2023/03/20
スキップとローファーに見る「BL構文」とよしながふみ作品
「スキップとローファー」(高松美咲 アフタヌーン掲載)
は、同級生が8人しかいない石川県の中学から東京の高校へ進学した女の子「みつみ」と、彼女をとりまく友人たちの日常と恋と青春の物語です。
初読で、きゅんきゅんする!こころが浄化される!と思い
しばらくして何かに似てるな、と思いました。
なんだろう
なんだろう…
「フラワー・オブ・ライフ」(よしながふみ)でした。
高校生同士の繊細で微妙な関係性を描いた青春漫画です。
今みると不倫教師の描き方など痛さもありますが、2003~2007年連載なので、約16~20年たてば今の感覚がこのように古くなる、という予測はしておいていいでしょう。
さて、よしながふみさんはスラムダンクのBL同人などを経て商業BL漫画をはじめプロとして作品を発表し、いまでは「大奥」や「きのう何食べた?」などでドラマ・映画を通じ広く一般に知られる人気作家です。
大奥は男女の恋愛を中心に「男女逆転江戸城大奥絵巻」として白泉社のメロディ、何食べは男性同士ですがBLという女性向け恋愛ファンタジーではなく、「ある属性の人が社会で生きる物語」として一般男性誌のモーニングに連載されています。
BL(二次)同人創作にふれた人ならわかると思うのですが、よしなが作品には「BL構文」があります。
BL構文とは何か?といわれると「いや、あれですよ」みたいな感じになってしまうのですが、つまり、「BL同人創作的エモーショナル構造」であり、一般人はあまりそれに触れたことがないため「今までにない、新しい」と感じるのですが、オタク女子にとってはよく知ってるし大好きだよ、というやつです。
そのBL構文を「スキップとローファー」の高松美咲さんにも感じました。
絶対、どこかでBLを描いていた人だ!と思ったわけです。
ご本人は伏せておきたいのかもしれなくて恐縮ですが、やはり別名義でpixivにBLを投稿してコミックスも出しておられたようです。
BLとは、主に女性作家による女性読者のための男性同士の恋愛ファンタジーです。
ストーリー構成要素には「関係性および心理の繊細な描写」「エロ」があります。
少女漫画作品にも似たような傾向はありますが、大きな違いは
「男性同士であるため様々な意味で男女の恋愛のようには進まず、関係性における繊細な心理描写が双方で行われる」
ことかと思います。
それが、BL感想によくある「情緒をぐちゃぐちゃにされる」「尊い」「クソデカ感情」を生み出します。
異性同士の場合、両性が共にいると「恋愛・性愛」要素が前提として存在します。
そんなつもりはなくても、選択肢に最初から入ってきてしまいがちです。
女性の「カレシがほしい!」男性の「カノジョがほしい!」が当たり前です。
しかしBLの場合、双方または片方が非同性愛者であることが多く、男同士ゆえのハードルも存在します。
「カノジョカレシがほしい!」の枠外で「友達(その他いろいろ)と思っていたのに、
こいつが特別かもしれない。好きなのか?性欲を含む恋愛なのか?そうではないかも、むしろ憎いのかも、でも特別、だけど周りにわかってもらえない」などの心理的葛藤は男女以上に深くなり、そのめんどくささとクローズさが「情緒をかき乱す」「特別感」「被害者的な感覚」につながります。
生き別れ、記憶喪失、義きょうだい、婚約者がいるのに、敵同士なのに、教師と生徒なのに、など、心理的葛藤は恋愛ファンタジーの大きなスパイスです。
BLはこれらの大袈裟な設定以上に、日常生活において「心理葛藤」を発生させることができるシステムを有しています。
そしてこれらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。その日常的な葛藤には、女性であることのつらさ=被害感情や、「特別な相手にわかってもらいたい」閉塞的共感性も含まれます。
BLを好む女性の心理状態については長年分析されていますが、
・恋愛・性に興味はあるが、現実では様々な問題がある
→ルッキズム、コンプレックスを煽る社会通念や性的な抵抗、女性性の否定感情など
・ゆえに同性である女性キャラクターにも抵抗がある
・ゆえの、自分を傍観者とした立場からの性的・心理的消費行動
は大なり小なりあるかと思います。
BLの場合、男性二人がメインですが、創作者も読者も女性であるため、その心理は基本的に女性由来です。
女性の想像する「男性として生き、好きになったのが男性だった架空人間の心理」です。
そしてもう一度いいますが、これらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。
進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか?で書いたように
「男性は女性を通してしか自らの内面を語れない」
に対して、女は女の内面を語ることはできるが、「女」は社会の権力勾配に閉じ込められているので、女ジェンダーが存在する以上その枠内でしか語れません。
そして一部の女性はそこから自由になりたい。
だから、男性表象(社会的権力勾配における女性の上位)に女性心理を移植する。
BLにおいて「メス堕ち」「女にする」などという表現が存在するのは、男女に上下関係があり、セックスの体位が権力勾配の上下に重ねあわされているからです。
BLを好む一部の人の中に、ミソジニー感覚があるのは、女性が「下位」であることを当然とした上でそれを「自分の外のこと」として「男性体に移植する」ことに、女性差別に無神経になれるからです。そのため無意識に男尊感覚が発生しています。
逆に、それらの心理に敏感なため、女性差別に強く反発する人もいます。
一次二次BLは「女性向け」であり、女性が共感消費しやすい構造になっていて、男性体ですが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造がみられます。
これは美少女願望の中年男性とも構造的には似ています。
男性の場合は美少女アバターを「自己の隠蔽と支配欲の内面化」として用いていることが多いですが、女性のBL願望も「自己の隠蔽と支配欲の内面化」を含んでいます。
男性の場合は支配の対象が「美少女=自分より弱い女体」であり、BL女子の支配の対象は「受け攻め二人の関係性」の場合が多そうです。
女性同人界隈で「解釈違い」が大問題になるのは、このためもあると思います。「心理×心理=関係性」はBLでは聖域という支配地なのです。
さて
その「男性体だが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造」を、一般男女に置き換えたのが「BL構文」であり、人間同士の関係性と心理を軸に恋愛を配したストーリー漫画、つまり、よしながふみ作品やスキップとローファーの根底にあるものではないでしょうか。
男と男に移転した女の感情を、男女に移転し直して描いている、一般化されたBL構文は、だから男性にも理解しやすいのです。
女(ジェンダーロール女でいたくない)の皮を被った男(ホモソーシャル)の造形が一般男女の表象を得ているので、
男女だが実は男と男→のようにみえて実は女と女(が望む男と男の関係)→XとYが入り乱れて移転移されている
というややこしい現象になり、最終的に「繊細な心理描写により目眩ましされた、恋愛要素を超えた情緒的で深い人と人の関係」になる、という着地点を見せます。
さて、では目くらましとは何でしょうか。
「みつみ」は、女性性をにおわせない「おもしれー女」です。
この「おもしれー女」のあり方を、最近話題の「K2」の宮坂さんと比べると、BL構文のありなしが非常にはっきりします。
みつみと志摩くんは、そのままBLにしても違和感がありませんが、和也と宮坂さんは宮坂さんがどんなに女性性が匂わなくてもBLに落とし込むのは難しい。
なぜかといえば、みつみの周りの女の子はとても「女性ジェンダーに囚われた/女性ジェンダーを内面化した女の子」であるため、みつみの無性性は「女性を打ち消す」方向にある「おもしれー女」ですが、宮坂さんの周りの女の子は「女性ジェンダーにとらわれておらず内面化もしていない女」であるため、宮坂さんの無性性は「女性を打ち消す」方向に働かないからです。
一方、BL構文ではありませんが、宮坂さんはBLを愛好する女性にも人気が高いと思います。
「おもしれー女」を含めた特別な女と自分を同一視する感覚には「ジェンダーロールにとらわれた普通の女」を軽く蔑む心理があるので、BL愛好者と親和性が高いのです。
BLにおいて「普通の女」は主人公たちの敵か、都合のいい応援者です。
BL構文における主人公は特別な女=受け男性であり、他の女よりどこか高位の存在です。
これは少女漫画の「男装のヒロイン」「強く特別なヒロイン」とは違います。
彼女たちは、最終的に「そうはいってもヒーローに唯一の女扱いされたい」のですが、BL構文のヒロインは「ヒーローにとっての”BLでいう受けの特別”になりたい」のです。
少女漫画のヒロインが「王子様に見いだされる」ことにより特別になるのとは違い、彼女たちは「自身が男の皮をまとい崇めている男という存在と対等である」ことにより特別になります。
宝塚的な男装の麗人が「でも中身は男にとって普通の女」であるのに対し、BL構文のヒロインは「キメラ的に男」です。
「大奥」の歴代将軍が特別な女=名前の上では最高の地位にある男という女として後宮の男たちを従え、平賀源内は男装レズビアンの天才学者でありながら男にレイプされるように(これは、BLにおけるレイプに構造が似ています。男が性的対象ではない=好きなのは攻めだけなのに強姦され苦しむ受けはよく描かれる設定です)、みつみがあらゆる女性的コンプレックスからおかしなほど自由であるように、彼女たちは「こうありたいBL男性の皮をまとったことにより一段上の女の皮を被った受け男のような女」というややこしい存在です。
だから、おもしれー女ムーヴは、おもしれー(特別な女)ではなく、それが普通になるまで増えてほしいと思います。
そして、その一方で江頭さんのような「ジェンダーロールに自主的に従い、それによって劣等感や自己嫌悪に陥り辛くなっている少女」を「女女してる」「生きづらくてかわいそう」的にみさげたり、「わかる」の共感やらで気のすむ個人の問題にしてはいけないと思います。
彼女にその息苦しさを押し付けているのは、我々全おとなです。
小中学生に整形を勧める広告が電車にある社会の問題。つまり大人の問題です。
さて大人、いつまでも高校生の青春を見て都合のいい妄想に浸ってるより、これからの子どもの未来がよりよくなるためになにを今してあげられるかと考えるべきなのですが。