾取はあったわけだけど

白村江の戦い(663)が初めての対外戦争で、その後大きな事件は秀吉の朝鮮出兵までないなんですよね。
その間に平安の国風文化が成立して中国の影響から文化的に脱したわけで
花鳥風月を愛でるというのは、やたら人物や人工設定の静物画や宗教画を描きたがる西洋美術とは違う、とても高度な世界観だと思うんです。

正直、言ったら何だけど、田舎者が権力を握ると美意識もなくカネと力を貪り、あげく侵略したがる、んでは。日本史的には。いや、プーチンやアメリカもそうだと思うけど。

秀吉とか、薩長とか。

田舎者というのは地方出身者ではなく、下図の例にあるような人間の表現背景にある内在的要素がとても薄く偏っているという意味においてです。

 

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田舎ものをバカにするな!
といっても、そういう人が他国を侵略したり、他者を迫害したり文化を壊したりしがちなんだから、人間の過ちの歴史を繰り返さないためには、内在的要素をぶ厚くする教育が大事なんだよ、本当に。