インフォメーション

あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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ネットフリックスめも

ネットフリックスドラマ&映画メモ

 

汚れなき子(ドイツ・ドラマ)

 「監禁された女性が閉ざされた一室で育てた子供」設定が『ルーム』と同じで、いいの?と思ったけどキャラクターを変えてくることで違う作品になってて面白かった

 

ヴァルハラ連続殺人事件(アイスランド・ドラマ)
チェスナットマン(デンマーク・ドラマ)

 中年女性刑事とアウトサイダーぽい男性バディと過去からくる殺人、という北欧ミステリ。英国の『埋もれる殺意』シリーズもその設定だけど、女性刑事が化粧なし、服装露出なしヒール無しの超カジュアル中年なのがいい。

 

DARK(ドイツ・ドラマ)

 田舎の家族間秘密サスペンスかと思ったらタイムリープSF。過去に干渉すると自分の存在が危うくなるって古典SFの基本を裏切ってバンバン過去や未来で子供作るんで、自分の子・親・友人が実は○○が入り組んでて家系図書いちゃった。トンデモ設定はラノベ的だけど画面がドイツ的重厚なんで楽しめる。
パラレルワールドという点ではeverything everywhere all at onceもそうだけど、ちょっとバカっぽいとこに合わせてるのがアメリカだなというか、見る側の美意識と絵作りの重厚さって大事だね。

 

パワー・オブ・ザ・ドッグ(アメリカ映画)

 男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。
 マシュー・ボーンもそうだけど、監督の性的な男性の好みが出てるといたたまれなさを感じる…アートサブカル系で性的な女性の好みが滲んでるやつだと痛キモと思うだけだけど、そのキモさが自分の中にあるのを突きつけられて、わかるんだけどちょっと隠しておこうよね?恥ずかしいしね?と思ういたたまれなさ。
長めの感想 http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/270

 

二人のローマ教皇(英米伊アルゼンチン映画)

 ヨハネ・パウロ二世とフランシスコ教皇の間に挟まれてパッとしなかったベネディクト16世をアンソニー・ホプキンスが演じるある意味ヨイショというか慰撫映画なんだけど、ホプキンズ先生さすがすぎて、解釈大事ですね

 

ウェス・アンダーソン短編集

 ウェス・アンダーソンは一瞬でウェス・アンダーソンとわかるのすごい。世界がこんなふうに見えてるの生きてて楽しいだろうな

 


グローリー(韓国ドラマ)

 いじめられっ子の復讐もの。日本と韓国って本当に似てるよね。
エンタメやニュース通して知る限り世界一似てる。
フィンランド人に似てるとか言う人いるけど似てません。図々しい。
小説もドラマも音楽も似てないし現地二回行っても似てるとこなんてないわ。
日本人に似ているのは韓国人ですよ。ニンゲンの質や陰湿ないじめやDVを生む意識構造や女性の扱いがひどくて都合のいい男を夢見るとこもそっくり。
でも、映画ドラマ小説に関しては韓国のほうが今やずっと優れている。
イカゲーム、確かにカイジだったけど、本場の映画カイジが藤原達也と香川照之の顔芸しか残らないのに比べてはるかにカイジのエッセンスを昇華してたし、ここまでエンタメが量産される時代に重要なのはその深度。全く完敗だよね。
『パラサイト』もさすがアカデミー賞作だった。日本映画が内輪受けの茶番してるうちに劣化してるのと、日本経済がおっさんの互助会中抜きしてるうちに劣化してんの同じ構造。もう構造が全部だめなんだと思わされるジャパン。どうにかしないとな…大人。


 

源氏物語「なぜ一夫多妻制なのに嫉妬するのか?」

 

友人が女子大で源氏物語の講義をして、学生から

「一夫多妻制なのに、なぜ嫉妬をするんですか」と質問されたそうです。

面白いなあと思いました。

これ、「人の心はそういうもの、制度にかかわらず心は動くから」

ともいえるのですが、

「女性は嫉妬するもの」というイメージや物語(ナラティブ)が、古代から言説やフィクションで刷り込まれてきた、ともいえるんですね。

ではなぜ「女は嫉妬深い、嫉妬するもの」という設定が成り立ってきたのでしょうか。


「支配欲」が一つの要因ではないかと考えます。

もう一つは「男性のネガティブ感情の女性への投影という自己欺瞞」です。
さて、人間の強い欲望である「支配欲」

男性がこれを発揮する手段は「暴力」「金」「仕事」「権力・名誉」「女の所有」などいくつもあります。

しかし女性は、支配の根源である暴力をもたず、社会で金銭をはじめ何かを所有し支配する手段がほとんどありませんでした。

「女性は恋愛が好き」は「恋愛が女が他者を支配する方法」だったからともいえます。

長いことほとんど唯一の方法だった。
もう一つは「子どもを持つ」ですが、子どもは父親に属するという家父長制時代下ではその支配欲は制限されます。


恋愛には支配欲が含まれます。

「他者の時間、精神、肉体へ権利を主張できる関係」「性的に相手を操ることができる関係」だからです。

これが結婚になると「資産への権利、配偶者の地位・名誉の共有権利」も加わります。

 

女性にとって、恋愛は男性(権力者)を所有し支配する大きな手段です。
つまり「嫉妬=恋愛による他者(権力)支配の闘争」です。

女性向けフィクションによく見られる「愛され、執着・溺愛される私」は
「私を所有するために我を失い自分の力を用いるニンゲン(男)がいる」です。
その男性は往々にして外見カースト上位でありなんらかの「権力者」です。
「束縛されたい」、も、それだけ相手が自分を欲しがっている=相手を感情的に支配しているということです。
束縛という支配をされると、逆に相手を支配していると実感できるのです。
※あくまでフィクション上の妄想設定で、現実では大抵DVになります。束縛も執着も男性側からすれば別種の支配欲であり、残念ながら対象はあなたではなく「自分が所有する女という属性」だからです。

男性が恋愛相手に束縛されるのを嫌がるのは、男性の支配欲は女性とは違うからです。
男性には他に相手を支配する方法がいくらでもあるので、「愛される」という方法に執着する必要がないのです。
※逆に、男性が他の支配欲を満たせていない場合、「モテ」に異様に執着することがあります。これは「女を所有する」がその人の支配欲を満たす最後の手段だからともいえます。

「溺愛される私」は、支配されることが愛という権力の幻想で、そういう幻想が魅力的に映るほど、他者を支配する権力を欲しながら恵まれてこなかった女性の歴史があるのでしょう。

 例えば、女性同士の恋愛ファンタジーでそういった「嫉妬、束縛による支配」表現はほぼありません。レイプや監禁、束縛行為もない。肉体的に暴力が難しいというより、精神的に女性は他の女性をそのような形で支配する必要を感じないからです。また、あらゆる支配を「女性に」される権力勾配に女性自身が抵抗感を持つのでしょう。

逆に、一部の少女漫画や男性同士の恋愛ファンタジー(BL)では「嫉妬、束縛による支配」がよくあります。
男性の支配欲はしばしば暴力性と共に描かれ、受け側の男女はそれを「愛」という支配ととらえます。
それらを欲する女性の支配欲は「男であること、男を支配する(愛される)こと」に傾いているといえます。
BLを好む女性には「潜在的に何らかの支配欲がかなり強く、現実ではそれが満たされていないか、物足りない」傾向があると思っています。BLの性描写が激しい・必須なのもその一つと捉えられます。
男性向けのフィクションは、戦い(バトル、スポーツ)とエロ(女体)で、男性同士の支配、女性への支配欲が描かれます。恋愛以外にも全方位的に支配欲が強い、強く求めるべきの思い込みがあると感じます。

恋愛以外で女が女を支配しようとすることはあります。(恋愛以外で男が男を支配しようとするのは普通すぎるので透明化されがちです。これはかなり根深い問題だと思います)

虐め、女の争い、などといわれたりするものです。

これには「男を争う」「生活レベル(夫の収入)で争う」「美醜で争う」「マウンティング」などがあり、結局は「男に欲望されることで支配力を得る」「他の女を自分の侍女として仕えさせる(男性のケアもさせる)」ことの争いです。
※男性同士のマウンティングは、「自分の目下として仕えさせる」ですが、相手を女性へケア係として差し出すことはないので、その点が違います。

フィクションではこういった「女特有の」嫌らしさが好んで描かれることがあります。
男性向けでも女性向けでもよくあります。
これは、フィクションに歴史的に存在する「男性上げ、女性下げ」でもあります。
実際、現実の男性よりフィクションの男性はよく、女性は悪く描かれる場合が多いと感じます。現実にヒーローのような正義感ある男性は少なく、悪女のような或いは性的に都合いい女性も少ない(ビジネスは別として)。

男性が絡まない女性同士の場合、支配欲は権力欲なので、相手を支配することで権力を感じられないとあまり魅力的ではありません。
そして、女性は女性に支配されるのを嫌います。同等と思っているからです。
この「同等」は無意識に女を「男の下位である同じ立場」とみているともいえます。

歴史的にずっと、社会で権力を持ち、その権力を自分たちのために使っているのは男性です。これがペイトリアーキ(patriarchy)で、家父長制といわれるものです。
その根源には「暴力」があります。戦争がいまだに行われているのは、暴力が最も支配に有効な最終手段であることを示しています。

女性が恋愛により異性を支配する願望をもつのは、それが歴史的に女性に許された「力」だったためです。なぜ許されたかというと、男性側にもメリットがあるからです。

 

だが、今は違う!???(ギュッ!)

 

それが「一夫多妻制でなぜ嫉妬するのか」という女子学生の質問に繋がる気がします。

「結婚は、相互同意ルールのもとで行われる利益共有契約システム」という意識があるから「なぜ嫉妬するのか、ルールに納得して結婚したのではないか」が出てくる。
一夫多妻制システムでも妻が同じ権利(支配権)をもつのであれば「嫉妬する必要がない」ということです。
現代女性は、恋愛以外で権力を持つ手段=主に経済力、家庭内労働への敬意などを得られるようになり、人権を得てきたので、これまでのルールが女性に納得できない形で成り立っていたことが理解しにくいのです。

男性の恋愛における嫉妬は「俺の所有物のくせに裏切った、生意気だ、舐められた」という女性を罰する怒りが多く見られます。
女三宮と柏木の密通を源氏が不快に思うのは、女三宮に特別な愛情はないが、自分の所有物を盗まれた、顔を潰されたという怒りがあるからです。
源氏自身も人妻を寝取り密通しているのですが、「情緒・美意識」がある「密通」は罪ではなく「雅を解さない粗雑な若者の恋愛」は許しがたいという物語の背景もあります。
同じことをしてもケースバイケースで許される。平安貴族の「支配ツール」には「美意識」があるからです。


女性の嫉妬は、多くの場合男性よりも相手の女性に向かってきた。つまり、「私の’愛されるという支配力’を奪われたくない」です。男性に対し、男性のように「私の所有物のくせに裏切った、生意気だ、舐められた」とはなりにくかった。

女性向けのエンタメでは、恋愛相手の男性に「執着し嫉妬される」を好む。
また、相手の女性と憎みあい戦う感情が強い。

それは生来の属性ではなく、社会的な権力勾配、支配力勾配によるものが大きいのではないでしょうか。

愛する相手に裏切られたらまず「悲しい」だと思いますが、「怒り」「ねたみ」「復讐心」がでてくるのはやはりそこに支配欲があるからだと思います。
そしてそういったフィクションが受けるのは、見る側にも強い支配欲と加害欲があるからでしょう。

紫の上は、源氏の子供を産んだ明石の君や正妻女三宮の登場で嫉妬し、大きく心を乱されます。これは「子どもをもつ」「正妻という立場」は「権力」であり、権力は支配の源泉だからでもあります。愛情という権力による支配は、具体的な「子ども」「正妻」に比べよりどころが「男の心」にしかない。だからこそ嫉妬が強くなる。しかし、その心のあり様に苦しみ、昇華させたいという思いが美意識にもなる。どう支配欲を手放すか、女性の嫉妬にはこの苦しみがありますが、男性の場合は、ほかに支配欲を満たせる場所があるためこのような苦しみ方はしない。それは性差というより、やはり社会構造でもある気がします。

 

 

 

 

ところで、ここで、「自分が悪かったからだ」と思うタイプは、
人に自分を支配させる方向で支配欲を満たしているともいえます。
相手の支配欲と自身の支配欲を同一視しているんですね。

「あの人は私がいないとダメだから」
とか。

ブラック企業や独裁体制の末端支持者も、同じように、強者に支配欲を重ねることで、支配され害を被っている事実を隠蔽したい心理です。

私はものづくりの人をかなり信用していますが、

彼らの支配欲は人に向かってこないからという理由が大きいです。

ただ、ものづくりを通して人を支配したい(金銭、名誉、承認欲)人も多いので、そちらは苦手です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パワー・オブ・ザ・ドッグ 感想

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」 ジェーン・カンピオン監督 2021
出演:ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト
Netflix視聴
94thアカデミー賞 監督賞受賞作品

 

ネタバレ感想

 

男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらい性的マイノリティより家父長制構造に組み込まれた普通の女のほうがはるかに根源的な生きづらさを抱えている、という話。

 

前情報なく見たので、途中まで解釈が二転三転しました。

・ローズの精神不安定は実はフィルに惹かれているからでは?
とか
・ピーターのフィルへの傾倒は母親への嫌悪が底にあり、出来上がった縄で首を絞める気では?
とか

しょっぱなからのカウボーイ的男らしさ誇示で、これはゲイだな…とは思いました。
ホモフォビアのマッチョイズムの裏にゲイが隠れているのは「アメリカン・ビューティー」でも描かれていましたね。
カンバーバッチの同性愛である伏線的振る舞いには、なので、一種の気恥ずかしさを感じました。
こういうの、腐女子は好きだよね…というか
ジェーン・カンピオンはピアノ・レッスンでもそうでしたが、野卑で粗暴な旧来の男らしさの裏の文化的感性や繊細さが好きなんだな、癖なんだな、と思います。
製作者の異性の好みを想像してしまうのってちょっときついです。

なぜか、創作者も含め男性視点の共感や理解を示す女性は多いですね。
逆はあまりみられないのですが。
途中では、フィルのミソジニー視点とはいえ、女性監督であるカンピオンが「女は愚か」という演出を入れてくるのがイヤだなとも思いました。
(2025年4月時点で、これは「男を崇めるタイプの男好き」だなと解釈します。創作畑やアカデミズムの女性にありがちな、自らの知性を男性領域ととらえた男好きとミソジニーと自己愛かと)

カンバーバッチの演技と心理演出により、フィルの真相に思いを寄せ、ピーターの動機と心理にも考えを巡らせる人も多いだろうし、そのような視点の考察も多いので、ここでは家父長制ミソジニーのイジメでアル中になるローズの「生きづらさ」と、フィルとローズそしてピーターの「支配欲」に注目します。

 

ローズとフィルの「生きづらさ」

フィルは同性愛者です。西部のマッチョなカウボーイ社会では社会的な死、肉体的死すら意味します。ゆえに、彼は生来の知性とパワーをフル動員し、自身の内面をひた隠して名家に連なるカリスマ牧場主として生きています。

ローズは夫を亡くし息子を一人で育てる母親です。資産もコネもありません。彼女がいる階層にいるのは売春婦やそれに近い女性たちです。
夫を亡くし女手で商売をするも、店は女一人となめる男たちに荒らされ、嘲笑される息子を守れず一人で泣き、結婚すれば見知らぬコミュニティで家の付属品となり個人である尊重も自由もない。
傷つけば弱く愚かな女とみなされ、彼女はそれに抗ったり苦しみを苦しみとして知覚し言語化する教育も受けていない。

ローズは「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティであるフィル」よりはるかに社会構造上の根源的な生きづらさを抱えています。

男らしくなれないと男は生きづらい世界で、ふりでも男らしくあれば生きづらくないが、女は女らしくても女らしくなれなくても生きづらい。つまり、女に生まれた時点で既に生きることが困難なのです。

「男らしさの呪いに囚われたかわいそうな生きづらいマイノリティ」が、縄張りを荒らされた強者男として、気に入らない女である義理の妹を陰湿にイジメる世界で、普通の女はかわいそうなマイノリティよりもっと生きづらいという視点は主題になりません。当たり前すぎてエモーショナルにならないから。

 しかし、ドラマとして陳腐でも、その「当たり前の生きづらさ」は消えません。

フィルは男らしさの鎧で本当の自分を隠し身を守っていました。
「自分らしさ」を抑圧し、苦しんできました。男性同性愛者だから。
だけど、それで社会で強者としてふるまえた。男だから。
ローズは生まれながら強者には決してなれず、夫や息子に守られなければ生きられず、しかも彼らに簡単に尊厳を破壊される。

ローズの店に居座る酔っ払いが、ジョージが出ていくと大人しくなるのは、現代でも女性一人店主の店に男性が居座り迷惑行為を繰り返して営業できなくなるのとまったく同じです。
そして、そのように多くの女性の社会進出を阻害しつつ、さらに結婚して主婦となった女性を社会で二級の存在としながら、結婚しない女性を嘲笑するというダブルバインドも同じです。

フィルの生きづらさもローズの生きづらさも「当たり前」でなくなってほしいと思いますが、LGBTを上げるために女性が下げられる、今も続く女性差別構造が透明化されるのはアンフェアであろうと思います。
例えば、身体男性が身体女性スペースに入るのが許容され、女性が危険にさらされる。男性として得た社会的立場を「女性になる」人がいることで偽りの男女平等が達成される、などです。

 

この映画、LGBT-related filmとして7つの賞を受賞しているんですね。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Power_of_the_Dog_(film)

というか、LGBT映画の評価カテゴリがこんなにあるのに驚きです。
フェミニズムrelatedはないんですよね。
女の生きづらさは当たり前であり、男(トランス女性、ゲイ男性)および男性に性的に搾取されるレズビアンをさします。代理母出産、トランス女性の受け入れ強制などです)のそれはなくしていくべきという思考が無意識に働きすぎていて怖いです。

 

フィルとローズ、ピーターの「支配欲」

 

人の最も強い欲は権力欲で、支配欲はその主たる手段です。
養老孟司さんが、「貧乏人でも簡単に支配欲を満たす方法は、子どもをもつこと」と仰っていました。
特に社会で権力を握りにくい女性にとって、子どもをもつことは支配欲と繋がりやすくなっています。

家庭でジョージとうまくコミュニケーションをとれず(ピアノの一件や、家政婦たちしか話し相手がいないこと)、フィルの抑圧に情緒不安定になったローズは、息子ピーターがフィルとカウボーイにオカマと嘲笑されているのを知りつつ休暇に呼び寄せます。
そして、母と息子というより恋人のような距離感で接します。
彼女が支配できるのは息子だけであり、そのために、息子の心が離れることを非常に恐れています。
フィルがローズとピーターを切り離そうとピーターに接触し、ピーターが応える様子をみて、彼女はますます精神の平衡を失っていきます。

 

フィルの支配欲は何よりも自分自身、そして弟ジョージに向けられます。
フィルは、体を洗わない、スーツを着ない(ジョージはいつもスーツですが、フィルは汚れたカウボーイ姿)、無精ひげの「マッチョな田舎のカウボーイ」というかたちで自分を縛り、律し、支配しています。
葬儀で、髭を剃られ髪を整えスーツを着せられたフィルの遺体が、繊細で知的な都会の青年という本質を明らかにしています。彼が支配し抑圧していた表層の下にあるもう一人のフィルです。

ジョージは彼にとって「最も近い人間(=男。フィルにとって女は人間ではありません)」であり、性的対象ではありませんが、強い執着と支配欲の対象です。
宿屋でジョージの行動をみはり、一つのベッドに二人並んで寝る姿は、かつて最高に幸せだった男性との同衾を「身内故に自分が性的対象にしなくて済む安全な男」であるジョージを用いて再現しているようです。
そんなジョージをローズに奪われ、フィルの支配欲は自分自身を縛り付けるだけになり、苦しみは深く強くなります。
そこに現れたピーターは、かつての自分と同じ、高学歴で繊細な同性愛者(はっきりと描かれてはいませんが)です。
フィルがピーターに求めたのは、孤独を癒しフィル自身への支配欲から解き放ってくれるジョージより強い能動的な力だったとも言えます。


では、ピーターはどうでしょう。
ピーターは芸術家肌の青年です。
芸術家は、自分の望む世界の構築に支配欲を傾けます。
ピーターが望むのは「母の幸せを守る息子としての自分がいる世界」です。

三者三様の支配欲、それこそが「犬の力」※剣と犬の愛の力から私を解き放ってください※であり、解き放たれたのはいったい誰だったのだろうか
そう思いました。

 

 

 

 

さて

キルスティンダンストと、ジェシー・プレモンスが実生活でも夫婦だというのは驚きでした。
映画内ではフィルに「金目当てに決まってる、女に惚れられる顔か」
といわれていたジェシー、確かにパッとしない見た目の役でしたが
ちゃんと惚れられる顔じゃないですか。
ハッピーがあってよかった!!


 

 

 お休みなので、Netflixで「パラサイト」「everything everywhere all at once」も見ました。最近アカデミー作品から離れていたけど、やはり受賞作は好みはともかくクオリティが高い。見ていられる。

「ノマドランド」もあわせ、女性監督とアジアのエンタメが次世代ムーヴメントになっていくなかで、日本のエンタメの小ささというか、美意識の幼さが悲しいです。
小津的な小さな世界観に美意識がある、みたいなのもないんだよね。
狭いところを深めるのではなく、ただ視野が狭いというか。
アニメ漫画もそんな感じ。今はほとんど見ていない。

あ、でも「イリオス」面白いですね!みてる!見てた!

 

 

 

 

 

 

 

「枯れ葉」カウリスマキの新作

 

アキ・カウリスマキ監督の最新作「枯れ葉」を見ました。

 

前作「希望のかなた」がよすぎたのもあるんですが、

 

貧しさや生活苦を救うのは愛ではなくまず金なんだよな…

 

と思ってしまって心の荒みが悲しい。
カウリスマキの作品はおとぎ話なんだよ、現実がそうであれという夢なんだよ
というのは分かるのですが、その夢で夢を見ることもできなくなってしまったという哀しみ。
正直、「恋愛で救われる」ってもう、思えないんですよね。
恋愛や愛って、実のところ「権力欲」という側面があるので。

「理想化や同一化願望や庇護欲や性欲等といった、バリエーション豊富な支配欲」の受け皿を探しているのが愛

 

って呟いてた人もいました。言語化!それです。

 

養老孟司先生が、人の一番強い欲は権力欲で、
子供を持つのは貧乏人が権力欲を満たす一番簡単な方法と言っていたけど、
恋愛や結婚は、他者の時間や肉体への権利を得る(と言外にされている)点で
権力欲を満たすための行為という側面があるんではないか、と思うわけです。

権力欲があるのが悪いのではなく、むしろ「ある」と自覚した方が、コントロールできる。
支配欲に無自覚で、恋愛☆結婚☆愛☆キラキラコーティングの方がヤバいでしょ、という話です。


枯れ葉に話を戻すと、
2人が富裕層だったらこの「結びつき」に同様の価値がでるのか。
生活は豊かで、将来の不安もなくて、でも恋人や配偶者はいない。
そこでふと知り合った相手と不思議に繋がっていく。

まあ、そりゃ、貴族や資産家でも恋愛はしますけど、
その場合、生活苦やアル中じゃなく、「家同士が反目している」「婚約破棄された」「政略結婚」とか、何かハードルが必要なわけです。
だからドラマになるし、そっちの方が楽しかったりする。
だから貧乏日本でなぜか貴族令嬢ものが流行ったりしてる。
貧乏人同士だろうが、貴族だろうが、恋愛なんて

「それで救われるのってなにか気のせいでは。いやいいけど。まだ正直に”キラキラオプションがほしい”といわれた方が、あ、そうすか( ´_ゝ`)フーンっていえる。しかもそのキラキラオプションて”自分を”キラキラさせるオプションだよね、知ってる」

みたいな話で、
そこに情緒をもってきたところで「そんなんでごまかすなよ…簡単にセックスして子供出来たらどうすんの。女にしかリスクないし。バカか。セックスで救われる程度なら自己処理しろ」みたいな気持ちになってしまうんです。やだなあ。
まあ私が寂しさがよくわからないからかもしれないけど。
貧しくて辛いのが二人生計になれば楽になるよ、という幸せならわかります。
まあ、だからアル中はダメって彼女も言ってたんだけど。
酒はやめたって自己申告をそんな簡単に信じてはいかん。

 

最終的に、枯れ葉については

犬と友達と相続したアパートがあればいい

 

でした。
チャップリン、かわいかった…いぬがいてくれればいいよ…
アル中そんな簡単に治らないからな。

 

「男なんてみんな同じ鋳型でできてる。しかも壊れた鋳型。男なんて豚」

「それは違う。豚は賢くてやさしい」

「その通り。豚に乾杯」

友達とのやりとりもよかったです。

 

 

 

古典的少女漫画のミソジニーについて

 

「女は何を通して内面を語るのか」

でも触れたのですが、古典名作少女漫画において

「市井の少女のエンパワーメント、少女を自由にすることをあきらめ」

 
「なぜ対等な関係は男同士でしか発生しない、と思ってしまったのか。
女であることを自分から切り離して、ごまかしてしまったのか」
 
というBL少年愛問題について考えてみます。
 
「男同士は対等だが、女はそれより下」という感覚を内包させてしまう
 
あるいは、さらに受け男性に自己同一化し、
 
「自分はその辺の女とは違う特別な存在」
 
という勘違いを内包させてしまうことがあるからです。
 
 
私は、山岸凉子先生を大変に尊敬しており、アラベスク、日出処の天子など大好きなのですが、
思い返せば日出処の天子はまさに、ミソジニーを内包した少女の物語だなと思います。
 
厩戸王子は、少年だけど女より美しく、女より女装が似合い、男性にも女性にも性的な好意を持たれ、天才で超能力者ゆえに周囲、特に母親に理解されない孤独を抱えています。
読者は「かくありたい(転生ラノベのように)無双スペックだが、愛されたい愛されない苦しみを抱えた特別で美しく悲劇的な主人公である私」あるいは「そんな受けを幸せにしたいと箱庭の外から見守りともに苦しむモブの私」です。
 
一方、女性キャラクターは揃いも揃って「ぶよぶよした女の肉体をもち、汚らわしく愚かでうっとうしい」「いやな女」として描かれます。
これは、成熟していく体、男性に「性的客体」としてニンゲンではなくモノ扱いの視線で見られる「女になる自身を持て余し嫌悪する少女」の心情に重なります。
それを「自分自身の問題」ではなく「美しい少年から見た女」として「嫌悪の対象のまま」にしてしまう。無意識に「少女のミソジニー」を育成する内容です。

厩戸王子は彼を取り巻く女性を憎んだり軽蔑したりしますが、その根本には「心底求めているのに自分を愛してくれず弟ばかりを可愛がる母への複雑な愛憎」があります。


 
厩戸王子は、おのれの孤独を癒す理解者として蘇我毛人を求めるのですが、
 
「あなたの愛は他者にどこまでも自分と同一のものを求める=思い通りにしたい愛であり、違いや理解の不能を認めない。それは本当の愛ではない」
 
と否定され、より深い孤独に陥ります。
それでも絶望の中で、歪みながらもある種前向きに、するべきことをして、虚しさを放り出さずに生き続ける
そこが素晴らしい、名作である所以だと今も心から思います。
 
しかしながら、名作であるがために「女性へのミソジニー」をある年代の女性、しかもある程度教育や文学素養のある女性へ植え付け内包させてしまった、という側面はあるのではないでしょうか。
萩尾望都先生にも、ミソジニーの内包を感じます。
昔の少女漫画では「恋愛至上主義のラブコメ」か「ミソジニーを内包した女性性の否定含む少年愛や”特別な自分”への自己愛」がメインであったように思います。(今もそうかも)
 
「普通の少女のエンパワーメント」…と思うと「不良少女や極道女」ものなんですよね。
「スケバン刑事」「やじきた学園道中記」「花のあすか組」など。
 
世代的に、清水玲子先生の漫画にも、すごいミソジニーを感じていました。白泉社っこだったので。美しくて物語も素晴らしくてだけど、なんでこんなに女性に冷たいんだろう…って思った。あと醜いニンゲンにとても冷たい。
性別のないエレナという美麗最強ロボットがたぶん、女の肉体のない「男に愛される存在」の理想なんですよね。


で、そういう漫画を読んで育った現在の中高年世代で、
なんとなく女性を侮っている女性がいるなというのは感じています。
別に読んでいなくても、そういう価値観がベースにある時代空気で育成されたんだな、って。自分もそうだったので。

その流れを、よしながふみ、田村由美、両先生の作品には私は感じています。
アップデートされているようだけど、わりと根本が「特別な私(BL文脈)」で
だからこそ男性にも受け入れられやすいのかなと。

幼少期、青年期に精神のベースになったものを否定するのは難しいですしその必要もないですが、おかしいところはあったな、というアップデートは必要だよね、
と思っています。



 
 
 思考更新:24/7/2
 
かつて、ゲイは「生殖」から排除されたゆえに性的なアピールを行った、生殖から排除されているのではなく「反生殖」すなわち「反権力」「反家父長制」だった
男性同性愛を愛でる女性は、女であるが故の肉体的「生殖」のおしつけや男という権力への反抗として自らの女性性を消し、男同士の恋愛を礼賛し、それで救われた。
古いBL(やおい、JUNE)は「反生殖としての男性同性愛による女消しという家父長制への反抗」だったが、現代BLは「娯楽としてのカップリングという箱庭を上から眺めて存在を消している女という消費者」になった
ポルノ見たり買春したりする男の透明化と同質の、資本主義・格差の消費者
 
 
 
 
 
 
 
 

進撃の巨人 アニメファイナル 最終感想

 

進撃の巨人については、いくつか感想を記録してきました。

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/186

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/251

 

それ以外にも、ヒトラーのための虐殺会議感想でもふれました。

エンドロールまで無音。音楽無しによる
「これはエモーショナルで消費していい話ではない」
という主張の重要性。

進撃の巨人アニメファイナル、いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

 

読みかえして、自分でもいいこと言ってるなと思いました。ほんとそれな。

ファイナル後編の冒頭からの戦い。エモーショナルというか、冗長というか、自己陶酔が過ぎない?ベタベタじゃない?と思いました。

 

あと、アルミンとの記憶対話の追加。あれ正直いらんかった。長すぎた。

「地獄で会おう」ってなんだよ、BLか。

『進撃の巨人はなぜミカサの物語で終わったのか』で「男は女を通してしか内面を語れないし、男がはじめた物語を終わらせることができない」といいましたが、

終わらせることができない男の物語を共有し抱き合って泣くホモソ劇場

 

あれ? バックラッシュしちゃった? ちょっとドラマが安いよ...

 

 

過去の感想で「アドルフに告ぐ」にもふれたのですが、
ナチスとユダヤ二人のアドルフがその後、中東戦争に舞台を変えて戦う様子が、現在のイスラエルとパレスチナの戦争で、SNSでも言及されているんですね。

イスラエルとパレスチナの「壁」や難民、ユダヤと迫害などのモチーフは進撃でも指摘されるのですが、結局「キャラクターがテーマより大きくなった作品は消費財となり、受け手の意識を超えることができない」になってしまっているのではないか。
残念、という気持ちがあります。

ゴールデンカムイもそうだけど、エンタメで消費していい題材じゃないものを中途半端に扱うと、現実のほうが貶め軽んじられてしまう恐れがある。

フィクションでは何をどう描いてもいい、というのは、ある程度の知性がある人々が受け手の場合であって、ものを知らない人が耽溺し影響を受けるフィクションは当然危険であり、モラルが必要です。
社会がフィクションにモラルを求めるのは、大衆の情報入手経路が主に高尚さのないエンタメであり、だからこそそこにモラルがないと社会の秩序や公共性が失われる。

聖徳太子だって「お前たちは徳が低くてすぐ派閥をつくったりまともに議論するレベルに達していないから、和を以て貴しとしなさい」といったのです。
我々は、自分で思うよりかなり程度が低い。慢心してはいけない。バカだからバカなものにすぐ影響を受けます。


発信者(この場合は作者というより、編集者や周辺の公式関係者)はもっとそれを恐れたほうがいいのに、目先の金めあてで作品を落としてしまっているんではないでしょうか。

NHKプロフェッショナル仕事の流儀・エレン・イェーガー、ひどかったもんな。

開始10分でそっとじしましたよ...ああいうのはちゃんとした大人がちゃんとした場所でやることではないよ

 

 

 

 

 

最近の眉毛兄弟

 

リアム・ギャラガー、

マンチェスターの路面電車の社内アナウンスを担当することが明らかに

https://nme-jp.com/news/134765/

 

イベント告知のため短期間だけらしいですが、

 

めちゃくちゃ聞きたいww。デビーといい、優秀なブレーンいるな~ウォッチャーのくすぐり方わかってる」

「聞きにゆくだけでもマンチェスターに一度いってみたい!!」

「思った。思うつぼ!マンチェスターならではすぎる」

 

で、それが実際どういう感じかというとですね

https://twitter.com/BBCNWT/status/1712046745314554015

https://www.bbc.com/news/uk-england-manchester-67075875

 

「予想どおりのオラついたアナウンス!」

「いい!この聞き取れない不親切感!マンチェスターそのもの!」

「マダムに見捨てられたマンチェスターだけど、わんこはいつもそこにいるよ!これがマンチェスター!」

「みんな笑顔にさせるね、わんこ!」

「マンチェスターの妖精とか怪人とかなにか土地神的な存在。極東のウォッチャーも笑顔に」

 「ゲニウス・ロキ…」

「それだ!!」

 

なんですかね~

2017年以来のウォッチャーとして、弟眉毛の情緒不安定を見てきたのですが、
本当に、優秀な人間がそばにいると素晴らしい成果を発揮できるんですね。
ちゃんとした人と付き合う(プライベートも仕事も)って大事だな、と教えられます。

 

 

 

 

 

シグルイ2

 

シグルイ。読みかえして、面白いなあ~~~と思ったんですが

徳川時代の圧倒的上下関係による、平和。

下剋上や裏切りもあって当然だった戦国時代を経て、
住む場所や着るものすら決められた身分制度にガチガチに縛られたなかで
経済が発展し、文化が発展し、平和と繁栄が訪れる。

私、江戸時代の文化好きなんですよね。
江戸の18世紀なんて西洋ルネサンス以上の文化だと思ってるし。
応挙先生を美術史で一番あがめているし。

でも、平和を希求した結果、階級社会で個人の人権や自由を剥奪して
「管理する人間に責を負わせ末端には思考させることなく幼児でいさせよ」
(へうげもの 徳川家康)だった江戸時代に対し、

同時期に清教徒革命やフランス革命やアメリカ独立戦争や産業革命があった
西洋は何を希求したかというと、
階級社会の破壊と個人の人権や自由なんですよね。
その結果、戦争や内戦が起きる。

どちらがいいのか、わかりませんけど、


でも、シグルイでは藤木が江戸徳川、伊良子が西洋文明の側を体現しているんですよね。
そして、師匠の愛人をかまわず奪い、三重との公開初夜を拒否し、命じられた殺人に嘔吐し、みずからの意思のみで女を抱き人を殺す伊良子が「傀儡ではない男」として死後も三重に選ばれる。

三重のため、家のため、と自分を殺して権力に従った藤木は「傀儡」として拒否される。


なぜなら、江戸徳川の平和と繁栄は、「弱者の個を殺し搾取する」ことで成り立っていたから。
女(特に武家の女)はそこで「男の所有物」として従い譲渡される弱者だったから。
三重はそれを拒否し、父の門下生=セミの抜け殻と伊良子=切られた男雛を引き出しに入れ、虎眼流の士が殺されだして衰弱していた体に肉が付き始める。
父の傀儡である門下生が死に、自分を子を産む道具として見ていた父が死に、自由になりはじめたからです。

西洋文明の騒乱は、「弱者の個を殺し搾取する」に抵抗する人々の歴史で、その手段として「経済力」が発生したことで、「経済力」が権力となる。
平和も平等もけっして達成されたわけではないが、そこには、三重が伊良子にみたような「希望」があるわけです。

江戸の平和の中には、特に大きな希望はなくて、
ただ、いまの穏やかさや楽しさ、考えずに身を任せられる制度の気楽さがある。

ほんと、どちらがいいのか。わかりませんけど、

ただ、閉じた平和は、「黒船来航」「明治維新」の「俺たち遅れてる!貧しい!やばい、やられる!」でぶち壊されたことは確か。


わりと現在も停滞し、人権なんか軽視されていると思うんですが、
このままごまかしていけるのかな、とは思いますね。

そして、女性のほうが、先に見切りをつけると思う。三重のように死ぬわけじゃないけど。




 

 

 

 

 

 

 

 

銀牙伝説



銀牙オリオンからLW読んでます。
 
・世襲の問題
・若手の問題
・ディスコミュニケーション問題
・対話派と武闘派の対立問題
 
 
などなど、問題点が多くてなかなか大変です。
アプリコメントもつまらないという感想がちらほら見られます。
これはまた別に、読者側の
 
・回答を出すまでの思考に耐えられない脳の体力不足における、漫画・アニメ等創作の問題
 
もあります。
一つずつ見ていきましょう。
 
 
・世襲の問題&若手の問題
 
銀牙では、銀は総大将リキの子供ですが、リキが記憶喪失で息子と認識されません。
小隊長ベンの部下として、一兵士から実力を認められ総大将になります。
 
ウィードでは、ウィードは銀の息子ですが、母・桜が放浪中に産まれたため、物語中盤まで銀と会うことはありません。
周囲の「本当に銀の子か」から、実力により認められていきます。
後半のロシア犬戦からは、小鉄が「総大将の身内」を喧伝するように、実力より血筋への尊重への偏向がみられます。
 
オリオンたち兄弟は、最初からウィードの子として奥羽で大事に育てられます。後継者候補として、最初からリーダーの立場を期待され、本人もその意識で周囲へ対します。
そのため自然な実力で認められるというより、周囲から、後を継ぐ者として、幼稚さや暴力性を指摘され矯正を望まれています。
 
 
山彦、ボン、アンディという同世代の友人もいて、彼らは周囲への敬意に欠け、悪い意味で実力主義、感情主義です。年長者をはじめ、あらゆる相手に平気で無礼不遜にふるまい、暴言を吐きます。
ある意味、銀は団塊以前を知る世代、ウィードはロスジェネ、オリオンはネオリベといえます。ウィードは早婚なのでオリオンと周囲の犬もほぼ同世代です。銀の盟友は銀よりだいぶ年上ですね。

 

 

・ディスコミュニケーション問題

 

銀、ウィードでは、「本当の男なら話がわかるはずだ」により、器の大きい犬には皆が当然従い、本当の男なら女性子どもには紳士であり、他者を尊重し、無礼はいさめられ、恥を覚えます。

この「男」は、家父長制における「男」でもありますが、
「弱いものを守るため戦う、まともな尊敬すべき犬」でもあります。
ですから、女性であるクロスも「男」と認められます。そして同時にレディとして尊重されます。これらは矛盾しません。女性には身体的不都合があり、妊孕性を含むその不都合に対し紳士的にふるまうのは嗜みだからです。


これはアクション漫画ですから、「守る」は暴力ですが、現実社会では当然、暴力以外の手段もあり、とくだん男性に限る話ではありません。
「まともで尊敬に値する」相手は、話が通じて当然であり、ディスコミュニケーションも生まれない。
強力なカリスマや道理と知力に秀でた部下、というレジェンド級の美しいヒエラルキーにみなが幸せな古い世界です。

しかし、オリオン世代では、レジェンド世代は年老い、その下に新たな徳をもつ指導者と部下が十分にそだっておらず、若者は「自然と湧き上がる敬意」を感じません。

「男なら○○」
は依然としてありますが、女性子どもに紳士であり、他者を尊重し、器が大きい、といった中身はなく、単に「男なら泣くな!」といった理不尽で表層的で特権の温存と感情の抑圧になっています。
誰もがクロスへ「ババア」という。
かつては、男ならレディへ紳士であると体現していたベンのような存在はいません。

ある種のびのびと自由にものをいえる(サスケが銀に「銀タン」というような)状況でありながら、そのため、ここにおいて、世代差、個人差でのディスコミュニケーションは激しくあります。

つまり、誰もが自分の主張ばかりで人の話を聞かないのです。

 

 

 ・対話派と武闘派の対立問題

 

そして、ディスコミュニケーションの最大が、オリオンとシリウス兄弟の分断です。

赤カブトの子供、モンスーンの復讐に対し、オリオンは絶対殺す派であり、
シリウスは対話する派です。タカ派とハト派です。

シリウスの姿勢は、ほかの犬たちを死に追いやり、周囲は

「こいつは頭がおかしい。どうかしている。話が通じない」と思い、はっきりそれを口にするオリオンとシリウスは強く対立します。


おそらく「オリオン」において、もっとも読者に訴えたのが、カマキリ兄弟の悪を見捨てず、対話し心通じさせるシリウスと赤カマキリの変化だったのでしょう。
その、より大きく困難なバージョンとして、モンスーンとシリウスがあるのだと思います。

「やられたらやり返す」は復讐の連鎖を生む、というシリウスは、理想主義がすぎて、矛盾や仲間の死を生じてしまいます。

一方、「やられたから殺す」のオリオンは、仲間や兄弟にも不寛容で、敬意がなく、暴力的な行為にのみ邁進します。

オリオンとシリウス、どちらも自己主張が強く、周囲の信頼や尊敬に値する行動を選べず、自分勝手ですが、人間世界におきかえれば実にリアルです。
「敵を殺せばハッピーエンド」ではなくなった世界で、どのような未来を選択するのか。




・思考に耐えられない脳の体力不足における、漫画・アニメ等創作の問題

 

さて、「ラストウォーズ」
「イライラする、面白くない」といった読者の感想が目立ちます。
それはそうだろうなあと思います。
漫画やアニメは、単純化した物語で「スカッとしたい」ものですから。

しかし、ではどこで「そうではない物語」を見るのか?という問題があります。

「漫画でくらい難しいことを考えたくない」

という人は、いつどこで難しいことを考えているのでしょうか。
資本主義や民主主義や歴史や社会や戦争や人権や未来について、いつどこで考えているのでしょうか。
たぶん、どこでも考えていないと思います。
普通の人は、ほとんどそういったものを考える機会がないからです。
しかし、「考えない人」は悪い施政者にとって利用しやすい庶民でもあります。
だから、民主主義社会の市民は、ものを考える必要があり、そのために高度な教育が必要なのです。

フィクションはスカッとする娯楽でもありますが、思考実験の側面もあります。
仮の世界で、ある命題に対してどう考えるか、という実験です。

思考実験において、「スカッとする」「エモい」漫画やアニメにしかふれない人は
ものを考える体力がなくなっていきます。
運動しないと筋肉が衰えるように、脳も使わないと衰えます。
エロや都合のいい展開にばかり触れていると、脳がそのような形になります。

現実はそんなに単純で都合のいいものではありません。
脳が単純で都合のいいものに慣れた人は、複雑で厳しい現実を、深く考える必要に迫られると、怒り出します。
自分を気持ちよくさせない、都合の悪い世界に怒るのです。


創作における面倒な思考実験くらい、イライラせずにやってみたらいいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

最近の眉毛兄弟

 2023年9月21日

リアム・ギャラガーの51歳の誕生日です!

毎年何かしらざわつかせる事件の日、子どもたちはおめでとうといってくれるのか、お兄ちゃんは何かアクションするのか、眉毛弟の情緒はどう動くのか、ウォッチャーもドキドキです。

ノエルは最近ますますつまらなさに拍車がかかり、ラスベガスで公演したいなどと言っており、ベガスでおまえのしけた歌聴きたい奴いる?弟と一緒ならともかく、などと酷いことを言われています(我々に)

 

さて運命の日。前日のおはようからしばらく無言だったリアム

 

2023-09-22.png

 

 

はいもう、

満面の笑み出ました。

おれおめでとう!ウォッチャーの期待を裏切らない!

 

さらに、最近タイから保護犬を家に引き取ったリアム。

https://nme-jp.com/news/134060/

バトンちゃんという女の子、かわいくないという理由で捨てられたそうですが(ひどい)
長旅をして新しい家族のもとへ。

保護犬のサイトに一般人と同じフォームで申込み、いたずらだと思われたリアム。
ウォッチャーの予想ではデビーのマネジメントでしょう。
周りには褒められ本人は友達ができてハッピー!
デビー最高、本当にいい犬使いです。出会えてよかった。
公私ともの素晴らしいパートナーをえてよかったね!!!
もうお兄ちゃんなんていなくていい!

ノエルとの差がますます開いていくかんじ。

まあでも、ママペギーが元気なうちにちょっと仲直りしなよとは思いますが。

 

そういえばサマソニで日本に来ていましたけど
このクソ暑いあの世でかたくなにパーカー着てて
何かから自分を守っているのか?と思いました。
あと、ジーンがついてきてた。いた!て笑った。