雑記

侵略戦争

 

侵略、の歴史を考えていて、

日本は明治になるまで、戦争のない400年の平安時代、300年の江戸時代があった事がすごいと改めて思いました。

むろん、政治権力のいじめ構造や庶民の搾取はあったわけだけど

白村江の戦い(663)が初めての対外戦争で、その後大きな事件は秀吉の朝鮮出兵までないなんですよね。
その間に平安の国風文化が成立して中国の影響から文化的に脱したわけで
花鳥風月を愛でるというのは、やたら人物や人工設定の静物画や宗教画を描きたがる西洋美術とは違う、とても高度な世界観だと思うんです。

正直、言ったら何だけど、田舎者が権力を握ると美意識もなくカネと力を貪り、あげく侵略したがる、んでは。日本史的には。いや、プーチンやアメリカもそうだと思うけど。

秀吉とか、薩長とか。

田舎者というのは地方出身者ではなく、下図の例にあるような人間の表現背景にある内在的要素がとても薄く偏っているという意味においてです。

 

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田舎ものをバカにするな!
といっても、そういう人が他国を侵略したり、他者を迫害したり文化を壊したりしがちなんだから、人間の過ちの歴史を繰り返さないためには、内在的要素をぶ厚くする教育が大事なんだよ、本当に。

 

 

最近読んだもの

 

ウクライナ侵略戦争から1ヶ月が経過しました。

当初懸念した通り、「善悪や被害加害の応酬がではじめ、複雑化し、人々はマスコミのニュースに飽き始めている」気がしています。
ウクライナとロシアではなくて、大きな主語じゃなくて、子どもが死んでいるんだよ…その点で全おとなが有罪なんだよ…誰が被害者か、そんなことを起こしてはいけないという話なのに。どうぶつかいぎ、読んでください。

 

「消失の惑星」ジュリア・フィリップス
(早川書房)

 

カムチャッカ半島を舞台にした、幼い姉妹の誘拐から始まる話。
作者はアメリカ人で、10代からロシアに興味を持ち、モスクワへ留学し、カムチャッカ半島で2年の取材をしてこの作品を書いたと言います。

海を見ている12歳と姉と8歳の妹のシーンから始まり、知らない男性に騙され車に乗せられて携帯電話を奪われて、妹を怯えさせないよう必死で自分を抑える姉の視点から、全く別の人々の生活と感情を描く短編が始まります。

犯人は誰か、少女たちに何が起こったか、ではなく、描かれているのは

「他者を属性化して加害する存在を成り立たせているもの」

です。

犯人への無視ともいえる言及の少なさには

「○○ならターゲットは誰でもいい」という属性加害に対する

「あなたこそ誰でもない」という強い意志を感じます。

 

他者を属性化して差別し加害する人間こそ個別性のない存在である。にもかかわらず彼らは自分を誇示したがっている。だからこそ、どういう人間かを語る必要も知る必要もない。属性で尊厳を奪われた被害者一人ひとりが尊重されるべき個であるという話の方がずっと重要、という意思。

 

ニュージーランド・アーダーン首相がテロリストについて語った言葉を思い出します。

「皆さんは、大勢の命を奪った男の名前ではなく、命を失った大勢の人たちの名前を語ってください。男はテロリストで、犯罪者で、過激派。私が言及するとき、あの男は無名のままで終わる」

 

「塩の湿地に消えゆく前に 」ケイトリン・マレン 
(早川書房)

 

消失の惑星と少し似ています。

女性嫌悪殺人がベースにあるが、犯人自体に全く注目しない。という点で。

被害者のビジョンを見る能力のある被虐待少女が主人公のひとりで、もう一人がNYのアートシーンに搾取され田舎に帰って来た女性、というシスターフッド的な部分もあり、消失の惑星よりライトなミステリではありますが、根底は似ています。

アメリカ作家の作品を久しぶりに読みましたが、こういう傾向はとてもいいことではないかと。刑事が犯人を追い、推理が主になるのではなく、被害者や被害者予備軍が「被害者」ではなく人間として描かれるというのは、良いことだと思います。

 

 

「星のせいにして」エマ・ドナヒュー
(河出書房新社)

 

約100年前、アイルランドでインフルエンザが猛威を振るう中、産科病棟で働く看護師を主人公に、妊婦や医師、周辺人物を描きます。
妊娠出産現場の壮絶さにふるえる…恥骨をのこぎりで切るとかほんと
出産は命がけであり、世界大戦を背景に「女は戦わない」といわれ、死んだ妊婦を思い「女性は命を生むためにずっと命がけで闘っている」という看護師。
友達が「出産は死闘。軽々しく二人目とか言うな」といったことを思い出します。

リン医師は実在の人物だそうですが、進撃のハンジさんをイメージして読んでいました。

 

 

「13.67」陳 浩基(早川書房)
上記に比して古く感じてしまいました。古いというか、雑というか、みたいな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プーチンのウクライナ侵略戦争

 

ロシアの、というよりプーチンの戦争、ですよね。

 

心が多少落ち着いてきました。

とはいえ日々感じ考えることがあります。

 

・映画監督のクストリッツァがロシア陸軍各術劇場の監督に任命された

https://www.lefigaro.fr/theatre/emir-kusturica-nomme-au-theatre-academique-de-l-armee-russe-a-la-veille-de-la-guerre-en-ukraine-20220225


なぜ…しか浮かばない。
そんなにもうらみが深かったのか…
セルビア、ユーゴやコソボの歴史、NATOと米国との関わりについて無知なりに、「アンダーグラウンド」「オンザミルキーロード」など、どちらの立場でもなく弱いものが損なわれる痛みの世界なのだと思っていたよ…
こちらが何を受け取ろうと、作者自身はまた違う人間。
でも作品から受け取ったものは忘れない…

 

・ケニア国連大使のスピーチ

https://youtu.be/nWoejpDBa0g

列強に国境線を引かれたアフリカ諸国は、過去ではなく未来を見る。

綺麗事の理想だとしても痛みの中から語れる美しさ、EUや米国を含むPower statesへのcondemn(非難、批判という訳では何か違うと感じてしまいます)もフェアな素晴らしいスピーチでした。

 

・ボリショイ劇場の総支配人らモスクワの芸術家がプーチン大統領に「ウクライナでの特殊作戦」停止を求める請願書を提出

https://m-festival.biz/2886

誰も死なせたくない、ウクライナでの特殊作戦をやめてほしいと訴える内容です。
しかしながら、ロシアの音楽ニュースサイトでは彼らを非国民、不快なインテリと罵る声が多くの賛同を集めています。

https://www.classicalmusicnews.ru/news/vladimir-spivakov-and-vladimir-urin-signed-an-anti-war-letter/

ヤフコメを見ているような気持になりました。
翻訳ソフトが丁寧言葉なせいか、ヤフコメよりはましに見えるけれど。

 

・ボリショイ劇場首席指揮者トゥガン・ソヒエフが辞任、フランスのトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団も辞任「音楽家としてフランスとロシアのどちらかを優先することはできない」

https://www.classicalmusicnews.ru/news/tugan-sokhiev-statement/

翻訳ソフトによると

『指揮者、俳優、歌手、ダンサー、演出家といった私の同僚たちが、「キャンセルカルチャー」によって脅かされ、軽蔑され、犠牲になっているのを見ることはできません。私たち音楽家は、これらの偉大な作曲家を演奏し、解釈することによって、人類を守り、互いを尊重し、優しくあり続けるための特別な機会を与えられているのです。私たち音楽家は、ショスタコーヴィチの音楽を使って、第二次世界大戦で人類に降りかかった惨禍を思い起こすことを求められているのです。私たち音楽家は、平和の使者なのです。私たちと私たちの音楽を使って国や人々をひとつにするのではなく、ヨーロッパで私たちを分裂させ、追放しようとしているのです』


芸術に国境はないから…人類の歴史を私たちは共有しているから、美しいものを見て喜びを感じたい、そう願う人にとってこの状況はどんなに苦しいことでしょう。

1カ月前、ボリショイ劇場に有効なワクチン証明書について問合せメールを出し、すぐ返事が返ってきました。状況を見て迷惑になってはいけないと思っていたのですが、ロシア文化を尊敬していること、私たちは国境なく人類の芸術に心を動かす存在であること、今回は無理ですがいつか訪れたいこと、神のご加護を願ってお返事を出しました。

 

・南アフリカ共和国のロシアとドイツの大使館

植民地支配からアパルトヘイトの歴史でロシアに支援された南アフリカでは、ロシア支持者も多いらしく、それに感謝し「ナチズムと戦っている」という在南アロシア大使館のtweetに同ドイツ大使館が「申し訳ありませんが黙ってはいられない。恥ずかしながらナチのことは誰よりも理解している」とリプライ

WW2後、自国の失敗と加害に向き合い自ら裁いてきたからこそ言えるし、説得力がある。
これが歴史から学ぶこと。そして現在は過去の総括であり平行にあることを突き付けられます。20220307.jpg

翻って、極東はどうですか?

 

 ・中国、台湾関係を「平和的に」発展、外国干渉に反対

https://twitter.com/ReutersJapan/status/1499938049983057920

誰も干渉すべきではないよ。縁をとうに切っているのに家族ですって言い続けるDV人間そのもの。プーチンと同じ。

 

 

 つづく

 

 

 

 

ロシアのウクライナ侵略戦争

 

2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻、ドネツク・ルガンスクの独立を承認したことを背景に武力で侵略を開始しました。

 

 

ちょうど2月21日にロシア大使館にビザ申請の予約を申請したばかりでした。

この戦争について外部で起こっていることと、自分の内部の反応をメモしていきたいと思います。

後から見て、見当違いや的外れ、状況の変化に気づくかとは思います。
それらを含めて自分のために記録します。

 

 

ニュースが入ってきた当初、ショックが強くて自分でも驚きました。
アフガニスタンやシリアなどの戦争にもショックは受けていましたが、比較にならない苦しみを感じて食べられず、何を見ても泣いていました。

こんなにもメンタルをやられたのはなぜだろうかと考えると、自分にとって、宗教や内戦といった思想同士の対立というより、DVを強く想起する侵略だったからではないかと思います。
ロシアを元カノに執着するDV男に例えた話がありましたが、親子や上司部下にも共通する話です。
”おまえは俺のものだ、逆らう事は許さない、他のやつに近づくな、戻ってこい、おれたちは家族だ仲間だ”
という檻閉じ込め思考。
相手が嫌だから離れていきたいのに、身勝手な論理と力づくでいうことを聞かせようとする。
その巨大暴力構造を感じて、実家や前の会社のパワハラ上司の悪夢を見ました。
友人も「子供の頃の夢を見た、閉塞感でいっぱいの部屋の夢」といいます。
過去の息苦しさの記憶がウクライナが攻撃された苦しみに繋がったのだと思います。
(多分、そういう体験のない人にはちょっと、わからないのではないかと思うけど、我が家は経済DV、教育虐待、モラハラが酷かったので、子供の頃から勉強して自活して家を出て自由になるんだと願って生きてきました。そうやって今幸せなので、もし無理やり連れ戻されるなら刺し違えても全力で抵抗する。そういう気持ち)


例えば米国のイラク攻撃、ユーゴ問題へのNATO・国連介入については、911のトラウマで強い俺を取り戻したかった米国、や人道への執着(人道もある種の宗教である)という理由を自分の中で想像します。

対象を勝手に自分が理解できるレベルの物語(narrative)化するのは、戦争のみならず社会のあらゆる分野でしてはならないことです。

そうと理解し恥じたうえで、自分の領域で物語化してしまいます。

ロシア=プーチンの思考は大スラブなる過去の関係に執着した妄想と、暴力による押し付けであると私は思いますし、それはDVに非常に近く感じます。

 

それが内部の反応としてまず。

外部の情報について。


私は日本メディアのニュースをほとんど見ません(テレ東BIZは時々見ます)
SNSも日本語は言葉は理解できるが内容がノイズという事が多すぎるので、なるべくパッと見ではわからない英語を読むようにしています。

それでも入ってくる情報が色々あります。

 

・NATOや米国が追い詰めた、プーチンにも理がある

殺人犯や通り魔にだって社会に追い詰められてとか理由があるだろうけれど、だからいきなり暴力を振るい相手を殺して追い詰め返していいわけはないです。
完全な悪も完全な正義もない(アメリカは自分を棚に上げて、あると言い張る=そういうところが嫌われる)。 誰にでも瑕疵がある。だから情状酌量の余地があるなら逮捕されてからでしょう。
今、非戦闘員を含む無差別殺人を犯している人がいるのに、殺される相手にも悪いところがあるからといって止めないのはありえないことです。

 

 ・アフガニスタン、シリア、ミャンマー、イエメンその他紛争地域があるのになぜウクライナに騒ぐのか

個人的には先の理由からですが、世界ではどうかといえば、欧州は自分達の事と思うからかもしれないし、米国は自分の地位を誇示したいからかもしれない。人道という宗教からかもしれない。心に訴える情報量が多いからかもしれないし、白人優位主義なのかもしれない。
他の紛争地域を無視したくせに、というのは各々心に問うべきことです。
そして、だからといってロシアプーチンを非難することを批判し抑圧するのは筋違いです。今まで見て見ぬふりだったから、これからもそうするのが公平だという考えはよい未来に全くつながらないことです。火事を見て驚いている人に、あちこちで火事があることを言い募っても、意識が散漫になって結局火消し自体が無意味と思わせては何ひとつもよくならなりません。
ウイグル問題やジェンダー問題、他にも様々な問題に声が上がるとそうやって「あれは放置なのになぜこれに騒ぐのだ」という人がいますが、人間は完璧な理想を実現することはできないのです。異常なほどの公平性を求めてネガティブキャンペーンを行うことは、公平とは逆の現実を強化する行為であり、すべきではありません。

 

 

・強さ

米国ではバイデンを弱いと非難し、トランプを支持する大きな声もありました。
この状況に対して「俺の強さ」を第一義に置く超大国、だから偉大さ(あったとして)を失ったと気づいていないのかと思います。

 

 

・暴力に暴力でやり返すこと

個人的には互いに傷と怨みが残る殺し合いのために支援したくはないです。兵士を英雄扱いするのも危険だと思います。でも自国を攻撃され奪われかけているウクライナの国民の判断ですから、安全な外野からは到底批判できないことです。
占領虐殺は絶対起きて欲しくない。でもエスカレーションがTHE BEE(筒井康隆『毟り合い』)のようになってはほしくない。どちらも傷つき、自らの体を切り捨てながら相手に「勝つこと」が目的となって、次第に現場の切実さに周囲がついていけず飽きて、違う話題で覆い隠される、そうなってほしくない、と思います。
そして「戦争を起こさない」「一部の誇大妄想的な人間に巨大な権力を持たせてはいけない」「そういう国に対して最大限の予防措置を行う」
中国が台湾に行うことを防ぐなら、まず、今、プーチンが成功体験の前例を作らないため全力を注ぐことだと思います。


 

 ・トランプ、メルケル

トランプ元大統領、メルケル元首相に対して、「トランプならこうならなかった」「この事態を招いたのはメルケルだ」という声が起きています。
立ち位置は違えども、二人ともプーチンにとって「心が近い」相手であったのではないか、トランプは本質が、メルケルは戦略的に、同じレベルの人間としてプーチンの自尊心や安心感を満たしていたのではないでしょうか。



・日本

核や憲法うんぬん以前に、日本が日清戦争依頼行ってきたのは侵略戦争だったのだ、こういうことなのだ、ハッとして、それを直視していなかった自分に怯えながら軽蔑を覚えています。
日本と欧州列強が戦争した場所がなぜ他国だったのか、ということです。
アジア解放のため、というのは強盗が部屋を片付けてやったというような物言いに感じられますね。個人でもそうですが相手の領域に入り込んで「お前のために○○してやった」という人は信用できないし、ハラスメント・DV思考であると思います。

 

 

つづく

 

 

 

Why do we only rest in peace?

Why don't we live in peace too?

#RingoStarr

 

 

 

 

 

 

楳図かずお大美術展

 

行ってきました!

(内覧会抽選は外れました)

 

素晴らしかったです! 究極控えめにいっても最高です。
すごかった…
鴻池朋子さんの14歳インスパイア作品の凄みを背景に、14歳完全版ラストを見て泣きました。

「気持ちがきよらになったなら、神の空から降りたまう」

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ゴキンチ!!

 

我々は自分たちの事を「むし」と称しているのですが、(むし、おなかいたい丸くなる、とか)よその人から

「自分の事を虫だなんて、そんなふうに言っちゃダメだよ」

などといわれることがあるのですが、いや、これは諧謔とか韜晦というもので、おのれの虫性に気づかない人間よりはマシなつもりで言っているのだけど…虫と人間なんて神目線では同じレイヤーだし、などというわけにもいかないので曖昧に笑っておりますが、そんな我々の虫心に響く最終章「ムシ」

楳図先生はわかってくださっている!!!

でも心が濁りすぎて、全然ゴキンチのようなきよらな瞳になれません。
きよらに…いつかきよらに…

 

「人間を特別扱いしないよね、楳図先生は」

「日本国総理大臣も宇宙人に下半身剥かれてレイプされそうになるからね。女子高生も中年男性も同じレイヤー」

「大人を信用しないね」

「世代交代しても成長せずに死んで、醜い本性が明らかになるだけだから」

「マリン、ボクハイマモキミヲアイシテイマス」

「泣いちゃう! 愛だけ!」

「画太郎先生の個展でゴッホより上手いじゃんと思ったけど、楳図先生はキリコより上手くてムンクより不穏」

「そしてダリよりシュール」

「それだ」

 

東京近郊で行ける方はぜひ!!! この凄みを生でご覧いただければと思います。
『14歳』と『わたしは真悟』を読んでいかれる事をおすすめします。
その後、新美術館のメトロポリタン美術館展(これについては後ほど)にも行ったけど、こちらの方がずっと残りました。

 

 

さて、ちょっと長くなりますが、楳図先生のインタビューで少し考えたこと

 

楳図先生は『14歳』以降、作品をお描きになっておらず、腱鞘炎のためだということだったのですが、


「ずっと漫画書いていても評価も何もなく、褒められることって全然なくて、『もう怖い漫画はないと思う』とか言われたこともありました。それだったら残っていても悪いし、面白くも何もないので、それでやめちゃったんです。」

2018年、「漫画界のカンヌ」とも呼ばれる「アングレーム国際漫画祭」で、楳図さんの代表作「わたしは真悟」が、「永久に残すべき作品」として「遺産賞」を受賞したのだ。

「それでやる気になって。やっぱり、褒める! お金をあげる! 文化はこれが必要です」

 



楳図かずおさん 27年ぶりの新作で描いた“人類の未来とは”(NHKサイカル) 
https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/01/story/story_220131/

 

 

アングレーム国際漫画賞って知らなかったのですが、Wikipediaによると

ヨーロッパ最大級のバンド・デシネのイベントである。1974年よりフランスアングレーム市が開催している。フランスで最も古い漫画関連のイベントであり、「漫画界におけるカンヌ」とも言われている

 

フランス語圏で出版された漫画(バンドデシネ)を対象とした賞なのですが、国際賞なので翻訳された水木しげる先生をはじめとする日本人作家も多数受賞しているんですね。

受賞者を見ると、2004年に浦沢直樹『20世紀少年』と中沢啓治『はだしのゲン』が各々受賞しており、近年の作品やセールス如何に限らず、文化寄与貢献を讃える賞であると思われます。

 

意味のある絵という象形文字の連なりであるマンガと一枚絵として成立するバンドデシネやアメコミは厳密に言うと違うと私は思うけど、長くなるから省略して、問題は

 

漫画は作品数やクオリティ、社会への影響からいって圧倒的に日本文化であるはずなのに、なぜ漫画を国際的に人類の芸術文化として讃える賞が日本ではなくフランスにあるのか、

ということです。

なんで日本の漫画家がフランスで漫画賞を受けて「誉れ」みたいになるの?

これけっこう、大問題だと思うのですが。

 

なぜ?


1974年って もう既に手塚先生の火の鳥(1954年から連載)が終盤に入り、『おにいさまへ…』『トーマの心臓』、『がきデカ』『キテレツ大百科』が始まった年です。
マンガは子供向けのもの、とずっと思われてきたようだけど、今より文芸的な作品が沢山あり、これを文化として評価する力が、日本社会、日本人になかった、ということになる。


で、漫画=バンドデシネがフランスでどう扱われているのか知らないけど、1950年代から日本の漫画が量も質も抜きん出ているのは間違いないだろうと思います。ならば日本が漫画を芸術として評価し世界に発信するのは当然です。
 
なのになぜ、世界レベルで権威を持つ芸術賞としての国際漫画賞が日本にないのだろう?

ルーブルで、大英博物館で日本の漫画が展示された!すごーいデスネ!
自国が誇るものなら、他国の評価がなぜ国内より上にくるのだろうか。

(2007年から日本国際漫画賞というものがあるのですが、日本国籍以外の漫画家を対象にしており「海外でマンガ普及に貢献する作家を顕彰する」なにさま?なんか無礼。何のためかわからん。発信力もないし。麻生元総理の発案だそうだけど、ただの自己満足と感じてしまう)

なぜ? を考えたのですが結局

 

審美眼がないから…?
本当にいいものがわからないから…売れてるとか流行ってるとかエモみたいなその場限りの評価軸しか社会が持っていないから

漫画って日本文化なのに、人類目線で評価できる素養がない。

つまりそういうことになるんでは。
その人類が「西洋社会」になっちゃってるのは別の問題もありますが
西洋社会文化が判断基準になるのは、彼らが自分たちの文化を系統だてて権威にする能力があるからです。文脈をつくり浸透させる力がある。

 

二回言うけどこれ、大問題だと思うのですが。

 

つまり、どれだけ消費規模が大きくなっても、正しく評価して歴史として残す目がないため、日本の漫画は芸術文化史の中でコマーシャル消費されるだけの存在であるということになります。

思想がない。

経済=カネとそれに繋がる流行=流動的大衆目線以外に評価軸を持たないから。
大衆目線は別にいいんです。それはそれで当然に主流である。ただ商業的に寄りすぎないよう、知の評価軸もあるべき。
なぜそういうものが育たないかというと、個がない、教育がない、人類目線がないからではないでしょうか。
個がないと自分の感情ばかりで思考や論理、客観性というものが持ちにくい。
みんなが言ってるから、やってるから、に押し寄せる。
そしてノンコマーシャルな評価軸を構築できないし、思考を省略もしくは外注してしまう。

 

楳図先生が言うように、

「法律とお金というモノサシ以上に、美意識というモノサシを持つべきだった!」

 「美意識のないお金は悪だ!」

です。表面的であってもそのような社会通念が人間には必要なのです。

 

国自体が「売れてるらしい、話題らしい、使える」ってなったら寄ってくる=クールジャパンや萌えキャラみたいなお門違いのダサい政策しか打てない。
文化的評価軸がないから。そうとしか思えません。

 

文化を「守りたい、次の世代へ伝えたい」という気持ちが薄い。今だけ。自分だけ。文化だけじゃなく何に関してもそうじゃないのかな。だからすぐ忘れるし学ばない。
今あるものを消費して、次、次、でなければオタク的執着での解釈、そういうところから出られなくて、より広い、高い場所を見ようとする意志がないからそういう価値観になってしまう。

いや、そういうの、人それぞれですから。自由だから。

みたいな言い方、好きじゃないですね。他人事だし、自分はどうなのかを卑怯に隠して他者に無関心な言い方だと思う。人それぞれ、もちろんそう、当ったり前です。
だからこそ「私は私、あなたはあなた、で、そこから? 私たちという社会は?」じゃないのか。

それぞれだからこそ個同士の敬意と対話と、それを繋いで価値を創り未来に残していくことが必要だし利益なのに、「それぞれ」の狭い箱でエコーチェンバ―(友人曰くばかのこだま)の中にいて、こんなにも世界も歴史も広く前にも後ろにも続いているのに、一人ひとり、私は私の「私」って個も結局確立しないままだから、

「自国の文化を世界に発信するための評価軸を持ち、国際賞を運営する思想」も持てないのでは。

 


外国で評価されたからすごい、っての、もう、別にいいけど、自国文化の自国評価軸が世界に権威を持つことができない、これ本当に大問題だし、志ある作家のやる気をなくさせる環境じゃないですか。

 

といっても、今に始まったことではなく、知の確立のため頑張っている人もたくさんいるけど、戦前からずっとこうなのでどうにもならないんだろうと思うし、私も話が通じる人と「だよね」のエコーチェンバーの中にいます。

というね…

明治以降の美術文化史からもう、ダメなんだよ…

 

 

 

楳図先生がやる気になってくれてよかった! フランスありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハコヅメ黒田カナを考えていたらお米理論になった

 

ノイズを減らすためなるべく日本語に触れず生活しようと思ったら、いきおい日本語も不自由になり始めたのでヤバいです。

別に英語圏に行きたいわけでも好きなわけでもないけど、日本語はわかりすぎて解像度が高くて余計なものを取り込みすぎてしまうんで、自分の心が黒ずみやすくなるため、とりあえず英語くらいしか分からないので、欧米の美術館サイトとYouTubeをずっと見ています。
いや、こんなに簡単にアクセスして学べるなんてインターネットすごいね! 芸術において英米をちょっと舐めていたのですが、V&Aやナショナルギャラリー、METの作品解説や収集品すごいです。世界中の名品を人類として守って研究して見せて観る、強靭な富と知の上澄みを感じました。

 

さて、日本語で考えた事を文章にしないと言葉を失うのか、その方がいいのかちょっとわかんないですが、ハコヅメ黒田カナの事を考えていたらお米理論になったので書いておきます。

 

 

『ハコヅメ~交番女子の逆襲~』はモーニングに連載の泰三子氏の漫画です。
作者が元警察官とのことで、地方警察の日常がリアルにユーモラスに描かれています。
主人公は天然系の交通課勤務女子、そのペア長という指導官の女性警官との百合っぽくもある関係、彼女たちと同期の警官たちとの関係性が軸になっているのですが、そこで異質な存在感を放っているのが黒田カナです。

『怒メスティックな彼女』回で好きだなあこの人と思っていたのに、スピンオフ作品で主役を張ったと思ったら作品からフェイドアウト。
裏切り者「ユダ」扱いで最後の晩餐に描かれたりしています。黒田カナ自体はむしろ被害者なのですが…なぜ?

黒田カナは、なぜ途中退場しなければならなかったのか?

 

「ハコヅメ」に頻出するのが「同期、仲間、絆」という言葉です。
これらの言葉はうっかり使うと今や薄汚くなる代表ワードでもあると思いますが、というか、身近な人や社会で関わる人と支え合うなんて当然のことで、わざわざいう必要はないのでは? わざわざ言うのは何か目的があるからでは? 家族とか同期とか範囲区切るって、それ以外の優先順位を下げるってことで、切り捨てと差別の温床では? むしろ檻では? などといったちょっと考えればわいてくるうさんくささに対して、

わかってますよ? そんなこと。やだなあ

というスタンスを取ることでいったん回避して、そのうえで絆・仲間をオファーしてくるのは『銀魂』でメジャーになった手法だと思いますが、ハコヅメもまさにこれです。

 

『仲間や絆なんてのは、しんどい状況から逃がさないための鎖なんだ』

 

と、おりおりにキャラクターに言わせたりしています。
しかし、このわかったうえで「でも絆」をセレクトする逃げ場のなさ。
より深い構造的な闇を孕んでいるのですが、「それもわかっている」という納得&仕方ない&でも仕方ないの織り込み済みの感じ。恐ろしいです。
こうやって現実を捻じ曲げて負ける戦争に死にに行く兵士や送り出す人がいたんだろうね、と思うのですが。

で、黒田カナは、どうしてもどこかでそこに馴染めない。
本人は別に周囲と仲もいいし好かれているし、仕事熱心でやる気も才能もあって評価されてて、この「気の合わない人たちもいるけど、それも含めて警察という組織の一員」という場に馴染んでいるように見えるけど、根本が違うんですよね。

何が違うのか

というところでお米理論です。

 

黒田カナは生米です。
玄米から9分削りまで、いろんな生米があるけど、とにかく生米。自他境界がはっきりした「個」です。

彼女の周囲の人は炊飯です。炊かれたコメです。
個性があってハッキリものをいうけど、個ではない。
これ、誤解されていると思うんですが、キャラが立っているとか自己主張が強いとか個性的に見えることと「個がある」ことは全然違う。まったくちがいます。
キャラは表層であって独自の思考や性質とは特に関係がありません。自己主張はおおむねたんなる大声やパフォーマンス。個性なんて自然とあるのが当たり前なので、出そう、見せようとするのはむしろ無個性です。炊かれたコメの中でゴマをつけようとするようなものです。

 

日本の(ほかの国はしらないけど)社会や集団、組織の中では早期に無自覚のまま炊飯されます。多分小学校にあがるまえにほとんど下ごしらえされて水につかって炊かれるの待ち。

そして選別されて同じように精米されてマニュアル通りに炊かれます。
同じようなブランドの同じように削られたコメがおいしく炊かれて、境界線は緩くなり周りのコメとくっつきやすくなります。

そして煮込まれすぎるとお粥になります。
組織(会社に限らず、あらゆる形態のシステム)に所属しすぎて高齢になり自分自身と周囲の区別がつかなくなった状態の人が「お粥人間」です。
炊飯人間は一粒で放り出されるともろく、力も可能性も乾いて壊れていきます。
お粥人間は集団から出ると不定形のままかたまり、何とも混ざれず無力になります。

悪いとかいいを言っているわけではないです。炊飯はおいしいよね、Wow皆の力すごーーい!

って思うし、それはそれですごく力がある仕上がりという一面はあると思う。
ただその中で生米は「うわ、かたっ!嚙めないじゃん!」という異物なのです。不要なのです。仕上がりのいい炊飯の中にあってはならないのです。なぜなら自他境界がはっきりしているからです。
自他境界がはっきりしているとくっつかない。くっつかれて、「なんかやだ、違う」と思う。わたしみんなのこと思ってるよ。でも根本が違う。そういうかたちの一体にはなれない。

生米はなんにでもなれる可能性がある。お米文化でも、パラパラのお米ってありますよね。チャーハンとかピラフとかタイ米とか、ああいうのは一体のようでいて決して一体ではない。具材と混ざってもくっつかないし対等な個がある感じしますね。丼とか、乗せる感じの関係性も興味深いけど、精神湿度の高さが炊飯的な存在を生む気がします。


黒田カナ、人気があったと思います。
だからこそスピンアウトで主役を張って追い出さざるを得なかった。
おそらくこれからの話において、黒田カナの異物は物語の薄い危ういところを暴いてしまうから。

そして黒田カナが、どこかの外国で起業して一人で生きてて、

『箱庭みたいな小さなところで強制労働してた。でも今でもあの場所で踏ん張り続けてくれている仲間を思わない日はないよ』

と述懐して終わるアンボックスが、「いい話」だけど「いい話で異物を片付けた」に見えて、やりきれなくなります。


源・藤組が、読者のほとんどが好きな「正しくて強くて弱い正しい人」で、この大豊作の期+鬼瓦教官ラインがあるけど、横井教官と黒田ラインが好きな人も沢山いると思う。

そして作者はこのアンビバレンツも黒田カナを追い出す残酷もわかってて、横井教官に叫ばせたんだと思う。でもその、泣ける心根の表し方自体が、いろんな意味でやりきれない。
山田や殺された女の子や黒田カナの死にたい気持ちや、選択や、理解や、なにもかもが、どっかしら収まるそういう湿った情緒で蓋をされるものがあって、そうやって蓋をして煮込んでその世の中で確実に存在する生米に対する「自分から出ていった」、なんだこれ、どうしてくれるんだよと思う。

黒田カナみたいに外国に行くしかないっていってるようなもんだな、と思う。
その異物の排除で残った「踏ん張り続けてくれる仲間が守る社会」ってなんだよ、その世界観、地獄か。と思います。


 

友人「コメね、でんぷんって熱を加えるとα化して組成が崩れて結合しやすくなるの、で、温度が下がるとβ化して劣化して、…強く固まるんだよ」

 

「絆じゃん!!!!」

 

 

こわ!!

 

 

 

 

私のオタ活

 

以前も書いたと思うのですが、
私は妄想も同性異性関係なくCP二次創作もするオタクなんですが、同じものが好きな人とキャラ語りしたり好きを共有して盛り上がったりにはあまり興味がありません。

(追記  本当に好きなものの事はそもそもあまり人に話したくないのだった。偏屈なのです)

同じキャラクターやCPが好きでも、好きの対象より、その人がなぜそこにどんな風に思い入れているのか、どんな欲望や希望や欠落を投影しているのか、その好きの感情が沸いて出る根源に興味が向いてしまって、私が知りたいのはそのキャラの魅力じゃなくてそこに魅力を感じるアナタの心理なんだよーと思ってしまって
なんで、って、興味深いから。そして自分がそういう事を考えるしそういう人が好きだから。
二次創作だと作品の形に消化されていて、そこから何となく見えるんだけど。閲覧オンリーの人も含めて自分ではどう思うのか聞きたいけど聞けません。相手に失礼だから。
なにが失礼ってまあ、かなり自己愛とか人生観って心理領域に踏み込むからだよね。

 

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(関係ない画像。ベンジャミンの鉢にキノコ生えててびっくりした)

 


じゃあお前が先に語れよという話なんですが、まあ当然自分の中にも見たくないものから目を逸らすというゴマカシがあります。

それを踏まえてとりあえず言ってみますと、私は自己愛が捩れて強いので基本的に自分に似ているキャラが好きです。たぶん、基本は。
多くの捩れがあるけど気づかないで変に繊細で無神経な、利口でバカで面倒くさい人。真ん中じゃない、脇役タイプ。
気づきたくないから気づかないんだけど、なぜ気づきたくないかと言えばプライドが高くて弱いからですね。でも変に考えるほうだからどっかでわかってて苦しむ。そこに自分にはない優しさや純粋や前向きや努力がある。そういう人が好きです。

はい!
もうここで対象キャラがいる場合「勘違いしてんじゃねーよ」感がすごいです。
でもそれが「解釈」だから。

ニーチェも言っています

事実なるものはない、存在するのは解釈だけである。

ーー『権力への意思』



恋愛でもそうでなくても、そういうタイプを苦しめたり自己欺瞞や自己憐憫を突き詰めたり予感を与えたり救ったりしたいセルフSM願望がある。
なにが幸せかは自分で考え判断して真っ当に生きて人と人間関係を構築することだと思うから、恋愛が絡むとしたらそこがメインになる。
それを非現実のキャラに代理させる理由はそりゃあ自分の現実がなかなかそうはいかないからですよね。

恋愛に性的妄想が入ってくるとしたら性的欲求不満だからです。または迎合。それ以外にない。あるかもしれないけど私にはわからないから教えて貰いたい。推しを幸せにしたい、ってのも他人の幸せが何かなんて本当にはわからないのだから、自分ニーズですよ。結婚や妊娠が推しの幸せと思うなら自分がそうしたいか、世間が、それを幸せだと言っているからです。

で、CPの場合BLでも百合でも夢でも、基本は自分×自分だと思う(二次創作やラノベ等いわゆるライトな創作においては。ライトな創作に面倒臭いこと言うなではなく、なぜライトな創作の需要があるのかの話)。
理想的な自分と欠落した自分の組み合わせが(理想×理想や欠落×欠落、混合等パターンは多数)相互補完して救われる、癒される妄想でしょう。
受け側がかわいそうで救われたいならかわいそうで救われたい自分がいるからだし、うかつでかわいくて天然愛されならそうありたい自分がいるからだよ。
スパダリに執着されたいなら顔も頭も社会的地位もある人間になりたくて、その相手に執着されることで相手の価値を自分に移管したいからだよ。関係性を考えたいのなら自分が何らかの関係性に欠けているから。不幸な私、優しい世界、誤解、依存、自己陶酔、そういう欲望があると思う。

私はBLならかわいい系年下攻めが好きなんですが、理由は一般的な上下関係(年齢、立場、外見や肉体性など)が性的上下関係に持ち込まれるのが嫌だから。
そして兄弟ものが好きなんですが、自分の兄弟が好きだからではなく、最初が他人のところから努力して濃厚な関係性を構築するのが面倒くさいからです。
幼馴染が好きな人とかも多分これ。

友達の主人公総攻め推し(総攻め仲間)は
「真ん中にいるのはプレッシャーだし、さらに私の推しには全員攻めていけるだけのポテンシャルがあるところをみせたいから」
と言っていたけど、めちゃくちゃわかりました。
そういうポテンシャルのある自分を愛したいタイプの人だから。そして私にもそういうところがあるから。
箱庭療法だよね。
架空存在の搾取ともいえる。
そこに自分が心打たれるところがあるとしたら、箱庭療法の中で自覚しながらそれ以上のところを見ようとしているからだと思う。自分とは違う、思い通りにならない他者と相対して自己愛から出て苦しむことも含め関係性を構築しようとするような事。

じゃあ普通の恋愛小説とか、エロ漫画読めば?っていうと、知ってる設定とキャラだから手軽なんでゼロから関係性を知りたいほど恋愛自体には興味ないというか

 


まあ本当に自分としては色々申し訳なく、だから好きだけどそれを言い訳にして何でもやっていいとは思えないし

オタクがキャラクターを代理にした個人的な欲望や欠落の搾取を表現だの自由だの祈りだの尊いだのいうのって表現にも自由にもちょっと失礼だと思いますね。エゴであり慰めですよ、それは。欲望補完自体は全然悪いことではないよ。互いにそれで癒されて、セルフケアになるならとてもいい事だよ。無自覚にあたり構わず撒き散らす形の自己愛と承認欲求は健康でないしいいとは思わないけど。

 

話はずれますが

愛情というのは、当たり前に自己愛を多く含むものです。

例えば愛国心や家族愛に「愛」があるのは自分に紐づけられているからです。
自分と関係ない国や家族には感じないんだから、自分に関係あるから愛せるんです。
それを自分の中で持っているぶんには構わないけど、人に押し付けてくるようになったら「自己愛がすごく強いのに人から愛されていない人なんだな」としか思えない。

愛国心や家族愛を他者への攻撃理由に使う人って、好きなもの(例えば萌え絵や推しジャンル)が批判されて異様に怒ったり逆CPや解釈違い攻撃するオタクと心性はかなり近いと思う。
日本人には宗教観があまりないけど、宗教を自己利用するタイプもそうだと思う。つまり、自己愛がすごく強いのに満たされてなくてそういう自分を何かと同一視する事で支えにしていてそれが思い通りにならなかったり否定されると自己愛が傷つくけど向き合えないから他人を攻撃する人。


何かに愛情を感じている自分、或いは他者、というのはそういう愛を隠れみのにした欺瞞や暴力性をもっている可能性がある、というのは薄々認識しておいた方がいいんではないかと思います。だから、私はなぜ何をどう愛するのか、この人はどうなのかと考える事は結構危機管理になるんじゃないかな。それが私があなたの好きの心理を知りたい理由の一つかも。

そして愛より敬意の方が社会では安全で必要だと思う。



あふれだしたんだ

「愛という憎悪」

 

歌っとけ!

 

 

 

 

 

バナナブレッドのプディング

 

大島弓子先生の「バナナブレッドのプディング」を最近初めて読みまして
すごい!!と思ったので、感想を書きます。
プロの評論家をはじめ色々なかたが語っておられるので、自分ごときが今さらなのですが、人の言葉ではなく自分で言葉にすることに意味がある!GO!

 

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Amazon
(もう、この冒頭がすごいよね。そんじょそこらの作家ではこんなにもさらっと扱えないセリフ)


1980年作です。41年前です。

昭和55年。この年の主な出来事は、ジョン・レノン銃殺事件、山口百恵・三浦友和の結婚、日本の自動車生産台数が世界1位になり経済はイケイケドンドン
ゲーム&ウオッチが発売され、竹の子族が踊り、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』がベストセラーとなりました。

 

 

さて、「バナナブレッドのプディング」はどういう話か。
ざっと箇条書きにします。

 

  • 主人公は「世間に後ろめたさを感じている同性愛者」とつきあい、彼が本当に愛する人と生活するための仮面彼女として助けになりたいと思っている

  • 主人公の女友達は、この子は何かこじらせている!と考え、対策として兄(ヘテロ)を同性愛者と偽って紹介する

  • 女友達は、同級生の男子生徒が好き

  • しかし彼は本物の同性愛者で、女友達の兄が好き

  • なので女友達は男装して兄のふりをして彼に近づく

  • 彼は自分の思いが伝わらない事を知っているので、大学教授の同性愛者の愛人をしている

  • 主人公は夜中にトイレに行くと得体の知れないばけものが出てきて喰われると思っているので、兄についてきてもらう


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(主人公の精神不安定のトリガーは姉の結婚)

  • 兄は主人公を好きになりはじめるが、嘘をついている後ろめたさと、彼女が自分と接することができるのは、女性に対して性的欲望をもたない同性愛者だと思っているからなので、本当の事を言い出せない

  • 女友達は、君が本当に求めているのは兄との近親相姦だよ、と言われる

  • 嘘をつかれていたのを知った主人公は、大学教授の「仮面妻」になる

  • 主人公は大学教授を刺してしまう

  • 主人公は兄の元へ行って「私はあなたも刺してしまうかもしれない」という

  • 兄は「いいよ」と答える



という話


なぜ?? どういうこと???

と思われるかもしれませんが、読み終えて、なるほどなあと思うのです。
おそらく、当時この漫画を読んで「なるほどなあ」と思った少年少女、男性女性は沢山いたのではないかと思います。




この漫画は、主人公が「世間一般」の大人の女性になる=大人の肉体と性欲をもつ、ことに対する恐怖と忌避感と受容を描いているといわれます。
少女漫画なので、彼女の感情を尊重してくれる王子様がちゃんと現れるのですが、
それは「世間一般の」大人になるを意味するわけではありません。
男の子は怖くないのよ、セックスしても大丈夫よ、ではなく
怖いのは私、あなたを傷つける可能性があるのも私、その私を受け入れるあなたがいる、なのです。

 

「少女の自己受容」ではなく「世界が少女を受容する」なのです。


そして大島弓子先生の他の作品にもあることだけど、
重要な点のひとつは



友情や家族愛や敬愛の範囲に収まらない感情がある
それは今のところ、必ずしも性欲を伴ってはいない
しかし世の中は「恋愛とは性欲を伴うもの」であるとしている
(なので恋愛はその先に性的な関係性を必然的に内包する)
では、確かにここにある「性欲を伴うわけでなく、その先にも求めないだろう特定の相手への強い好意」とは何なのか?

 

当時も今も、少年漫画の少年が抱く少女への強い感情はその先の「性欲と成就=恋愛」が明確で、そこへの疑いがまるでないけれど、70年代から80年代の少女漫画は現代のLGBTQのずっと先を行っていて

それはつまり、

 

人類史上において、長いこと男性の肉体が中心となってつくりあげてきた「恋愛とは異性への性欲を伴うもの」なる文化に対して「それはたいへん粗雑な分類である」

 

ということの提示です。
その間にあるものは名前をもたない。
現代なら同性であれば「BL」「百合」に含まれるかもしれません。
しかし、その言葉が適当かと言われると、それも非常に雑なくくりと言わざるを得ない。
BL、百合は「(ベクトルとして性的関係を伴う公然と認められてはいない)恋愛感情」だからです。
そして異性との関係において「BL/百合的友情」に相当する表現はないですね。(プラトニックラブという言葉があったけど、恋愛とは性欲を伴うを前提とした対論なので、そういうことじゃない)


特定の人に対する、つきあったり、セックスしたり、結婚したり、子どもを作ることを志向しない、強い好意をあらわす言葉はいまだ存在しないのです。


70年代から80年代初めにかけての少女漫画にはそういう哲学、というか、すごく先進的な思想や感覚の提示があった。
しかし、バブル期になり、「そんなめんどくさいこと考えるのはいやだ、貧乏くさい」「楽しく恋愛しようよ」 男性は金をかけて女性とつきあい、女性もその金に相当するほど自分を磨く、という巨大恋愛市場が生まれる。
好意の先は、つきあう、恋愛、でその成就は「セックスした」で「選び選ばれる」で、それだけの価値をもつ自分、であって、性欲と恋愛とカネは不可分となった。

それから30年かけて日本は貧しくなっていって、気づいたら、金はないけど欲望だけはある。じゃあどうしようというところで、「金のかからない(二次元の)推しへの性的妄想」が恋愛市場に登場し、オタク市場がメジャーになってきたのだと思います。

いや、推しにめちゃめちゃ貢いでるよ!

という人もいるでしょうが、それは貢げば自分が納得できる程度の見返りがあり、否定され傷つけられることがない、いつでも自分の都合でやめられて、やめても恨まれたり相手を傷つけることのない慰めの対価としての「金」です。
課金が過ぎて自己破産したとしても、「関係性」はない。
「なにもないけど慰められた自分だけ」が残る。


一方、性的欲望は「女にも性欲がある(そして妄想で充足可能)」を普及させはしたけれど、一方で、「性欲を伴わない様々な感情がある」はBL、百合という概念にとどまっています。
それらも結局のところ「性欲を伴う」へスムーズに移行できる。
つまり、「性欲を伴わない様々な感情のひとつ」として描かれた感情は、簡単に性的妄想に転化できるし、一般的に、多くは、その先の解釈として受け入れ可能だから。
そして、現実は置いてきぼりで、いまだに夫婦別姓も同性婚も認められていない石器時代。

結婚って法とか税に関する特典付き戸籍世帯支配だからさー
ただの制度だから
特典が欲しい人同士は性別とか、もう恋愛性愛に関係なく好意ベースでしていいと思う
そんで養子をもらって子供を育てる権利を与えればいいじゃん
親ガチャでハズレを引いた!
とか言われるより、養子縁組するだけの経済力や人品人柄があるか法でチェックするほうがよっぽど幸福率が高くなると思うよ
もうほんと、家族の絆で社会を守る!とか、竹槍で戦争に勝つ!と同じレベルの妄言だから


閑話休題 

カネがあればいいよ!めんどくさい貧乏くさいことやめようよ!
って考える事をやめた結果、貧乏になって考えることができなくなった今だけが残った。



世界の先を行っていたはずなのに、すっかり遅れちゃったね…

大島弓子先生は本当にすごい。

キューブリックの「2001年宇宙の旅」について

「私なら地上でやりますけれど」と仰ったそうです。

軽々超えていくなあ…




 

 

 

 思い返したのですが「クソデカ感情」という言葉がありましたね。
一部の人には「そういうこと!そういう感情!」と理解されたのかもしれないけど
私は全然違うと思った。まず言葉が汚いし、雑。少なくとも、大島弓子作品で描かれている感情は「クソデカ感情」で表現できるとは思わない。

わかりやすく表現したい、その模索は必要だし続けるべきだけど
粗雑で簡単な言語に落とし込んで満足するのは更なる「考えない」を生むだけじゃないかなと思う。






 

 

 

 

METガラ 2021

 

Met Gala 2021が現地時間9月13日にオンラインライブ配信されました。
寝坊して見ませんでしたが、友人によると「司会者がうるさくて疲れた」そうで、編集されたいいとこどりを見るのが良さそうです。

リアーナはいつもスタイリッシュです。絵になります。スタイルがいい人のなかでもずぬけて顔がちいさい。

ビリー・アイリッシュはオスカー・デ・ラ・レンタのドレスでモンロー風。
毛皮を使うブランドとは仕事をしないと伝え、デラレンタは今後完全に毛皮の使用を中止するそうです。19歳でそういう影響を世界に及ぼすのがスターだなと思います。

アレクサンドリア・オカシオ=コルテス下院議員は「TAX THE RICH」
金持ちに課税しろ、と書かれたドレスを
(通称AOC、よく知りませんでしたが、このようなかただそうです。31歳
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5fa212dcc5b6c588dc96f620



そしてモデル兼女優のカーラ・デルヴィーニュがディオール・デザインの
「Peg The Patriarchy」と書かれた服を着て話題になりました。

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peg、知らんなってスラング検索したらワオ

ストラップ・オン・ディルド=ペニパンで女性が男性パートナーの肛門を貫くこと

Urban Dictionaryより

原文は

A term coined by sex advice columnist Dan Savage that refers to an act of love making that involves a woman with a strap-on dildo anally penetrating her male partner.:
Jennifer pegged the shit out of John last night; I bet he won't be able to sit down for a week.
 
そういう行為を一言であらわす俗語があるのに驚きました。
例文の「ジェニファーは昨夜いやというほどジョンをPEGしたので、彼は一週間は座れないでしょう」が強烈です。ジェニファーとジョンの私生活が気になります。
metro.co.ukの補足によると、この場合の女性はトランス女性ではなくシス女性(心と体の性自認が女性)とのことです。


Patriarchy は家父長制と訳されます。ケンブリッジディクショナリーによると

a society in which the oldest male is the leader of the family, or a society controlled by men in which they use their power to their own advantage
 
「最年長の男性が家長となる社会、または、自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会」


今回の場合は、後者の社会に「ファック!」ということかと解釈します。

英語だと服に書いてメッセージになるけど、日本語だと難しい。
ヤンキーの特攻服みたいに刺繍するとか…検索したら、あれ、ヤン詩っていうのですね。
特高服刺繍の店にサンプルがあって震えました。

「夢が無いなら魅せてやる
黙って俺について来い」

とか

「月の輝き背に受けて
今夜も爆音響かせる
闇夜を飾る華に成り闇の中へと姿消す
我ら闇の特攻天使」

とか
……

うーん、Peg The Patriarchy を漢字にするのは難しいです。 
ヤンキーのメンタリティってPatriarchy寄りですしね。
まあとにかく、ペニパンで権力糞ジジイどものアヌス犯るよ、と書いた服を着て堂々とできる世の中っていいです。むろん日常生活ではなく、メッセージ発信があっぱれとされる場だからですが。

フェミ嫌悪の人がネット上に数多く存在していますが(日本でも)
フェミニストという言葉がヘンな色をもっている気はするのですが、
基本的権利をもつ人間として敬意をもって相対しろというのは、年齢性別に関係なく当たり前ではないかと思います。
そして、何かのカテゴライズで踏まれている側がまずその足をどけろ、話はそれからだ、とある程度強い言葉を用いるのも、決して良い事とは思いませんがやむを得ないかと思います。
そうでないと届かない場合があるからです。

ただ、最終的に人間としてという話を常に性別その他カテゴリに矮小化する人と話しても、何の建設性もない。
それは双方向ではあるけれど、何らかの集団に自分を同化させ他者の尊厳や権利を抑圧したい人の気持ちはよくわかりません。何かが欠落しているからそういう方向に走るので、自己分析した方がいいのではないかと思います。
あと、よく出てくる表現の自由という言葉。
表現の自由を論ずるレベルに達していないのでは? 私はそう思いますが。
あいちトリエンナーレの表現の不自由展に何の関心もないのは、あれが美術として展示するレベルに達していないと思うからです。
議論以前の問題。
そこ、ちょっと考えたほうがいいのではないでしょうか。
何事も。これは議論するレベルに達しているのか。矮小な事象を口角泡で言い争うのは時間とエネルギーの無駄ですから、その価値があるのか。
でなければ矮小な事象レベルから一歩も先へ進めないのではないかと思います。



雑メモ
・アナルは形容詞なので、単体では使わないそうです。名詞はアヌス、副詞はアナリーなんですね。ひとつ覚えた(役に立たない)

・メトロポリタン美術館は公共性の高さからNY州が費用の一部(7%程度だそうです)を負担しているけど、運営は理事会による私立だから、メットガラという文化イベントで服飾部門の費用調達をしている。チケット価格は1枚約35,000ドル(約385万円)、テーブルを押さえる場合は、約275,000ドル(約3000万円)。ひぇー。


お金持ちは派手に楽しんでチャリティー出来て、デザイナーや有名人は宣伝できて見てる方も楽しくてお金が文化活動に還元される、いいイベントです。
 
 



 
 

松浦武四郎と北海道

 

アイヌ民族の歴史(山川出版社)

を読んでいて「松浦武四郎」の名前が出てきて、あ、聞いたことがあるなあ、友達が詳しかったな…と思って電話したところ

遅かりし由良之助!!!

 

って言われました。爆笑。
※「仮名手本忠臣蔵」で大星由良之助が塩谷判官の切腹に間に合わなかったのをふまえた流行語。由良之助のモデルは大石内蔵助。(うろ覚えを改めて調べた)



松浦武四郎は、三重県出身の幕末の探検家です。
国を憂いて探検家になったというすごい人です。
北海道の名付け親として知られていますが、そのほかにも多彩な才能、趣味教養が深い人でした。
絵が上手くて文化人で、晩年に旅した全国の霊社から集めた木材で一畳敷という書斎をつくりました。
一畳敷は国際基督教大学に移築保管されています。
https://www.icu.ac.jp/about/campus/takeshiro.html
特別な期間にしか公開されないのでなかなか見る機会はないです。

「三重にある武四郎記念館はすごくいい。一畳敷も再現されているし、アイヌ語から聞き取った地名を記載した北海道の地図もすごくいい。ただ行きにくいんだけどね…立地が」

※令和四年四月下旬まで改装工事のため休館

takeshiro.png

確かに絵がうまい!どうぶつかわいい…

 

「武四郎が旅の途中で描いた野帳がいいんだよー。携帯用のキセルみたいな墨と筆のセットがあってね。野で用を足すと藪蚊に刺されて命がけみたいな

北海道の名付け親、と呼ばれているけど、アイヌ語で語源がちゃんとあるんだよ」

 

「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味です。
「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称でした。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としました。(松浦武四郎記念館ホームページより)

 

しらなかった~
ネットで情報をチョロッと調べるより、本を読んだり詳しい人に話を聞く方がずっと深い。当たり前だが。一時間くらい語ってもらいました。武四郎まつり。

友達はかつて武四郎の展覧会にかかわり取材して本を作ったことがあり、
松浦武四郎には思ったより相当の思い入れがありました(そこまでとは知らんかった)
(幕末の探検家 松浦武四郎と一畳敷 (LIXIL BOOKLET)  
https://www.amazon.co.jp/dp/4864807094/ref=cm_sw_r_tw_dp_STA27WRWW6A7HAD7C13V)

 

NHKで松本潤が主演の武四郎ドラマをやった時、参考にしましたと連絡があったものの、内容がトンデモで、関係者と「あれはないわ。深キョン?恋愛?そんなの武四郎の人生に入る暇ないっつうの!」と憤ったらしい。
うーん、ドラマはドラマだけど、うわべだけ素材として使うのは確かに浅知恵すぎるよなあ…

 

とりあえず、松浦武四郎記念館にいきたいです。
いつ行けるのやら、この東京地獄を逃れて。来るなって言われそうだしなしばらく。