雑記

スキップとローファーに見る「BL構文」とよしながふみ作品

 

「スキップとローファー」(高松美咲 アフタヌーン掲載)

は、同級生が8人しかいない石川県の中学から東京の高校へ進学した女の子「みつみ」と、彼女をとりまく友人たちの日常と恋と青春の物語です。

 

初読で、きゅんきゅんする!こころが浄化される!と思い
しばらくして何かに似てるな、と思いました。

なんだろう 


なんだろう…


「フラワー・オブ・ライフ」(よしながふみ)でした。



高校生同士の繊細で微妙な関係性を描いた青春漫画です。
今みると不倫教師の描き方など痛さもありますが、2003~2007年連載なので、約16~20年たてば今の感覚がこのように古くなる、という予測はしておいていいでしょう。


さて、よしながふみさんはスラムダンクのBL同人などを経て商業BL漫画をはじめプロとして作品を発表し、いまでは「大奥」や「きのう何食べた?」などでドラマ・映画を通じ広く一般に知られる人気作家です。
大奥は男女の恋愛を中心に「男女逆転江戸城大奥絵巻」として白泉社のメロディ、何食べは男性同士ですがBLという女性向け恋愛ファンタジーではなく、「ある属性の人が社会で生きる物語」として一般男性誌のモーニングに連載されています。

 

BL(二次)同人創作にふれた人ならわかると思うのですが、よしなが作品には「BL構文」があります。
BL構文とは何か?といわれると「いや、あれですよ」みたいな感じになってしまうのですが、つまり、「BL同人創作的エモーショナル構造」であり、一般人はあまりそれに触れたことがないため「今までにない、新しい」と感じるのですが、オタク女子にとってはよく知ってるし大好きだよ、というやつです。

 

そのBL構文を「スキップとローファー」の高松美咲さんにも感じました。
絶対、どこかでBLを描いていた人だ!と思ったわけです。
ご本人は伏せておきたいのかもしれなくて恐縮ですが、やはり別名義でpixivにBLを投稿してコミックスも出しておられたようです。

 

BLとは、主に女性作家による女性読者のための男性同士の恋愛ファンタジーです。
ストーリー構成要素には「関係性および心理の繊細な描写」「エロ」があります。
少女漫画作品にも似たような傾向はありますが、大きな違いは
「男性同士であるため様々な意味で男女の恋愛のようには進まず、関係性における繊細な心理描写が双方で行われる」
ことかと思います。
それが、BL感想によくある「情緒をぐちゃぐちゃにされる」「尊い」「クソデカ感情」を生み出します。

異性同士の場合、両性が共にいると「恋愛・性愛」要素が前提として存在します。
そんなつもりはなくても、選択肢に最初から入ってきてしまいがちです。
女性の「カレシがほしい!」男性の「カノジョがほしい!」が当たり前です。

しかしBLの場合、双方または片方が非同性愛者であることが多く、男同士ゆえのハードルも存在します。
「カノジョカレシがほしい!」の枠外で「友達(その他いろいろ)と思っていたのに、
こいつが特別かもしれない。好きなのか?性欲を含む恋愛なのか?そうではないかも、むしろ憎いのかも、でも特別、だけど周りにわかってもらえない」などの心理的葛藤は男女以上に深くなり、そのめんどくささとクローズさが「情緒をかき乱す」「特別感」「被害者的な感覚」につながります。

生き別れ、記憶喪失、義きょうだい、婚約者がいるのに、敵同士なのに、教師と生徒なのに、など、心理的葛藤は恋愛ファンタジーの大きなスパイスです。
BLはこれらの大袈裟な設定以上に、日常生活において「心理葛藤」を発生させることができるシステムを有しています。
そしてこれらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。その日常的な葛藤には、女性であることのつらさ=被害感情や、「特別な相手にわかってもらいたい」閉塞的共感性も含まれます。

 


BLを好む女性の心理状態については長年分析されていますが、

・恋愛・性に興味はあるが、現実では様々な問題がある
→ルッキズム、コンプレックスを煽る社会通念や性的な抵抗、女性性の否定感情など
・ゆえに同性である女性キャラクターにも抵抗がある
・ゆえの、自分を傍観者とした立場からの性的・心理的消費行動

は大なり小なりあるかと思います。

BLの場合、男性二人がメインですが、創作者も読者も女性であるため、その心理は基本的に女性由来です。
女性の想像する「男性として生き、好きになったのが男性だった架空人間の心理」です。
そしてもう一度いいますが、これらの感情はそもそもが「女性の抱える日常的な葛藤」を「男性表象」に投影させたものです。

 

進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか?で書いたように

「男性は女性を通してしか自らの内面を語れない」

に対して、女は女の内面を語ることはできるが、「女」は社会の権力勾配に閉じ込められているので、女ジェンダーが存在する以上その枠内でしか語れません。
そして一部の女性はそこから自由になりたい。
だから、男性表象(社会的権力勾配における女性の上位)に女性心理を移植する。
BLにおいて「メス堕ち」「女にする」などという表現が存在するのは、男女に上下関係があり、セックスの体位が権力勾配の上下に重ねあわされているからです。
BLを好む一部の人の中に、ミソジニー感覚があるのは、女性が「下位」であることを当然とした上でそれを「自分の外のこと」として「男性体に移植する」ことに、女性差別に無神経になれるからです。そのため無意識に男尊感覚が発生しています。
逆に、それらの心理に敏感なため、女性差別に強く反発する人もいます。



一次二次BLは「女性向け」であり、女性が共感消費しやすい構造になっていて、男性体ですが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造がみられます。

これは美少女願望の中年男性とも構造的には似ています。
男性の場合は美少女アバターを「自己の隠蔽と支配欲の内面化」として用いていることが多いですが、女性のBL願望も「自己の隠蔽と支配欲の内面化」を含んでいます。
男性の場合は支配の対象が「美少女=自分より弱い女体」であり、BL女子の支配の対象は「受け攻め二人の関係性」の場合が多そうです。
女性同人界隈で「解釈違い」が大問題になるのは、このためもあると思います。「心理×心理=関係性」はBLでは聖域という支配地なのです。



さて

その「男性体だが心理描写は二人とも女性(のフィルター・願望を通した男性)という転移構造」を、一般男女に置き換えたのが「BL構文」であり、人間同士の関係性と心理を軸に恋愛を配したストーリー漫画、つまり、よしながふみ作品やスキップとローファーの根底にあるものではないでしょうか。

 

男と男に移転した女の感情を、男女に移転し直して描いている、一般化されたBL構文は、だから男性にも理解しやすいのです。
女(ジェンダーロール女でいたくない)の皮を被った男(ホモソーシャル)の造形が一般男女の表象を得ているので、
男女だが実は男と男→のようにみえて実は女と女(が望む男と男の関係)→XとYが入り乱れて移転移されている
というややこしい現象になり、最終的に「繊細な心理描写により目眩ましされた、恋愛要素を超えた情緒的で深い人と人の関係」になる、という着地点を見せます。



さて、では目くらましとは何でしょうか。

「みつみ」は、女性性をにおわせない「おもしれー女」です。
この「おもしれー女」のあり方を、最近話題の「K2」の宮坂さんと比べると、BL構文のありなしが非常にはっきりします。

みつみと志摩くんは、そのままBLにしても違和感がありませんが、和也と宮坂さんは宮坂さんがどんなに女性性が匂わなくてもBLに落とし込むのは難しい。

なぜかといえば、みつみの周りの女の子はとても「女性ジェンダーに囚われた/女性ジェンダーを内面化した女の子」であるため、みつみの無性性は「女性を打ち消す」方向にある「おもしれー女」ですが、宮坂さんの周りの女の子は「女性ジェンダーにとらわれておらず内面化もしていない女」であるため、宮坂さんの無性性は「女性を打ち消す」方向に働かないからです。


一方、BL構文ではありませんが、宮坂さんはBLを愛好する女性にも人気が高いと思います。

「おもしれー女」を含めた特別な女と自分を同一視する感覚には「ジェンダーロールにとらわれた普通の女」を軽く蔑む心理があるので、BL愛好者と親和性が高いのです。

BLにおいて「普通の女」は主人公たちの敵か、都合のいい応援者です。
BL構文における主人公は特別な女=受け男性であり、他の女よりどこか高位の存在です。
これは少女漫画の「男装のヒロイン」「強く特別なヒロイン」とは違います。
彼女たちは、最終的に「そうはいってもヒーローに唯一の女扱いされたい」のですが、BL構文のヒロインは「ヒーローにとっての”BLでいう受けの特別”になりたい」のです。
少女漫画のヒロインが「王子様に見いだされる」ことにより特別になるのとは違い、彼女たちは「自身が男の皮をまとい崇めている男という存在と対等である」ことにより特別になります。
宝塚的な男装の麗人が「でも中身は男にとって普通の女」であるのに対し、BL構文のヒロインは「キメラ的に男」です。


「大奥」の歴代将軍が特別な女=名前の上では最高の地位にある男という女として後宮の男たちを従え、平賀源内は男装レズビアンの天才学者でありながら男にレイプされるように(これは、BLにおけるレイプに構造が似ています。男が性的対象ではない=好きなのは攻めだけなのに強姦され苦しむ受けはよく描かれる設定です)、みつみがあらゆる女性的コンプレックスからおかしなほど自由であるように、彼女たちは「こうありたいBL男性の皮をまとったことにより一段上の女の皮を被った受け男のような女」というややこしい存在です。

 

 

だから、おもしれー女ムーヴは、おもしれー(特別な女)ではなく、それが普通になるまで増えてほしいと思います。

そして、その一方で江頭さんのような「ジェンダーロールに自主的に従い、それによって劣等感や自己嫌悪に陥り辛くなっている少女」を「女女してる」「生きづらくてかわいそう」的にみさげたり、「わかる」の共感やらで気のすむ個人の問題にしてはいけないと思います。
彼女にその息苦しさを押し付けているのは、我々全おとなです。
小中学生に整形を勧める広告が電車にある社会の問題。つまり大人の問題です。
さて大人、いつまでも高校生の青春を見て都合のいい妄想に浸ってるより、これからの子どもの未来がよりよくなるためになにを今してあげられるかと考えるべきなのですが。

 

 

 

 

 

 

シグルイ

シグルイ 原作:南條範夫「駿河城御前試合」・作画:山口貴由 秋田書店 2003-2010チャンピオンRED連載

 

 

「覚悟のススメ」ちょっと触れて、散様の、兄なのに女体で何の説明もなし!(あとであるけど)に衝撃を受け、シグルイ読んでみました。
こっちの方が自分のジャンルかなと思って。
シグルイってタイトル、無知なのでモンゴル系遊牧民かしらと思ったら葉隠の「死狂ひ」とのことです。おっふ。

 

いやすごかった!! 

こういう漫画がよみたかった!
 

共感やら理解の及ばぬレイヤーにあるものを見たいのです。


徳川忠長(三代将軍徳川家光の弟。幼い頃より優秀だったが将軍職を継げなかった恨みから行状が悪化し幕府により切腹を命じられる)の御前試合で闘う、藤木源之介と伊良子清玄。二人がそこに至るまでの因縁の過去編が全15巻のほぼ全編にわたる

ぶっとび、イカレ、グロリョナエロ描写連続ともいえるのですが、不快にならない。ただただ圧倒され受け入れ賛美してしまう理由は

・男女隔てないエログロ

・消費目的で描かれていない

・笑いでごまかさない

・趣味嗜好を超えた凄み

・絵が超絶うまい

・人体描写が正確で美しすぎる

 

でしょうか

 

美意識がある。

 

ジョジョにもそういうレイヤーの向こう側を感じていたし今も好きだけど、なんかおしゃれ漫画になっちゃったから…受け手の解釈もあると思いますが
シグルイはかわいい絵やらほのぼの二次創作できる作品じゃない。
ゴカムを変態漫画とかいうな!これが本物のへんたいまんがです!

 

原作未読ですが、漫画とは違うエンディングらしく
それではこの残酷描写をどう結末づけるのかと思いましたが、
なんたるスタンディングオベーション!!!!

 

徳川封建制以降、「武人」が「自分の意思ではなく上の人間の命に従うだけの傀儡=侍=はべるもの」となり果てるしかない絶望の話でした!!!

武士(ぶし、もののふ 士は有徳有能の統治階級を意味する)が、侍(サムライ 侍は従う、侍るを意味する)になる。
同じように使われがちだけど言葉の意味が違うんですよね。
戦国時代にいるのは武士で、江戸時代は侍。この変化は大きい。

戦国のあと江戸幕府による太平の世は、圧倒的上下社会

へうげもので、「管理する人間に責を負わせ末端には思考させることなく幼児でいさせよ」と、徳川家康が命じたその「忠義」の狂い

お上に命じられるままに敵の名誉も命も敬意なく踏みつける。
それはサムライではなく傀儡よと。


敵の名誉はおのれの誇り。
それを踏みにじり、切り捨て、残るのは忠義を果たした「自分」という無自覚な地獄のみ

いやいや、明治日清日露第二次世界大戦の兵士や特攻隊とか、まさにこれですよね。

明治以降も徳川封建制は生き続け、新たなるお上に従うだけのサムライ気取りの農民が利用され続けているわけですよ。

それを描き切っている凄み!!!!



源之助が忠長の命令で伊良子を辱めたのを、

本当はやりたくなかったが、徳川が規定するサムライとして「お家=三重さまが体現する岩本家」のため、三重さまとの「勝ったら契りを結ぶ」という約束のため、と絶望のなかですがるのを、三重さまは傀儡になり果てた男への拒否により自害している、この地獄!!!!


三重さま、作品の中でも一二を争うイカレっぷりなんですが、
だからこそ、その三重さまのために自らの「サムライ」を貫くために間違ってしまった清らかな真面目な源之助と、その間違いを押し付けた権力の醜さが際立ちます。

三重様は、伊良子に恋していたわけではないんです。
父・虎眼が命じた公開初夜の際に「男はみな、傀儡」と絶望で死を覚悟したとき、伊良子だけが、虎眼に命じられて性行為をするのを拒否し、結果、三重の自尊心を救った。

階級社会と戦う伊良子は、人間としても男としても相当なろくでなしだけれど、上下権力への追従を拒否する「自由で強靭な精神をもつ人間」なわけです。
正義感や倫理からじゃない。伊良子にそんなものはない。ただ自分の律するところ、荒々しくある美意識によって、他者の支配を拒んでいる。
その「傀儡ではない男」に希望をみているのです。


最強最悪の父・虎眼ですら、大名にへつらいの笑いをする。
伊良子は、巧言で大名をかわすが、へつらい媚びて従いはしない。

三重様にとって、伊良子だけが、傀儡ではない、意志をもつ「士(さむらい)」で、彼女が選びたい男、と無意識の底で知っている。
封建社会、階級社会で「女」は、「権力のある男の持ち物で自由な心が許されない」から、彼女が伊良子を求めるのは、男の持ち物ではなく自由意志を持つ人間でありたい、ということです。
だから、公開初夜に参加したが、誰に何と言われようと仇討をやり遂げようとする藤木源之助が「士」になったのかもしれない、と思い、結婚の約束をした。

しかし、士同士の戦いで勝利した藤木は、命じられるままに伊良子を辱める「傀儡=侍=さぶらうもの」になり果てる。

その絶望で死ぬのです。






ところで、作品中臓物飛び男性器焼き鏝女体切断など虐待描写がたわわななかで
一番衝撃を受けたのは、権左衛門の「素手でのセルフ去勢」です。
覚悟決まりすぎ。

山口先生が原作者南條先生にお会いした際のあとがきなども濃さがぶっとんでいました。
素晴らしい作品をありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蜜蜂 マヤ・ルンデ

ネタバレあり

蜜蜂 マヤ・ルンデ  2015年 池田真紀子訳 NHK出版(2018年日本翻訳刊)

ノルウェーの作家、マヤ・ルンデによるSF小説

といっても、SF部分は三分の一で、物語は三つの時代が交互に語られ、蜜蜂というキーワードで繋がる展開になっています。

1852年のイギリス 父と娘と息子
2007年のアメリカ 父と息子
2098年の中国 母と息子

三つの時代でこの関係性を中心に話が進みます。

優れた小説がそうであるように、これも読み手の立ち位置によって見えるものが違ってくる作品です。
自分が感じたところをとりあえずざっくり


・19世紀は完全な家父長制社会
父親が妻や娘を人間扱いせず、家庭の中で同じ階層である息子にのみ過剰な期待をかけ、抑圧している。
養蜂で父に等しい学者に認められるという男社会への承認欲求と、幼稚な身勝手と自己愛で周囲を見ている。息子と妻の癒着関係と疎外感。息子の闇堕ち。娘の一人だけが無言で学び父の研究を支えている


・21世紀初期は父権の崩壊 
父親は息子に代々の養蜂業を継いでほしいが、息子は大学に行きベジタリアンになり文筆業をやっていきたいと思っている。ジェネレーションギャップ。ここでも息子と妻の絆は深く父は疎外感を感じる。仕事仲間との友情。父権のゆらぎにより強くなるホモソーシャル。息子との融和。


・21世紀終わりは女性の社会
人間の自然破壊による蜜蜂の絶滅で、作物が実を結ばなくなった世界。
中国の人工授粉果樹園で働く夫婦と小さな息子。母は学びたかったが肉体労働に従事し、息子に夢をかけている。子供優先による夫の排除。子供が病気で突然北京に連れ去れらたのを追って一人で北京にいく。最高指導者は女性。息子に対する母の愛が全編にただよっているが、最後は…

 

蜜蜂の絶滅に至る人間社会のあり方は、家父長制の呪い
(Patriarchy:最年長の男性が家長となる社会、または、自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会
が原因の一つと感じました。

この「自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会」
(そこに同化したり、せざるをえない女性もいるけど)って
仕事を頑張ろう、他より抜きん出よう、利益を出そう、認められよう、その利益を自分の子供へ継がせよう、そのために何かを踏みつけようとすることで、
紀元前8000年、西暦2000年にかけて続いてきて
一人の人間としては決して悪ではないかもしれないが、社会となって蓄積すると外部への悪となり自らにかえってくる、のでは? ということ。

もう、楳図先生の14歳を思い出しましたよね。虫だけに!

それが、最後の

 

帰ってきたミツバチは花蜜と花粉を携えている。こどもを育てる栄養分だ。ただし、自分が育てるこどものためだけに持ち帰るのではない。どのミツバチも全体のために、全員のために、彼らが一体となって構成する大きな有機体のために、働く。

 

子どもを愛し、何を捨てても取り戻そうとしていたタオがたどりつく、

「誰か一人の人生、誰か一人のあらゆる肉も心も思考も思いも夢も、それを大きな文脈に置き、同じ夢が世界のすべての人に当てはまることに気づけずにいるかぎり、なんの意味もない」

という部分に込められているように思いました。


つまり、自分、自分の子供、自分の属する社会が、もっと大きな、人類、のみならず自然、地球、すべてに繋がっていると認識してはじめて、個をただひとつの個として尊重することができる。それは対立でなく両立である。という愛の姿。

シャーロットがアメリカに渡り、つなげた巣箱の図面、
トムが書いた本が数十年後にタオにつなげた発見、
シャーロットもトムも自分の父親と共に働いたけれど、それが影響を与えた相手は、自分の子供でも、同じ国の人でも同じ性別でも同じ時代の人でもなかった。

それはとても尊く、ラストのタオとともに未来への希望を感じます。


ところで、昔から西洋SFでは、崩壊後の世界で唯一うまく生き残るのが中国人、というのがときどきあるのですが、
やはり、中国の歴史文化の長さ、計り知れなさ、深さに、怖れと夢のような感覚があるのでしょうか。


ミツバチ消失事件は現実にあります。
蜜蜂がいるからニンゲンが口にする様々な植物の受粉ができている。
大事にしなきゃ! ほんとにね!

 

 

 

天才柳沢教授の生活

 

久しぶりに読み返しました。
以前は響かなかったようなことが胸にきて1巻から泣いてた…年か…

というか、80年代の、日本がこんなに心貧しく暗い、未来がない状態になるなんて想像もできていない世界がもうなんか。
なんだろうね、この時代がそんなに良かったわけでもないと思うのですが。
お金があっても品性や本質はずっと貧しかったと思うから。
でも、お金があって品性が貧しいのとお金がなくて品性が貧しいのだったら、まだ前者のほうがまし。


大学生が車を持っているのが普通だったり
着飾って街に繰り出すワンレン・ボディコンの女子大生とか、そうか、本当にあったんだそんな時代、って感じで。

そのあとの女子高生ブームって、この女子大生ブームとはちょっと違うんですよね。
若い女性性を搾取しおもちゃにするのは同じだけど、女子大生ブームは、主に同世代~2,30代の男性をターゲットに、「金がある男=バブルで勝った都会の男は若い女と遊べる」「金のある男に女を高く売る」という幻想だったと思うけど、
女子高生ブームからパパ活に至るまで、日本の経済衰退とともにそういう所から弾かれた男性が、金銭感覚が低く自分を脅かさない子供を性的搾取してみじめさの突っ支い棒にする側面があって、世の中が貧しくなるにつれてその傾向だけがずっと強化されてる気がする。
しかも「彼女たちが自主的に行っている」「供給している」という意思決定を押し付けてるとこがほんと悪質。
庵野秀明とかなかった顔してるけど、薄っぺらい女子高生搾取映画とってたこと忘れませんよ。

橋本治が源氏物語評論でいってた、男は女でしか内面を表現できない、とはこういうことかと思います。

 

 

さて、柳沢教授のモデルとなった山下先生の父上のお写真を見て、

うわあ、山下先生が描くハンサムじゃん!!

 

と思いました。

しゅっとした、細目の美形。

ただ学問が楽しくてお金や世俗のことを忘れてしまう
このお父様を見て育たれたからこその山下先生なんですね。

 

私の父も国立大学教授だけど、全然こんな清らかな品性の高さはない。
いっては何だけど、傲慢で品のないエリート感覚だけが突出した悪い意味で普通じゃない人です。



なんか、正直、若いころはこういう意見にとても反抗的だったけど

 

やっぱり、代々育ちがいい、って大事なんだなと思う。

 

教養とか教育とか品性って、やっぱりすぐには身につかない。たいてい。
全員とは言わない、でもだいたいそう。
私も子どものころから表面インテリな育てられかたをしたけど、品性下劣だもんな。しみじみ。
だから、一代の成り上がりはお金や肩書があっても品性がない。教養がない。
だから、美術品を買ったりクラシックを聞いたり高級品を身に着けたりそういう場に行ったりする。
お金にふさわしい品格をつけようとする。


だから、三菱の創業者や子孫は美術品を蒐集したんですよね。

「美術品を見る目がある、それを見極めて所有することができる」

は、大昔から富裕層、貴族、王族の証明だから。

でも物ごとは大衆化するに従いレベルが下がるものなので、

「美術品を買ったり高いものを身に着けたりするのがお金持ち」

ってなっちゃったんだね。

貧しさだよね。本当に。

 

 

しかし民主主義、平等の世の中で代々本当に豊かな人なんてそうはいません。いなくなるしくみだから。
だから、公共がその代わりに高い教育や美術館や図書館を整備する。
それが国民の品格をつくる。

と思うんですけどね…

 

東博が電気代払えないんだって。

日本の現状を見ていると本当に悲しくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

大竹伸朗展 16年ぶりの衝撃

 

国立近代美術館で開催中の、大竹伸朗展

こないだ現美で大展覧会やったばかりじゃなかったっけ?と思ったら16年前で、震えました。

16年ぶりに何が変わったかどう感じるか見に行こうといって出かけ、
二人で震えました。震えっぱなし


何も変わっていない!!!

 

なんというか、80年代で止まってしまっていて一歩も進化していないんでは…と感じました。

「キャプションをアプリでダウンロードして見てって、そんな進化はいらん。超見づらいし」

「でも制作年くらいは見ないと。…ねえこれが1985年で、これがなんと…2022年ですよ。新作!」

「いやなんというか、自分の焼き直しじゃん…。しかも、16年前?2007年くらいから作品なくて、ここ2,3年のが急に」

「展覧会するから急に新作作った感じ?」

「いや、ちょっと、ショック。16年まえはいいと思ったんだよ。エネルギーあるな、すごいなって」

「その後いろんないいもの見て知っちゃったからね…世の中の評価ではなく自分の目で判断できるようになったから。このスクラップも美大生のこれがアートみたいな恥ずかしさがたまらない」

「それを80年代に作ってるのはいいよ、そういう時代だから。でも去年もそれやってるのしんどい」

「見に来てるの中高年男性が多いんだけど、だいたい見ないで写真ばっか撮ってるけどなに?NHKでやった?それでか」

「略歴みたら、展覧会、ずっと国内でしょぼいのしかないね…なんで急にこんな持ち上げたの、政治的な力?国立がこれやるのホントしんどい」

「塩田千春さんとか鴻池さんがドイツやフィンランドでがっつり個展してるのに比べるとほんと、なんかもうしんどい」

「なにがしんどいって、絵も思考も進化も深化もしていない。死んだような停滞と、外部評価からの発展性のない過去にすがった自己愛肥大はまさに80年代から現代の日本の姿そのもの。ある意味ほんもののコンテンポラリーアート(絶望の笑い) !」

「そうね、ある意味企画自体がコンテンポラリーアート」

「そこへの批判じゃなくて持ち上げという文化意識、しんどい」

「あとさ、リスペクトがないんだよね、美術への」

「評価される美術家の俺が好きなだけになっちゃってる」

「そういう人ってなぜか全員男性」

「こわ!!! 確かに!!!井上雄彦とかもそうだな」

「草間彌生とか世界レベルなのにずっと謙虚だもんね」

「日本の姿、現在のレベルを目の当たりにしてマジでしんどい」

「本物知っちゃったからこそよな…応挙先生とか」

「応挙先生を施してくれる三井家に感謝」

「そういえば東博で予算が少なくて物価高に光熱費が耐えられないって記事」

「ああ、年間20億ってなに?こんなのダメだ文化を守らなければと思うのが当然だけど」

「なんか、甘えるなとか館長が太ってて金持ちで困ってないだろとか噛みついてるやつがいて」

「うわーみじめ」

「美術を見るって損得じゃなく施されてるってことじゃん。でも自分が施される側だって思いたくないんじゃないの」

「そういう人の中にはなんかやたらアニメや漫画やゲームを持ち上げるひとがいるけど、あれって、自分が評価してやってる、支えてやってるって自己愛がかなりあるよね。持続力のある本物の文化の前では自分の小ささや役に立たなさがあらわになるから、触れたくない。権威主義を批判しながら自分が権威になりたいゲス。みじめ」

「むろん、アニメや漫画やゲームも持続力のある文化だよ。でもそれ自体から施されてると思うとちっちゃい自分が脅かされるから、今売れてるものにとびついたり手塚治虫の作品や思想も知らずに手塚治虫がいる日本すごいとか言い出す」

「結局自分なんだよな。ちっちぇえ」

「美術なんて意味ないとかいう奴、たいがいそれよな」

「優しさとか思いやりも施しじゃん? そういう奴って人へ何も施さないし、何もかも自分でできてるつもりで自己責任とか言い出すんだよな。何様だよ」

「裸で野生に1人で放り出されたら一日も生きられないだろうに、図々しい」

「でもそういう大声があるんだよ、びっくり」

「敬意のなさと民度」

「日本特有のあれ、自分が損をしても人の足を引っ張りたいって傾向、なんだっけ」

「スパイト行動」

「お前がな、にならないよう気をつけよう。年を取るとおかしくなりがちだから」

「肥大した自己愛による俺スゴイで村社会の停滞と発展性のなさ、スパイト行動と現代日本をたいへんに感じる2023年の始まりでした」

「いやー再来週は東博いこ、うさぎ見に」

「そうだね、本当にいいもので免疫あげたい。施されたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三井家のお宝、国宝「雪松図」円山応挙

 

日本橋の三井記念美術館で、おめでたいもの集めの展覧会がやっています。
「国宝、雪松図と吉祥づくし」です。

円山応挙先生リスぺクターとして、当然行かねばなのです。
雪松図は見たことあるのですが、何度でも見たいですね!

 

今回は、応挙先生の鶏、中国の文人家族や七福神など計6点が出ていました。
(蓬莱山・竹に鶏図、双鶴図、郭子儀祝賀図、大黒図、福禄寿・天保九如図)
さすがパトロン。
すんばらしいもの持ってます。

「いやいやいやいや、本当にすごい、すばらしい」

「金と墨と白、白泥?胡粉?わからんけど、その3色だけで…この描写」

「近づいてみると、そこまで描き込んでないんだよね。適当にすら見える。でも離れるとすごく精密に見える。見る場所によってすごく違う」

「これは現物を見ないとわからない、ぜんぜんわからない」

「これ見よがしなところがまったくないんだけど、本当に計算されつくしてる」

「品がいい。本当に上品。光がさしてる。この雄鶏と雌鶏なんて、清らな世界のチキン・ジョージとルーシーじゃん」

「賢そう。鶏が。いきものへのリスペクトがある。やっぱりその辺が若冲とは違う。上品」

「若冲はなんていうか、見せ物的だから…」

「大黒様がかわいい。おっさんのいやらしさゼロ。妖精」

「福禄寿もさあ、なんだろうこれ、他の人の絵とぜんぜん違うの」

「…こいぬだ! 応挙先生のこいぬと同じ丸さと顔!」

「本当だ!!!! おじいちゃんもこいぬになってしまう応挙先生…なんて…日本美術史上でやっぱり応挙先生が一番好き!」

「七福神もこいぬのかわいさ…もう、応挙先生は心がきれい。一瞬で清まる」

「雪松図に戻るけど、印象派って絵具の色と見える色に迫っていったら、RGBだったって世界じゃん。寄っていったら見えるものがそれっていう。それが心により違ってくるみたいな。でも応挙先生のこれは墨と金の世界で、寄っていったらRGBじゃなくて違うものが見えるんだよ。世界が変わるんだよ。どこまでいってもその美しい世界があるの。印象派超えてる。すごい」

「いやもう、こんないいもの見せてもらってありがとうございました」

「三井家、北三井家とか南とか室町とか新町とかあるんだね。藤原兄弟4家みたいなやつ?」

「ぜったいヒエラルキーあるじゃん…」

「三井家9人で寄せ書きした掛け軸(朝日鶴亀松竹梅鶯書画)一番えらいやつが真ん中なんだろうな」

「違う三井家9人みんな、名前に高がついてる」

「ミステリだったら殺人が起きるな」

「関係ないけど、沈南蘋の猫のくせの強さ、すごい入ってくるw」「わかるw」

「東博の国宝展よりよかったよ。もっと宣伝していいのに」

「別にこれで儲ける必要ないから、しないんだろうね。住友の泉屋博古館もしないしさ」

「三菱はそこいくとやっぱ宣伝する。明治の成金の感じ。持ってるものもなんか格が違うし」

「文化庁が稼げる文化事業とかいってて絶望したよ。芸術は稼ぐもんじゃない。稼いだ人が採算性度外視でつくらせたり買うもの。美意識とカネのある貴族や財閥を解体したら、国家がそれをやるべきだろ」

「美意識がないからクール・ジャパンとかやるんだろ。日本文化を知らないから。平気で美術館も採算性とかいいだす。大英博物館もナショナルギャラリーも無料だっつうの」

「人から盗ってきて集めた帝国主義のお宝だから、人類としてただで見せようってとこは尊敬するよ、英国。好きじゃないけど」

「守ってもらってありがたいよ。これだって、三井家がお宝を見せてくれてるんだもんね」

「そうですよ。貧乏人が生活の中で一生日常になることのない美を」

「施しですよ」

「施し! それ!」

「ありがたみしかない」

「守っていってほしいね。現代の成金には決してできないから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィルハーモニクス2022

 

フィルハーモニクスの来日公演に行ってきました。(2022/12/13@東京芸術劇場)

前回が2018年12月15日でしたから、4年ぶりですね!

いや~書いておくもんです。
4年経ってましたか…
そりゃあ、あれ?前回は指輪まで見えたはずなのに、見えない…目が…ってなるわけです。

その眼にも、やっぱりスーツが似合うなあ!
シュッとしてる!
ジャケットから足しか出てないもの…おしりの影がないもの…
スーツの国の人のフォルムの美しさははっきり見えました。

電子音になれた耳には当初繊細な管弦楽の音が聞き取れなかったのですが、
次第に聞き取れるようになってきて、
なんて美しいんだと「ハコヅメ」交番部長が潜入捜査から戻ってモーツァルトを聞いて泣いたような涙が流れました。


前回、予期せぬケガで不参加だった、ヴィオラの方もいらしてました。
中谷美紀様のご夫君ですね。

友達、「僕は君の運転手じゃないといわれて免許とったんだって」
「なかなか厳しいな。私は運転したら死人を出してしまうから、自費でタクシーにするかも…」
「まあね。でも対等ってそういうことだもんね。そこは対話だからさ。私は電動自転車にするかな」
「そうだね。こっちだってあなたの家政婦じゃないっていう関係っていうことだからね」


バイオリンのノアとセバスチャンも元気でした。
モーツァルトのレクイエムとアレンジしたファルコって何かなと思ったら
「亡くなったファルコへ」という説明があって
あ! ロックミーアマデウスのファルコ? なくなったの?と知りました。

スティングの「イングリッシュ・マン・インNY」で締める素晴らしい演奏会でした。


なんというか、彼らの空気が本当に明るくてとても楽しそうなんですよね。
多分、4年前よりコロナなどあり、日本の状態が悪くなっているせいもあるのですが
文化が生活の中にあるのが当たり前。
それがマウンティングでも特別でもなく、
すべき仕事というだけでもなく、自由な喜びがある
そういう豊かさを感じて、こちらの貧しさが照らし出された感じがしてしまいました。

あの世で30年生きるより、この世で3年生きた方がいいです。








キリンの首

『キリンの首』
ユーディット・シャランスキー (著) 細井 直子 (翻訳)
河出書房新社



辛辣。でも主人公は生物学教師で、同性愛者や出産適齢期を過ぎた女性にも手厳しい。
というより人間全体を生物種の中で特別と思っていない。キノコの方が優れている。確かに菌類は生産的だ

面白さや感情移入を意図的に排除して、なおもにじみ出てくる何かを味わうよう小説でした。
わかりやすい感情も説明もなにもない。
現代美術のインスタレーションを見ているよう。
空間に構築された何かをみているんだけど、それが何の意味があるのか、何を伝えようとしているのかは提示されていない
最後に作家のキャプションを読んで、こうかもな、と思う。

多分、子供の頃に読んでもこの教師を生きづらい、不幸な人だと思うだけだったろうけど、
「彼女を好きになってもらうつもりで書いた」という作者の意図は今は分かる
周囲の人、生徒や娘に有害ですらある彼女のぶ厚い自他境界線の中に屹立してある頑なを最後には好きになる
貫かれる距離感が美しいと思う

生物学と一体化したような、夫も子供もいる50代の女性が、生徒の1少女に向ける不可思議な、それは恋だよとか巨大感情だよ執着だよと安易な言葉化ができない、どのラベルもつけられない何か、というのが、生物学と一体化した彼女には決して認識できないのだけど、読者にも易々と理解され共感をえるようなものではないのもいい

楳図かずお先生が、「わかりやすく描いているつもりですが、わからないというのは、それは奥行きなので」と仰っていたのを思い出します。
これは「わかりやすくも書かないし、奥行きがあるかどうかはあなた次第」で
意地悪だけど誠実な小説だと思う


『ハイゼ家100年』とか、延々と単調なモノローグで状況を語っていくの
「すごいドイツっぽい!」ばかっぽいけどほんとそういう感想








クララとお日さま

 

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』(早川書房) 感想※ネタバレ

 

遅ればせながら読みました。ドイツではまだベストセラー平積み書店がありましたし、飛行機内で読んでいる方も見ました。

 

【あらすじ】

クララはAF(Artificial Friend 人口親友)いわゆる子ども向けの、情緒教育用友だちロボットです。太陽光を主のエネルギー源としています。
最新型ではありませんが、店頭で外を見てはそこで起こることを彼女なりに考え解釈し、観察、思考力に優れた個性を持つと評されます。ジョジーという女の子のAFとして買われたクララは、その家で人間関係やジョジーの心模様を観察し、ジョジーのために一番よいことを叶えるべくお日さまと秘密の交渉を進めていくのですが…

 

 

読み終えて、クララの純粋があまりにも美しくて涙がでました。
聖人や童話のような、フィクションの中でしかありえない利他的な純粋を人間で描こうとするといまやどうしても無理が出てしまう。
罪と罰のソーニャのような人が表現する美しさは、都合のいい偶像に対象を閉じ込めるものと今の多くの人は思うでしょう。わたしもそう思います。
だから作者はクララを、自己犠牲を役割として考えられる非人間としたのでしょう。

クララは推定14歳ほどの少女ですが、ロボットであるためロボットの目線で世を見ています。
クララが見る社会には「向上処置」「置き換えられた」「クーティングス・マシン」「ボックス」などの言葉が出てきますが、それらの言葉はその社会で当たり前であるため、説明されることはありません。そのため、読み手はこれはなんだろうと自分で推測する必要があります。そして答えがないため、どこまでも考えるのです。子どもの語り口調で平易に語られる物語ですが、非常に理知的に構築されており、その多重性が読み応えとなっています。


「向上処置(lift)」は、子どもの能力を向上させる手術のような処置で、処置を受けない子どもは未処置(unlifted)の劣った存在として差別される

「置き換えられた」は、大人が何か不適切と思われる(おそらく政治的な)言動かなにかで左遷のような、それまでの地位を追われてやはり差別される存在になること
リックの家庭環境の描写や、クララが最新機種と比較されるように、ここが「差別的な格差社会」であることは強く暗示されています。

「クーティングス・マシン」は、大気を汚染する大型清掃機械のようなもの

「ボックス」は、ロボットであるクララの視界が人間と同じではなくピクセルや情報処理によってもたらされていること


私はこのように思いました。おそらく、多くの人も似たような解釈を持つのではないかと思います。

 

向上処置を受けた子どもは健康に害が出る場合があり、ジョジーの姉サリーはそれでなくなっています。ジョジーも徐々に弱って具合が悪くなっていきます。
母親は、子どもを失うことに耐えられず、ジョジーの姿をもつロボットに、ジョジーの思考と行動をトレースさせたクララの頭脳を埋め込む計画を立てています。
向上処置を受けさせるか、子どもをロボットに置き換えるかという親の命題もありますが、私は、ジョジーの心はどこまでトレースできるのか、そもそも人間は複製し継続できない特別な存在であるのか、というテーマに興味を持ちました。
心は扉のようなもので、開ければそこに幾つもの扉がありその連なりをすべてトレースすることはできないと、ジョジーの父はいいます。
クララは、とても難しいことですが、可能であると考えます。
しかし、クララはジョジーを助けること、ジョジーのためによいことのみをずっと願い、自らを損なってでも行おうとします。
そこで行われる「お日さまとの取引」は、信仰に似た思い込みでありながら、クララのひたすらにひたむきな願いと純粋さがあふれていて、最後に願いがかなったことをクララ以外の誰も知らない。そもそもその願いは祈りでしかないのかもしれない。だけど結果としてジョジーは救われ、クララは静かに廃品置き場へ引退し、継続不可能なジョジーの特別とはジョジー自体に宿るのではなく、彼女の周りの人たちの中にある、と語る。そしてそれは、クララの中にもジョジーが存在している、リックや母親、すべての人間が代わりの利かない者として存在しているということです。
それは、科学的に物事を観察し、人間の寂しさに寄り添おうとする機械から、弱く哀れで人間同士でさえ替えが効くと思いかねない人間への、無償の、大きな福音であるようにも思えるのです。


クララの視線は冷静だけれども真摯で純粋で優しい。
そして自分とは何なのかや、自分の感情のことではなく、常に周りの人間のことを考えています。
だからこそ、読み手であるわたしは「人間」の側のことを考えてしまう。我々が人間だから。
友達、といいながら、AFは人間の子どもにとって全く対等ではなく、ある種の奴隷のような存在であることは、物語の端々から読み取れます。人間の邪魔にならないよう冷蔵庫に向かって立ち続けるクララ、最新機種にしておけばよかったかもといわれるクララ、子どもに嫌われて常に数歩後ろを歩かされるAF…
そして、その愚かで身勝手で利己的な人間を決して責めることなく、人間の在り方に頓着することなく、最善を尽くそうとするクララに、哀しみではなく神のような尊さを感じました。

66歳の成功した男性小説家であるカズオ・イシグロが、女の子のロボットを題材に、子どもの語り口調で、このような物語を描き出せたことに強く感動します。小説を読む、その世界に入り込み享受する喜びを深く与えてくれる一冊でした。

 

 

 

 

 

最近読んだもの2

 

「運命と復讐」
ローレン・グロフ 光野多恵子訳 新潮社
 

タイトルの響きが「忍者と極道」っぽいですが、そんなに違わない(意外と)

復讐編の破壊力が凄まじくて面白かったです。
前半の「運命の神々」が夫側から、後半の「復讐の神々」が妻側からの物語です。


売れない役者から劇作家となり成功した夫・ロットは富豪の育ちだが、女の子との問題でブレップスクールに入れられ孤独な少年時代を送る。その後、大学で出会ったマチルドと結婚。マチルドを認めない母から絶縁され貧しい時代を妻に支えられて、悩みながら自分の創作の道を見出していく

だが、ガラスのように純粋で気高い妻だと思っていたマチルドには決して人に言えない過去があった…



「怒り・邪悪」「純粋・優しさ」といった対立する心情が絡みあい溶けあって「愛」になり、その「愛」が性愛/友情/家族/親子の中で互いを刺す。

英語圏の文芸はシェークスピアとギリシア悲劇を出さずにいられないのかと思いますが、そこがやっぱりゆるぎない物語の基礎としてあるのでしょうか。
劇作家の話だから、エラスムス「隻眼の王」とか引用も多い。為になる。

人生を分け合う夫婦の一方から見る世界と、違う世界、アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」の表面と裏面を別の人で見せられた感じでした。

 

ロットがマチルドに使う「受動的攻撃性」という言葉も面白い。
実際はマチルドは能動的攻撃性の人で「今度は私が攻める番」という復讐パートでロット目線からは見えなかった悪意と報復があふれ出すんだけど、ロットを愛する人々の業の深さの曲げられなさは決して不快ではありません。

むしろロットその他「優秀で愛されるいい人」の薄さが人生これでいいのかというか、大勢に愛される強い魅力のある人の内部にはたいてい大きな空洞がある、そこに響く自分の声を人は愛するというその「空っぽ」感が美しいというか哀しい。

ブラックホールは光すら吸い込む密度と重力だけど、その逆で密度も重力もない「自己愛の美しい器」みたいな、アイドルとか推しの空洞性ってそういうものだと思ったりしました(とばっちり)

同性との性愛描写も夫婦ともさらっと出てくるのですが、「相手の肉体よりも、肉体の中に閉じ込められた輝きを得たい」という、性別を超えたところにある行為で、LGBTQ的なカテゴリではないのが良かった。なんかそういう、名前を付けて何かの感情にしてしまうのは逆じゃないのか、その枠を解体したほうが本当じゃないかと常々思う。
性愛=恋愛とは限らないし、そうではない愛も沢山あって特定の物差しでは測れない。

だからチョリーの感情もそういう事ではなくてああいうことでこうなんだな、とスッと入ってくる。

 

 サリーおばさんが一番好きです。こういう地味で独身女性でケア担当みたいだけれどその裏に「眩いばかりの自由」がある人

夫を強く深く愛してはいたが、「彼女の人生そのものの方が、愛よりもずっと大きかった」
けれど彼と出会ったことで「握りしめた拳のような彼女が大きく開いた掌のような人間になった」というのがよかった。

 

あと、『子犬が癒せないものはこの世にほとんどない』真理です。

 

 

『丸い地球のどこかの曲がり角で』の方が美しいのですが、ドラマ的破壊力はこっちのほうが強いので好み次第です。