雑記

そしてようこそ2021!

明けちゃってました2021.

毎年のことなので別にどうってことはないですが、正月の朝にはおろしたてのパンツをはきたいものですね。はいてないけど。

そんな昨日の続きの正月ですが、リアム・ギャラガーのツイート

 最近、仕事が順調で精神が安定して大人になったのか、お兄ちゃんへの異常な執着を見せなくなったな…よかったね…寂しいけど…と思っていたウオッチャーに、ぶれない姿を見せつけてくれました。

ありがとうリアム!おかげで2021が明るい始まりだよ!
今年も貫いていこうぜ、って気になりました。どんな険しい道でも(笑)

 

そして野田地図から野田秀樹さんの年賀状

今年も新作が…!!!

ありがとうございます。生きる糧を得て今年も何とか生きていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

さらば2020!

 

いや~年末。気がつけばあっという間に時間が過ぎていました。
2020年はコロナでしたね。2021年には落ち着くといいのですが。

 

眉毛の弟のクリスマスは人けのない焚火&自転車に乗った話。
うん、パブにいかなかったんだね。偉かったね。

2021に中国で3つもフェスに招かれてるけどふざけんな、俺はクリスマスにママにも会えないんだ

ママに会えなくて荒れてたら、
「英国がCovidをコントロールできていないことと中国は何の関係もないよ」
と大勢にたしなめられて該当ツイートを無言で消していました。
うん、思わず荒れちゃったんだよね。普段はそう言う事言わないのにね。
ウォッチャーたちが真っ当で安心しました。


船会社の方が40年近く仕事してきてこんなことは初めて、と世界の貿易や物流が異様になっていると仰っていましたが、初めてに直面してわからないことがまだ続くのかなと思います。
米国大統領選挙では、アメリカはもう若い希望の国ではないんだな、という事を実感しました。
ハリス氏の演説に、むろんアメリカでということには意味があるのだろうけど、ドイツ、台湾、NZ、ノルウェー、デンマーク、アイスランド、フィンランド等々女性党首の国はいくらでもあるし、アイスランドではシングルマザーの大統領やレズビアンの首相もいたし、女性がトップに立つのは夢でもなんでもなく文化先進国では当たり前の事で。アメリカはもう自由や未来への意識において決して大国ではないのに、様々な意味で偉大気分を捨てられないのが今の事態を招いているのだろうし、今後も続くのでしょう。日本においても同じようなことが言えると思います。

個人的には国外旅行に行けなかったのが辛かったです。
夏に友達と「魂が死ぬ。希望を!」と2021年モスクワのライブチケットを買ったのですが(にまんごせんえんもしたのよ…)このままではちょっと、無理かなと。
いつでも脱出できるよう準備だけはしておく!
と、友達がロシア語をマスターし始めてるのをまぶしく見上げながらごろ寝して漫画を読む進歩のない日々でした。年末に濃厚接触者にもなるし。

よかった映画
・ラスト・ディール
・ホモ・サピエンスの涙
・オリ・マキの人生で一番幸せな日
・エレファント・マン(4K版)
・世界で一番貧しい大統領 愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ
・シチリアーノ
・存在のない子供たち (過去作アマプラだけど拳を嚙んで泣きました。この子が望むように学んで、自分を尊重する人たちに囲まれて生きられますように…)

野田秀樹さんの舞台がいっぱい見られてありがたかった。
コロナだからこその心意気で本当にありがたかった。一年に三作も見られるなんて!
・赤鬼
・フィガロの結婚
・真夏の夜の夢

展覧会はオラファー・エリアソンと鴻池朋子さん

小説はヘニング・マンケルの刑事ヴァランダーシリーズ最終巻が凄かったけど、総合としてフリオ・ホセ・オルドバスの『天使のいる廃墟』


他にもいろいろあったけど個人的なことなのでこのへんで。


「来年も美術館や映画館にいっぱいいこう!私達の仮想現実!」


うん、それ。よいお年を。

 

最近読んだ本

 

天使のいる廃墟(フリオ・ホセ・オルバドス)

死ぬためにその村を訪れた人々と、「天使」の話。30代の作家がこういう、マジックリアリズムの正統派的な小説を書けるのがたいへん、文化の厚みを感じました。
とてもいい。こういう物語の美しさを味わうと、生きていてよかったな~と思う。


三体Ⅱ(劉慈欣)
いや、文句なしに面白いです。人間がこの物語を創出するだけの知性をもっているのがすごい。ライトな話題(夢小説みたいなとこ、笑えるしグッとくる)も盛り込みながら人類の負の側面を見ながら未来をみる。これはほんとに歴史に残る作品。

 


小説版 韓国・フェミニズム・日本
ちょっと読んで、全然頭に入らなくてパス。『となりのヨンヒさん』がとてもよかったからどうかなと思ったんだけど。
ちょっと、幼いというか…。失礼。フェミニズム…もちろん大事だけど、人類目線からすると性別というカテゴライズはもう古くて、人間として、生き物としてです。遅れてるとこがアホみたいに遅れてるだけで、そんなみみっちさに付き合ってられない。現状の問題をリアルで声に出すことは大事と思うけど、フィクションはもっと先を行っていていいと思うな。

今年のMy流行語は「人類目線」です。


出版物の総額表示義務化には心底、大反対だし、なぜそんなことを? 書店や取次や版元がどれだけ困るか…
できるだけリアル店舗で本を買おうと思うけど、また探しにくいことこの上ないんだよね…マイナーな本は一冊挿しとかで…

 

季節のない街に眉毛兄弟はいる

 

友達が眉毛兄弟のマンチェは山本周五郎の季節のない街、というので青空文庫で読みました。

なんといっていいか…とても胸につかえて言葉にならない。

山本先生は赤ひげ診療譚もですが、貧しい市井の人間模様を描くけれど、ささやかに懸命に助け合って生きる人々という安直な美化をしません
そんな単純なヒューマ二ストじゃない。だからこそ本当に優しいのです。

 

例えば、隣近所へ醤油や味噌を借りに行くのは、足りていたとしても「あの家よりうちはましだ」と優越感を与えるための隣人愛の発露である、という。
貧しい人が剥き出しで虚飾もなく生きているのが時に美しく見えるのは、感情や思考を深めるお金も時間も余裕がないからで、浅く見透かされる素直さであり哀しいという。
そこで犠牲になるのは(死ぬのは)子供だと書いている。
美しいのではなく、哀しいのです。哀しいから美しいのです。その哀しさを哀しいで終わらせない。憤りがある。それを誰にぶつけて正義を気取ることもなく、ただ離れたところから歯を食いしばって人を信じたいと書いているのです。

その街で星は冷酷な傍観者として輝き、いまのうちに眠っておけ、明日もまた踏みつけられ生きてかなきゃいけないのだからな、という

私は星を美しく仰ぐ克己心の象徴のようなもの(『あたしは星を見るわ』というように)と思っていたので、この描写に泣きたいほどの気持ちになって、自分の秤で人を測る事の愚かさを突きつけられた気がしました。

衣食住足りて教育を受けたのに自分を縛ったり飾ったりして生きづらいのであれば、解決策は、やりたいようにやれ、誰かのせいだ、自己責任だではなく感情と思考を正しく深めなさいであるはずです。

それをせず近視眼的な幸不幸や手近な快楽や思考停止やルサンチマンに陥り、ありのままの私を振る舞うのはただの怠慢と傲慢だと、そういう事を考えていました。

『年の瀬の音』の最後の節が私の思う周五郎先生の端的なイメージです。

いま仕事部屋の外で宣伝カーなるものがわめいている。いよいよ押し詰ってまいりました。私はなんのためともなくぞっとし、机の前で身をちぢめる。私は赤児を背負って雨にぬれながらゆく男であり「おばちゃん」はうちにいて会うことはできたけれど、目的ははたされずに子をつれてむなしく帰る若妻に似ているのである。これをもし舞文曲筆だなどという人があったら、その人こそ年末の秒読みを感ずることのない、幸福なしかし恵まれざる楽天家というほかはないでしょう。そういう人たちはすでにもうめでたいので、めでたいと申し上げても皮肉にはならないと思う

 

 

あと眉毛の兄弟はいますね、あの街に。見えました

 

 

 

「先生は静かに見ていらっしゃるんだけど一度だけ我慢出来ずに出て来ちゃう。きみ、どうしてあの子を病院へ連れていかないんだ、あの子が見えないのか、って 」

「あと、家の事耐えて耐えて好きな男の子を刺しちゃう女の子の話。どうして?って聞かれて、怖かったのって、死のうと思ったらあんたに忘れられるのが怖くて堪らなくなったって 男の子がまた無邪気で、なんで?忘れたりしないよって… もうさ、もう…」

話しながらカレーやで泣く。今も思い出して一人泣く

 

 

毒づき

「山本先生は小学校卒だから文壇から低く見られてたんだと思う」
「山本周五郎賞ができた時ファンが激怒したって言うもん」
「あ~ほんと! 先生があらゆる賞を辞退していた気持ちがわからないのかって」
「長谷川町子先生のご家族が文才があってさ、菊池寛に会ったときのどんな人っていう絵が着物の胸元から札びらが出てる絵だった」
「さすが町子先生。風刺が効いてる」
「太宰なんて帝大仏文科ですけど、芥川賞下さいって手紙書いて」
「自分のことばかり言ってんの。ボクはダメ人間です人にどう見られてるか気になって」
「どうでもいい」
「山本先生が人を描きながら人が嫌いで訪ねてくる人にも会わなかったってよくわかる」
「少数の人との交流を大事にしていたね」
「ジョン・メリックだよ。大事なものはそっと心にしまっておかねばならない」
「なぜなら人間が怖いからです、ってね」

 

 

 

 

 

進撃の巨人と死にきれない昭和と壊れたままの平成とこれからの令和


いや~暑いです。はじまりが冷夏だったので、今年は暑さが長引きそうな予感。10月くらいでも暑いんだろうなという気がします。
(過去のメモを見返したら、10月でも30℃とか11月でも半袖と書いてたので、この数年はそんな感じなんですね。温暖化。5月から30℃なので一年の半分は夏ということに…)

さて、夏季休業中、進撃の巨人を一気読みしました。
一応、連載初期から読んでたんですけど、10巻あたりで一度ブランクがあって、それから22巻団長さよならでまたいいかな、となったのです。
巨人は人間兵器でした、外国がありました、なんだそうか~で止まっちゃったので。

どうもすみません! 浅はかで。ジャンピング土下座。

最新刊までがっちり面白かったです。破綻がない。
逆側の立場から描くのは、あぁ…みんな事情がありますよね、知ってますけど、という陳腐あるいは「じゃあどうすればいいんだよ!」と作者が制御しきれなくてややこしくなりがちですが、凄くうまくバランスが取れてて名監督の映画みたいです。

うちは兄弟をさらにどす黒くしたようなイェーガー兄弟。
わりと兄弟萌え性癖なんですが、全然萌えを感じなくて、ジークの絶対的な不快感が安易に萌えさせない強い意志を感じて、それがいい。
ほら、こう、萌えって眼を曇らせるから…。
幼馴染がグレちゃって、家のしがらみがやたら重くて、というのもNARUTO第二章っぽいです。
しかもサスケが主人公のNARUTO。こりゃ色々な意味でしんどい。
もうずっと目回りが黒い。アバを見てるジョルノくらい黒い。

 

まだ父権とエンタメのインチキ自己流社会学みたいなのを引きずってるので、世界とイェーガー兄弟と父親について考えていました。

父権というのは現実の家庭ではとっくに崩壊しているのに、そのイデオロギーは社会に連綿と亡霊のようにとりついている。

イニシエーション=成長のための通過儀礼とすると、エレンが父親を食べて巨人の力を引き継いだというのは一方的で記憶に残っていなかったため、その役割を果たしていません。
イニシエーションではない父親殺しにより受け継がざるを得なかったものによる世界破壊は、まさに終われない昭和ゾンビに対する平成の息子といえるのではないでしょうか。

『お前が始めた物語だ』

だからお前が終わらせなければならなかったのに。

俺は父親の被害者→こんな世界に生まれてこなければよかった→子どもなんか生まれなければいいよ民族安楽死、はジークという後昭和期~平成前期の子供で、

生まれてきたから自由を求めて進み続ける

なので俺の大事な人たち以外を全部殺す(…!)


は平成中期以降の子供という感じがします。
島の中にいる自分と仲間を守るためなら、外は全部いらない。

いやもう危険! 早くあの子止めてやって! みんなの力とやらで!


平成前期のこじらせエンタメ代表であるエヴァンゲリオンでは、父親というのは権力者で理不尽で抑圧的なもの、という捉え方で、そこには逆説的な「超えるべき壁」としての父の絶対性が厳然とありました。
ジークはある意味碇シンジのベクトル上にいるともいえます。
そして、お兄ちゃんがお前を救ってやるからなエレン、というのは、そうすることで虚空にいる自分が父親に成り代わる手段なわけですが、結局自己中心的に空回りするだけで何ものにもなれないまま沈んでいくのです。
グリシャ・イェーガーもその父親の在り方により人生が変えられたことを思うと、グリシャからジークまでは終われない昭和の中から抜け出せない人といえます。

エレンは違います。エレンにとって父親は壁ではないです。もっといえば「破壊された壁」です。彼が壊したのではない。グリシャは既に崩壊しているのです。そういう意味で、あるように見えているけど終わっている昭和の亡霊なのです。と、思います。
いずれにしても、少年雑誌の大ヒット漫画の展開として画期的ではないかと思います。
あまり最近の漫画を読んでいないので、自分でも知ってるくらいのメジャー作品の範囲ですが、だからこそすごいというか。

 

 

少女漫画では、父権に対する懐疑というのはそれこそ70年代からありましたが(現在の少女漫画がどうなっているのかは知りませんが)少年漫画では長年、血族であれ象徴であれ敵であれ父親とは「超えがたく強く大きく頼もしい存在」であったわけです。頼りないお父さんや、ちゃらんぽらんのダメ父や、家族を顧みない父親というのも、結局わかりにくいけど大きな愛で家族を守っていた、という形で、少なくともメジャーな作品ではそのように描かれてきたと思います。(平成の代表的少年漫画であるワンピース、ハガレン、ハンター、キングダム、銀魂など)
お父さん(のような人)はすごい、僕もお父さんみたいになるんだ。現実にはもう崩壊しているのに、ドリームとして続いていく父権制があったのです。

少女向けの「父権社会での抑圧と生きづらさ、そこにずっぽり入った母親もしんどい、無理」は、世の中的には女子供の話で、つまりいずれ父となる能天気な少年たちには関係なかったのでした。

でもそこから、いや、いまどうなってる? おかしくない? 終わってない? 終わってなきゃいけないのに終わってないよ? 乗っかってきた「男にとって正しい」ものに従っていればよかったはずなのに、実際は誰も守ってくれないし、導いてくれないし、頼りになんかならなくて、昭和の父からもらえるはずだった既得権は取り上げられ、先細りの未来を押し付けられ、あげく自己責任とか言われる。

それって騙されてたんじゃない?
というところに王道の少年向けエンタメが来たというのは、遅いよ!という感触もありますが、いまだに死にきれない昭和が好きで疑わない人もいるので、やっぱり画期的だなと思うわけです。
あと、少年向けでは父だと共感が遠すぎるのか兄とか先輩がその身近な代替的存在だったりしますが、進撃はお兄ちゃんどうでもよすぎて新鮮。

※少年少女向けというのは読者性別比率ではなく、掲載誌のコンセプトが少年少女向けということです。


では、「俺の自由を求めて不要な旧世界を痛みをもって破壊する=連綿たる父権社会との決別」であるならば、若者はどんな新しい価値観をもてばいいのか。
昭和ゾンビに取りつかれ、大人になれない30年のまま閉じた平成はどこに行けばいいのか、どこにいけるのか、どうやって年を重ねられるのか。生きていけるのか。
31巻では、エレンのやり方は間違っている、世界を救いに行こうみんなで、というところで終わっていましたが、では救われた世界が果たしてその後どうなるのかは本誌を見ていないので謎です。
どんな回答を提示するのか、そもそも回答なんてあるのか、「森の中から出られなくても出ようとし続ける」なのか、ちょっとわからないですが、思いもつかない新しい世界があることを期待しています。

 

 進撃は、驚くほど性差がない、というか、女性を性的な目で見ていないのもすごいです。娼婦や愛人とか立場として性的に搾取される女性はいるけど、そうではない女の子の肉体が性的に見られることのない世界というか。説明が難しいですが、同級生の女の子のお風呂を覗くような行為が入ってこない感覚というか。
かなり意識的にやっていると思うけど、いうほど簡単なことじゃないです。女とは男とはこうあるもの、肉体的にこう見られるもの、というのはものすごく深くこの社会で刷り込まれている感覚だから。

肉体的な性差というのは存在するけど、人が性別以前に人としてあるという感覚が当たり前の世界観。これもかなり新しいというか、ちょっと今までなかったほどのフラットさで、でもそれはホント当たり前のことのはず。

むしろ、普通のエンタメが女性を、あるいは男性をどういう眼で見ているか、描いているか、社会がそれを当然としているのが異常じゃないかという気がします。


閑話休題


家父長というのは社会制度における役割であって、個人ではないです。
でもその制度を構築しているのは個人の思考あるいは思考停止です。
システムは終わるし変わるし新たな価値観を探さなけらばならない時がある。
エレンが駆逐してやりたいのは人ではなく巨人という圧倒的な力に象徴されていたシステムであって、彼が自由を求めて自らの外にあるものを全部壊そうとするのは、ハンジさんが再三揶揄うようにわかりやすく反抗的で視野狭窄な若者だからです。そうじゃないと大きな変革をしようなんて思わないからです。

ジークが29歳であることを思うと、ジークの歪みと折れ方はそのまま平成の30年に重なる気がして、共感はできないけど切ない。でもまだこの先も人々は生きていかねばならないし、令和がどうなるかはこれからなわけで、その前に昭和と平成をちゃんと相対化しないと進めない気がする。のでこういう、愚にもつかないことを延々考えてるのでした。
誰かに伝えるというより、自分Aから自分Bへの、どうですかね、という問いかけなんですが、Bからは全然返事が来ない。仲良くしたいのに俺の村わりと分裂気味です。

ただ社会システムの生きづらさ、不自由さといってもいいですが、と人間の本質的な生きづらさは別物で、前者は改善できるもの、後者はできないものなので、「私の生きづらさ」「あなたの生きづらさ」が何なのか、考えて仕分ける必要はあると思います。そこを混同すると無意味に絶望的または楽観的になって、さらにそこに酔ったあげく変な自己満足に着地するから。

様々なものが終わっているのに、死にきれなくてゾンビになって他者を貪り、食っているのは恐ろしいことで、進撃の巨人とはその恐ろしさをものすごくダイレクトに感覚的に見せてくれる作品で、そこで個がどう生きるか、組織・仲間・絆の中で人を人として対等に描く作品で、凄いなと思いました。唐突に読書感想文な感じで、まる。

 

 

 

 

 

 

 

火の鳥



眉毛弟の動きも面白いんですが、定番の「兄嫁サラが悪い」なのでとりあえず次の展開を待ちます。
ノエルの予定調和的つまらなさはなんでしょうか。
リアムがいくら姑みたいな嫁の悪口を言っても
「おれの好きなお兄ちゃんはもういない」は確かなような気がします。
血縁に執着するより真っ当な人間関係をつくりなよ、といってはウオッチャー的にはおしまいなんですが、もう再結成ギグ一回やればすっきりするからやっとけ!
新しい関係はそれからだ!
他人事なんですけど、他人だからアドバイスしたいこともある。聞く耳もたないけど。
あと、ボーンヘッドのお前じゃない感がすごい。どうしたの。


 

さて、コロナ騒ぎにより、様々な人間性があらわになっている昨今ですが、
(ことなかれ、思考停止、差別、欺瞞、無責任、やさしさ、倫理観など)
友達と弟の切りつけっぷりがすごいので忘れないようにメモしておきます。


クイーンのブライアン・メイ、新型コロナウイルスで人類は多くを学ぶことになると語る

https://nme-jp.com/news/87690/

「目線がね…地球と同じ。火の鳥なんじゃ…」


それだ!人類目線どころではない、地球目線。
ブライアン・メイは天文物理学の博士号もとっていて、限りないやさしさは人間だけでなくいきもの全部にそそがれているのです。
火の鳥…
まさに最近読み返して手塚先生の普遍な偉大さに感銘を受けたばかり。
まさにそれ!火の鳥!
いつになったら人は小さなオレ目線ではなく火の鳥目線をもてるのでしょうか。



家の外で「大声でしゃべる」5人を射殺、新型ウイルスで封鎖中 ロシア西部

https://www.bbc.com/japanese/52179417


国が大きくても小さくても村根性のあるところは同じ。ちなみにこの村(注:日本)は匿名で訴え、集団で殺しにくる


村社会の恐ろしさを実感しているところです。




自主的隔離でミュージシャンが子供と歌う動画、図書館が閉鎖のニュースを受けて


自分「STAY HOMEって言われて学校もやだけど家よりましって子供の気持ちがわかりすぎるから受け入れられない」

家族が一緒が当たり前の脳ミソ温泉野郎には想像すらできない、地獄にいるようなこどもがたくさん世界にはいまいるんだろうと思うと胸が詰まる


脳ミソ温泉野郎!!

家族だから~絆~とかいってる人の大体がこれ。
わからなくてもいい。だが想像力を持て。安易に薄っぺらい絆だの家族だのを押し付けてくるな。あなたたちにはわからないことがこの世にはあるのです。自分にもわからないことがいくらでもある。だから想像力が大切なんです。
私は個人対個人の敬意ある関係しか信じないので、家族以前に一人の人としてしか付き合わないですが、仲良し家族が嫌いなわけじゃないです。勝手にやっててくれる限りは。



弟「正直者が馬鹿を見るくだらない世界。滅んじまえ」

うちはオビトか。







 

 

 

言葉は思考であり、霊である



コロナ騒ぎにより、非常時に人間性があきらかになったり、メッキが剝がれていろんなものがあらわになったりしています。

日本で休校が要請されて一か月ほど、
自分の周りに子供があまりいないので知らなかったですが公立小学校でオンライン授業をやっていない、自主的・家庭任せだと聞いて驚愕しました。

いや、他国ですぐオンラインにしたところ多いよね
日本に帰国して帰れなくなったベルギー人が、時差でつらいけど親子で夜中に起きてオンライン授業受けているって聞きました。

教育は大事、何よりも大事と思っていますが、
なぜなにが大事なのか
 
経済や文化は同じ言語ではなく同じ言葉で喋る人がいるほど発展して、同じ言葉の前提って知識や経験や道徳や想像力で、そのベースをつくるのが学校教育で、だから国家は教育に力を入れる
同じ言語を使っていても同じ言葉を使えなければ人口が多くても結局対話できないバラバラのネオバベル格差状態で、大切なのは数字上の人口ではなく同じ言葉=知的共通言語(学歴ではないよ、それがわかるのが知的共通言語を持つ人)人口なんではないでしょうか。

そして知的共通言語を持つ人は、弱者を差別し追い詰めたりしない。
それは恥ずかしいことだと知っているし、他人を貶めなくても自分の中に持っているものがあるから。批判と批評と悪口の違いも、それがどのようになぜ必要なのかもわかっています。あなたは嫌いだがあなたの存在は尊重する、を前提に議論と対話をしようとします。

 
でもそれは搾取する側には都合が悪い。
でも共通言語の強さは知っている。
だから思考停止した集団主語の人間は代わりに「みんなで!」「一丸となって!」「○○人だから!」という共通言語を無理やり作って押し付けてくるんだと思う。


日本人は元から(えらい大雑把なくくりだけど)自分の言葉を持つのが苦手で、人がどういっているかをすごく気にするし、ソロ活動ができなくて村社会を作りたがるので大声に従いやすい。そしてまともな人は「ここで自己主張していいんですよ」と言われても声を出す前に考えるし静かに話すけど、下品な人ほど平気で大声をすぐ出しますね。
多分、歴史的に日本はどんどんポピュリズム(衆愚政治)になっていくと思います。
恐怖です。



人類目線で耐えるしかない。
世界には差別を恥じ、子供に教育を与え、文化を守り、個人を尊重して対話と議論をする人々がいるのだと…

コロナがおしえてくれたことでした。








アインシュタインの手紙

科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。

愛は光だ。
それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。
愛は引力だ。
なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。
愛は力だ。
なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。
愛は展開し、開示する。
愛のために私たちは生き、また死ぬ。
愛は神であり、神は愛だ。

この力はあらゆるものを説明し、生命に意味を与える。
これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。
それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。

愛に視認性を与えるため、私は自分の最も有名な方程式で単純な代用品を作った。
「E = mc2」の代わりに、私たちは次のことを承認する。
世界を癒すエネルギーは、光速の2乗で増殖する愛によって獲得することができ、愛には
限界がないため、愛こそが存在する最大の力であるという結論に至った、と。

私たちを裏切る結果に終わった宇宙の他の諸力の利用と制御に人類が失敗した今、私た
ちが他の種類のエネルギーで自分たちを養うのは急を要する。

もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつも
りなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。

恐らく私たちにはまだ、この惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊で
きる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。
しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さな、しかし強力な愛の発電機をもっており、
そのエネルギーは解放されるのを待っている。

私たちがこの宇宙的エネルギーを与えかつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル、
私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信
しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄(クイントエッセンス)だからだ。
私は自分のハートの中にあるものを表現できなかったことを深く悔やんでおり、それが
私の全人生を静かに打ちのめしてきた。

恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対的なのだから、私がお前を愛しており、お
前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ

 

おまえの父親
アルベルト・アインシュタイン

 

決して消えない光

 

There Is The Light That Never Goes Out


家に帰りたくないんだ、今夜車でどこか遠くに連れていって 
ダブルデッカーやトラックに衝突されて死んでも、君と一緒なら最高に幸せさ



The Smithsの曲でそんなのあったなあ、最高にBLだよなあ(ボーカル/リリックのモリッシーは同性愛者なので)どんな歌詞だったっけ
と検索していました。


私はこの曲を

「家が安らぎの場ではない少年がいる。夜になるたび父親と母親が喧嘩をしている。
殴られることもある。彼は少しばかり大人しくて一人で本を読んだり音楽を聴くのが好きだ。だけど怒鳴り声の響く家にはいられなくて、夜の街を徘徊している。
彼よりも少しばかり不良で行動的な少年がいる。同じように行き場がなくて行く当てもなく車に乗る。隣同士、ひとときの体温と安心に揺られ、暗闇に瞬く幾つものネオンの色に照らされながら、でもあと数時間のうちに家に帰らねばならないんだと思う。事故が起こってこのまま二人で死ねたらいいのに。消えることのない光がそこにあればいいのに」

という歌だと思っていました。

リリカル~~リリカルBL!

「毎日が日曜日」でも「いっそアルマゲドンが起きて爆弾が降ってくればいいのに」と歌っていましたしね。

「決して消えない光」が何を指すのか、
あるHPで(リンクは気が引けるので曲名で検索すればすぐ出てきます)なんと!こういう解釈があったのかと胸をうたれて萌えに震えて。

この歌は「引きこもり青年の夢想」であり、
「消えない光」は彼が一晩中明かりをつけて起きている窓であり、
彼をどこか知らない、人々が本当に生きている世界へ連れていってくれる君は音楽や文学や詩であり、それが「決して消えない光」であるというものです。


なんという美しさ…
美しすぎます!


孤独で、文学や音楽だけが救いだった故郷マンチェスターでのモリッシーの若き日々に通じるというのは、去年の映画「イングランド・イズ・マイン」を見て実に沁みるものがあります。
マンチェスターはギャラガー兄弟の出身地でもありますし、工業都市で雑な土地柄のイメージ。
ここから逃れたい!どこかに行きたい!と熱望し希望を折られる日々に泣くひねくれ文学青年モリッシー…


この解釈の素晴らしいところは、もう一人の少年とドライブしながら死を願う僕をも含んで成立するところです。
引きこもり青年が夢想する消えない光は、僕を連れ出して新しい世界を見せてくれる誰かであり、それは文学や音楽や詩でもある。
肉体的な救いであり精神的な救いである。
その光の中で死んでも、そこには消えることなく光があり続けるというのは、創作活動と恋愛に等しくある願いです。




これは詩だからいいよね。
もし小説だったらこんなにも広がりのある想像はできないと思います。
ミラン・クンデラの言うように「小説とは反抒情的な詩である」というものでしょうか。
反抒情的な詩って何?と聞かれたら、「は、はんじょじょうてきなしだよ!」としか言えないんですが(ばかめ…)

抒情抒情!


いいゴリラ

 

NFLのハーフタイムショー、ジェニファー・ロペスとシャキーラ。
確かに40代と50代でキレキレのレオタード着て踊れるのはすごい。それだけですごい。
見たいかどうかは別としてすごい。

でもな~ゴリラ感が足りないんだよねと思うわけです。
ゴリラというのは自分の中での、女性に対する最高の賛辞。
強く、美しく、優しく、正義感と敬意があって姉御肌で男前、優雅かつ上品で才能がありそれを凌駕する努力ができる。
これらすべてを測る尺度がゴリラです。スカウターで測る戦闘値みたいなもんです。

どういう人がゴリラかというと、例えばシーラE姉さん。
殿下の周りにいる女子は全員が殿下を守ろうとしているゴリラです。
キム・ベイシンガーやシャーリズ・セロンもゴリラです。

どうでもいいですが、キム・ベイシンガーの名前が出てこなくて8マイルに出てたっけ…と検索し、監督がカーティス・ハンソンでLAコンフィデンシャルもそうだったか~
キムはエミネムとも殿下とも付き合い、トム・ペティのビデオにも出たことがある。
もうこっちの好きを全部網羅してくる美しきゴリラOFゴリラ。聖典に載る。

ビヨンセは20代の頃はあまりゴリラ感がなかったけど、ここ2、3年ですごいいいゴリラになってきました。
コ―チェラ2018がなんといってもものすごかった。
女王が大衆を調教に来た!!ってほんとそのとおり。
デスチャもジェイ・Zもアタシが面倒見てやるよ、という肝の据わった完璧なステージ。
周囲にも血のにじむ熱血指導をしつつ、自らに誰よりも厳しいというパフォーマンスへのこだわり。ぬるい共感やインスタントなエモの入る隙のない強さ!美しさ!凄み!
そりゃアデルも自宅で見ながらジャージで踊ります。
コ―チェラならぬビーチェラ!ってすでに伝説


他人の目に判断を委ねがちな若いうちはなかなかゴリラにはなれません。
アデルみたいに20代前半からゴリラ感全開だった人もいますが、たいていは無理です。


ゴリラの反対語がバービーです。
どういうのがバービー感かと具体的な人名を上げると不穏当なのでフィクションでいうと、コッペリアのスワニルダのような女子です。


平たい非力な民ですが心だけでもゴリラの末端になれますように!