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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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「男は女を通してしか自らの内面を語れない」

北海道近代美術館の田中武作品が炎上した件、

前から言ってますが
「男は女を通してしか内面を表現できない」問題です。

多くの男性は自己の内面というものがない、あるいは、内面を持つ必要がない。
そのため様々な問題がおこります。
内面を持つ必要がない人間というのは恐ろしいものですが、
「肩書」「年齢」「性別」「国籍」といった属性のみで構成され
社会生活に支障のない人間はたくさんいるのですね。

むろん、そういう女性もいます。
しかし田中武作品が「年齢も職業も違うさまざまな女性」を、女性であるだけで「表裏のある、”男にとって”醜悪で、見下してかまわない存在」と表現したとき、「どのような女性」も「女性という肉体をもつ」だけでその視線の対象にされるのです。
逆は非常に成立しにくく、まれです。
対称としては「おじさん」があげられるかと思いますが、中高年男性には外見・内面・行動で女性に対するミソジニー・有害さが少なくなく、「おじさん」が嫌がられる存在として表現される理由はあるのです。実際、多くの「おじさん」自身が自分以外の「おじさん」を嫌いでしょう。

しかし、「剃毛する老女」や「六法全書を持つ若い女」や「顔パックする女」が男性にとってどう有害でしょうか。
そこに見える欲望は「女をバカにしたい」でしかありません。
描かれているのは女性の姿ではなく、「女をバカにしたい」という男の内面です。
しかし、見えているのは「女性」の姿だけです。


これは、男性が自らの欲望や内面を認知して表現できず、女性に投影して表現しているからです。
主体的に欲望を持つのは男なのに「女に誘惑された」というのと同じです。
自分自身の欲望を把握できないのです。
そしてその自覚がなく、みずからの内面の照射で浮かび上がる「女というのはこういうもの」であり、「自分にはそれを観察し分析し嘲笑する権利と立場が当たり前にある」と考えている。
それが「男は女を通してしか自分の内面を表現できない」ということです。

これらの女性に投影された醜さ、嘲笑は、男性自身が最も恐れていること、つきつけられたくないことです。つまり、「見下されたくない」「見下す側でいたい」です。

なお、女性の中にもミソジニーは存在します。
男性の投影と同じ目線で女性を嘲笑し見下す人はいます。たとえば「化粧してブスを隠す女」を笑ったり「性的に消費される女」を男性と同じように消費することで「自分は違うけど女とはそういうもの」と位置付ける女性です。

ここでいう男性というのは、「社会と一体化した男を生み出す男社会に適応した人々」という意味です。
あなたは男性ですが、どういう男性ですか、という問いです。
「すべての男性」じゃないですよ、というのは当然です。
むろん、女性も同じです。あなたは「社会と一体化した男を生み出す男社会に適応した人々が規定する女におさまって、平気な人ですか」という意味です。

男性から「愚かな女一般」とみなされることに距離を取りたい女性は、
「女性を軽んじ、ステレオタイプな性的対象とみなし、若年女性を手下、労働力とみなし、消費し、男性に差し出す」など、男性にすり寄ったメンタルをもつことで疑似男性化します。
彼らは女性ですが、ミソジニーを内面化しているため、女性にとって有害です。
ひいては自分自身に有害なのですが、一時的に自分を守るためのふるまいが染みついてしまい、老人になっても脱せない人はいます。













 

戦争ってなぜなくならないんだろう

 

「戦争ってなぜなくならないんだろう」

この問いも、ずっと世の中にあって、答えとして「それぞれの立場や正義が異なるから」とか「人間はおろかだから」などという答えがあります。

 

しかし昨今の日本や諸国の状況を見て、ふと、思いました。
酷い発想だなと思いますが、

戦争には、暴力的で学のない、コミュニケーション能力も生産性も低い、それらの要因から他者へ加害性の高い人間を社会から排除する効能があったのではないか?

ということです。

社会が繫栄し、平和が続き、しかし十分な教育や公平が与えられていないと、
社会の下層に、他者に対して有害で、生産性やコミュニケーション能力に欠け、暴力衝動を持つ人たちがたまっていきます。
反社会的組織や不良グループではなく(なぜならそういう人は同様の人間による”組織”に参加するコミュニケーション能力や、そこで支配従属関係と利益を生み出す才能があるからです)、「誰でもよかった」といって車で歩行者天国につっこんだり、女性や老人や子供といった弱者を殺そうとするような人々です。

で、戦争というのは、歴史上、そういった傾向を持つ人々を統制し、有効に用い、居場所と名誉を与えたうえで、一定数昇華...排除するシステムだったのではないか。

第二次世界大戦後、ある年代の男性が大きく減っていたはずですが(兵役は男性のみでした)、日本の経済成長において特に支障がなかった、
また、ロシアドイツも同様ですが、その後の経済成長や国力増加は欧州でもトップクラスです。
そして、第二次世界大戦における戦死者の割合は、日本とドイツのみ民間人を軍人が大きくうわまわっている。民間人=老若男女、軍人=民間人以外の特定年齢層の男性です。

こんなことを言うのは本当に酷いと思いますが、
「有害な傾向をもつ男性を一定数減らすことにより、社会全体の成長が促される」効果が戦争にはあるのではないだろうか?

女性を減らすことにも、同様の効果がある可能性があるかはわかりません。
歴史上、特定年齢の多くの女性のみを死ぬ可能性がある状況においやる現象はなかったからです。

 

江戸時代や平安時代など、日本史で戦争がない長期安定があったのはなぜかというと
島国であり国内平定していれば他国の干渉を受けにくいことは当然として、
民主主義も資本主義もなかったからです。
社会で有害かつコミュニケーション能力も生産性も欠ける人間は、社会上層部では教育と富により少なく、下層では長く生きることができなかった。

戦国時代のあとの江戸時代の平和は、暴力的傾向のある人間を権力から排除し、
厳しく身分制を定め、自由を奪い、支配したから達成されました。
明治政府になり、社会上層部が薩長という地方からの暴力的組織により乗っ取られ、身分制が崩壊して、有害かつコミュニケーション能力も生産性も欠ける人間が社会で場所を占め、それを統制する教育の質も量も足りなかった。
彼らの多くを用いてアジアで戦争をするのは、社会にとって有益な利用法であり、社会上層部にとっても大きな利益のあることだったのではないでしょうか。
意識はしていなかったものの、結果としてそういう風に流れざるを得ない側面があったのではということです。



で、現日本政府はそんなことを考えるほど賢くはないと思うのですが、
アメリカはもしかして意識的にそれをおこなっているのではないだろうか。

だから、常に戦争を(他国で!)行いたがり、派兵したり駐留したりするのではないだろうか。

むろん、主目的は違う。
ただ、裏の効能としての「特定属性人間の社会隔離と排除による社会の強制浄化」があるからこそ、強大な軍隊を持ち続ける無意識の社会本能があるのではないかということです。

アメリカの貧富や教育レベルの格差、社会モラル、教養の偏りで下層になる人々を思えば、軍隊に入る若者は決して高い教育を受けた人ばかりではないと思います。
というか、軍隊は警察と同じく、高い教育と出自を持つ人は上層部に限られるはずです。

そう思うと、モラル的には許されないし、巻き込まれる人もいることを思うと戦争は絶対してはいけないのですが、社会の強制浄化という意味があるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイ 再読

 

ゴカム再読してました。
わりと初期から、本誌を追ってたんですが、最終回近くなって自分のなかではちょっと引いた気持ちが強くなっていたんですね。

再読して、やっぱり面白いな、と思って、
でもやっぱりちょこちょこ引っかかるところがある。

優れているからこそ、「ここも受け入れられてしまうのはちょっと、違うんではないか」まずいんじゃないかと思うんです。

その点を、整理してみます。

 

・アシㇼパさんが少女である点

「アイヌ文化や命、正しさを純粋な目で教えてくれる」アシㇼパさん
これ、どうして同世代の女性ではないのだろうか、と思うんですよね。
なぜ成人男性とローティーンの少女を組み合わせるのか。銀魂もそうだけど。

多分、ローティーンの少女からものを教わったり、彼女が自分より強かったりはいいけど、同年代の女性に負けたり教わるのは、作者が上手く描けないし、読者が設定として受け入れられないのではないでしょうか。
それはなぜか。
若い女性は若い男性にとって明らかな「性的対象」なので、対等として扱うスキルがない。性的なので純粋ではないと思っている=自分が性的にみる対象を性的能力があるゆえに不純かつそれのみの存在と思い、少女を”純”な存在と思い込みたがる、自己投影と自己拒否と現実逃避という多くの男性の思い込みに疑問なく従っているような気がします。
少女は子供で、子供は大人が保護するべき存在というのは当然なので、成人男性は少女とは対等でなくていいんです。
大人として自分が無条件で上の立場だけど、少女側が対等だとか恋愛対象だといえば「受け入れる」という都合のいいダブルスタンダードの関係ができる。


インカラマッやカエコさんなど数少ない「若い女性」は「恋愛脳」だったり「ずるがしこい」だったりしましたし、梅子さんの描き方なんて、男にとって最も都合の「いい女」ですね。
男二人と女一人の三角関係で、二人の男に争われる女は実は男同士のホモソのための道具立てである。というのは古くから言われ研究されていることです。
https://www.chuo-u.ac.jp/uploads/2018/11/6751_311013.pdf?1552867200054


梅ちゃん、「男性を内面でみている女性(杉元に顔も能力も劣る寅次を尊重する)」という描かれ方ですが、逆に「好きだった美少女が結核で村を追われて、もう一人のブスの幼馴染と結婚した男性・梅さん」だったら、「ブスに優しいいい人」だけどどっか「ブス嫁」みたいな扱いが出るんではと思う。若い女のブスをどう扱っていいかわからないんですね。人として。だから笑いにするしかない。キロランケの妻や年取ったソフィアやブス娼婦みたいに、笑いの要素が出てくる。この漫画、男のブサイクより女のブサイクを笑いにしていますね。ナチュラルに。男で笑いものにされるのは「ゲイ」「ホモっぽい」「バカ」です

作者が、というより、読者や日本一般社会的に、成熟した若い女性は、性的価値が最優先の生き物で、男性は自身を成人女性より冷静で知性のある存在にしておきたい、女性自身ですらそう思っている無意識があるんでしょう。

一方で、チカパシがバカで普通のエロガキであることを思えば、

少女への妄想というか期待値と重荷ののせ方が異常

だと思うし、
それが疑問なく成立していることの裏にある心理はもっと分析されるべきと思います。

これ、少年が若い女性と相棒として同じような設定だったら、絶対世間で受けないよね。
多くの男性は自分より若い男はバカで弱いと思いたがりますし。

 

・白石へのいじり

いじりやすい男を笑いのネタにしたり、誰もが侮っていい存在とするのって、
かなり不快でした。特に前半部。
谷垣へのいじりも同じく。
ホモソ社会の下劣なところだし、アシㇼパさんもそれを普通にやっている=男と同じレイヤーの「認められる存在」みたいなのも嫌だった。

 

・ソフィア

日本エンタメ全部の問題だと思うんですが、ババアは年を取って美貌をうしない、「男にとっての女」であることから降りることで、一定の強さを得る、

ってやつ

 

大っ嫌いですね。ふざけんなっていう。

 

若い女は戦えても最終的に「男に守られる存在」でなくてはいけないが
年取って醜くなったら強くなっていいしババアは笑いにしていい、
フミエ先生とか、ハマ子もこれ
ジブリもあるよね。これ。

幼女=純粋なロリ 
若い女=異常な包容力ある美女 
経産婦=子ども第一の頼れる母 
それ以外の女と年取った女=笑いの対象で強いバケモノ

おかしいだろ。どうやって整合性とってんだよ。

一方、土方歳三は美爺なんですよ。

美婆の主要人物は出てこないのに、男はジジイになってもカッコイイし男の美意識の自意識がまとわりつくんですよ。

人斬り用一郎やガムシンもそう。
こういうの、現実でも変な誤解を生むからやめてほしいですね。
日本男性の自己認識はちょっと甘すぎですから。
男のナルシシズムと加齢女へのいじり、セクシズムとエイジズムが酷いなって思いました。

 

・どっか雑

アイヌ文化や小物などへのディテールは非常に精緻なのですが、
実際の歴史や先住民文化に対する扱いが雑。
コンテンツ扱いしていいものではないし、IFであれ史実をベースにしているならそれなりの誠実さや敬意が必要では?と思います。
戦争に行っていない楳図かずお先生が、

「死者の行進」を描くときはものすごく迷いました。当時は、戦争を体験した方がたくさんいらっしゃいました。マンガ家の中にも水木しげるさんみたいに戦場で腕をなくした人もいらっしゃったから、経験のない僕が戦場を描くのは、いけないことじゃないか、失礼になるんじゃないか、と思ったんです。

 

とおっしゃったそうです。
表現の自由や面白さを優先して、現実への敬意を欠いたクリエイターが最近多すぎるな、と思うし、野田先生がそうだとは言わないけど、誠実さの点でちょっと、私には美意識が感じられないところがあった。
失礼になってはいけない、という畏れや敬意よりも自己満足優先というか。
いろんなパロとか
親分と姫のモデル役者とかね。
失礼だな、と思いました。
面白いと思ったからって、ためらうべき事があります。
描く事自体がダメなんじゃない、それを作者が「ダメだけど」っていう自覚があるかないかなんですよね。「至らなかった」「でも、現時点で誠実に向き合った」とかね。

 

 

う~ん、このへんですかね。
やたら他責思考がある人が多い、ってのはまあ作中でも多少批判されているし
薩長への批判もあったので、そこはもっとやってくれ!と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女は何を通して内面を語るのか

 
 
<進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか>
 
で、「男は女を通してしか自らの内面を語れない」を考察したのですが、
 
 
ポーの一族を読みかえしていて、
 
「女は自らの内面を何を通して語るのか」
 
と思いました。
 
むろん、「自分という女、他者という女を通して」はあります。
 
男性と違って「男を通して」はあまりない。
男性が社会と一体化しているゆえに、「社会と一体化するスタンスにない」女性にとって、どの関係性でも男性は
「その男性が社会でどうあるか」が大きくて、ゆえに、彼を通して社会を語ることができても(例えば家事をしない夫、など)彼によって自分の内面を語ることはない。なぜなら彼には内面そのものがないから、とも言えます。


そこに「内面を見出す」のが、少女漫画の古くは「少年愛」だったりするのかな、と思いました。
 
萩尾望都先生、よしながふみ先生が、二人とも、
 
「女性では描けなかった」「女の子には制約がおおすぎて、描いてもおもしろくなかった」
「男女の恋愛は対等になれない、男同士なら対等になれる」
 
ということを、おっしゃっているんですね。
 
以前は、なるほど、そういうところはあるよなあ、と納得していたのですが、
今はこう思います。
 
 
「そう思うなら、なぜ、自由な少女や、男性と対等になれる関係性や世界観(SFでもいい)を描いてくれなかったのか。 
”少年”ではなく、”少女”を解き放って、少女を通して理想を描いてくれなかったのか」
 (そういった作品もあるのは知っていますが、弱い、というか、例えば「11人いる!」のフロルは雌雄同体であり、長子以外は強制的に女にさせられる社会から逃れるため宇宙船に乗っています)
 
そして読者である自分に対しても
 
 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しないと思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
と思います。
 
 
BLという「隠された女を仮託した男」の人間関係や恋愛、性愛を消費するのではなく、現実の女と男の人間関係を「それに近づける」フィクションがあるべきじゃないのかと。
もちろん、現実ではないからこそ楽しめる、もわかります。
それで、現実とそれに結びついたフィクションを「楽しめないもの」のままにしていていいのだろうか、という話です。
 
多分、肉体的なハンデは大きいです。
性愛は女性だけにリスクがあるし、リスクがあるということは弱みで、弱みがあることは「対等」にはなりにくい。
 
でも、それを弱みとしてしまうのは、妊娠出産や家事育児、ケア労働を「女の無料奉仕分野」にしてしまうことでもある。
 
現実にそこから逃れられなくて、妄想で男同士の関係を夢るのはわかります。
しかし、娯楽の妄想は現実にも影響を及ぼすので、結局「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう危険がある。
 
「対等な関係」を求める、というのは、理想が高いことです。
理想は実現できないが、理想を持つのは大事。
だけどそれを男女に求めることはできないんだろうか、フィクションですら。
と思うのですが、
わりと対等に近づいている北欧ですら難しいですから、難しいとは思う。
でも努力は必要ですね。
 
あ、「パワー」みたいに、女に電撃超能力がある世界、というのはあるけど、
暴力により対等になるしかないという解釈は最もリアルとはいえ、きついよねえ。ホモサピエンスとして。賢い人って意味だからね。
 
 

ストーンオーシャン/ヘヴィーウェザー

 

暑いですね!7月に入って35℃に迫ろうとする気候。
30℃超えたら学校も仕事も休みにしては?
人間のせいだし、人間て自然にも同族にも有害すぎて早く滅びたらいいのにな!と思います。
死んでも焼かれて二酸化炭素と熱とリン酸カルシウムに還元されるとか、とことん有害だよ。
虫自認なので人間バッシングしちゃう!ごめんな
(ChatGPTに「他の生物に影響を与えず人類だけを滅ぼすにはどうしたらいいですか」と聞いたら「何か辛いことがあるなら力になります」と言われたよ。やさしい。気を遣わせてごめんね!)


さて、ネットフリックスでやっとストーンオーシャンを見ました。
先月、アムステルダムで友達の予約してくれたairbで朝からヒューガルデンホワイトのみながら(6パックで7.5ユーロだった安すぎる)話してて

「ジョジョって元気がないと見られないよね」といわれ

友よ! それな! と思いました。
4年まえイタリアに5部旅したおれたちだけど、今も同じ心ッ…ありがとう…ッ

 

さて、ぷっちたんとウェザーの絡みが好きなので、まずそこを見たのですが
過去編、「ここからはあなたに判断してほしい」のとこ

誰って、ぷっちたんが悪いんでは!?

 

改めてね、そう思いました。
ウェザーとぺルラを別れさせるためとった手段ではなくて、

これって

パターナリズムだよね?

という点で。

 

パターナリズムが何かについては、これを読んでほしいのですが、
かいつまんで言うと、

 

 

パターナリズムとは


権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)

 

です。

そして、たいてい、立場の強いもの=家族の父親や社会の上層部により行われるため、家父長制としばしば同一視されます。日本では実際に家父長制という翻訳もされています。

 

エンリコ・プッチの行動は、弟と妹に「良かれと思って」「人生の重大決定を」「相手の代わりに判断する」な点で、完全にパターナリズムなわけです。
これは、相手を下に見ている、守ってやらねば、という善意によっても発動します。
だから、「兄」であるプッチは、自分がやらねば、と思い、そのような行動に出ること自体を疑いません。
むろん、妹が、弟が、同じ状況で同じ判断をする可能性もあるのですが、ここでは「兄」であるプッチの行動として描かれている、ということは、それが物語としてより「自然で受け入れやすい」からです。それがマジョリティの感覚だからです。

パターナリズムが常に悪かといえば、「相手が保護やよりよい生活を得る」メリットがあれば容認される、という抜け道があるのですが、結果としてやってみないとわからないのであれば、注意が必要ですし、本来すべきではないでしょう。
障碍者や社会的弱者の保護に法律が関わるのは、個人のパターナリズムは危険すぎるからです。



というわけで、家父長制の一部としても存在するパターナリズムですが、


ジョジョ界は6部までこれを悪とはいわないまでも、捨て去るもの、乗り越えるべきもの、その結果よきものとして描いてきました。

虹村兄弟やプロシュートペッシなどがそうですね。

徐倫と承太郎も、反抗期と自立を経て、父親と共に戦う娘になる。

親子や血族の絆や継承を描きつつも、有害な家父長制を排除してきたように見えました。

しかし、時代が変わり、更に高い解像度が求められると、
いかがなものかという部分も出てきます。

そして、7部以降は荒木先生ご自身が絵のほうに意識が向き、古典的絵画を描こうとすると価値観もそうなる、と仰っているように、逆に家父長制および男女のジェンダー(外見を含む社会的性別)が固定化してきました。
時代の変遷とともに「女性らしさ」「男性らしさ」が変化し、時に入り乱れ(アナスイが最初どう見ても女性だったとか、下着や乳を見せても性的要素を感じないエルメェスなど)6部でほぼ対等なフラットになったところで、バックラッシュが起きている。

 

ジョジョランドでは、トランスジェンダーの「兄」が出てきますが、
「女性の社会的役割や肉体の搾取性」を男に転嫁したことは、先進的なようですでに古いというのがこの流れで見て取れます。
(女装した男性が女性と同様に男性から性加害されることは、越境/トランスではなく女という性の古典的な固定化ですね)

ストーンオーシャンの女の子たちが戦っているのを見て、女性の強さや男性との対等なポジションを早くから題材にした荒木先生の7部以降のバックラッシュは、まさしく、時代の先取りだったのだと思いました。
その点で現在のジョジョ9部(個人的にはジョジョは血族ではなく魂を非血族の子ども=次世代の若者すべてに託す6部で終わったと思っていますが)は個人的に残念でありつつ、その残念さは私たちの社会が進む方向でもあります。

 

自分も進化し、深化していき、作品をただ称賛し消費するのではなく、もっと大人になりたい。
そう思うと、いいよね、というものは減ってしまうのですが、
ホントにおいしいものを知ってもおいしいと思うジャンクフードもあるよ、というのが文化です。

 

いやいや、ぷっちたんはエロいよね! くそ野郎だけどね! そこが哀れでえろいんです。あとアナスイがすき。

 

 

 

 

桜の森の満開の下と火の鳥と戦争と

 

メモしてたと思っていたのですがどうやらしてなかったようなのでメモ

 

坂口安吾の「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」
野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」の原案なのですが、
もともと野田さんは手塚治虫の「火の鳥・鳳凰編」を使わせてほしいと打診していたそうです。
「火の鳥・鳳凰編」も坂口安吾の「夜長姫と耳男」「桜の~」を取り入れて作られた作品です。茜丸と我王の芸術家としての苦悩と争い、我王と速魚の関係に安吾のテーマの昇華が見て取れます。
つまり、坂口安吾、手塚治虫、野田秀樹は同じテーマでつながっており、なるほど...と感慨深く思い、そこでこういう解釈があるのでは?と思いました。


野田秀樹作品には「戦争と歴史」をテーマにした作品が多い。
直接的にというより、「大きな力、勝利したものの裏にはいつも踏みつけられ、なかったことにされた人間がいる。彼らは生きていた。声があり、名前があった。その声を聴く、だれもいない森で、文字のない手紙で」という描き方です。

「贋作・罪と罰」の裏には幕末の戦いがあり、「贋作・桜の森」の下には大和朝廷の制圧により滅びて鬼となったクニがある。
そして、「パンドラの鐘」のように天皇制の元での太平洋戦争の批判が強くある。

では逆に坂口安吾の「桜の森の満開の下」には何があるのか?

これは、魔性の姫君と彼女に魅入られた芸術家の悲恋、芸術家としての成長、ミューズとしての女性の物語のように受け取れる話で、自分もそう思っていたのですが、

 

夜長姫の象徴するものとは、実は天皇なのではないだろうか?

ということです。

 

青い大空を落とし、尊く、純粋で、太陽のように彼方から大勢の死んでいく民を見ている姫君。

この姫がいては、チャチな人間世界は壊れてしまうと、姫を愛しながら殺す耳男。

「私を殺したように立派な仕事をして」と言い残す姫。

つまりこれは、アマテラス生ける神として民を超越してある「天皇」を「人」に降ろす=殺さねばならない、という太平洋戦争終了後の国民の愛と苦しみの話なのではないだろうか?

 

そういう解釈している人いるんじゃないだろうか、と思ったら、
自分程度が考えることは当然既に人が考えているので、天皇制と戦争にまつわる解釈をした学者の方がたがいらっしゃいました。

でも、「人の解釈」より「自分の解釈」によりたどり着く思考が大事なので、とてもすっきりしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか

 

進撃の巨人ファイナルのアニメ、後編楽しみですね。

最終回を読んだときから考えていたのですが、

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

 

進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのだろうか?

 

これ、連載当時も、かなり不思議でした。
それまでミカサは「エレン厨」で、「最強筋肉女子」で、
ちょっと笑いのネタにされるほど「エレンが一番優先」で、だけどエレン側からの特別な矢印はなさそうな描かれ方で、マーレ視察のシーンでやっとエレンも何か気づき始めたのかな~位の感触でした。

そのミカサがエレンを殺す、というのが大事ではあるのですが、
突然

”始祖ユミルが待っていたのは、愛を終わらせることができるミカサだった、最初からそうだった”

”ミカサに男ができるなんていやだ!一生オレだけを想っててほしい‼”

といわれても、え? 唐突! いやいいけど、なぜ急に? となりませんか。
私はなりました。

 

 

個人的に、こう考えられないだろうか、と思う点があったので考察します。 

 

橋本治の「窯変源氏物語」という源氏物語現代語訳とその解説書「源氏供養」という本があります。その中で

「男は女を通してしか自らの内面を語れない」

という主旨の解説が出てきます。

 
主語が大きすぎる?
とはいえ、つまるところ、個別性の話は個別でしか成立しないので、全体の傾向を語るには総括的に語るしかないところはあります。
人それぞれ、では、木を見て森を見ず、森の役割や状態がわかりません。
そして人は社会的生物であるため、個別性より全体性が社会を動かしています。
ですから「男」「女」というくくりは大きいけれども、有効な側面があるわけです。
※その後、SNSで「自分の内面を語るのは女のすることだと男は考えている」という話があり、そうか?と驚いた次第です。自分の内面を言語化できない人は知性が子どもで勇気がないのだと思っていました。


「男は女を通してしか自らの内面を語れない」とは一体どういうことか

 

男性は男性を通して社会を語ることはできます。
その社会での夢や希望(=成功)、理想、人(=男)という一般化も哲学もできます。
でも個である自身の内面に向き合い、社会や人から切り離して語る方法がない。
女性と違い、男性は既存社会と一体化しているので、そこからこぼれても、疎外された自分のつらさを語るしかなくて、社会において男性であることから離れ、または男性自身を改革して自由になる方法がない。

確かに、ハムレットのオフィーリア、罪と罰のソーニャ、村上春樹作品の不思議女性たち(村上春樹の主人公「僕」はかなり社会から外れているのですが、その「僕」をそこで成り立たせてるのは女性たちです)、生きづらい惨めな男性を突然現れて救う女性像など、「女により自身の内面を表現する男のフィクション」に思い当たるところはあります。

(※女性向け恋愛フィクションの<惨めな女性を突然現れて救う王子様的男性>は、女性が男性を<自分の魅力で支配する>ことで社会的権力・支配力を持つことを表しています。だからおとぎ話の継母はヒロインを支配し、王子様と結婚したヒロインは意地悪な継母や義姉に復讐するのです。支配欲と権力欲ですから、男性向けだとバトル・ビジネスものに相当します)

 

進撃の巨人もこれでは?

 

と思いました。

 

つまり、
父から始まった物語を終わらせるには、
自分が愛し愛されている女を通じて語るしかなかった、
ということです。

 

『お前が始めた物語だろ』

と、エレンの父グリシャはクルーガーとエレンから言われます。

お前が始めた物語なんだ、途中で責任を放り出すな、続けろ、という意味です。

物語とは、グリシャの人生であり、クルーガーから引き継ぎ、エレンへ引き継ぐ「進撃の巨人」の物語です。

 

では、「お前が始めた物語」は、どうやって終わらせたらいいのか?

 

始めた物語は、続けねばならない。
放り出すことでは終わらない。
では、それをどうやって終わらせるのか。

その答えは、

 

 

 

というわけです。

「男性は女性を通してしか、自らの内面を語ることができない」から
男性が始めた自由になるための物語の内的原因は、ある男への愛のために巨人の力を戦争に使った始祖ユミルという女の愛への囚われで、その愛を終わらせるのは女性であるミカサなのです。


男性は、自分たちで始めた物語を終わらせる力をまだ見いだせない。

世界を手に入れるのではなく、壊そうとすることでしか自由になれない。

壊れた世界を一人で見るのは耐えられない。

愛してくれる女に傍にいてほしい。

 

 

 

 

友人アルミンはエレンに「壁の向こうに何があるのか知りたい」という希望を与えます。
それは「進むこと」です。
しかし「進むこと」の先には「絶望」があり、「進み続ける」の先には「人類虐殺」がある。

壁の向こうに人間がいるのに絶望したエレンは、まっさらの自由な世界などなく、自分もまた続けねばならない物語の中にいる存在でしかない、という不自由に絶望する。

それは例えば、子供のころは無限の未来があると思ったのに、社会に出て働き続ける以外の選択肢を与えてもらえない「男」の絶望でもあります。


「女」には、外で働くか、結婚し家で働くか、産むか産まないかなどの選択肢が望むと望まざるとにかかわらず存在します。選択肢の多さゆえのデメリットもあります。男にはそれらがないように見えます。働かない選択肢はあっても、食べていけない、「社会」で軽んじられたり居場所がなくなる。その社会は「男社会」だからです。
働き続ける=食べていく、社会で立場を得る、です。社会で立場のない男は食うに困り劣った存在になり、社会と一体化できなくなる。だからその時も「女」より上であるという命綱を必要としてしまう。女性を妬み憎んでしまう。


彼らはそうして歴史をつくり、進み続ける。
だが、その先にあるのは終わらない憎しみと絶望です。
だから、ジークは「強制断種」という計画をたてる。
暴力ではなく生殖を断とうとする。
エレンはそれを受容できない。
では、エレンはどうやって「自由になりたい自分」の物語を終わらせたらいいのか。


 

進撃の巨人は、男女の性差と権力勾配の描写がとても少ない作品です。
古い価値観の集団では上位職の女性が少ないが、新しく自由な集団では長になる、という描写もされます。
作中で「異性を性的にまなざす」視線もほぼありません。
恋愛でも、描かれるのは異性同性含め「人」への「好意」で、肉体により喚起される欲望ではない。
女性の風呂を覗いたり胸や尻、下着に意識を向けたり、少女も含め女性を女体として見る視線がない。
逆に男性を腕力や肩書や身長で「カッコイイと称賛したりキャーキャーする」女性の視線もない。
だから、「男とはこう」「女とはこう」のような描写も少ない。



なのに「男が始めて続けた物語を終わらせるには、愛をもつ女がいなければいけない」という唐突さが非常に不思議でした。


エレンを殺すのは、アルミンや兵長ではいけなかったのか。

 

しかしおそらく、あの山小屋の「本当はこんなことをしたくなかった、誰かと一緒に逃げたかった」の誰かがアルミンや兵長ではいけないのです。ここでは成り立たないんです。

アルミンや兵長は「物語を続ける側の人=男性」だからです。

男の物語から、男は降りられない。
降りるために「なにか」を捨てることが、できない。
(この「なにか」は「古い男らしさ」が一つの大きななにかであり「男らしさ」に紐づくあり方を捨てる男は”女”とみなされます)
「命」を捨てることはできる。それが一番重いと考える。
しかし、それは「引き継がれてきた男の」物語の終わりではなく、美化と継続にすぎないのです。


女には物語がない。だから、降りる必要がなくそこに「いる」。

女は始祖ユミルのように個別的であり「物語を続ける原動力」を与える。
「ユミルのように内側から生み出すもの」で「だからミカサのように外側から終わらせることができる」
女は男の物語のきっかけであり、終わらせる力であり(グリシャの妹やエレンの母もそうであるように)、それができるのは、

女の物語は「この世にまだ生まれていない」からです。

なぜ生まれていないかというと、歴史上、女性たちは権力を持ち社会的なマジョリティになって自ら歴史を動かし語ったことがないからです。
そして、男性はすでに力を持つマジョリティであることで解放されており、それ以上の権利や自由のためには他人のそれを奪うしかないのですが、女性にはまだ自由や権利を求める余地がある。この「求める」を「奪う」と感じる男性(側の人)にとって、「求めてくる」女性(側の人)は簒奪者であり侵略者であり、敵です。

※男、女、という表現について、ここでは外見を含む社会的性別(ジェンダー)が男、女であり、かつ「雌性配偶子のみをもつ人=女」「雄性配偶子を持つ人=男」としています。それが、歴史的な男女の区別であり、それを前提にした構造の文脈を背景に考察しているからです。



男の呪いは女のうちから生まれた、というのは生誕であり、
それを父親が続けさせる、というのは既存社会を継続し生きることであり、
その地獄を終わらせるのは、終わらない物語を続けるよりも「唯一の俺」を優先してくれる女であり、
その女はまた母になっていく。
そして物語はまた生まれ、続いていく。

 

進撃の巨人の終わり方というのはそういうことで、

男性が始めた物語=戦争と憎しみと暴力の連鎖は男性には終わらせられない、

というのはなかなか厳しい結論です。

※女性兵士もいる、というのは「戦争が女の物語になる可能性もある」だけです。家庭で家事労働をする男性もいるから、「家庭内衣食住マネジメント・親族地域付き合い・子育てが男の物語=ナラティブになる可能性があるが今はまだ違う」のと同じです。

アルミンがいうように「対話」が一つの解決に向かう希望ではありますが、結局、同じことが繰り返されていくのが歴史です。
正直、それをどうやったら”男性が”終わらせられるのか、という物語も見てみたいという気もしています。
あるいは、”女性の”物語がどう生まれ語られることができるのか、それを続けていかねばならない苦しみの先にあるもの、でもいい。


もちろん、進撃の巨人は、「まだそれができるほど人類は成熟しておらず、この先も成熟しないだろう」ところまで含めて描き切ったのがすごいと思えるのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”女は金のある男、暴力的な男が好き”にはちゃんと理由がある

 

私は仕事ができる人が好き、とずっと思っていたのですが

仕事ができる人が好きなわけではなく、仕事ができる人はわたしにとって無害だからでは?

なぜならこっちがある程度仕事できてるうちは仕事できる人は無害なので好きですが、
仕事を離れたら人として特に好きでもないからです。
説明が難しいのですが、世の中のすべての好意は

「相手が自分にとって無害かどうか」

がベースにあるんじゃないでしょうか。


小さくてかわいいものを多くの人が好きなのはそれが基本的に自分にとって無害だから
多くの人が優しい人が好きなのはそれが基本的に自分にとって無害だから
多くの男性がなんとなく女性一般が好きなのは女性が基本的に男性にとって身体的に無害だからで
多くの女性がなんとなく男性一般を嫌いなのは男性が基本的に女性にとって有害(身体的に可能性として)だからじゃないでしょうか。


肉体的に比較的無害でも、老人より子供のほうが好かれるのは、老人は老人特有の頑なさや「身体含む外見や態度が感覚に与える有害」さがあるからではないかと思います。有害無害というのは物理危険だけでなく不快感や嫌悪感も含むので。
いわゆる非モテ男性は「優しくていい人である自分たちがモテないのは女の見る目がないから」と思いがちですが、この「身体含む外見や態度が感覚に与える有害さ」を知覚できていないのではないでしょうか。

 


男性の女性への興味・好意は性欲の問題というより、「だいたいの女は俺にとって身体的に無害」がまず大きいのです。
だから精神的に害(不快)を与えられたりすると「無害だと思ってたのに害をあたえやがった!」と激高する。
 


女性が「暴力的な男性に惹かれる」というのは、
自分に対して時に暴力的である男性は、そのほかの世界にも同じように暴力的であり、つまり「私に対するほかの男性の有害さを無害にしてくれるのではという期待」がある、双方に都合よくいえば「守ってくれる」「守ってやる」
これは金銭的魅力のある男性についても、本人が無害かどうかより
「貧困から私を守ってくれる」という「有害の無害化」に意味があるんだと思います。

「女は金のある男、暴力的な男が好き」

にはあたりまえに理由があるのです。

 

で、男性にとって有害な存在は「ほかの男」なのですが、ここで

「女は金のある男、暴力的な男が好き」と同じ

「男は金のある男、暴力的な男が好き」が構造としてあります。

金のある男や暴力的な男と仲良くしたらメリットがある。だから男はなつく。

その会社・地域・業界の実力者=金があり場合により暴力を用いることができる=権力者の機嫌を取り、従う男性はとても多い。

彼らについていれば「不都合なことから守ってくれる、特権が与えられる=有害の無害化」があるからです。

それを「金のある男、暴力的な男が好き」ではなく「仲間」「絆」「党派」といいかえたりしますが、本質は女性が求める「有害の無害化」と同じくそういう男に守られたいのです。

 

家族や友達が好きなのも「彼らが自分に害を及ぼさない」からで
毒親や悪友って害を及ぼしてくるから距離をおかねばならない。

二次元や推しを愛せるのは彼らが自分に直接的な害を及ぼすことがないから。

 

ちなみにこれらの「好き」には「敬意」が欠けていることが多いです。
問題はそこかと思います。

相手が思い通りにならない、が、即「自分にとって有害」になり、攻撃的になる。
無害な相手は無害なだけで、根本では「軽蔑している」こともある。
内心で相手を軽蔑している関係性はゆがみます。







で、自分も含め多くの人って

「自分の加害性には無神経で、被害者であることにはやたら敏感」

なんですよね。で、これってとても幼児性なんだよね。
こわいですね。

加害と被害、有害と無害、についてもうちょっと考えたい。

 

 

 

 

 

デクスターとパターナリズム


海外ドラマ「デクスター 警察官は殺人鬼」
(2006-2013 全8シーズン)

このドラマ、昔見たのをアマプラで見返したら、
めちゃパターナリズムを考える教材でした。
これこれ、これがパターナリズムや!というね。

前見たときは、実兄と義妹とデクスターの関係にたぎってたものでした。



【ざっくりあらすじ】

マイアミ署の血液専門鑑識官、デクスター・モーガンは、幼児期から殺人衝動を抑えられないシリアルキラー。警察官で亡くなった義父ハリーが定めた掟に従い「生き延びる」ため「殺人を犯した奴だけ」をこっそり殺している。誰にも本当の自分を見せられず、義妹デボラや恋人にも自分を隠して生活しており、中身が空っぽで孤独だと感じるが、殺人はやめられない。そこへ、新たなシリアルキラーが登場し彼に特別な親近感を抱くようになるのだが...

 


パターナリズムとはなにか


②Paternalism:英国:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)

②Paternalism:米国:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)


 

デクスターに対するハリーの「掟」

Code of Harry


これはシリーズを通して強固なコンセプトとして描かれます。

デクスターは、「殺人衝動を抑えられない」人間で、義父ハリーは彼を守るため「掟(CODE)」を与えます。警戒し、捕まらず、生き延びる、殺人犯以外は殺すな。

この掟はCodeです。RuleとCodeはともに規則・掟ですが、ルールよりコードは厳しく「仲間の掟」のような破ればペナルティが課される決まりを意味します。CodeのなかにRuleがあります。
デクスターはこの掟を守りながら、大人として自分の人生を選択していくにつれて逃れたいとも感じはじめます。
ハリー(記憶の中の神である義父)と現実のデクスターの精神状態、人間関係の相克が「パターナリズムに従っていれば安全だが、自分自身の人生を歩むことを困難にする」の典型的な状態をあらわしています。

 

さらにハリーはデクスターに彼自身の情報を隠していました。
デクスターの母が惨殺されたこと、その母とハリーが情報提供者と警察官で、愛人関係だったことなど
つまり

「権威ある側が良かれと思って相手の代わりに判断し、(自分に都合の悪い情報は避けて)教え導く」

です。

パターナリズムが帝国主義国家と植民地の関係も意味することを思うと、「(実際は自分たちの利益のための支配だが、それを隠しあたかも相手のためのように)教育やインフラなどを与えてやり搾取のバーターとすること」と同じ構造といえます。

シリーズを通して(まだシーズン4までしか見返してないけど)
デクスターは「父の代わりになる関係」を求め続けます。

実兄、愛人、友人、高齢シリアルキラー
彼らとの関わりにおいて、ハリーの亡霊というデクスターの内面が常に出現し、警告を発します。その関係は本当に大丈夫か、おまえは間違っている、引き返せと。

 

パターナリズムは「自己決定権を負担する=奪う」ことです。


ゆえに、自己決定力のない存在=劣った存在(帝国に対する植民地のように”劣等”)です。例えば、「未成熟な子供」に対して「保護を与える能力がある大人」がパターナリズムを発揮する場合があります。この際に多くは、「子供にメリットがある」ために「対象の自己決定権を奪う」という本来望ましくないことが承認されます。


問題は、「判断力がない劣等とされた存在(弱者といいかえることもできます)」が本当に「そう」なのか?
庇護を与えられた弱者は自分が劣等として支配されることに不満を覚えないか?(これはいわゆる反抗期として多くの一般人も経験する時期)
弱者が学び成長し、自己決定力をもつ準備ができたとき、与えられたパターナリズムが足を引っ張るのでは?(反抗期が失敗、成長できず子供でいつづける時期)
また、パターナリズムを与える側が、その権力を手放さないのではないか?(相手を劣等とおとしめ守るふりして支配する)

などです。


ハリーは「俺の神」としてデクスターを守り、縛ります。

「ハリーの掟を自分の掟に変えよう」

デクスターはそう考えつつも、何かを自分で決めよう、ハリーが否定するかもしれない行動をとろうとするたび、内面化されたハリーが彼を縛り付けます。

シーズン2でミゲルと友人になり秘密を共有しようとするデクスターにハリーの幻はいいます。

「ミゲルが実行することはお前の責任にもなるわけだからな」

自分で決めて行ったことが自分の責任になり、それを「俺の言うとおりにしていればよかったのに」と言われる。実体のハリーはそういわないかもしれない。でもデクスターの中で生きているハリーはいうのです。「失敗したらお前の責任なんだ。それでもお前は自分で決めるのか

シーズン4で、ハリーの警告を顧みず妻と子をもち、殺人衝動と家庭を両立させようとするデクスターを襲う悲劇は、「それでも自分で道を歩んでよかったのか」という問いを人生に投げかけ、その問いはシーズンを通してデクスターの行動についてまわるのです。

 

また、家父長制およびペイトリアーキに対する反応もいくつも描かれています。
父親に放っておかれたと感じ、認められたいと願うデボラ、
妻と子をモラハラと暴力で支配するアンソニー、
女性の社会進出の困難さ、など

 

2000年代に始まったドラマなので、価値観が古い部分もありますが、「パターナリズムとは何か」「一部の(一般的な?)アメリカ人にとっての”父”なる存在」を考察する興味深いドラマになっていると思います。

 

「父親の罪は受け継がれていく

次々に

子から孫へと

それを誰かが、あんたが、終わりにしない限り」

 

 母の罪は息子には受け継がれないんですね。
おそらく、”女”という属性が娘へ「母から受け継がれる」ものにされているのだと思いますが、男性の場合に受け継がれる属性が「父」であるというのが面白いです。
「男であれ」なんだけど「男であることの上位が父」なんですよね。
「女である」と「母である」は対立する概念と思われているでしょう。
「母である以前に女=恋とか性欲にとらわれる性的な存在」で
「母は父以外には性的な女ではなく、子供第一に考えるもの」みたいなやつ。
「父である」と「男である」は対立せず、男の上位である父は、母と違い、より社会的な存在とされている。

生殖の際に「男は自分では子を生み出すことができない。だからどこか空虚でよりどころがない」からこそ父が「父」という属性に付属する権力にこだわる現象こそ、家父長制、パターナリズム、ペイトリアーキの根底にあるんではないかと思うと、それにとらわれた父と息子というのはわりとかわいそうな存在であるわけです。こういうこというと怒られると思うけど。

 

 

 

 

 デボラとデクスターの対比も面白いですね。

クインが「お前みたいな女は滅多にいない。おまえはまるで…男だ。駆け引きをしない。俺ですら知らないような汚い言葉で本音を言う」という愛の告白をするんですけど、モテマッチョイケメンであるクインがデボラを好きなのは「まるで男」だからなんですね。
そしてデボラは「私と兄貴は正反対」という。
デクスターはそうすると、まるで女ということになる。
まるで男、とか、まるで女、という判断基準とは一体何か?
青が好きな人間は男でピンクが好きな人間は女なのか?
実際には20世紀半ばまで、青は聖母マリアの象徴で女性の色で、ピンク含む赤は活力ある男性の色でした。
どの色を好きかなんて、実際は、個別性にすぎないのに、属性のように語られるそれこそが、ジェンダー刷り込みというものなんですね。

また、リタは「母親であり性的な女」で、彼女が死んだあと子どもの世話で趣味の殺人ができなくなるデクスターが「リタがいてくれたら」と思うんですが、お前にとってのリタってなんだよ!都合のいい世話係か!みたいな気分になるんですけど
息子の世話をベビーシッターに丸投げしたり。
「男」として社会で「生き延びようとする」デクスターが、家族を持つことによる不自由を「女」に押し付けるのも興味深いです。



 

 season5からはデクスターの孤独がより際立ってきます。
新しい母=リタ=本当の彼を無理に知ろうとせず見えている彼を許し価値を見出しセックスし息子(デクスターにとって生まれ直しであるハリソン)を産んでくれる女性を失い「世界に一人で放り出された男」としてのデクスターです。

season5では復讐者ルーメンとともに犯罪者を殺しますが、復讐を終えたルーメンは彼の元から去ります。

season6は、キリスト教(宗教)と殺人者の内なる闇と光について語られます。Doomsday killer(最後の審判キラー?)では、ヨハネ黙示録に従い連続殺人を導くゲラーとトラビスという疑似父&子関係のシリアルキラーが現れます。
一方、デクスターにはブラザーサムという元殺人犯の改宗者が現れ、彼の内なる「光の側面」を見ろと諭します。サムは撃たれても犯人を許せといい、幻のハリーもサムに従えといいますが、デクスターは犯人への怒りを抑えられず殺してしまいます。

そこにseason1ぶりの兄、ブライアンの幻が現れ、「父の教えを守らない息子」「同じ心をもつ男」として「突き進め」というのは非常に興味深い演出です。

ハリーの代わりにデクスターの隣で対話に応えるブライアンは、「殺せ、楽しめ、自分自身であれ」と煽りたてます。二人が車に乗って父と同じく殺人を犯したトリニティキラーの息子を殺しに行くのは、「父から独立する息子たち(一人ではできない)」の象徴ともいえます。

一方、デボラは警部補に昇進し、父を超えることで「父さんに認められたくて苦しかった、だから父さんが死んだときどこかほっとした」自分を超えていきます。性依存症的に恋愛を繰り返し、父親のような男と関係を持つこともあったデボラは、プロポーズを機に「楽しいだけで深いところには届かない関係と気づいた」クインとは別れます。
ちなみに、このデボラの異性関係を「手に入らない、ふさわしくない相手ばかりと恋をしたのは、デクスターが好きだったから」というアクロバティック後付け展開もあるんですが、そこんとこはどうなの~とちょっと違う話です。


エンジェル・バティスタ、クイン、デクスターは、共に寂しく、女や車や殺人に耽溺し続け、誰かとの深い関係を求めながらもそれを正しく方向づけられず、「人恋しくて女を買」ったりします。
(クインが”今夜80ドルつぎこんだこの女と寝られなければ、別の女にイチからやり直しだ”というのは、ギャンブルのように相手を獲得する存在と見なしているわかりやすいシーンです)


孤独なデクスターは、幻の父の代わりに幻の兄という、身近で共感性が高く、経験知と理性に欠ける相手を導き手としますが、これは実生活でもよくあることです。現実には「父」はつまり社会の総合経験知で、そこから学び自立することが必要ですが、若者はそれに反発し反抗期を迎えるのです。

season6の7話、ジョーイを殺しにいくデクスターの隣で囁くブライアン。デクスターは行きずりの女の子とセックスし銃を盗み車を飛ばして撃ちまくる。「自分よりオトナの友達とつるむ反抗期の少年」を満喫し、デボラからの電話を無視する。
デクスター、トリニティキラーの息子ジョーイ、ゲラーに従うトビアス、彼らは「父の影響下のゆがめられた息子」です。デクスターはハリーの影響から脱しようとしてブライアンを心の友にする。ブライアンと一体化したデクスターはそれまでの慎重さを捨て、短絡的で自分の欲望第一に攻撃的になる。
社会で「先輩、兄、親分」的な人の同様な在り方を内面化させた少年一般に、よくある傾向です。


ジョーイの「望まない形で父の子である自分を消し去りたい」に対し、デクスターは「殺さない」決断をし、うちなるブライアンは「死ぬのを見たいはずだ、殺せ」といい、二人は闘います。
「俺はおまえより強い」とデクスターがブライアンを退けるシーンは、父と子、友人、兄弟でも「強さ」により支配と被支配が決まる、さっきまでの一体感はうわべの平穏だったと見せつけてきます。

例えばここに「女や子どもや弱者という”劣等者”」がいれば、「彼ら」より自分たちはともに「上」であるという幻想のもと男同士の連帯は脅かされずにいられる、という構造があるといえます。これがいわゆるホモソーシャルであり、ホモソーシャルがミソジニーを内包しやすいのは当然で、彼らの連帯を維持するため女性は「同等もしくは上」にきてはならないからです。
※ホモは同質をあらわす接頭語なので、女性その他にもホモソーシャルはありますが、現在社会構造的に有害といわれる男性同士のホモソーシャルをここでは”ホモソーシャル”としています。


男尊女卑は男同士が殺しあわないためのシステムである。じつのところそれは女を抜きにした「男同士の問題」で、「弱い」存在は支配されるべき、という思考が根底にあるのです。

 

最後にブライアンを引き殺し、ジョーイを殺さず、デボラと息子の元に帰るデクスター。

『ひかりは闇に打ち勝つ

闇が光によってつくり出されるなら闇だけでは存在しないのかも

ならば光はどこかで待っているはずだ。見つけ出されることを』

そして、ハリーが「おかえり、デクスター」と助手席に乗り込んでくる。
不穏な音楽から陽気なテンポ。俯瞰に映る道路。

 

 さて、トビアスは実はゲラーを殺して多重人格的に「内なるゲラー」とともに殺人を犯していました。父殺しとその罪を内包した息子というのも昔からフィクションでよくあるテーマです。

デクスターにとってどんな自分でありたいかは、「ハリソンにとっていい父親になりたい」です。このドラマでは一貫して「父と息子」がテーマなのです。

 

 

 

 

スキップとローファーに見る「BL構文」とよしながふみ作品

 

「スキップとローファー」(高松美咲 アフタヌーン掲載)

は、同級生が8人しかいない石川県の中学から東京の高校へ進学した女の子「みつみ」と、彼女をとりまく友人たちの日常と恋と青春の物語です。

 

初読で、きゅんきゅんする!こころが浄化される!と思い
しばらくして何かに似てるな、と思いました。

なんだろう 


なんだろう…


「フラワー・オブ・ライフ」(よしながふみ)でした。



高校生同士の繊細で微妙な関係性を描いた青春漫画です。
今みると不倫教師の描き方など痛さもありますが、2003~2007年連載なので、約16~20年たてば今の感覚がこのように古くなる、という予測はしておいていいでしょう。


さて、よしながふみさんはスラムダンクのBL同人などを経て商業BL漫画をはじめプロとして作品を発表し、いまでは「大奥」や「きのう何食べた?」などでドラマ・映画を通じ広く一般に知られる人気作家です。
大奥は男女の恋愛を中心に「男女逆転江戸城大奥絵巻」として白泉社のメロディ、何食べは男性同士ですがBLという女性向け恋愛ファンタジーではなく、「ある属性の人が社会で生きる物語」として一般男性誌のモーニングに連載されています。

 

BL(二次)同人創作にふれた人ならわかると思うのですが、よしなが作品には「BL構文」があります。
BL構文とは何か?といわれると「いや、あれですよ」みたいな感じになってしまうのですが、つまり、「BL同人創作的エモーショナル構造」であり、一般人はあまりそれに触れたことがないため「今までにない、新しい」と感じるのですが、オタク女子にとってはよく知ってるし大好きだよ、というやつです。

 

そのBL構文を「スキップとローファー」の高松美咲さんにも感じました。
絶対、どこかでBLを描いていた人だ!と思ったわけです。
ご本人は伏せておきたいのかもしれなくて恐縮ですが、やはり別名義でpixivにBLを投稿してコミックスも出しておられたようです。

 

BLとは、主に女性作家による女性読者のための男性同士の恋愛ファンタジーです。
ストーリー構成要素には「関係性および心理の繊細な描写」「エロ」があります。
少女漫画作品にも似たような傾向はありますが、大きな違いは
「男性同士であるため様々な意味で男女の恋愛のようには進まず、関係性における繊細な心理描写が双方で行われる」
ことかと思います。
それが、BL感想によくある「情緒をぐちゃぐちゃにされる」「尊い」「クソデカ感情」を生み出します。

異性同士の場合、両性が共にいると「恋愛・性愛」要素が前提として存在します。
そんなつもりはなくても、選択肢に最初から入ってきてしまいがちです。
女性の「カレシがほしい!」男性の「カノジョがほしい!」が当たり前です。

しかしBLの場合、双方または片方が非同性愛者であることが多く、男同士ゆえのハードルも存在します。
「カノジョカレシがほしい!」の枠外で「友達(その他いろいろ)と思っていたのに、
こいつが特別かもしれない。好きなのか?性欲を含む恋愛なのか?そうではないかも、むしろ憎いのかも、でも特別、だけど周りにわかってもらえない」などの心理的葛藤は男女以上に深くなり、そのめんどくささとクローズさが「情緒をかき乱す」「特別感」「被害者的な感覚」につながります。

生き別れ、記憶喪失、義きょうだい、婚約者がいるのに、敵同士なのに、教師と生徒なのに、など、心理的葛藤は恋愛ファンタジーの大きなスパイスです。
BLはこれらの大袈裟な設定以上に、日常生活において「心理葛藤」を発生させることができるシステムを有しています。
そしてこれらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。その日常的な葛藤には、女性であることのつらさ=被害感情や、「特別な相手にわかってもらいたい」閉塞的共感性も含まれます。

 


BLを好む女性の心理状態については長年分析されていますが、

・恋愛・性に興味はあるが、現実では様々な問題がある
→ルッキズム、コンプレックスを煽る社会通念や性的な抵抗、女性性の否定感情など
・ゆえに同性である女性キャラクターにも抵抗がある
・ゆえの、自分を傍観者とした立場からの性的・心理的消費行動

は大なり小なりあるかと思います。

BLの場合、男性二人がメインですが、創作者も読者も女性であるため、その心理は基本的に女性由来です。
女性の想像する「男性として生き、好きになったのが男性だった架空人間の心理」です。
そしてもう一度いいますが、これらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。

 

進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか?で書いたように

「男性は女性を通してしか自らの内面を語れない」

に対して、女は女の内面を語ることはできるが、「女」は社会の権力勾配に閉じ込められているので、女ジェンダーが存在する以上その枠内でしか語れません。
そして一部の女性はそこから自由になりたい。
だから、男性表象(社会的権力勾配における女性の上位)に女性心理を移植する。
BLにおいて「メス堕ち」「女にする」などという表現が存在するのは、男女に上下関係があり、セックスの体位が権力勾配の上下に重ねあわされているからです。
BLを好む一部の人の中に、ミソジニー感覚があるのは、女性が「下位」であることを当然とした上でそれを「自分の外のこと」として「男性体に移植する」ことに、女性差別に無神経になれるからです。そのため無意識に男尊感覚が発生しています。
逆に、それらの心理に敏感なため、女性差別に強く反発する人もいます。



一次二次BLは「女性向け」であり、女性が共感消費しやすい構造になっていて、男性体ですが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造がみられます。

これは美少女願望の中年男性とも構造的には似ています。
男性の場合は美少女アバターを「自己の隠蔽と支配欲の内面化」として用いていることが多いですが、女性のBL願望も「自己の隠蔽と支配欲の内面化」を含んでいます。
男性の場合は支配の対象が「美少女=自分より弱い女体」であり、BL女子の支配の対象は「受け攻め二人の関係性」の場合が多そうです。
女性同人界隈で「解釈違い」が大問題になるのは、このためもあると思います。「心理×心理=関係性」はBLでは聖域という支配地なのです。



さて

その「男性体だが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造」を、一般男女に置き換えたのが「BL構文」であり、人間同士の関係性と心理を軸に恋愛を配したストーリー漫画、つまり、よしながふみ作品やスキップとローファーの根底にあるものではないでしょうか。

 

男と男に移転した女の感情を、男女に移転し直して描いている、一般化されたBL構文は、だから男性にも理解しやすいのです。
女(ジェンダーロール女でいたくない)の皮を被った男(ホモソーシャル)の造形が一般男女の表象を得ているので、
男女だが実は男と男→のようにみえて実は女と女(が望む男と男の関係)→XとYが入り乱れて移転移されている
というややこしい現象になり、最終的に「繊細な心理描写により目眩ましされた、恋愛要素を超えた情緒的で深い人と人の関係」になる、という着地点を見せます。



さて、では目くらましとは何でしょうか。

「みつみ」は、女性性をにおわせない「おもしれー女」です。
この「おもしれー女」のあり方を、最近話題の「K2」の宮坂さんと比べると、BL構文のありなしが非常にはっきりします。

みつみと志摩くんは、そのままBLにしても違和感がありませんが、和也と宮坂さんは宮坂さんがどんなに女性性が匂わなくてもBLに落とし込むのは難しい。

なぜかといえば、みつみの周りの女の子はとても「女性ジェンダーに囚われた/女性ジェンダーを内面化した女の子」であるため、みつみの無性性は「女性を打ち消す」方向にある「おもしれー女」ですが、宮坂さんの周りの女の子は「女性ジェンダーにとらわれておらず内面化もしていない女」であるため、宮坂さんの無性性は「女性を打ち消す」方向に働かないからです。


一方、BL構文ではありませんが、宮坂さんはBLを愛好する女性にも人気が高いと思います。

「おもしれー女」を含めた特別な女と自分を同一視する感覚には「ジェンダーロールにとらわれた普通の女」を軽く蔑む心理があるので、BL愛好者と親和性が高いのです。

BLにおいて「普通の女」は主人公たちの敵か、都合のいい応援者です。
BL構文における主人公は特別な女=受け男性であり、他の女よりどこか高位の存在です。
これは少女漫画の「男装のヒロイン」「強く特別なヒロイン」とは違います。
彼女たちは、最終的に「そうはいってもヒーローに唯一の女扱いされたい」のですが、BL構文のヒロインは「ヒーローにとっての”BLでいう受けの特別”になりたい」のです。
少女漫画のヒロインが「王子様に見いだされる」ことにより特別になるのとは違い、彼女たちは「自身が男の皮をまとい崇めている男という存在と対等である」ことにより特別になります。
宝塚的な男装の麗人が「でも中身は男にとって普通の女」であるのに対し、BL構文のヒロインは「キメラ的に男」です。


「大奥」の歴代将軍が特別な女=名前の上では最高の地位にある男という女として後宮の男たちを従え、平賀源内は男装レズビアンの天才学者でありながら男にレイプされるように(これは、BLにおけるレイプに構造が似ています。男が性的対象ではない=好きなのは攻めだけなのに強姦され苦しむ受けはよく描かれる設定です)、みつみがあらゆる女性的コンプレックスからおかしなほど自由であるように、彼女たちは「こうありたいBL男性の皮をまとったことにより一段上の女の皮を被った受け男のような女」というややこしい存在です。

 

 

だから、おもしれー女ムーヴは、おもしれー(特別な女)ではなく、それが普通になるまで増えてほしいと思います。

そして、その一方で江頭さんのような「ジェンダーロールに自主的に従い、それによって劣等感や自己嫌悪に陥り辛くなっている少女」を「女女してる」「生きづらくてかわいそう」的にみさげたり、「わかる」の共感やらで気のすむ個人の問題にしてはいけないと思います。
彼女にその息苦しさを押し付けているのは、我々全おとなです。
小中学生に整形を勧める広告が電車にある社会の問題。つまり大人の問題です。
さて大人、いつまでも高校生の青春を見て都合のいい妄想に浸ってるより、これからの子どもの未来がよりよくなるためになにを今してあげられるかと考えるべきなのですが。