2023/03/09
ゴールデンカムイと家父長制①
C:A,Bが支配下、コントロール下の人間の自己決定権や責任を奪うが、保護や利益をもたらすかもしれないので擁護されているシステム
家父長制打倒!と訳されたのはpeg the patriarchyでしたよね。
尾形には自分の道理が大事で、その理屈において「死んだら父に会えるから母は救われる」で母を殺したのに、父は来なかったので、残ったのは母を殺した自分だけになってしまった。
そして、「母の為」の理屈の裏には、自分を見てくれなかった母への苦しみや悲しみや怒りや怨みといった感情があるはずなんです。
でもそれに向き合う事は出来ない。
母を救うために行った殺人は、自分より父を愛して求めている母の為だったのに、父が母を愛していなかったらその父を自分よりも求めていた母に求められなかった自分の存在があまりに虚しくて、怨みや悲しみだけが残ってしまうから。
子供がそういう心の動きをして殺人を犯してしまう事は、不自然ではないと思います。罪だけど、刑罰を受ける必要はない。子供だから。
だから尾形に必要なのはその時点でのカウンセリングや周囲の理解でした。
それがかなわないので、一人で、生きていくために道理を求めて迷走しているように見える。
勇作さんに殺人を求めるも拒否され、「人を殺して罪悪感を覚えない人間はいない」これが勇作さん殺しの切っ掛けだけれども
罪悪感を感じたら母親ごろしは罪になってしまうから受け入れられないんですね。
弟も自分と同じ人間だと思いたかったのに拒否され、今度は「自分が父に愛されていたら、父に愛されている弟と同じであり、弟も殺人をする人間と同じだと証明できる」
というめちゃくちゃな方向に行ってしまう。
そして「最後に色々話したかったから」と会った父親は母子にたいして全く愛情がなかったとわかり、父親を殺して「愛されていないから自分はこんな人間になった」
と結論づけるわけです。
元々、「父に愛されていない」から殺人を犯したわけではなく、「殺人を犯した自分なりの道理」いわば正当化ですけれども、それを求めていった結果
「父に愛されていたのならあの殺人は罪ではない」が否定され、「祝福されていない道を歩む自分」がいました。
本当は「母に愛されていない」から殺人を犯したのだけど、それに向き合えないから「父に愛される自分」の理屈を求めたのだと思いますし、
母との関係を消化できない限り本質とは違う理屈を求め続けるのではないでしょうか。
ところで、尾形の中ではもう一つ
「殺される人間には殺されるだけの理由がある」
という理屈があるんですね。
母親にも父親にも殺されるだけの理由があった。
それはもちろん「自分を愛さなかったことで傷つけた」からですが。
でも、勇作さんは明らかに肉親として自分に好意を持っていた。
その勇作さんを、身勝手な理由で殺してしまった。
勇作さん殺しに対して尾形は道理を見つけられないのです。自己否定する存在だから殺してしまった。勇作さんに罪がないことは心の底でわかっている。
だから、勇作さんの夢をみるし、罪悪感の象徴のように悪霊として顕れる。
逆に、母の夢は見る事ができないのではないかと思います。
尾形にとって最も向き合えないのは母殺しに関する感情なので、勇作さんの存在を通して向き合って受け入れられるようになるといいよね…と思ったけど結局最後まで逃げる事を選んだんですね。
と思うと、前近代的父権制の父たる花沢幸次郎は正直どうでもいい、中身のない存在で、その表面的な重々しさに比べ内実の薄さが
the家父長制の面倒なところじゃないかと思えてきます。