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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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最近読んだもの

 

ウクライナ侵略戦争から1ヶ月が経過しました。

当初懸念した通り、「善悪や被害加害の応酬がではじめ、複雑化し、人々はマスコミのニュースに飽き始めている」気がしています。
ウクライナとロシアではなくて、大きな主語じゃなくて、子どもが死んでいるんだよ…その点で全おとなが有罪なんだよ…誰が被害者か、そんなことを起こしてはいけないという話なのに。どうぶつかいぎ、読んでください。

 

「消失の惑星」ジュリア・フィリップス
(早川書房)

 

カムチャッカ半島を舞台にした、幼い姉妹の誘拐から始まる話。
作者はアメリカ人で、10代からロシアに興味を持ち、モスクワへ留学し、カムチャッカ半島で2年の取材をしてこの作品を書いたと言います。

海を見ている12歳と姉と8歳の妹のシーンから始まり、知らない男性に騙され車に乗せられて携帯電話を奪われて、妹を怯えさせないよう必死で自分を抑える姉の視点から、全く別の人々の生活と感情を描く短編が始まります。

犯人は誰か、少女たちに何が起こったか、ではなく、描かれているのは

「他者を属性化して加害する存在を成り立たせているもの」

です。

犯人への無視ともいえる言及の少なさには

「○○ならターゲットは誰でもいい」という属性加害に対する

「あなたこそ誰でもない」という強い意志を感じます。

 

他者を属性化して差別し加害する人間こそ個別性のない存在である。にもかかわらず彼らは自分を誇示したがっている。だからこそ、どういう人間かを語る必要も知る必要もない。属性で尊厳を奪われた被害者一人ひとりが尊重されるべき個であるという話の方がずっと重要、という意思。

 

ニュージーランド・アーダーン首相がテロリストについて語った言葉を思い出します。

「皆さんは、大勢の命を奪った男の名前ではなく、命を失った大勢の人たちの名前を語ってください。男はテロリストで、犯罪者で、過激派。私が言及するとき、あの男は無名のままで終わる」

 

「塩の湿地に消えゆく前に 」ケイトリン・マレン 
(早川書房)

 

消失の惑星と少し似ています。

女性嫌悪殺人がベースにあるが、犯人自体に全く注目しない。という点で。

被害者のビジョンを見る能力のある被虐待少女が主人公のひとりで、もう一人がNYのアートシーンに搾取され田舎に帰って来た女性、というシスターフッド的な部分もあり、消失の惑星よりライトなミステリではありますが、根底は似ています。

アメリカ作家の作品を久しぶりに読みましたが、こういう傾向はとてもいいことではないかと。刑事が犯人を追い、推理が主になるのではなく、被害者や被害者予備軍が「被害者」ではなく人間として描かれるというのは、良いことだと思います。

 

 

「星のせいにして」エマ・ドナヒュー
(河出書房新社)

 

約100年前、アイルランドでインフルエンザが猛威を振るう中、産科病棟で働く看護師を主人公に、妊婦や医師、周辺人物を描きます。
妊娠出産現場の壮絶さにふるえる…恥骨をのこぎりで切るとかほんと
出産は命がけであり、世界大戦を背景に「女は戦わない」といわれ、死んだ妊婦を思い「女性は命を生むためにずっと命がけで闘っている」という看護師。
友達が「出産は死闘。軽々しく二人目とか言うな」といったことを思い出します。

リン医師は実在の人物だそうですが、進撃のハンジさんをイメージして読んでいました。

 

 

「13.67」陳 浩基(早川書房)
上記に比して古く感じてしまいました。古いというか、雑というか、みたいな…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

被害と加害

 

まるで時代が100年遡ったかのような帝国主義の亡霊によるウクライナ侵略戦争を見て、ゴールデンカムイが読めなくなってしまいました。

侵略戦争とはこういうものか、を目の当たりにして

あれ? 日露戦争ってなんで中国で戦ったんだっけ?
日清戦争も含め、侵略者同士の戦いでは?

戦争や歴史についてそれなりに考えていたつもりでしたが、全然考えていませんでした。
 

韓国、ロシアの辞典サイトを言語翻訳で見ましたが、わりと日本と書いていることは同じというか、事実=朝鮮中国利権をめぐる日本とロシアの戦いという感じ。
山川歴史資料集はやはり頼りになる。
細部については当事者の視点では偏りがあるため
ハイデルベルク大学Gotelind Müller氏のChinese Perspectives on the Russo-Japanese War という論文をななめ読みしてみました。  


当時の中国では東北地方に関心が薄かった
清国の政府腐敗や無能であるという認識、アジア民族プロパガンダにより心情は反ロシアで日本寄りだった
当時は日本の私利私欲を分析する視点はなかった
皮肉なパラドックスとして戦争中は親日反ロシアであった中国革命家は、ロシアをロールモデルとするようになる
戦争は知識人だけではなく多くの中国人にアジアの将来を指し示すと思われた
1905年がなければ1915年の条約はなく1931年の最も苦い事件にはならなかったろう
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中国に勢力を伸ばす、北部の熊(ロシア)、満州と韓国を指さす日の日本は足先で既に台湾を捉え、フィリピンからアメリカ鷲、インドシナからフランスのカエル、そしてマン中にいる英国の犬

http://archiv.ub.uni-heidelberg.de/volltextserver/15406/1/china%20and%20the%20russo-japanese%20war%20english.pdf


中国は中国内部の問題がまずありファンダメンタルが大変だったのですが
歴史を学ぶは、善悪ではなく事象の羅列とその分析だと思いますし、各国に思惑があり事情があるとはいえ
現代の自分の価値観で現在と過去を見れば、戦争は等しく「起こってはならない」もので、そこに対して事象の美化コーティングは長い目で見て実害です。正しい戦争なんてない。





エンターテインメントだしね、現実とは違う、政治的に不穏当なことは触れない、面倒なことは考えない、楽しめ、そう思っていたところがありますが、
いやそれで、本当にいいのか???
と思ってしまいました。
帝国陸海軍や日露戦争を作品のストーリーに入れつつ、現場である「中国」「朝鮮」に一言も触れない。なぜ何のための戦争だったのかを器用に迂回する。
アメリカ人やロシア人、アイヌおよびロシア近辺の少数民族は出てくるが、他のアジア人は出てこない。和製ウエスタンというコピーもなんだか、ああ、そういうものが好きなアメリカ世代…と思えてしまう。
無意識の隠蔽って、けっこう罪深いんじゃないだろうか。


これ何かに似ているな、と思ったら

「アメリカ人が描くベトナム戦争」

 

なんですよね。


俺たち兵士は傷ついた

俺は傷ついた

 

ってことばっかり。

 

いやいや、人の国に強欲と親切づらで乗り込んでその土地で人殺して、なんで被害者気分なんですか。「国にやらされた」これも批判ではなく被害者意識。じぶんのことばかり。ベトナムもベトナム人も目に入ってない。アメリカ、本当にすみずみ自己中心的。


 

思い返してみるとゴールデンカムイの主な人気登場人物ってこの発想なんですよね。

自分が傷ついた、傷つけられたことばかりで、傷つける側である、あった意識がとても低い

 

尾形をはじめ、杉元、月島、鶴見はこの要素がとても強い。
そしてそこに感情移入したり好意を持つ人がとても多い。
「私は被害者」ってオタクに親和性の高い感覚だと思うんですが、人は自分の加害性には無頓着で被害性に敏感なものなんだろうか。
プーチンも自分が加害者だとは思っていなくて、むしろ被害妄想が強そうな気がします。

自分の加害を認める事は難しい。
実感としてそれはわかる。
たとえ本当だとしても言われたくない。
本来なら、加害を認める事は恥でも傷でもないのに。
で、「自責」と「他責」って根本は同じなんですよね。
いわれていることの妥当性を思考する前に傷ついたり怒ったりする。
妥当性を検討するって、やはり自分自身の知力や思考の積み重ねが必要なので難しい。
だからそこをすっ飛ばして感情的になる。
そこを克服してこそ人間が学び成長するという事だろうと思うのですが。

 

気をつけよう!!!自戒 がんばろう!! 

 いつものことだけど!!

 

 

 

 

 

 

 

プーチンのウクライナ侵略戦争

 

ロシアの、というよりプーチンの戦争、ですよね。

 

心が多少落ち着いてきました。

とはいえ日々感じ考えることがあります。

 

・映画監督のクストリッツァがロシア陸軍各術劇場の監督に任命された

https://www.lefigaro.fr/theatre/emir-kusturica-nomme-au-theatre-academique-de-l-armee-russe-a-la-veille-de-la-guerre-en-ukraine-20220225


なぜ…しか浮かばない。
そんなにもうらみが深かったのか…
セルビア、ユーゴやコソボの歴史、NATOと米国との関わりについて無知なりに、「アンダーグラウンド」「オンザミルキーロード」など、どちらの立場でもなく弱いものが損なわれる痛みの世界なのだと思っていたよ…
こちらが何を受け取ろうと、作者自身はまた違う人間。
でも作品から受け取ったものは忘れない…

 

・ケニア国連大使のスピーチ

https://youtu.be/nWoejpDBa0g

列強に国境線を引かれたアフリカ諸国は、過去ではなく未来を見る。

綺麗事の理想だとしても痛みの中から語れる美しさ、EUや米国を含むPower statesへのcondemn(非難、批判という訳では何か違うと感じてしまいます)もフェアな素晴らしいスピーチでした。

 

・ボリショイ劇場の総支配人らモスクワの芸術家がプーチン大統領に「ウクライナでの特殊作戦」停止を求める請願書を提出

https://m-festival.biz/2886

誰も死なせたくない、ウクライナでの特殊作戦をやめてほしいと訴える内容です。
しかしながら、ロシアの音楽ニュースサイトでは彼らを非国民、不快なインテリと罵る声が多くの賛同を集めています。

https://www.classicalmusicnews.ru/news/vladimir-spivakov-and-vladimir-urin-signed-an-anti-war-letter/

ヤフコメを見ているような気持になりました。
翻訳ソフトが丁寧言葉なせいか、ヤフコメよりはましに見えるけれど。

 

・ボリショイ劇場首席指揮者トゥガン・ソヒエフが辞任、フランスのトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団も辞任「音楽家としてフランスとロシアのどちらかを優先することはできない」

https://www.classicalmusicnews.ru/news/tugan-sokhiev-statement/

翻訳ソフトによると

『指揮者、俳優、歌手、ダンサー、演出家といった私の同僚たちが、「キャンセルカルチャー」によって脅かされ、軽蔑され、犠牲になっているのを見ることはできません。私たち音楽家は、これらの偉大な作曲家を演奏し、解釈することによって、人類を守り、互いを尊重し、優しくあり続けるための特別な機会を与えられているのです。私たち音楽家は、ショスタコーヴィチの音楽を使って、第二次世界大戦で人類に降りかかった惨禍を思い起こすことを求められているのです。私たち音楽家は、平和の使者なのです。私たちと私たちの音楽を使って国や人々をひとつにするのではなく、ヨーロッパで私たちを分裂させ、追放しようとしているのです』


芸術に国境はないから…人類の歴史を私たちは共有しているから、美しいものを見て喜びを感じたい、そう願う人にとってこの状況はどんなに苦しいことでしょう。

1カ月前、ボリショイ劇場に有効なワクチン証明書について問合せメールを出し、すぐ返事が返ってきました。状況を見て迷惑になってはいけないと思っていたのですが、ロシア文化を尊敬していること、私たちは国境なく人類の芸術に心を動かす存在であること、今回は無理ですがいつか訪れたいこと、神のご加護を願ってお返事を出しました。

 

・南アフリカ共和国のロシアとドイツの大使館

植民地支配からアパルトヘイトの歴史でロシアに支援された南アフリカでは、ロシア支持者も多いらしく、それに感謝し「ナチズムと戦っている」という在南アロシア大使館のtweetに同ドイツ大使館が「申し訳ありませんが黙ってはいられない。恥ずかしながらナチのことは誰よりも理解している」とリプライ

WW2後、自国の失敗と加害に向き合い自ら裁いてきたからこそ言えるし、説得力がある。
これが歴史から学ぶこと。そして現在は過去の総括であり平行にあることを突き付けられます。20220307.jpg

翻って、極東はどうですか?

 

 ・中国、台湾関係を「平和的に」発展、外国干渉に反対

https://twitter.com/ReutersJapan/status/1499938049983057920

誰も干渉すべきではないよ。縁をとうに切っているのに家族ですって言い続けるDV人間そのもの。プーチンと同じ。

 

 

 つづく

 

 

 

 

ロシアのウクライナ侵略戦争

 

2022年2月24日、ロシアがウクライナに侵攻、ドネツク・ルガンスクの独立を承認したことを背景に武力で侵略を開始しました。

 

 

ちょうど2月21日にロシア大使館にビザ申請の予約を申請したばかりでした。

この戦争について外部で起こっていることと、自分の内部の反応をメモしていきたいと思います。

後から見て、見当違いや的外れ、状況の変化に気づくかとは思います。
それらを含めて自分のために記録します。

 

 

ニュースが入ってきた当初、ショックが強くて自分でも驚きました。
アフガニスタンやシリアなどの戦争にもショックは受けていましたが、比較にならない苦しみを感じて食べられず、何を見ても泣いていました。

こんなにもメンタルをやられたのはなぜだろうかと考えると、自分にとって、宗教や内戦といった思想同士の対立というより、DVを強く想起する侵略だったからではないかと思います。
ロシアを元カノに執着するDV男に例えた話がありましたが、親子や上司部下にも共通する話です。
”おまえは俺のものだ、逆らう事は許さない、他のやつに近づくな、戻ってこい、おれたちは家族だ仲間だ”
という檻閉じ込め思考。
相手が嫌だから離れていきたいのに、身勝手な論理と力づくでいうことを聞かせようとする。
その巨大暴力構造を感じて、実家や前の会社のパワハラ上司の悪夢を見ました。
友人も「子供の頃の夢を見た、閉塞感でいっぱいの部屋の夢」といいます。
過去の息苦しさの記憶がウクライナが攻撃された苦しみに繋がったのだと思います。
(多分、そういう体験のない人にはちょっと、わからないのではないかと思うけど、我が家は経済DV、教育虐待、モラハラが酷かったので、子供の頃から勉強して自活して家を出て自由になるんだと願って生きてきました。そうやって今幸せなので、もし無理やり連れ戻されるなら刺し違えても全力で抵抗する。そういう気持ち)


例えば米国のイラク攻撃、ユーゴ問題へのNATO・国連介入については、911のトラウマで強い俺を取り戻したかった米国、や人道への執着(人道もある種の宗教である)という理由を自分の中で想像します。

対象を勝手に自分が理解できるレベルの物語(narrative)化するのは、戦争のみならず社会のあらゆる分野でしてはならないことです。

そうと理解し恥じたうえで、自分の領域で物語化してしまいます。

ロシア=プーチンの思考は大スラブなる過去の関係に執着した妄想と、暴力による押し付けであると私は思いますし、それはDVに非常に近く感じます。

 

それが内部の反応としてまず。

外部の情報について。


私は日本メディアのニュースをほとんど見ません(テレ東BIZは時々見ます)
SNSも日本語は言葉は理解できるが内容がノイズという事が多すぎるので、なるべくパッと見ではわからない英語を読むようにしています。

それでも入ってくる情報が色々あります。

 

・NATOや米国が追い詰めた、プーチンにも理がある

殺人犯や通り魔にだって社会に追い詰められてとか理由があるだろうけれど、だからいきなり暴力を振るい相手を殺して追い詰め返していいわけはないです。
完全な悪も完全な正義もない(アメリカは自分を棚に上げて、あると言い張る=そういうところが嫌われる)。 誰にでも瑕疵がある。だから情状酌量の余地があるなら逮捕されてからでしょう。
今、非戦闘員を含む無差別殺人を犯している人がいるのに、殺される相手にも悪いところがあるからといって止めないのはありえないことです。

 

 ・アフガニスタン、シリア、ミャンマー、イエメンその他紛争地域があるのになぜウクライナに騒ぐのか

個人的には先の理由からですが、世界ではどうかといえば、欧州は自分達の事と思うからかもしれないし、米国は自分の地位を誇示したいからかもしれない。人道という宗教からかもしれない。心に訴える情報量が多いからかもしれないし、白人優位主義なのかもしれない。
他の紛争地域を無視したくせに、というのは各々心に問うべきことです。
そして、だからといってロシアプーチンを非難することを批判し抑圧するのは筋違いです。今まで見て見ぬふりだったから、これからもそうするのが公平だという考えはよい未来に全くつながらないことです。火事を見て驚いている人に、あちこちで火事があることを言い募っても、意識が散漫になって結局火消し自体が無意味と思わせては何ひとつもよくならなりません。
ウイグル問題やジェンダー問題、他にも様々な問題に声が上がるとそうやって「あれは放置なのになぜこれに騒ぐのだ」という人がいますが、人間は完璧な理想を実現することはできないのです。異常なほどの公平性を求めてネガティブキャンペーンを行うことは、公平とは逆の現実を強化する行為であり、すべきではありません。

 

 

・強さ

米国ではバイデンを弱いと非難し、トランプを支持する大きな声もありました。
この状況に対して「俺の強さ」を第一義に置く超大国、だから偉大さ(あったとして)を失ったと気づいていないのかと思います。

 

 

・暴力に暴力でやり返すこと

個人的には互いに傷と怨みが残る殺し合いのために支援したくはないです。兵士を英雄扱いするのも危険だと思います。でも自国を攻撃され奪われかけているウクライナの国民の判断ですから、安全な外野からは到底批判できないことです。
占領虐殺は絶対起きて欲しくない。でもエスカレーションがTHE BEE(筒井康隆『毟り合い』)のようになってはほしくない。どちらも傷つき、自らの体を切り捨てながら相手に「勝つこと」が目的となって、次第に現場の切実さに周囲がついていけず飽きて、違う話題で覆い隠される、そうなってほしくない、と思います。
そして「戦争を起こさない」「一部の誇大妄想的な人間に巨大な権力を持たせてはいけない」「そういう国に対して最大限の予防措置を行う」
中国が台湾に行うことを防ぐなら、まず、今、プーチンが成功体験の前例を作らないため全力を注ぐことだと思います。


 

 ・トランプ、メルケル

トランプ元大統領、メルケル元首相に対して、「トランプならこうならなかった」「この事態を招いたのはメルケルだ」という声が起きています。
立ち位置は違えども、二人ともプーチンにとって「心が近い」相手であったのではないか、トランプは本質が、メルケルは戦略的に、同じレベルの人間としてプーチンの自尊心や安心感を満たしていたのではないでしょうか。



・日本

核や憲法うんぬん以前に、日本が日清戦争依頼行ってきたのは侵略戦争だったのだ、こういうことなのだ、ハッとして、それを直視していなかった自分に怯えながら軽蔑を覚えています。
日本と欧州列強が戦争した場所がなぜ他国だったのか、ということです。
アジア解放のため、というのは強盗が部屋を片付けてやったというような物言いに感じられますね。個人でもそうですが相手の領域に入り込んで「お前のために○○してやった」という人は信用できないし、ハラスメント・DV思考であると思います。

 

 

つづく

 

 

 

Why do we only rest in peace?

Why don't we live in peace too?

#RingoStarr

 

 

 

 

 

 

楳図かずお大美術展

 

行ってきました!

(内覧会抽選は外れました)

 

素晴らしかったです! 究極控えめにいっても最高です。
すごかった…
鴻池朋子さんの14歳インスパイア作品の凄みを背景に、14歳完全版ラストを見て泣きました。

「気持ちがきよらになったなら、神の空から降りたまう」

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ゴキンチ!!

 

我々は自分たちの事を「むし」と称しているのですが、(むし、おなかいたい丸くなる、とか)よその人から

「自分の事を虫だなんて、そんなふうに言っちゃダメだよ」

などといわれることがあるのですが、いや、これは諧謔とか韜晦というもので、おのれの虫性に気づかない人間よりはマシなつもりで言っているのだけど…虫と人間なんて神目線では同じレイヤーだし、などというわけにもいかないので曖昧に笑っておりますが、そんな我々の虫心に響く最終章「ムシ」

楳図先生はわかってくださっている!!!

でも心が濁りすぎて、全然ゴキンチのようなきよらな瞳になれません。
きよらに…いつかきよらに…

 

「人間を特別扱いしないよね、楳図先生は」

「日本国総理大臣も宇宙人に下半身剥かれてレイプされそうになるからね。女子高生も中年男性も同じレイヤー」

「大人を信用しないね」

「世代交代しても成長せずに死んで、醜い本性が明らかになるだけだから」

「マリン、ボクハイマモキミヲアイシテイマス」

「泣いちゃう! 愛だけ!」

「画太郎先生の個展でゴッホより上手いじゃんと思ったけど、楳図先生はキリコより上手くてムンクより不穏」

「そしてダリよりシュール」

「それだ」

 

東京近郊で行ける方はぜひ!!! この凄みを生でご覧いただければと思います。
『14歳』と『わたしは真悟』を読んでいかれる事をおすすめします。
その後、新美術館のメトロポリタン美術館展(これについては後ほど)にも行ったけど、こちらの方がずっと残りました。

 

 

さて、ちょっと長くなりますが、楳図先生のインタビューで少し考えたこと

 

楳図先生は『14歳』以降、作品をお描きになっておらず、腱鞘炎のためだということだったのですが、


「ずっと漫画書いていても評価も何もなく、褒められることって全然なくて、『もう怖い漫画はないと思う』とか言われたこともありました。それだったら残っていても悪いし、面白くも何もないので、それでやめちゃったんです。」

2018年、「漫画界のカンヌ」とも呼ばれる「アングレーム国際漫画祭」で、楳図さんの代表作「わたしは真悟」が、「永久に残すべき作品」として「遺産賞」を受賞したのだ。

「それでやる気になって。やっぱり、褒める! お金をあげる! 文化はこれが必要です」

 



楳図かずおさん 27年ぶりの新作で描いた“人類の未来とは”(NHKサイカル) 
https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/01/story/story_220131/

 

 

アングレーム国際漫画賞って知らなかったのですが、Wikipediaによると

ヨーロッパ最大級のバンド・デシネのイベントである。1974年よりフランスアングレーム市が開催している。フランスで最も古い漫画関連のイベントであり、「漫画界におけるカンヌ」とも言われている

 

フランス語圏で出版された漫画(バンドデシネ)を対象とした賞なのですが、国際賞なので翻訳された水木しげる先生をはじめとする日本人作家も多数受賞しているんですね。

受賞者を見ると、2004年に浦沢直樹『20世紀少年』と中沢啓治『はだしのゲン』が各々受賞しており、近年の作品やセールス如何に限らず、文化寄与貢献を讃える賞であると思われます。

 

意味のある絵という象形文字の連なりであるマンガと一枚絵として成立するバンドデシネやアメコミは厳密に言うと違うと私は思うけど、長くなるから省略して、問題は

 

漫画は作品数やクオリティ、社会への影響からいって圧倒的に日本文化であるはずなのに、なぜ漫画を国際的に人類の芸術文化として讃える賞が日本ではなくフランスにあるのか、

ということです。

なんで日本の漫画家がフランスで漫画賞を受けて「誉れ」みたいになるの?

これけっこう、大問題だと思うのですが。

 

なぜ?


1974年って もう既に手塚先生の火の鳥(1954年から連載)が終盤に入り、『おにいさまへ…』『トーマの心臓』、『がきデカ』『キテレツ大百科』が始まった年です。
マンガは子供向けのもの、とずっと思われてきたようだけど、今より文芸的な作品が沢山あり、これを文化として評価する力が、日本社会、日本人になかった、ということになる。


で、漫画=バンドデシネがフランスでどう扱われているのか知らないけど、1950年代から日本の漫画が量も質も抜きん出ているのは間違いないだろうと思います。ならば日本が漫画を芸術として評価し世界に発信するのは当然です。
 
なのになぜ、世界レベルで権威を持つ芸術賞としての国際漫画賞が日本にないのだろう?

ルーブルで、大英博物館で日本の漫画が展示された!すごーいデスネ!
自国が誇るものなら、他国の評価がなぜ国内より上にくるのだろうか。

(2007年から日本国際漫画賞というものがあるのですが、日本国籍以外の漫画家を対象にしており「海外でマンガ普及に貢献する作家を顕彰する」なにさま?なんか無礼。何のためかわからん。発信力もないし。麻生元総理の発案だそうだけど、ただの自己満足と感じてしまう)

なぜ? を考えたのですが結局

 

審美眼がないから…?
本当にいいものがわからないから…売れてるとか流行ってるとかエモみたいなその場限りの評価軸しか社会が持っていないから

漫画って日本文化なのに、人類目線で評価できる素養がない。

つまりそういうことになるんでは。
その人類が「西洋社会」になっちゃってるのは別の問題もありますが
西洋社会文化が判断基準になるのは、彼らが自分たちの文化を系統だてて権威にする能力があるからです。文脈をつくり浸透させる力がある。

 

二回言うけどこれ、大問題だと思うのですが。

 

つまり、どれだけ消費規模が大きくなっても、正しく評価して歴史として残す目がないため、日本の漫画は芸術文化史の中でコマーシャル消費されるだけの存在であるということになります。

思想がない。

経済=カネとそれに繋がる流行=流動的大衆目線以外に評価軸を持たないから。
大衆目線は別にいいんです。それはそれで当然に主流である。ただ商業的に寄りすぎないよう、知の評価軸もあるべき。
なぜそういうものが育たないかというと、個がない、教育がない、人類目線がないからではないでしょうか。
個がないと自分の感情ばかりで思考や論理、客観性というものが持ちにくい。
みんなが言ってるから、やってるから、に押し寄せる。
そしてノンコマーシャルな評価軸を構築できないし、思考を省略もしくは外注してしまう。

 

楳図先生が言うように、

「法律とお金というモノサシ以上に、美意識というモノサシを持つべきだった!」

 「美意識のないお金は悪だ!」

です。表面的であってもそのような社会通念が人間には必要なのです。

 

国自体が「売れてるらしい、話題らしい、使える」ってなったら寄ってくる=クールジャパンや萌えキャラみたいなお門違いのダサい政策しか打てない。
文化的評価軸がないから。そうとしか思えません。

 

文化を「守りたい、次の世代へ伝えたい」という気持ちが薄い。今だけ。自分だけ。文化だけじゃなく何に関してもそうじゃないのかな。だからすぐ忘れるし学ばない。
今あるものを消費して、次、次、でなければオタク的執着での解釈、そういうところから出られなくて、より広い、高い場所を見ようとする意志がないからそういう価値観になってしまう。

いや、そういうの、人それぞれですから。自由だから。

みたいな言い方、好きじゃないですね。他人事だし、自分はどうなのかを卑怯に隠して他者に無関心な言い方だと思う。人それぞれ、もちろんそう、当ったり前です。
だからこそ「私は私、あなたはあなた、で、そこから? 私たちという社会は?」じゃないのか。

それぞれだからこそ個同士の敬意と対話と、それを繋いで価値を創り未来に残していくことが必要だし利益なのに、「それぞれ」の狭い箱でエコーチェンバ―(友人曰くばかのこだま)の中にいて、こんなにも世界も歴史も広く前にも後ろにも続いているのに、一人ひとり、私は私の「私」って個も結局確立しないままだから、

「自国の文化を世界に発信するための評価軸を持ち、国際賞を運営する思想」も持てないのでは。

 


外国で評価されたからすごい、っての、もう、別にいいけど、自国文化の自国評価軸が世界に権威を持つことができない、これ本当に大問題だし、志ある作家のやる気をなくさせる環境じゃないですか。

 

といっても、今に始まったことではなく、知の確立のため頑張っている人もたくさんいるけど、戦前からずっとこうなのでどうにもならないんだろうと思うし、私も話が通じる人と「だよね」のエコーチェンバーの中にいます。

というね…

明治以降の美術文化史からもう、ダメなんだよ…

 

 

 

楳図先生がやる気になってくれてよかった! フランスありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の眉毛兄弟

 

眉毛弟、いい彼女と仕事で成功して精神が安定したのかな、

最近静かだな、と思っていたら久々に来ました。「お兄ちゃん大好き」

あとVRで転んで「もう無理」って、わかる。大変でしたね。

 

リアム・ギャラガー、オアシスは「解散するべきではなかった」と語る

https://nme-jp.com/news/112442/

 

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(この写真ちょいちょい使われてるけどいつの写真なのかな?若い)

 

 

「でも、そう俺はあいつのことが大好きなんだ」と彼は続けている。「約13年前に解散したわけだけどさ。バカバカしいよね。誰のせいだとかは言えるわけだけど、あいつのせいに違いないわけでさ。母親のためにも連絡を取りたければ取れるわけなのに、彼はそうしたくないみたいだね。仲直りのきっかけはまだまだあるんだよ」

 

あの骨の味を忘れられない犬…

「雪の女王の氷の破片がお兄ちゃんの目に入ったと思ってる。かわいい」

ウォッチャーの優しい視点! なにそれかわいそう…!カイ少年!泣ける!

 

でもノエルはカイ少年じゃなくて本質がダサい呪いだもんね…辛いな。
ぺギーママのために大人になって、ノエルさん…
弟ちょっと大人になってるよ。

 

ブリットにレノンとモリーが来てくれてよかったね!

モリーはロンドン大学の美術学位を持ってることがわかり、眉毛一族の呪いから解かれた…教育は大事!おねえちゃんありがとう、と拝みたい気持ちです。

 

 

 

 

 

 

 

ハコヅメ黒田カナを考えていたらお米理論になった

 

ノイズを減らすためなるべく日本語に触れず生活しようと思ったら、いきおい日本語も不自由になり始めたのでヤバいです。

別に英語圏に行きたいわけでも好きなわけでもないけど、日本語はわかりすぎて解像度が高くて余計なものを取り込みすぎてしまうんで、自分の心が黒ずみやすくなるため、とりあえず英語くらいしか分からないので、欧米の美術館サイトとYouTubeをずっと見ています。
いや、こんなに簡単にアクセスして学べるなんてインターネットすごいね! 芸術において英米をちょっと舐めていたのですが、V&Aやナショナルギャラリー、METの作品解説や収集品すごいです。世界中の名品を人類として守って研究して見せて観る、強靭な富と知の上澄みを感じました。

 

さて、日本語で考えた事を文章にしないと言葉を失うのか、その方がいいのかちょっとわかんないですが、ハコヅメ黒田カナの事を考えていたらお米理論になったので書いておきます。

 

 

『ハコヅメ~交番女子の逆襲~』はモーニングに連載の泰三子氏の漫画です。
作者が元警察官とのことで、地方警察の日常がリアルにユーモラスに描かれています。
主人公は天然系の交通課勤務女子、そのペア長という指導官の女性警官との百合っぽくもある関係、彼女たちと同期の警官たちとの関係性が軸になっているのですが、そこで異質な存在感を放っているのが黒田カナです。

『怒メスティックな彼女』回で好きだなあこの人と思っていたのに、スピンオフ作品で主役を張ったと思ったら作品からフェイドアウト。
裏切り者「ユダ」扱いで最後の晩餐に描かれたりしています。黒田カナ自体はむしろ被害者なのですが…なぜ?

黒田カナは、なぜ途中退場しなければならなかったのか?

 

「ハコヅメ」に頻出するのが「同期、仲間、絆」という言葉です。
これらの言葉はうっかり使うと今や薄汚くなる代表ワードでもあると思いますが、というか、身近な人や社会で関わる人と支え合うなんて当然のことで、わざわざいう必要はないのでは? わざわざ言うのは何か目的があるからでは? 家族とか同期とか範囲区切るって、それ以外の優先順位を下げるってことで、切り捨てと差別の温床では? むしろ檻では? などといったちょっと考えればわいてくるうさんくささに対して、

わかってますよ? そんなこと。やだなあ

というスタンスを取ることでいったん回避して、そのうえで絆・仲間をオファーしてくるのは『銀魂』でメジャーになった手法だと思いますが、ハコヅメもまさにこれです。

 

『仲間や絆なんてのは、しんどい状況から逃がさないための鎖なんだ』

 

と、おりおりにキャラクターに言わせたりしています。
しかし、このわかったうえで「でも絆」をセレクトする逃げ場のなさ。
より深い構造的な闇を孕んでいるのですが、「それもわかっている」という納得&仕方ない&でも仕方ないの織り込み済みの感じ。恐ろしいです。
こうやって現実を捻じ曲げて負ける戦争に死にに行く兵士や送り出す人がいたんだろうね、と思うのですが。

で、黒田カナは、どうしてもどこかでそこに馴染めない。
本人は別に周囲と仲もいいし好かれているし、仕事熱心でやる気も才能もあって評価されてて、この「気の合わない人たちもいるけど、それも含めて警察という組織の一員」という場に馴染んでいるように見えるけど、根本が違うんですよね。

何が違うのか

というところでお米理論です。

 

黒田カナは生米です。
玄米から9分削りまで、いろんな生米があるけど、とにかく生米。自他境界がはっきりした「個」です。

彼女の周囲の人は炊飯です。炊かれたコメです。
個性があってハッキリものをいうけど、個ではない。
これ、誤解されていると思うんですが、キャラが立っているとか自己主張が強いとか個性的に見えることと「個がある」ことは全然違う。まったくちがいます。
キャラは表層であって独自の思考や性質とは特に関係がありません。自己主張はおおむねたんなる大声やパフォーマンス。個性なんて自然とあるのが当たり前なので、出そう、見せようとするのはむしろ無個性です。炊かれたコメの中でゴマをつけようとするようなものです。

 

日本の(ほかの国はしらないけど)社会や集団、組織の中では早期に無自覚のまま炊飯されます。多分小学校にあがるまえにほとんど下ごしらえされて水につかって炊かれるの待ち。

そして選別されて同じように精米されてマニュアル通りに炊かれます。
同じようなブランドの同じように削られたコメがおいしく炊かれて、境界線は緩くなり周りのコメとくっつきやすくなります。

そして煮込まれすぎるとお粥になります。
組織(会社に限らず、あらゆる形態のシステム)に所属しすぎて高齢になり自分自身と周囲の区別がつかなくなった状態の人が「お粥人間」です。
炊飯人間は一粒で放り出されるともろく、力も可能性も乾いて壊れていきます。
お粥人間は集団から出ると不定形のままかたまり、何とも混ざれず無力になります。

悪いとかいいを言っているわけではないです。炊飯はおいしいよね、Wow皆の力すごーーい!

って思うし、それはそれですごく力がある仕上がりという一面はあると思う。
ただその中で生米は「うわ、かたっ!嚙めないじゃん!」という異物なのです。不要なのです。仕上がりのいい炊飯の中にあってはならないのです。なぜなら自他境界がはっきりしているからです。
自他境界がはっきりしているとくっつかない。くっつかれて、「なんかやだ、違う」と思う。わたしみんなのこと思ってるよ。でも根本が違う。そういうかたちの一体にはなれない。

生米はなんにでもなれる可能性がある。お米文化でも、パラパラのお米ってありますよね。チャーハンとかピラフとかタイ米とか、ああいうのは一体のようでいて決して一体ではない。具材と混ざってもくっつかないし対等な個がある感じしますね。丼とか、乗せる感じの関係性も興味深いけど、精神湿度の高さが炊飯的な存在を生む気がします。


黒田カナ、人気があったと思います。
だからこそスピンアウトで主役を張って追い出さざるを得なかった。
おそらくこれからの話において、黒田カナの異物は物語の薄い危ういところを暴いてしまうから。

そして黒田カナが、どこかの外国で起業して一人で生きてて、

『箱庭みたいな小さなところで強制労働してた。でも今でもあの場所で踏ん張り続けてくれている仲間を思わない日はないよ』

と述懐して終わるアンボックスが、「いい話」だけど「いい話で異物を片付けた」に見えて、やりきれなくなります。


源・藤組が、読者のほとんどが好きな「正しくて強くて弱い正しい人」で、この大豊作の期+鬼瓦教官ラインがあるけど、横井教官と黒田ラインが好きな人も沢山いると思う。

そして作者はこのアンビバレンツも黒田カナを追い出す残酷もわかってて、横井教官に叫ばせたんだと思う。でもその、泣ける心根の表し方自体が、いろんな意味でやりきれない。
山田や殺された女の子や黒田カナの死にたい気持ちや、選択や、理解や、なにもかもが、どっかしら収まるそういう湿った情緒で蓋をされるものがあって、そうやって蓋をして煮込んでその世の中で確実に存在する生米に対する「自分から出ていった」、なんだこれ、どうしてくれるんだよと思う。

黒田カナみたいに外国に行くしかないっていってるようなもんだな、と思う。
その異物の排除で残った「踏ん張り続けてくれる仲間が守る社会」ってなんだよ、その世界観、地獄か。と思います。


 

友人「コメね、でんぷんって熱を加えるとα化して組成が崩れて結合しやすくなるの、で、温度が下がるとβ化して劣化して、…強く固まるんだよ」

 

「絆じゃん!!!!」

 

 

こわ!!

 

 

 

 

楳図かずお先生!グワシ!

 umezu.jpg

まことちゃんは読んでいないんですけど

 

もう12月も23日! 早いですね~~~

ドイツ大使館のtweetで

を見て、日本のお正月か~と思いました。そりゃあ憂鬱にもなりますよね。
去年は焚火を焚いていた眉毛弟も、

「息子が来た(here comes son)」とつぶやいており、ジーンが孫を連れてきたのかとウォッチャーが色めき立っています。誰もレノンと思わないのがまた。

 

さて、この1カ月ほど、楳図かずお先生の漫画を読んでいました。
たまたま「14歳、傑作といわれてるけど読んだことないな~」と思い、そこから『わたしは真悟』『洗礼』『おろち』『漂流教室』を読んでいたところ、2022年1月に森アーツで『楳図かずお大美術展』が開催されると知り、シンクロニシティに震えたものです。

 

漂流教室は読んだことがあったのですが、関谷怖いしか残らなくて…

怖いですけどね、関谷。でも大事なのはそこじゃなかった。

本当に「読む、見る」には適した年齢があります。過去の名作、傑作といわれる作品は子供の時に見てもわからないし面白くない。経験を重ねてからこそ読むべきです。

 

で、楳図かずお先生のすごさ!

もうすごいの!

こんなのはじめて!

ってくらいすごい。そして清らかでまじめ。絵がものすごく上手い。

漫画太郎先生や徳弘正也先生や楳図かずお先生の作品を

「絵が汚くて下品でなんか生理的にむり、気持ち悪い」

と思っていたのに、読み返したら「清らか、まじめ、フェアでピュア、絵が上手い」になったとき、私は大人になったのだな…と思いました。

子どもって肉の味とかわからないでしょう。本当に美味しいものとか。
癖が強いな、って感じる。実際に周りの子どもがそうだから「子供だからね」と思う。
いつかわかってください。そして感動してください。

死ぬまでずっと、分からなかった事を知り人類の遺してきた遺産に触れていける。楽しみです。

 

14歳は楳図作品すべてのエッセンスがつまっているぶん、「あの作品にもあった」モチーフが多く存在します。

・のばらと「洗礼」さくら、老人の脳を移植された恐怖の幼女
・死ぬと本性が現れる「神の左手悪魔の右手」
・人類は世代交代しても成長しない「漂流教室」
・虫や動物や無機物が人間と同列にある「わたしは真悟」
・親の強烈な愛「漂流教室」

まだまだあると思いますが

宇宙人襲来や、宇宙は死にかけたアオムシだった…というミクロマクロの転換は「三体」を思い起こさせますし(むろん昔からあるSFモチーフですが、そこに至る筋書きを含めたディストピアが)、人が成長するとは何かを考えさせられます。

そして

 

老人の脳を移植された幼女が計画的に性行為を行ったらそれは性加害・性被害の犯罪になるのか?

 

ってこと。

 

さくらやのばらは脳が老女や老爺なんです。邪悪な。
それが裸になり、意図して成人男性の風呂に入って性器を弄ったり、幼女に股を舐めさせたりしているわけです。
でも、見ている側は

「これは見た目は美しい幼女だけど中身が邪悪で醜い狂った老人だから気持ちが悪い」

と思って見ているのです。だから物語としては性加害なのですが、絵面としては児童性被害なのです。かなり強烈に女児の裸体が性的に描かれています。
でも少なくとも私は児童ポルノとは感じませんでした。
これが、「知能の高い幼女の能動的な行為」だとか「強かな美女の脳を持つ幼女の自発的性欲」だと「都合のいい妄想うたってんじゃねーよ」な不快感を覚えるのだろうけど、脳が老人殺人者設定なのでペド被害には見えないのです。

しかしこれが

「老人の脳が移植されていると思っている幼女」

だと話は変わってきます。
これは「病気」として扱われます。
つまり、本人の自認の問題ではなく、周囲の認識の問題であるわけです。つまり、見る側である私の問題、社会の問題です。作品内でもそう言っていて、重要なのはここ。
フィクションとしては「描かれ方の問題」です。

 

そうするとですね、

「肉体性と精神性の自認が異なる場合、それは病気なのか本質なのか」

って話になるじゃないですか。

「自分が幼女だと思って周囲の人々との間に齟齬を感じる高齢男性」はおそらく認知症や統合失調症の男性という扱いで、トランス女性ではないですよね。

私はトランスフォビアでもないしトランスジェンダーの存在について「いて当然」と思っているのですが、こういう事を考えだすと性別に関してだけこころとからだの自認が違うというカテゴライズを容認するのはちょっと理論的な非多様性を免れないのでは?と思っている事に気づきます。

心と体の自認が違うのは「国籍に紐づく肉体的人種はフランス人だが心は日本人」とか「肉体は50代だがこころは中2」と何が違うんでしょうか。
「からだは60代の女性だがこころは20代の男性」だってありだし、「20代の男性として扱って欲しい」という権利を主張してもおかしくないのでは?

 

だからトランスはおかしい、という話ではなく逆にすべてカテゴライズせず「存在」として扱えばいいのでは。そう思います。机上の空論的に。感覚的に。
一人の人間の中に年齢性別様々な人間がいて、その傾向がある方向に強化されたり打ち消し合ってゼロになったりは当たりまえなので、何も新しいカテゴリーや名前を付けて区別する必要はないのでは。
「肉体は80代の男性だが性自認は15歳の少女」という人は、そう思っていればいいし、そうふるまえばいいし、でも女風呂とか女子化粧室とか身体測定とか肉体性を含む公の場で肉体性が少女の人たちと同じには扱えないよ、社会的な権利は簡単には与えられないよってことでいいんじゃないですか。

性別その他の社会でのあり方を決めているのは本来性ではなく社会性で、(年齢立場にふさわしい行動、女性らしい男性らしい外観など)、そこに関係なく自分の好きな外観ふるまいをすることを社会が容認できればカテゴライズはなくなります。だが社会は約束事で成り立っているのでカテゴライズはなくならず、誰もが本来性とは関係ない枠をある程度我慢せねばならない。その枠と我慢の不均等をできるだけなくしていくのが、近代であり民主主義、殺しあわない為の共同生活のすり合わせ。理屈ではそうなるかと思います。

 

と思ったりしますが、実際は思考の遊びなのでどうでもいいというか、人類はそんな、理屈の理想に決して到達しないし、ましてや市民でなく村民の間では性別差別や同性婚や夫婦別姓すらまだまだまだまだまだなのに私は社会でトランスの事を考えるレベルにない、何を言う気もないですし言えるとも思いません。
ただし遊びであっても思考は次のステップに繋がりますので、必要だと感じています。

いい作品は今まで思い至らなかった様々なことを考えさせてくれます。

動植物、昆虫、無機物、人間、あらゆるものを同列に「存在」として扱う楳図先生の目線は究極に平等で、だからこそ激しく残酷でグロテスクで美しく尊い。

平等や自由は優しい世界ではない。こういうこと。

楳図先生ありがとうございます。

内覧会抽選券、当たるといいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私のオタ活

 

以前も書いたと思うのですが、
私は妄想も同性異性関係なくCP二次創作もするオタクなんですが、同じものが好きな人とキャラ語りしたり好きを共有して盛り上がったりにはあまり興味がありません。

(追記  本当に好きなものの事はそもそもあまり人に話したくないのだった。偏屈なのです)

同じキャラクターやCPが好きでも、好きの対象より、その人がなぜそこにどんな風に思い入れているのか、どんな欲望や希望や欠落を投影しているのか、その好きの感情が沸いて出る根源に興味が向いてしまって、私が知りたいのはそのキャラの魅力じゃなくてそこに魅力を感じるアナタの心理なんだよーと思ってしまって
なんで、って、興味深いから。そして自分がそういう事を考えるしそういう人が好きだから。
二次創作だと作品の形に消化されていて、そこから何となく見えるんだけど。閲覧オンリーの人も含めて自分ではどう思うのか聞きたいけど聞けません。相手に失礼だから。
なにが失礼ってまあ、かなり自己愛とか人生観って心理領域に踏み込むからだよね。

 

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(関係ない画像。ベンジャミンの鉢にキノコ生えててびっくりした)

 


じゃあお前が先に語れよという話なんですが、まあ当然自分の中にも見たくないものから目を逸らすというゴマカシがあります。

それを踏まえてとりあえず言ってみますと、私は自己愛が捩れて強いので基本的に自分に似ているキャラが好きです。たぶん、基本は。
多くの捩れがあるけど気づかないで変に繊細で無神経な、利口でバカで面倒くさい人。真ん中じゃない、脇役タイプ。
気づきたくないから気づかないんだけど、なぜ気づきたくないかと言えばプライドが高くて弱いからですね。でも変に考えるほうだからどっかでわかってて苦しむ。そこに自分にはない優しさや純粋や前向きや努力がある。そういう人が好きです。

はい!
もうここで対象キャラがいる場合「勘違いしてんじゃねーよ」感がすごいです。
でもそれが「解釈」だから。

ニーチェも言っています

事実なるものはない、存在するのは解釈だけである。

ーー『権力への意思』



恋愛でもそうでなくても、そういうタイプを苦しめたり自己欺瞞や自己憐憫を突き詰めたり予感を与えたり救ったりしたいセルフSM願望がある。
なにが幸せかは自分で考え判断して真っ当に生きて人と人間関係を構築することだと思うから、恋愛が絡むとしたらそこがメインになる。
それを非現実のキャラに代理させる理由はそりゃあ自分の現実がなかなかそうはいかないからですよね。

恋愛に性的妄想が入ってくるとしたら性的欲求不満だからです。または迎合。それ以外にない。あるかもしれないけど私にはわからないから教えて貰いたい。推しを幸せにしたい、ってのも他人の幸せが何かなんて本当にはわからないのだから、自分ニーズですよ。結婚や妊娠が推しの幸せと思うなら自分がそうしたいか、世間が、それを幸せだと言っているからです。

で、CPの場合BLでも百合でも夢でも、基本は自分×自分だと思う(二次創作やラノベ等いわゆるライトな創作においては。ライトな創作に面倒臭いこと言うなではなく、なぜライトな創作の需要があるのかの話)。
理想的な自分と欠落した自分の組み合わせが(理想×理想や欠落×欠落、混合等パターンは多数)相互補完して救われる、癒される妄想でしょう。
受け側がかわいそうで救われたいならかわいそうで救われたい自分がいるからだし、うかつでかわいくて天然愛されならそうありたい自分がいるからだよ。
スパダリに執着されたいなら顔も頭も社会的地位もある人間になりたくて、その相手に執着されることで相手の価値を自分に移管したいからだよ。関係性を考えたいのなら自分が何らかの関係性に欠けているから。不幸な私、優しい世界、誤解、依存、自己陶酔、そういう欲望があると思う。

私はBLならかわいい系年下攻めが好きなんですが、理由は一般的な上下関係(年齢、立場、外見や肉体性など)が性的上下関係に持ち込まれるのが嫌だから。
そして兄弟ものが好きなんですが、自分の兄弟が好きだからではなく、最初が他人のところから努力して濃厚な関係性を構築するのが面倒くさいからです。
幼馴染が好きな人とかも多分これ。

友達の主人公総攻め推し(総攻め仲間)は
「真ん中にいるのはプレッシャーだし、さらに私の推しには全員攻めていけるだけのポテンシャルがあるところをみせたいから」
と言っていたけど、めちゃくちゃわかりました。
そういうポテンシャルのある自分を愛したいタイプの人だから。そして私にもそういうところがあるから。
箱庭療法だよね。
架空存在の搾取ともいえる。
そこに自分が心打たれるところがあるとしたら、箱庭療法の中で自覚しながらそれ以上のところを見ようとしているからだと思う。自分とは違う、思い通りにならない他者と相対して自己愛から出て苦しむことも含め関係性を構築しようとするような事。

じゃあ普通の恋愛小説とか、エロ漫画読めば?っていうと、知ってる設定とキャラだから手軽なんでゼロから関係性を知りたいほど恋愛自体には興味ないというか

 


まあ本当に自分としては色々申し訳なく、だから好きだけどそれを言い訳にして何でもやっていいとは思えないし

オタクがキャラクターを代理にした個人的な欲望や欠落の搾取を表現だの自由だの祈りだの尊いだのいうのって表現にも自由にもちょっと失礼だと思いますね。エゴであり慰めですよ、それは。欲望補完自体は全然悪いことではないよ。互いにそれで癒されて、セルフケアになるならとてもいい事だよ。無自覚にあたり構わず撒き散らす形の自己愛と承認欲求は健康でないしいいとは思わないけど。

 

話はずれますが

愛情というのは、当たり前に自己愛を多く含むものです。

例えば愛国心や家族愛に「愛」があるのは自分に紐づけられているからです。
自分と関係ない国や家族には感じないんだから、自分に関係あるから愛せるんです。
それを自分の中で持っているぶんには構わないけど、人に押し付けてくるようになったら「自己愛がすごく強いのに人から愛されていない人なんだな」としか思えない。

愛国心や家族愛を他者への攻撃理由に使う人って、好きなもの(例えば萌え絵や推しジャンル)が批判されて異様に怒ったり逆CPや解釈違い攻撃するオタクと心性はかなり近いと思う。
日本人には宗教観があまりないけど、宗教を自己利用するタイプもそうだと思う。つまり、自己愛がすごく強いのに満たされてなくてそういう自分を何かと同一視する事で支えにしていてそれが思い通りにならなかったり否定されると自己愛が傷つくけど向き合えないから他人を攻撃する人。


何かに愛情を感じている自分、或いは他者、というのはそういう愛を隠れみのにした欺瞞や暴力性をもっている可能性がある、というのは薄々認識しておいた方がいいんではないかと思います。だから、私はなぜ何をどう愛するのか、この人はどうなのかと考える事は結構危機管理になるんじゃないかな。それが私があなたの好きの心理を知りたい理由の一つかも。

そして愛より敬意の方が社会では安全で必要だと思う。



あふれだしたんだ

「愛という憎悪」

 

歌っとけ!

 

 

 

 

 

THE BEEと毟りあいと筒井康隆(1)

 

THE BEE

・原作 筒井康隆「毟りあい」
・英語脚本:野田秀樹&コリン・ティーバン
・日本語脚本・演出:野田秀樹
・出演:阿部サダヲ、長澤まさみ、河内大和、川平慈英

 IMG20211110183506.jpg

2021年11月10日、24日に池袋の東京芸術劇場で観劇。

 

前情報何もなしで一回目に見て、インタビューや原作や英語版の内容を知って二回目を見るつもりです。

 

<ストーリ>
平凡なサラリーマンの井戸(いど)がある日帰宅すると、自宅が警察に囲まれていた。凶悪犯の小古呂(おごろ)が脱獄し、井戸の妻子を人質に立てこもっているというのだ。警察とマスコミに振り回され“被害者”であることに限界を感じた井戸は、小古呂の妻の元を訪ねると突然豹変。小古呂の妻子を人質にとって立てこもり、“加害者”として小古呂に対峙。憎しみを応酬させていく。(WOWOWオンラインより)

 

私はNODA・MAP作品は2016年の逆鱗からなので、数は少ないのですが、THE BEEを一回目に見た時、今まで観たことがある野田作品と違いすぎて、途中まで混乱していました。
何が違うのかというとまず演者四人の密室劇であること、あからさまに暴力的なこと、非常に単純なつくりであることです。

英国で英語版初演なのは知っていたので、「向こうに合わせたのかな。少人数の密室劇っていかにも英国な感じがする(知らんけど)」「THE BEE→クイーンビー→女王陛下の英国なのかな」とか思って観ていました。

加害者と被害者が互いに加害者になって、段々と「家族を守る、家族に会いたい」が「あいつを打ち負かす」が目的の暴力と報復の連鎖になって、そこで犠牲になるのは子供と子供を守ろうとする女性で、最後には加害者被害者双方が自己破壊していく。

西洋の歴史の事なんだろうな、と観ながらぼんやり思ってました。

日本を含め各地に残る植民地支配の影響とか、西洋人が見て見ぬふりをしている歴史を象徴的に暴いてつきつけているのかなと。

 

 

インタビューで、アメリカの同時多発テロに触発されて、と野田さんが仰っていてそれは思わなかったけど、なるほど、そうかと。
世界10か国で上演したそうですが、アメリカ人は自分達のことだと全く思わなくて、イスラエルのひとは日本のサラリーマンの話なのにすぐに自分達の事だと思ったってのが本当米国そういうとこだぞ、と思います。

原作は1975年ですが、
「(何十年前の作品だろうと)クオリティがあれば見る人の想像力で今ある状況に引っ張られていく」
その想像の引っ張り力で作品をつくりあげてしまうのがすごい。

 

で、原作を読みました。
全く印象が違うので驚きました。

私の勝手な印象ですが、原作では「自分」が第一で、最初から妻子ではなく「俺があいつより上であること」が目的になっている。警察やマスコミ、全部が敵で加害者。
被害者ではなく加害者になる。周りの人全てへの憎悪というか怒りというかネガティブな感覚が強い。

作中で書いちゃってるけど、新左翼の内ゲバなんですよね。多分。

新左翼の内ゲバってわかるようでよくわからないから、ちょっと調べました。
「日本共産党や社会党などの既成左翼を否定して生まれた極左=新左翼の内部での路線対立や覇権争いによる暴力」
のようです。
文章も、内へ内へ自分の内部感覚って日本的な構造だと感じました。


それをイスラエル人に「俺たちの事だ」と感じさせる普遍の世界観に解釈した野田さんはやっぱりすごいと思う。
英国上演時には自身が女性を、英国女優が男性を演じていて、強姦を「英国のアジアへの植民地支配」と解釈できるようになっている演出もすごい。

でもそれは言葉にされたり、わかりやすく答えとして提示されたわけではなく


「見てる人が頭の中で組み立ててくれる」

という、受け手の想像力のフックとして提示されていて、受け手がそこから読み取る能力を信用し尊敬してくれているんだよね。

演者にも
「なんでこんなことするのかと聞かれたら、絶対人なんか殺さない人が戦争に行ったら人を殺す」そういうことだ、と答える。




筒井康隆は『時をかける少女』や『パプリカ』、『富豪刑事』などの原作者と知っていましたが、読んだのは初めてでした。

『全集17 七瀬ふたたび/メタモルフォセス群島』一冊読んだきりで言うのもなんですが
上手く言葉にできないんだけど、なんだか不快でした。
なにが不快って、いわゆる知識層による傲慢な差別感覚かもしれない。

七瀬ふたたびは七瀬という主人公と仲間の超能力者物語なんだけど、非超能力者を「普通人」と呼び、男は女を犯す事ばかり考えてて、女は妬み嫉み、子供も他人を傷つけようとする低劣な下種ども、主人公側の超能力者は美しくて知的で正義のために力を使いたいと思っているのに迫害される…という。
七瀬を崇め奉り上位意思として従う黒人男性、とか、そのまま奴隷じゃん…
内容はちょっと小難しくしたラノベなのに、性差別や人種差別におさまらない、もう人間差別の世界。


現在の異世界とか転生とか能力者ものって、現実がたいしたことない人のための慰めでしょう。例えば、自分が被害者だから報復していい、その力が与えられる、という構造。弱者の夢想。
でも筒井康隆は「大学に行けば人の上に立てる(若者たち1966)」時代で同志社大学を出て既に文化人として評価も得ていて、十分に強者の立場ではっきりそれを自覚しながら、この内容なんです。
立場として加害者側に立っているのに、被害者気分で、それは「お前らが低劣で下種で愚かだから」という目線。
持っていない人間への優しさや労わりが全く感じられない。
これが昭和から続いてる感覚なら、大衆側から反知性的に「利口ぶったエラそうな奴への攻撃」をしたくもなるだろうと思います。



私も言い方がひどいと承知でいえばバカは嫌いなんですが、何がバカかというと
「既得権益の上から弱い者いじめをする、大声で美意識がないヤツ」
だと思っていて、例えば東大に行ったから他人より自分がエライと思ってる人。(ハーバードでもオックスフォードでもIITでも同じく)
東大を創ったわけでもない、東大がスゴイと言われるのは先人の実績があるからであって、勉強しました合格しましたって、人が作った教科書や参考書を使って上澄みをさらっただけで、先人がなぜ積み重ねてきたかといえばアナタの小さな自尊心を満たすためでなく後から来る人達のため。そんな事もわからず「俺は凄い」と他人を見下せるのはバカで、職業や性別や人種その他「他人が歴史で積み重ねた既得権益の上から弱いものいじめをする」のはバカだ、と思っています。

で、その「いじめられる側」が既得権益層にすり寄って、さらに弱いものや歴史的に踏まれてきた側をいじめる。これもひどい愚か。

まあそういう人はたくさんいるし、自分にも要素があります。

それを恥じたりコントロールしようとするのが人間として、だと思うんだけど
理想は実現しないとわかりつつ持っていないと、ひどいことになるから。
socialで大声出しているわけではなく、自分のためにメモしてるだけなので、軽く流してください。

 

 

ちょっと、ヘンな方に思考がずれてしまったけど
この私自身の足りない思考を野田さんの舞台で少しは広げられればと思いつつ、
第二回目を楽しみにしています。