雑記

ネットフリックスめも

ネットフリックスドラマ&映画メモ

 

汚れなき子(ドイツ・ドラマ)

 「監禁された女性が閉ざされた一室で育てた子供」設定が『ルーム』と同じで、いいの?と思ったけどキャラクターを変えてくることで違う作品になってて面白かった

 

ヴァルハラ連続殺人事件(アイスランド・ドラマ)
チェスナットマン(デンマーク・ドラマ)

 中年女性刑事とアウトサイダーぽい男性バディと過去からくる殺人、という北欧ミステリ。英国の『埋もれる殺意』シリーズもその設定だけど、女性刑事が化粧なし、服装露出なしヒール無しの超カジュアル中年なのがいい。

 

DARK(ドイツ・ドラマ)

 田舎の家族間秘密サスペンスかと思ったらタイムリープSF。過去に干渉すると自分の存在が危うくなるって古典SFの基本を裏切ってバンバン過去や未来で子供作るんで、自分の子・親・友人が実は○○が入り組んでて家系図書いちゃった。トンデモ設定はラノベ的だけど画面がドイツ的重厚なんで楽しめる。
パラレルワールドという点ではeverything everywhere all at onceもそうだけど、ちょっとバカっぽいとこに合わせてるのがアメリカだなというか、見る側の美意識と絵作りの重厚さって大事だね。

 

パワー・オブ・ザ・ドッグ(アメリカ映画)

 男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。
 マシュー・ボーンもそうだけど、監督の性的な男性の好みが出てるといたたまれなさを感じる…アートサブカル系で性的な女性の好みが滲んでるやつだと痛キモと思うだけだけど、そのキモさが自分の中にあるのを突きつけられて、わかるんだけどちょっと隠しておこうよね?恥ずかしいしね?と思ういたたまれなさ。
長めの感想 http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/270

 

二人のローマ教皇(英米伊アルゼンチン映画)

 ヨハネ・パウロ二世とフランシスコ教皇の間に挟まれてパッとしなかったベネディクト16世をアンソニー・ホプキンスが演じるある意味ヨイショというか慰撫映画なんだけど、ホプキンズ先生さすがすぎて、解釈大事ですね

 

ウェス・アンダーソン短編集

 ウェス・アンダーソンは一瞬でウェス・アンダーソンとわかるのすごい。世界がこんなふうに見えてるの生きてて楽しいだろうな

 


グローリー(韓国ドラマ)

 いじめられっ子の復讐もの。日本と韓国って本当に似てるよね。
エンタメやニュース通して知る限り世界一似てる。
フィンランド人に似てるとか言う人いるけど似てません。図々しい。
小説もドラマも音楽も似てないし現地二回行っても似てるとこなんてないわ。
日本人に似ているのは韓国人ですよ。ニンゲンの質や陰湿ないじめやDVを生む意識構造や女性の扱いがひどくて都合のいい男を夢見るとこもそっくり。
でも、映画ドラマ小説に関しては韓国のほうが今やずっと優れている。
イカゲーム、確かにカイジだったけど、本場の映画カイジが藤原達也と香川照之の顔芸しか残らないのに比べてはるかにカイジのエッセンスを昇華してたし、ここまでエンタメが量産される時代に重要なのはその深度。全く完敗だよね。
『パラサイト』もさすがアカデミー賞作だった。日本映画が内輪受けの茶番してるうちに劣化してるのと、日本経済がおっさんの互助会中抜きしてるうちに劣化してんの同じ構造。もう構造が全部だめなんだと思わされるジャパン。どうにかしないとな…大人。


 

進撃の巨人 アニメファイナル 最終感想

 

進撃の巨人については、いくつか感想を記録してきました。

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/251

 

それ以外にも、ヒトラーのための虐殺会議感想でもふれました。

エンドロールまで無音。音楽無しによる
「これはエモーショナルで消費していい話ではない」
という主張の重要性。

進撃の巨人アニメファイナル、いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

 

読みかえして、自分でもいいこと言ってるなと思いました。ほんとそれな。

ファイナル後編の冒頭からの戦い。エモーショナルというか、冗長というか、自己陶酔が過ぎない?ベタベタじゃない?と思いました。

 

あと、アルミンとの記憶対話の追加。あれ正直いらんかった。長すぎた。

「地獄で会おう」ってなんだよ、BLか。

『進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか』で「男は女を通してしか内面を語れないし、男がはじめた物語を終わらせることができない」といいましたが、

終わらせることができない男の物語を共有し抱き合って泣くホモソ劇場

 

あれ? バックラッシュしちゃった? ちょっとドラマが安いよ...

 

 

過去の感想で「アドルフに告ぐ」にもふれたのですが、
ナチスとユダヤ二人のアドルフがその後、中東戦争に舞台を変えて戦う様子が、現在のイスラエルとパレスチナの戦争で、SNSでも言及されているんですね。

イスラエルとパレスチナの「壁」や難民、ユダヤと迫害などのモチーフは進撃でも指摘されるのですが、結局「キャラクターがテーマより大きくなった作品は消費財となり、受け手の意識を超えることができない」になってしまっているのではないか。
残念、という気持ちがあります。

ゴールデンカムイもそうだけど、エンタメで消費していい題材じゃないものを中途半端に扱うと、現実のほうが貶め軽んじられてしまう恐れがある。

フィクションでは何をどう描いてもいい、というのは、ある程度の知性がある人々が受け手の場合であって、ものを知らない人が耽溺し影響を受けるフィクションは当然危険であり、モラルが必要です。
社会がフィクションにモラルを求めるのは、大衆の情報入手経路が主に高尚さのないエンタメであり、だからこそそこにモラルがないと社会の秩序や公共性が失われる。

聖徳太子だって「お前たちは徳が低くてすぐ派閥をつくったりまともに議論するレベルに達していないから、和を以て貴しとしなさい」といったのです。
我々は、自分で思うよりかなり程度が低い。慢心してはいけない。バカだからバカなものにすぐ影響を受けます。


発信者(この場合は作者というより、編集者や周辺の公式関係者)はもっとそれを恐れたほうがいいのに、目先の金めあてで作品を落としてしまっているんではないでしょうか。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀・エレン・イェーガー、ひどかったもんな。

開始10分でそっとじしましたよ...ああいうのはちゃんとした大人がちゃんとした場所でやることではないよ

 

 

 

 

 

シグルイ2

 

シグルイ。読みかえして、面白いなあ~~~と思ったんですが

徳川時代の圧倒的上下関係による、平和。

下剋上や裏切りもあって当然だった戦国時代を経て、
住む場所や着るものすら決められた身分制度にガチガチに縛られたなかで
経済が発展し、文化が発展し、平和と繁栄が訪れる。

私、江戸時代の文化好きなんですよね。
江戸の18世紀なんて西洋ルネサンス以上の文化だと思ってるし。
応挙先生を美術史で一番あがめているし。

でも、平和を希求した結果、階級社会で個人の人権や自由を剥奪して
「管理する人間に責を負わせ末端には思考させることなく幼児でいさせよ」
(へうげもの 徳川家康)だった江戸時代に対し、

同時期に清教徒革命やフランス革命やアメリカ独立戦争や産業革命があった
西洋は何を希求したかというと、
階級社会の破壊と個人の人権や自由なんですよね。
その結果、戦争や内戦が起きる。

どちらがいいのか、わかりませんけど、


でも、シグルイでは藤木が江戸徳川、伊良子が西洋文明の側を体現しているんですよね。
そして、師匠の愛人をかまわず奪い、三重との公開初夜を拒否し、命じられた殺人に嘔吐し、みずからの意思のみで女を抱き人を殺す伊良子が「傀儡ではない男」として死後も三重に選ばれる。

三重のため、家のため、と自分を殺して権力に従った藤木は「傀儡」として拒否される。


なぜなら、江戸徳川の平和と繁栄は、「弱者の個を殺し搾取する」ことで成り立っていたから。
女(特に武家の女)はそこで「男の所有物」として従い譲渡される弱者だったから。
三重はそれを拒否し、父の門下生=セミの抜け殻と伊良子=切られた男雛を引き出しに入れ、虎眼流の士が殺されだして衰弱していた体に肉が付き始める。
父の傀儡である門下生が死に、自分を子を産む道具として見ていた父が死に、自由になりはじめたからです。

西洋文明の騒乱は、「弱者の個を殺し搾取する」に抵抗する人々の歴史で、その手段として「経済力」が発生したことで、「経済力」が権力となる。
平和も平等もけっして達成されたわけではないが、そこには、三重が伊良子にみたような「希望」があるわけです。

江戸の平和の中には、特に大きな希望はなくて、
ただ、いまの穏やかさや楽しさ、考えずに身を任せられる制度の気楽さがある。

ほんと、どちらがいいのか。わかりませんけど、

ただ、閉じた平和は、「黒船来航」「明治維新」の「俺たち遅れてる!貧しい!やばい、やられる!」でぶち壊されたことは確か。


わりと現在も停滞し、人権なんか軽視されていると思うんですが、
このままごまかしていけるのかな、とは思いますね。

そして、女性のほうが、先に見切りをつけると思う。三重のように死ぬわけじゃないけど。




 

 

 

 

 

 

 

 

銀牙伝説



銀牙オリオンからLW読んでます。
 
・世襲の問題
・若手の問題
・ディスコミュニケーション問題
・対話派と武闘派の対立問題
 
 
などなど、問題点が多くてなかなか大変です。
アプリコメントもつまらないという感想がちらほら見られます。
これはまた別に、読者側の
 
・回答を出すまでの思考に耐えられない脳の体力不足における、漫画・アニメ等創作の問題
 
もあります。
一つずつ見ていきましょう。
 
 
・世襲の問題&若手の問題
 
銀牙では、銀は総大将リキの子供ですが、リキが記憶喪失で息子と認識されません。
小隊長ベンの部下として、一兵士から実力を認められ総大将になります。
 
ウィードでは、ウィードは銀の息子ですが、母・桜が放浪中に産まれたため、物語中盤まで銀と会うことはありません。
周囲の「本当に銀の子か」から、実力により認められていきます。
後半のロシア犬戦からは、小鉄が「総大将の身内」を喧伝するように、実力より血筋への尊重への偏向がみられます。
 
オリオンたち兄弟は、最初からウィードの子として奥羽で大事に育てられます。後継者候補として、最初からリーダーの立場を期待され、本人もその意識で周囲へ対します。
そのため自然な実力で認められるというより、周囲から、後を継ぐ者として、幼稚さや暴力性を指摘され矯正を望まれています。
 
 
山彦、ボン、アンディという同世代の友人もいて、彼らは周囲への敬意に欠け、悪い意味で実力主義、感情主義です。年長者をはじめ、あらゆる相手に平気で無礼不遜にふるまい、暴言を吐きます。
ある意味、銀は団塊以前を知る世代、ウィードはロスジェネ、オリオンはネオリベといえます。ウィードは早婚なのでオリオンと周囲の犬もほぼ同世代です。銀の盟友は銀よりだいぶ年上ですね。

 

 

・ディスコミュニケーション問題

 

銀、ウィードでは、「本当の男なら話がわかるはずだ」により、器の大きい犬には皆が当然従い、本当の男なら女性子どもには紳士であり、他者を尊重し、無礼はいさめられ、恥を覚えます。

この「男」は、家父長制における「男」でもありますが、
「弱いものを守るため戦う、まともな尊敬すべき犬」でもあります。
ですから、女性であるクロスも「男」と認められます。そして同時にレディとして尊重されます。これらは矛盾しません。女性には身体的不都合があり、妊孕性を含むその不都合に対し紳士的にふるまうのは嗜みだからです。


これはアクション漫画ですから、「守る」は暴力ですが、現実社会では当然、暴力以外の手段もあり、とくだん男性に限る話ではありません。
「まともで尊敬に値する」相手は、話が通じて当然であり、ディスコミュニケーションも生まれない。
強力なカリスマや道理と知力に秀でた部下、というレジェンド級の美しいヒエラルキーにみなが幸せな古い世界です。

しかし、オリオン世代では、レジェンド世代は年老い、その下に新たな徳をもつ指導者と部下が十分にそだっておらず、若者は「自然と湧き上がる敬意」を感じません。

「男なら○○」
は依然としてありますが、女性子どもに紳士であり、他者を尊重し、器が大きい、といった中身はなく、単に「男なら泣くな!」といった理不尽で表層的で特権の温存と感情の抑圧になっています。
誰もがクロスへ「ババア」という。
かつては、男ならレディへ紳士であると体現していたベンのような存在はいません。

ある種のびのびと自由にものをいえる(サスケが銀に「銀タン」というような)状況でありながら、そのため、ここにおいて、世代差、個人差でのディスコミュニケーションは激しくあります。

つまり、誰もが自分の主張ばかりで人の話を聞かないのです。

 

 

 ・対話派と武闘派の対立問題

 

そして、ディスコミュニケーションの最大が、オリオンとシリウス兄弟の分断です。

赤カブトの子供、モンスーンの復讐に対し、オリオンは絶対殺す派であり、
シリウスは対話する派です。タカ派とハト派です。

シリウスの姿勢は、ほかの犬たちを死に追いやり、周囲は

「こいつは頭がおかしい。どうかしている。話が通じない」と思い、はっきりそれを口にするオリオンとシリウスは強く対立します。


おそらく「オリオン」において、もっとも読者に訴えたのが、カマキリ兄弟の悪を見捨てず、対話し心通じさせるシリウスと赤カマキリの変化だったのでしょう。
その、より大きく困難なバージョンとして、モンスーンとシリウスがあるのだと思います。

「やられたらやり返す」は復讐の連鎖を生む、というシリウスは、理想主義がすぎて、矛盾や仲間の死を生じてしまいます。

一方、「やられたから殺す」のオリオンは、仲間や兄弟にも不寛容で、敬意がなく、暴力的な行為にのみ邁進します。

オリオンとシリウス、どちらも自己主張が強く、周囲の信頼や尊敬に値する行動を選べず、自分勝手ですが、人間世界におきかえれば実にリアルです。
「敵を殺せばハッピーエンド」ではなくなった世界で、どのような未来を選択するのか。




・思考に耐えられない脳の体力不足における、漫画・アニメ等創作の問題

 

さて、「ラストウォーズ」
「イライラする、面白くない」といった読者の感想が目立ちます。
それはそうだろうなあと思います。
漫画やアニメは、単純化した物語で「スカッとしたい」ものですから。

しかし、ではどこで「そうではない物語」を見るのか?という問題があります。

「漫画でくらい難しいことを考えたくない」

という人は、いつどこで難しいことを考えているのでしょうか。
資本主義や民主主義や歴史や社会や戦争や人権や未来について、いつどこで考えているのでしょうか。
たぶん、どこでも考えていないと思います。
普通の人は、ほとんどそういったものを考える機会がないからです。
しかし、「考えない人」は悪い施政者にとって利用しやすい庶民でもあります。
だから、民主主義社会の市民は、ものを考える必要があり、そのために高度な教育が必要なのです。

フィクションはスカッとする娯楽でもありますが、思考実験の側面もあります。
仮の世界で、ある命題に対してどう考えるか、という実験です。

思考実験において、「スカッとする」「エモい」漫画やアニメにしかふれない人は
ものを考える体力がなくなっていきます。
運動しないと筋肉が衰えるように、脳も使わないと衰えます。
エロや都合のいい展開にばかり触れていると、脳がそのような形になります。

現実はそんなに単純で都合のいいものではありません。
脳が単純で都合のいいものに慣れた人は、複雑で厳しい現実を、深く考える必要に迫られると、怒り出します。
自分を気持ちよくさせない、都合の悪い世界に怒るのです。


創作における面倒な思考実験くらい、イライラせずにやってみたらいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

「男は女を通してしか自らの内面を語れない」

北海道近代美術館の田中武作品が炎上した件、

前から言ってますが
「男は女を通してしか内面を表現できない」問題です。

多くの男性は自己の内面というものがない、あるいは、内面を持つ必要がない。
そのため様々な問題がおこります。
内面を持つ必要がない人間というのは恐ろしいものですが、
「肩書」「年齢」「性別」「国籍」といった属性のみで構成され
社会生活に支障のない人間はたくさんいるのですね。

むろん、そういう女性もいます。
しかし田中武作品が「年齢も職業も違うさまざまな女性」を、女性であるだけで「表裏のある、”男にとって”醜悪で、見下してかまわない存在」と表現したとき、「どのような女性」も「女性という肉体をもつ」だけでその視線の対象にされるのです。
逆は非常に成立しにくく、まれです。
対称としては「おじさん」があげられるかと思いますが、中高年男性には外見・内面・行動で女性に対するミソジニー・有害さが少なくなく、「おじさん」が嫌がられる存在として表現される理由はあるのです。実際、多くの「おじさん」自身が自分以外の「おじさん」を嫌いでしょう。

しかし、「剃毛する老女」や「六法全書を持つ若い女」や「顔パックする女」が男性にとってどう有害でしょうか。
そこに見える欲望は「女をバカにしたい」でしかありません。
描かれているのは女性の姿ではなく、「女をバカにしたい」という男の内面です。
しかし、見えているのは「女性」の姿だけです。


これは、男性が自らの欲望や内面を認知して表現できず、女性に投影して表現しているからです。
主体的に欲望を持つのは男なのに「女に誘惑された」というのと同じです。
自分自身の欲望を把握できないのです。
そしてその自覚がなく、みずからの内面の照射で浮かび上がる「女というのはこういうもの」であり、「自分にはそれを観察し分析し嘲笑する権利と立場が当たり前にある」と考えている。
それが「男は女を通してしか自分の内面を表現できない」ということです。

これらの女性に投影された醜さ、嘲笑は、男性自身が最も恐れていること、つきつけられたくないことです。つまり、「見下されたくない」「見下す側でいたい」です。

なお、女性の中にもミソジニーは存在します。
男性の投影と同じ目線で女性を嘲笑し見下す人はいます。たとえば「化粧してブスを隠す女」を笑ったり「性的に消費される女」を男性と同じように消費することで「自分は違うけど女とはそういうもの」と位置付ける女性です。

ここでいう男性というのは、「社会と一体化した男を生み出す男社会に適応した人々」という意味です。
あなたは男性ですが、どういう男性ですか、という問いです。
「すべての男性」じゃないですよ、というのは当然です。
むろん、女性も同じです。あなたは「社会と一体化した男を生み出す男社会に適応した人々が規定する女におさまって、平気な人ですか」という意味です。

男性から「愚かな女一般」とみなされることに距離を取りたい女性は、
「女性を軽んじ、ステレオタイプな性的対象とみなし、若年女性を手下、労働力とみなし、消費し、男性に差し出す」など、男性にすり寄ったメンタルをもつことで疑似男性化します。
彼らは女性ですが、ミソジニーを内面化しているため、女性にとって有害です。
ひいては自分自身に有害なのですが、一時的に自分を守るためのふるまいが染みついてしまい、老人になっても脱せない人はいます。













 

戦争ってなぜなくならないんだろう

 

「戦争ってなぜなくならないんだろう」

この問いも、ずっと世の中にあって、答えとして「それぞれの立場や正義が異なるから」とか「人間はおろかだから」などという答えがあります。

 

しかし昨今の日本や諸国の状況を見て、ふと、思いました。
酷い発想だなと思いますが、

戦争には、暴力的で学のない、コミュニケーション能力も生産性も低い、それらの要因から他者へ加害性の高い人間を社会から排除する効能があったのではないか?

ということです。

社会が繫栄し、平和が続き、しかし十分な教育や公平が与えられていないと、
社会の下層に、他者に対して有害で、生産性やコミュニケーション能力に欠け、暴力衝動を持つ人たちがたまっていきます。
反社会的組織や不良グループではなく(なぜならそういう人は同様の人間による”組織”に参加するコミュニケーション能力や、そこで支配従属関係と利益を生み出す才能があるからです)、「誰でもよかった」といって車で歩行者天国につっこんだり、女性や老人や子供といった弱者を殺そうとするような人々です。

で、戦争というのは、歴史上、そういった傾向を持つ人々を統制し、有効に用い、居場所と名誉を与えたうえで、一定数昇華...排除するシステムだったのではないか。

第二次世界大戦後、ある年代の男性が大きく減っていたはずですが(兵役は男性のみでした)、日本の経済成長において特に支障がなかった、
また、ロシアドイツも同様ですが、その後の経済成長や国力増加は欧州でもトップクラスです。
そして、第二次世界大戦における戦死者の割合は、日本とドイツのみ民間人を軍人が大きくうわまわっている。民間人=老若男女、軍人=民間人以外の特定年齢層の男性です。

こんなことを言うのは本当に酷いと思いますが、
「有害な傾向をもつ男性を一定数減らすことにより、社会全体の成長が促される」効果が戦争にはあるのではないだろうか?

女性を減らすことにも、同様の効果がある可能性があるかはわかりません。
歴史上、特定年齢の多くの女性のみを死ぬ可能性がある状況においやる現象はなかったからです。

 

江戸時代や平安時代など、日本史で戦争がない長期安定があったのはなぜかというと
島国であり国内平定していれば他国の干渉を受けにくいことは当然として、
民主主義も資本主義もなかったからです。
社会で有害かつコミュニケーション能力も生産性も欠ける人間は、社会上層部では教育と富により少なく、下層では長く生きることができなかった。

戦国時代のあとの江戸時代の平和は、暴力的傾向のある人間を権力から排除し、
厳しく身分制を定め、自由を奪い、支配したから達成されました。
明治政府になり、社会上層部が薩長という地方からの暴力的組織により乗っ取られ、身分制が崩壊して、有害かつコミュニケーション能力も生産性も欠ける人間が社会で場所を占め、それを統制する教育の質も量も足りなかった。
彼らの多くを用いてアジアで戦争をするのは、社会にとって有益な利用法であり、社会上層部にとっても大きな利益のあることだったのではないでしょうか。
意識はしていなかったものの、結果としてそういう風に流れざるを得ない側面があったのではということです。



で、現日本政府はそんなことを考えるほど賢くはないと思うのですが、
アメリカはもしかして意識的にそれをおこなっているのではないだろうか。

だから、常に戦争を(他国で!)行いたがり、派兵したり駐留したりするのではないだろうか。

むろん、主目的は違う。
ただ、裏の効能としての「特定属性人間の社会隔離と排除による社会の強制浄化」があるからこそ、強大な軍隊を持ち続ける無意識の社会本能があるのではないかということです。

アメリカの貧富や教育レベルの格差、社会モラル、教養の偏りで下層になる人々を思えば、軍隊に入る若者は決して高い教育を受けた人ばかりではないと思います。
というか、軍隊は警察と同じく、高い教育と出自を持つ人は上層部に限られるはずです。

そう思うと、モラル的には許されないし、巻き込まれる人もいることを思うと戦争は絶対してはいけないのですが、社会の強制浄化という意味があるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女は何を通して内面を語るのか

 
 
<進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか>
 
で、「男は女を通してしか自らの内面を語れない」を考察したのですが、
 
 
ポーの一族を読みかえしていて、
 
「女は自らの内面を何を通して語るのか」
 
と思いました。
 
むろん、「自分という女、他者という女を通して」はあります。
 
男性と違って「男を通して」はあまりない。
男性が社会と一体化しているゆえに、「社会と一体化するスタンスにない」女性にとって、どの関係性でも男性は
「その男性が社会でどうあるか」が大きくて、ゆえに、彼を通して社会を語ることができても(例えば家事をしない夫、など)彼によって自分の内面を語ることはない。なぜなら彼には内面そのものがないから、とも言えます。


そこに「内面を見出す」のが、少女漫画の古くは「少年愛」だったりするのかな、と思いました。
 
萩尾望都先生、よしながふみ先生が、二人とも、
 
「女性では描けなかった」「女の子には制約がおおすぎて、描いてもおもしろくなかった」
「男女の恋愛は対等になれない、男同士なら対等になれる」
 
ということを、おっしゃっているんですね。
 
以前は、なるほど、そういうところはあるよなあ、と納得していたのですが、
今はこう思います。
 
 
「そう思うなら、なぜ、自由な少女や、男性と対等になれる関係性や世界観(SFでもいい)を描いてくれなかったのか。 
”少年”ではなく、”少女”を解き放って、少女を通して理想を描いてくれなかったのか」
 (そういった作品もあるのは知っていますが、弱い、というか、例えば「11人いる!」のフロルは雌雄同体であり、長子以外は強制的に女にさせられる社会から逃れるため宇宙船に乗っています)
 
そして読者である自分に対しても
 
 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しないと思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
と思います。
 
 
BLという「隠された女を仮託した男」の人間関係や恋愛、性愛を消費するのではなく、現実の女と男の人間関係を「それに近づける」フィクションがあるべきじゃないのかと。
もちろん、現実ではないからこそ楽しめる、もわかります。
それで、現実とそれに結びついたフィクションを「楽しめないもの」のままにしていていいのだろうか、という話です。
 
多分、肉体的なハンデは大きいです。
性愛は女性だけにリスクがあるし、リスクがあるということは弱みで、弱みがあることは「対等」にはなりにくい。
 
でも、それを弱みとしてしまうのは、妊娠出産や家事育児、ケア労働を「女の無料奉仕分野」にしてしまうことでもある。
 
現実にそこから逃れられなくて、妄想で男同士の関係を夢るのはわかります。
しかし、娯楽の妄想は現実にも影響を及ぼすので、結局「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう危険がある。
 
「対等な関係」を求める、というのは、理想が高いことです。
理想は実現できないが、理想を持つのは大事。
だけどそれを男女に求めることはできないんだろうか、フィクションですら。
と思うのですが、
わりと対等に近づいている北欧ですら難しいですから、難しいとは思う。
でも努力は必要ですね。
 
あ、「パワー」みたいに、女に電撃超能力がある世界、というのはあるけど、
暴力により対等になるしかないという解釈は最もリアルとはいえ、きついよねえ。ホモサピエンスとして。賢い人って意味だからね。
 
 

進撃の巨人はどうしてミカサの物語で終わったのか

 

進撃の巨人ファイナルのアニメ、後編楽しみですね。

最終回を読んだときから考えていたのですが、

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

 

進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのだろうか?

 

これ、連載当時も、かなり不思議でした。
それまでミカサは「エレン厨」で、「最強筋肉女子」で、
ちょっと笑いのネタにされるほど「エレンが一番優先」で、だけどエレン側からの特別な矢印はなさそうな描かれ方で、マーレ視察のシーンでやっとエレンも何か気づき始めたのかな~位の感触でした。

そのミカサがエレンを殺す、というのが大事ではあるのですが、
突然

”始祖ユミルが待っていたのは、愛を終わらせることができるミカサだった、最初からそうだった”

”ミカサに男ができるなんていやだ!一生オレだけを想っててほしい‼”

といわれても、え? 唐突! いやいいけど、なぜ急に? となりませんか。
私はなりました。

 

 

個人的に、こう考えられないだろうか、と思う点があったので考察します。 

 

橋本治の「窯変源氏物語」という源氏物語現代語訳とその解説書「源氏供養」という本があります。その中で

「男は女を通してしか自らの内面を語れない」

という主旨の解説が出てきます。

 
主語が大きすぎる?
とはいえ、つまるところ、個別性の話は個別でしか成立しないので、全体の傾向を語るには総括的に語るしかないところはあります。
人それぞれ、では、木を見て森を見ず、森の役割や状態がわかりません。
そして人は社会的生物であるため、個別性より全体性が社会を動かしています。
ですから「男」「女」というくくりは大きいけれども、有効な側面があるわけです。
※その後、SNSで「自分の内面を語るのは女のすることだと男は考えている」という話があり、そうか?と驚いた次第です。自分の内面を言語化できない人は知性が子どもで勇気がないのだと思っていました。


「男は女を通してしか自らの内面を語れない」とは一体どういうことか

 

男性は男性を通して社会を語ることはできます。
その社会での夢や希望(=成功)、理想、人(=男)という一般化も哲学もできます。
でも個である自身の内面に向き合い、社会や人から切り離して語る方法がない。
女性と違い、男性は既存社会と一体化しているので、そこからこぼれても、疎外された自分のつらさを語るしかなくて、社会において男性であることから離れ、または男性自身を改革して自由になる方法がない。

確かに、ハムレットのオフィーリア、罪と罰のソーニャ、村上春樹作品の不思議女性たち(村上春樹の主人公「僕」はかなり社会から外れているのですが、その「僕」をそこで成り立たせてるのは女性たちです)、生きづらい惨めな男性を突然現れて救う女性像など、「女により自身の内面を表現する男のフィクション」に思い当たるところはあります。

(※女性向け恋愛フィクションの<惨めな女性を突然現れて救う王子様的男性>は、女性が男性を<自分の魅力で支配する>ことで社会的権力・支配力を持つことを表しています。だからおとぎ話の継母はヒロインを支配し、王子様と結婚したヒロインは意地悪な継母や義姉に復讐するのです。支配欲と権力欲ですから、男性向けだとバトル・ビジネスものに相当します)

 

進撃の巨人もこれでは?

 

と思いました。

 

つまり、
父から始まった物語を終わらせるには、
自分が愛し愛されている女を通じて語るしかなかった、
ということです。

 

『お前が始めた物語だろ』

と、エレンの父グリシャはクルーガーとエレンから言われます。

お前が始めた物語なんだ、途中で責任を放り出すな、続けろ、という意味です。

物語とは、グリシャの人生であり、クルーガーから引き継ぎ、エレンへ引き継ぐ「進撃の巨人」の物語です。

 

では、「お前が始めた物語」は、どうやって終わらせたらいいのか?

 

始めた物語は、続けねばならない。
放り出すことでは終わらない。
では、それをどうやって終わらせるのか。

その答えは、

 

 

 

というわけです。

「男性は女性を通してしか、自らの内面を語ることができない」から
男性が始めた自由になるための物語の内的原因は、ある男への愛のために巨人の力を戦争に使った始祖ユミルという女の愛への囚われで、その愛を終わらせるのは女性であるミカサなのです。


男性は、自分たちで始めた物語を終わらせる力をまだ見いだせない。

世界を手に入れるのではなく、壊そうとすることでしか自由になれない。

壊れた世界を一人で見るのは耐えられない。

愛してくれる女に傍にいてほしい。

 

 

 

 

友人アルミンはエレンに「壁の向こうに何があるのか知りたい」という希望を与えます。
それは「進むこと」です。
しかし「進むこと」の先には「絶望」があり、「進み続ける」の先には「人類虐殺」がある。

壁の向こうに人間がいるのに絶望したエレンは、まっさらの自由な世界などなく、自分もまた続けねばならない物語の中にいる存在でしかない、という不自由に絶望する。

それは例えば、子供のころは無限の未来があると思ったのに、社会に出て働き続ける以外の選択肢を与えてもらえない「男」の絶望でもあります。


「女」には、外で働くか、結婚し家で働くか、産むか産まないかなどの選択肢が望むと望まざるとにかかわらず存在します。選択肢の多さゆえのデメリットもあります。男にはそれらがないように見えます。働かない選択肢はあっても、食べていけない、「社会」で軽んじられたり居場所がなくなる。その社会は「男社会」だからです。
働き続ける=食べていく、社会で立場を得る、です。社会で立場のない男は食うに困り劣った存在になり、社会と一体化できなくなる。だからその時も「女」より上であるという命綱を必要としてしまう。女性を妬み憎んでしまう。


彼らはそうして歴史をつくり、進み続ける。
だが、その先にあるのは終わらない憎しみと絶望です。
だから、ジークは「強制断種」という計画をたてる。
暴力ではなく生殖を断とうとする。
エレンはそれを受容できない。
では、エレンはどうやって「自由になりたい自分」の物語を終わらせたらいいのか。


 

進撃の巨人は、男女の性差と権力勾配の描写がとても少ない作品です。
古い価値観の集団では上位職の女性が少ないが、新しく自由な集団では長になる、という描写もされます。
作中で「異性を性的にまなざす」視線もほぼありません。
恋愛でも、描かれるのは異性同性含め「人」への「好意」で、肉体により喚起される欲望ではない。
女性の風呂を覗いたり胸や尻、下着に意識を向けたり、少女も含め女性を女体として見る視線がない。
逆に男性を腕力や肩書や身長で「カッコイイと称賛したりキャーキャーする」女性の視線もない。
だから、「男とはこう」「女とはこう」のような描写も少ない。



なのに「男が始めて続けた物語を終わらせるには、愛をもつ女がいなければいけない」という唐突さが非常に不思議でした。


エレンを殺すのは、アルミンや兵長ではいけなかったのか。

 

しかしおそらく、あの山小屋の「本当はこんなことをしたくなかった、誰かと一緒に逃げたかった」の誰かがアルミンや兵長ではいけないのです。ここでは成り立たないんです。

アルミンや兵長は「物語を続ける側の人=男性」だからです。

男の物語から、男は降りられない。
降りるために「なにか」を捨てることが、できない。
(この「なにか」は「古い男らしさ」が一つの大きななにかであり「男らしさ」に紐づくあり方を捨てる男は”女”とみなされます)
「命」を捨てることはできる。それが一番重いと考える。
しかし、それは「引き継がれてきた男の」物語の終わりではなく、美化と継続にすぎないのです。


女には物語がない。だから、降りる必要がなくそこに「いる」。

女は始祖ユミルのように個別的であり「物語を続ける原動力」を与える。
「ユミルのように内側から生み出すもの」で「だからミカサのように外側から終わらせることができる」
女は男の物語のきっかけであり、終わらせる力であり(グリシャの妹やエレンの母もそうであるように)、それができるのは、

女の物語は「この世にまだ生まれていない」からです。

なぜ生まれていないかというと、歴史上、女性たちは権力を持ち社会的なマジョリティになって自ら歴史を動かし語ったことがないからです。
そして、男性はすでに力を持つマジョリティであることで解放されており、それ以上の権利や自由のためには他人のそれを奪うしかないのですが、女性にはまだ自由や権利を求める余地がある。この「求める」を「奪う」と感じる男性(側の人)にとって、「求めてくる」女性(側の人)は簒奪者であり侵略者であり、敵です。

※男、女、という表現について、ここでは外見を含む社会的性別(ジェンダー)が男、女であり、かつ「雌性配偶子のみをもつ人=女」「雄性配偶子を持つ人=男」としています。それが、歴史的な男女の区別であり、それを前提にした構造の文脈を背景に考察しているからです。



男の呪いは女のうちから生まれた、というのは生誕であり、
それを父親が続けさせる、というのは既存社会を継続し生きることであり、
その地獄を終わらせるのは、終わらない物語を続けるよりも「唯一の俺」を優先してくれる女であり、
その女はまた母になっていく。
そして物語はまた生まれ、続いていく。

 

進撃の巨人の終わり方というのはそういうことで、

男性が始めた物語=戦争と憎しみと暴力の連鎖は男性には終わらせられない、

というのはなかなか厳しい結論です。

※女性兵士もいる、というのは「戦争が女の物語になる可能性もある」だけです。家庭で家事労働をする男性もいるから、「家庭内衣食住マネジメント・親族地域付き合い・子育てが男の物語=ナラティブになる可能性があるが今はまだ違う」のと同じです。

アルミンがいうように「対話」が一つの解決に向かう希望ではありますが、結局、同じことが繰り返されていくのが歴史です。
正直、それをどうやったら”男性が”終わらせられるのか、という物語も見てみたいという気もしています。
あるいは、”女性の”物語がどう生まれ語られることができるのか、それを続けていかねばならない苦しみの先にあるもの、でもいい。


もちろん、進撃の巨人は、「まだそれができるほど人類は成熟しておらず、この先も成熟しないだろう」ところまで含めて描き切ったのがすごいと思えるのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”女は金のある男、暴力的な男が好き”にはちゃんと理由がある

 

私は仕事ができる人が好き、とずっと思っていたのですが

仕事ができる人が好きなわけではなく、仕事ができる人はわたしにとって無害だからでは?

なぜならこっちがある程度仕事できてるうちは仕事できる人は無害なので好きですが、
仕事を離れたら人として特に好きでもないからです。
説明が難しいのですが、世の中のすべての好意は

「相手が自分にとって無害かどうか」

がベースにあるんじゃないでしょうか。


小さくてかわいいものを多くの人が好きなのはそれが基本的に自分にとって無害だから
多くの人が優しい人が好きなのはそれが基本的に自分にとって無害だから
多くの男性がなんとなく女性一般が好きなのは女性が基本的に男性にとって身体的に無害だからで
多くの女性がなんとなく男性一般を嫌いなのは男性が基本的に女性にとって有害(身体的に可能性として)だからじゃないでしょうか。


肉体的に比較的無害でも、老人より子供のほうが好かれるのは、老人は老人特有の頑なさや「身体含む外見や態度が感覚に与える有害」さがあるからではないかと思います。有害無害というのは物理危険だけでなく不快感や嫌悪感も含むので。
いわゆる非モテ男性は「優しくていい人である自分たちがモテないのは女の見る目がないから」と思いがちですが、この「身体含む外見や態度が感覚に与える有害さ」を知覚できていないのではないでしょうか。

 


男性の女性への興味・好意は性欲の問題というより、「だいたいの女は俺にとって身体的に無害」がまず大きいのです。
だから精神的に害(不快)を与えられたりすると「無害だと思ってたのに害をあたえやがった!」と激高する。
 


女性が「暴力的な男性に惹かれる」というのは、
自分に対して時に暴力的である男性は、そのほかの世界にも同じように暴力的であり、つまり「私に対するほかの男性の有害さを無害にしてくれるのではという期待」がある、双方に都合よくいえば「守ってくれる」「守ってやる」
これは金銭的魅力のある男性についても、本人が無害かどうかより
「貧困から私を守ってくれる」という「有害の無害化」に意味があるんだと思います。

「女は金のある男、暴力的な男が好き」

にはあたりまえに理由があるのです。

 

で、男性にとって有害な存在は「ほかの男」なのですが、ここで

「女は金のある男、暴力的な男が好き」と同じ

「男は金のある男、暴力的な男が好き」が構造としてあります。

金のある男や暴力的な男と仲良くしたらメリットがある。だから男はなつく。

その会社・地域・業界の実力者=金があり場合により暴力を用いることができる=権力者の機嫌を取り、従う男性はとても多い。

彼らについていれば「不都合なことから守ってくれる、特権が与えられる=有害の無害化」があるからです。

それを「金のある男、暴力的な男が好き」ではなく「仲間」「絆」「党派」といいかえたりしますが、本質は女性が求める「有害の無害化」と同じくそういう男に守られたいのです。

 

家族や友達が好きなのも「彼らが自分に害を及ぼさない」からで
毒親や悪友って害を及ぼしてくるから距離をおかねばならない。

二次元や推しを愛せるのは彼らが自分に直接的な害を及ぼすことがないから。

 

ちなみにこれらの「好き」には「敬意」が欠けていることが多いです。
問題はそこかと思います。

相手が思い通りにならない、が、即「自分にとって有害」になり、攻撃的になる。
無害な相手は無害なだけで、根本では「軽蔑している」こともある。
内心で相手を軽蔑している関係性はゆがみます。







で、自分も含め多くの人って

「自分の加害性には無神経で、被害者であることにはやたら敏感」

なんですよね。で、これってとても幼児性なんだよね。
こわいですね。

加害と被害、有害と無害、についてもうちょっと考えたい。

 

 

 

 

 

デクスターとパターナリズム


海外ドラマ「デクスター 警察官は殺人鬼」
(2006-2013 全8シーズン)

このドラマ、昔見たのをアマプラで見返したら、
めちゃパターナリズムを考える教材でした。
これこれ、これがパターナリズムや!というね。

前見たときは、実兄と義妹とデクスターの関係にたぎってたものでした。



【ざっくりあらすじ】

マイアミ署の血液専門鑑識官、デクスター・モーガンは、幼児期から殺人衝動を抑えられないシリアルキラー。警察官で亡くなった義父ハリーが定めた掟に従い「生き延びる」ため「殺人を犯した奴だけ」をこっそり殺している。誰にも本当の自分を見せられず、義妹デボラや恋人にも自分を隠して生活しており、中身が空っぽで孤独だと感じるが、殺人はやめられない。そこへ、新たなシリアルキラーが登場し彼に特別な親近感を抱くようになるのだが...

 


パターナリズムとはなにか


②Paternalism:英国:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)

②Paternalism:米国:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)


 

デクスターに対するハリーの「掟」

Code of Harry


これはシリーズを通して強固なコンセプトとして描かれます。

デクスターは、「殺人衝動を抑えられない」人間で、義父ハリーは彼を守るため「掟(CODE)」を与えます。警戒し、捕まらず、生き延びる、殺人犯以外は殺すな。

この掟はCodeです。RuleとCodeはともに規則・掟ですが、ルールよりコードは厳しく「仲間の掟」のような破ればペナルティが課される決まりを意味します。CodeのなかにRuleがあります。
デクスターはこの掟を守りながら、大人として自分の人生を選択していくにつれて逃れたいとも感じはじめます。
ハリー(記憶の中の神である義父)と現実のデクスターの精神状態、人間関係の相克が「パターナリズムに従っていれば安全だが、自分自身の人生を歩むことを困難にする」の典型的な状態をあらわしています。

 

さらにハリーはデクスターに彼自身の情報を隠していました。
デクスターの母が惨殺されたこと、その母とハリーが情報提供者と警察官で、愛人関係だったことなど
つまり

「権威ある側が良かれと思って相手の代わりに判断し、(自分に都合の悪い情報は避けて)教え導く」

です。

パターナリズムが帝国主義国家と植民地の関係も意味することを思うと、「(実際は自分たちの利益のための支配だが、それを隠しあたかも相手のためのように)教育やインフラなどを与えてやり搾取のバーターとすること」と同じ構造といえます。

シリーズを通して(まだシーズン4までしか見返してないけど)
デクスターは「父の代わりになる関係」を求め続けます。

実兄、愛人、友人、高齢シリアルキラー
彼らとの関わりにおいて、ハリーの亡霊というデクスターの内面が常に出現し、警告を発します。その関係は本当に大丈夫か、おまえは間違っている、引き返せと。

 

パターナリズムは「自己決定権を負担する=奪う」ことです。


ゆえに、自己決定力のない存在=劣った存在(帝国に対する植民地のように”劣等”)です。例えば、「未成熟な子供」に対して「保護を与える能力がある大人」がパターナリズムを発揮する場合があります。この際に多くは、「子供にメリットがある」ために「対象の自己決定権を奪う」という本来望ましくないことが承認されます。


問題は、「判断力がない劣等とされた存在(弱者といいかえることもできます)」が本当に「そう」なのか?
庇護を与えられた弱者は自分が劣等として支配されることに不満を覚えないか?(これはいわゆる反抗期として多くの一般人も経験する時期)
弱者が学び成長し、自己決定力をもつ準備ができたとき、与えられたパターナリズムが足を引っ張るのでは?(反抗期が失敗、成長できず子供でいつづける時期)
また、パターナリズムを与える側が、その権力を手放さないのではないか?(相手を劣等とおとしめ守るふりして支配する)

などです。


ハリーは「俺の神」としてデクスターを守り、縛ります。

「ハリーの掟を自分の掟に変えよう」

デクスターはそう考えつつも、何かを自分で決めよう、ハリーが否定するかもしれない行動をとろうとするたび、内面化されたハリーが彼を縛り付けます。

シーズン2でミゲルと友人になり秘密を共有しようとするデクスターにハリーの幻はいいます。

「ミゲルが実行することはお前の責任にもなるわけだからな」

自分で決めて行ったことが自分の責任になり、それを「俺の言うとおりにしていればよかったのに」と言われる。実体のハリーはそういわないかもしれない。でもデクスターの中で生きているハリーはいうのです。「失敗したらお前の責任なんだ。それでもお前は自分で決めるのか

シーズン4で、ハリーの警告を顧みず妻と子をもち、殺人衝動と家庭を両立させようとするデクスターを襲う悲劇は、「それでも自分で道を歩んでよかったのか」という問いを人生に投げかけ、その問いはシーズンを通してデクスターの行動についてまわるのです。

 

また、家父長制およびペイトリアーキに対する反応もいくつも描かれています。
父親に放っておかれたと感じ、認められたいと願うデボラ、
妻と子をモラハラと暴力で支配するアンソニー、
女性の社会進出の困難さ、など

 

2000年代に始まったドラマなので、価値観が古い部分もありますが、「パターナリズムとは何か」「一部の(一般的な?)アメリカ人にとっての”父”なる存在」を考察する興味深いドラマになっていると思います。

 

「父親の罪は受け継がれていく

次々に

子から孫へと

それを誰かが、あんたが、終わりにしない限り」

 

 母の罪は息子には受け継がれないんですね。
おそらく、”女”という属性が娘へ「母から受け継がれる」ものにされているのだと思いますが、男性の場合に受け継がれる属性が「父」であるというのが面白いです。
「男であれ」なんだけど「男であることの上位が父」なんですよね。
「女である」と「母である」は対立する概念と思われているでしょう。
「母である以前に女=恋とか性欲にとらわれる性的な存在」で
「母は父以外には性的な女ではなく、子供第一に考えるもの」みたいなやつ。
「父である」と「男である」は対立せず、男の上位である父は、母と違い、より社会的な存在とされている。

生殖の際に「男は自分では子を生み出すことができない。だからどこか空虚でよりどころがない」からこそ父が「父」という属性に付属する権力にこだわる現象こそ、家父長制、パターナリズム、ペイトリアーキの根底にあるんではないかと思うと、それにとらわれた父と息子というのはわりとかわいそうな存在であるわけです。こういうこというと怒られると思うけど。

 

 

 

 

 デボラとデクスターの対比も面白いですね。

クインが「お前みたいな女は滅多にいない。おまえはまるで…男だ。駆け引きをしない。俺ですら知らないような汚い言葉で本音を言う」という愛の告白をするんですけど、モテマッチョイケメンであるクインがデボラを好きなのは「まるで男」だからなんですね。
そしてデボラは「私と兄貴は正反対」という。
デクスターはそうすると、まるで女ということになる。
まるで男、とか、まるで女、という判断基準とは一体何か?
青が好きな人間は男でピンクが好きな人間は女なのか?
実際には20世紀半ばまで、青は聖母マリアの象徴で女性の色で、ピンク含む赤は活力ある男性の色でした。
どの色を好きかなんて、実際は、個別性にすぎないのに、属性のように語られるそれこそが、ジェンダー刷り込みというものなんですね。

また、リタは「母親であり性的な女」で、彼女が死んだあと子どもの世話で趣味の殺人ができなくなるデクスターが「リタがいてくれたら」と思うんですが、お前にとってのリタってなんだよ!都合のいい世話係か!みたいな気分になるんですけど
息子の世話をベビーシッターに丸投げしたり。
「男」として社会で「生き延びようとする」デクスターが、家族を持つことによる不自由を「女」に押し付けるのも興味深いです。



 

 season5からはデクスターの孤独がより際立ってきます。
新しい母=リタ=本当の彼を無理に知ろうとせず見えている彼を許し価値を見出しセックスし息子(デクスターにとって生まれ直しであるハリソン)を産んでくれる女性を失い「世界に一人で放り出された男」としてのデクスターです。

season5では復讐者ルーメンとともに犯罪者を殺しますが、復讐を終えたルーメンは彼の元から去ります。

season6は、キリスト教(宗教)と殺人者の内なる闇と光について語られます。Doomsday killer(最後の審判キラー?)では、ヨハネ黙示録に従い連続殺人を導くゲラーとトラビスという疑似父&子関係のシリアルキラーが現れます。
一方、デクスターにはブラザーサムという元殺人犯の改宗者が現れ、彼の内なる「光の側面」を見ろと諭します。サムは撃たれても犯人を許せといい、幻のハリーもサムに従えといいますが、デクスターは犯人への怒りを抑えられず殺してしまいます。

そこにseason1ぶりの兄、ブライアンの幻が現れ、「父の教えを守らない息子」「同じ心をもつ男」として「突き進め」というのは非常に興味深い演出です。

ハリーの代わりにデクスターの隣で対話に応えるブライアンは、「殺せ、楽しめ、自分自身であれ」と煽りたてます。二人が車に乗って父と同じく殺人を犯したトリニティキラーの息子を殺しに行くのは、「父から独立する息子たち(一人ではできない)」の象徴ともいえます。

一方、デボラは警部補に昇進し、父を超えることで「父さんに認められたくて苦しかった、だから父さんが死んだときどこかほっとした」自分を超えていきます。性依存症的に恋愛を繰り返し、父親のような男と関係を持つこともあったデボラは、プロポーズを機に「楽しいだけで深いところには届かない関係と気づいた」クインとは別れます。
ちなみに、このデボラの異性関係を「手に入らない、ふさわしくない相手ばかりと恋をしたのは、デクスターが好きだったから」というアクロバティック後付け展開もあるんですが、そこんとこはどうなの~とちょっと違う話です。


エンジェル・バティスタ、クイン、デクスターは、共に寂しく、女や車や殺人に耽溺し続け、誰かとの深い関係を求めながらもそれを正しく方向づけられず、「人恋しくて女を買」ったりします。
(クインが”今夜80ドルつぎこんだこの女と寝られなければ、別の女にイチからやり直しだ”というのは、ギャンブルのように相手を獲得する存在と見なしているわかりやすいシーンです)


孤独なデクスターは、幻の父の代わりに幻の兄という、身近で共感性が高く、経験知と理性に欠ける相手を導き手としますが、これは実生活でもよくあることです。現実には「父」はつまり社会の総合経験知で、そこから学び自立することが必要ですが、若者はそれに反発し反抗期を迎えるのです。

season6の7話、ジョーイを殺しにいくデクスターの隣で囁くブライアン。デクスターは行きずりの女の子とセックスし銃を盗み車を飛ばして撃ちまくる。「自分よりオトナの友達とつるむ反抗期の少年」を満喫し、デボラからの電話を無視する。
デクスター、トリニティキラーの息子ジョーイ、ゲラーに従うトビアス、彼らは「父の影響下のゆがめられた息子」です。デクスターはハリーの影響から脱しようとしてブライアンを心の友にする。ブライアンと一体化したデクスターはそれまでの慎重さを捨て、短絡的で自分の欲望第一に攻撃的になる。
社会で「先輩、兄、親分」的な人の同様な在り方を内面化させた少年一般に、よくある傾向です。


ジョーイの「望まない形で父の子である自分を消し去りたい」に対し、デクスターは「殺さない」決断をし、うちなるブライアンは「死ぬのを見たいはずだ、殺せ」といい、二人は闘います。
「俺はおまえより強い」とデクスターがブライアンを退けるシーンは、父と子、友人、兄弟でも「強さ」により支配と被支配が決まる、さっきまでの一体感はうわべの平穏だったと見せつけてきます。

例えばここに「女や子どもや弱者という”劣等者”」がいれば、「彼ら」より自分たちはともに「上」であるという幻想のもと男同士の連帯は脅かされずにいられる、という構造があるといえます。これがいわゆるホモソーシャルであり、ホモソーシャルがミソジニーを内包しやすいのは当然で、彼らの連帯を維持するため女性は「同等もしくは上」にきてはならないからです。
※ホモは同質をあらわす接頭語なので、女性その他にもホモソーシャルはありますが、現在社会構造的に有害といわれる男性同士のホモソーシャルをここでは”ホモソーシャル”としています。


男尊女卑は男同士が殺しあわないためのシステムである。じつのところそれは女を抜きにした「男同士の問題」で、「弱い」存在は支配されるべき、という思考が根底にあるのです。

 

最後にブライアンを引き殺し、ジョーイを殺さず、デボラと息子の元に帰るデクスター。

『ひかりは闇に打ち勝つ

闇が光によってつくり出されるなら闇だけでは存在しないのかも

ならば光はどこかで待っているはずだ。見つけ出されることを』

そして、ハリーが「おかえり、デクスター」と助手席に乗り込んでくる。
不穏な音楽から陽気なテンポ。俯瞰に映る道路。

 

 さて、トビアスは実はゲラーを殺して多重人格的に「内なるゲラー」とともに殺人を犯していました。父殺しとその罪を内包した息子というのも昔からフィクションでよくあるテーマです。

デクスターにとってどんな自分でありたいかは、「ハリソンにとっていい父親になりたい」です。このドラマでは一貫して「父と息子」がテーマなのです。