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あとで自分で見る用。色々と雑多に勝手なことをいってます。 お気になさらず。平気でネタバレするよ!

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ゴールデンカムイと家父長制①

 
 
ゴールデンカムイと家父長制について改めて考える前に、家父長制とは何かを整理しておきたいと思います。
 
というのは、日本語の「家父長制」とその英語訳とされる「パターナリズム(Paternalism)」「ペイトリアーキ(Patriarchy)」は微妙に意味が違い、それをフィードバックして日本語「家父長制」に用いるケースがあるために、話が伝わりにくい、混乱が起きやすくなっていると思うからです。
 
 
 
①家父長制:家長たる男性(父とは限らない)が権力を独占し,父系によって財産の継受と親族関係が組織化される家族形態にもとづく社会的制度。父権制ともいう。(小学館マイペディア)
 
②パターナリズム:UK:権威ある人間の考え、行動が第三者のために決定し、その結果第三者はアドバンテージを得るかもしれないが、人生の自己決定責任を持てなくなる(ケンブリッジ辞書)
 
②’パターナリズム:US:1.国家または個人が他者の意思に反して干渉し、干渉された相手がよりよい生活や保護を得ているという主張により擁護されているシステム(植民地への帝国パターナリズムなど)
(スタンフォード哲学百科事典およびMerriam-Webster)
 
 
③ペイトリアーキ:UK:最年長の男性が家族の長である社会。または、彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会(ケンブリッジ辞書)
 
③’ペイトリアーキ:US:一族・家族における父親の優位性、妻子の法的依存、および父系相続によってより大きな社会単位を支配する社会組織形態、社会(Merriam-Webster)
 
 
はい、もうなんかややこしいです!
 
ざっくりいうと家父長制(イギリス英語・アメリカ英語含む)は
 
A:血族単位で男性が家長となり財産権をはじめその血族・一族・家族で権力を持つ制度

B:権力を持つ男性が彼らの利益のためにコントロールする社会
 =Aではないが、Aのような仕組みをベースにしている場合もある

C:A,Bが支配下、コントロール下の人間の自己決定権や責任を奪うが、保護や利益をもたらすかもしれないので擁護されているシステム
 
です。
 
そして、日本語の「家父長制」は語義的にはAを指すのですが、英語翻訳の「家父長制」が入ってくることにより、現在では、拡大された意味をもっています。
しかし、その拡大された意味は、人によって認識レイヤーが異なるため、Aを話しているつもりの人とBの話をしているつもりの人は同じ「家父長制」を用いてもさっぱり話が通じない、ということになります。
 
「うちもうちの地域も父親に権限や権力なんかない、家父長制なんてありません」
「いや、あなたの所属をとりまくTVやメディア、政治からの影響は確実にあり、その観点からは明らかに家父長制がありますよね」
「家族制度の話ですよね? うちの家長は女性です」
「相続する財産のない核家族に家父長制なんてものはありません」
「家父長制はシステムなので女性も当然権力をふるうことがあります」
「財産に関係なく判断や行動をコントロール・管理されることもあります」
「パターナリズムは必要です」
「パターナリズムは家父長制ではありません」
「なにいってるのかわからない」
「こちらもわからない」
 
 
不条理劇みたいになります。
 
この場合は、どの意味で「家父長制」を用いているかをお互い確認するところから始める必要がありますが、なぜかそれをすっ飛ばして議論になったりする。
 
明治以来の日本語と英語のおかしな関係(一方的に日本語がおかしくなっているだけ)の弊害が大きいと思います。インボイスとか。インボイスの意味ってなに?英語としてなに?なぜその言葉を使う?マイナンバーとは?なぞジャパニーズイングリッシュ…
パターナリズムはまだしもペイトリアーキって使わないですよね。言いにくいから。スペルも覚えにくいし…でも語義的にはこれが一番いまの「家父長制」に近いと思います。
家父長制打倒!と訳されたのはpeg the patriarchyでしたよね。
 
閑話休題
 
 
とりあえず、自分がこのノートで使う「家父長制」は「ペイトリアーキ」=「最年長の男性が家族の長である社会。または彼ら自身の利益のために能力や権力を行使する男性によってコントロールされた社会」であるということだけ覚えていただければ幸いです。
 
 
 
 
 
 追記と転記
 
尾形がやっていることのすべての根本にあるのは、母親殺しと向き合えない、という事だと思うんですね。
尾形には自分の道理が大事で、その理屈において「死んだら父に会えるから母は救われる」で母を殺したのに、父は来なかったので、残ったのは母を殺した自分だけになってしまった。
そして、「母の為」の理屈の裏には、自分を見てくれなかった母への苦しみや悲しみや怒りや怨みといった感情があるはずなんです。
でもそれに向き合う事は出来ない。
母を救うために行った殺人は、自分より父を愛して求めている母の為だったのに、父が母を愛していなかったらその父を自分よりも求めていた母に求められなかった自分の存在があまりに虚しくて、怨みや悲しみだけが残ってしまうから。
子供がそういう心の動きをして殺人を犯してしまう事は、不自然ではないと思います。罪だけど、刑罰を受ける必要はない。子供だから。
だから尾形に必要なのはその時点でのカウンセリングや周囲の理解でした。
それがかなわないので、一人で、生きていくために道理を求めて迷走しているように見える。

勇作さんに殺人を求めるも拒否され、「人を殺して罪悪感を覚えない人間はいない」これが勇作さん殺しの切っ掛けだけれども
罪悪感を感じたら母親ごろしは罪になってしまうから受け入れられないんですね。
弟も自分と同じ人間だと思いたかったのに拒否され、今度は「自分が父に愛されていたら、父に愛されている弟と同じであり、弟も殺人をする人間と同じだと証明できる」
というめちゃくちゃな方向に行ってしまう。
そして「最後に色々話したかったから」と会った父親は母子にたいして全く愛情がなかったとわかり、父親を殺して「愛されていないから自分はこんな人間になった」
と結論づけるわけです。

元々、「父に愛されていない」から殺人を犯したわけではなく、「殺人を犯した自分なりの道理」いわば正当化ですけれども、それを求めていった結果
「父に愛されていたのならあの殺人は罪ではない」が否定され、「祝福されていない道を歩む自分」がいました。
本当は「母に愛されていない」から殺人を犯したのだけど、それに向き合えないから「父に愛される自分」の理屈を求めたのだと思いますし、
母との関係を消化できない限り本質とは違う理屈を求め続けるのではないでしょうか。


ところで、尾形の中ではもう一つ
「殺される人間には殺されるだけの理由がある」
という理屈があるんですね。
母親にも父親にも殺されるだけの理由があった。
それはもちろん「自分を愛さなかったことで傷つけた」からですが。
でも、勇作さんは明らかに肉親として自分に好意を持っていた。
その勇作さんを、身勝手な理由で殺してしまった。
勇作さん殺しに対して尾形は道理を見つけられないのです。自己否定する存在だから殺してしまった。勇作さんに罪がないことは心の底でわかっている。
だから、勇作さんの夢をみるし、罪悪感の象徴のように悪霊として顕れる。
逆に、母の夢は見る事ができないのではないかと思います。
尾形にとって最も向き合えないのは母殺しに関する感情なので、勇作さんの存在を通して向き合って受け入れられるようになるといいよね…と思ったけど結局最後まで逃げる事を選んだんですね。

と思うと、前近代的父権制の父たる花沢幸次郎は正直どうでもいい、中身のない存在で、その表面的な重々しさに比べ内実の薄さが
the家父長制の面倒なところじゃないかと思えてきます。
 
 

シグルイ

シグルイ 原作:南條範夫「駿河城御前試合」・作画:山口貴由 秋田書店 2003-2010チャンピオンRED連載

 

 

「覚悟のススメ」ちょっと触れて、散様の、兄なのに女体で何の説明もなし!(あとであるけど)に衝撃を受け、シグルイ読んでみました。
こっちの方が自分のジャンルかなと思って。
シグルイってタイトル、無知なのでモンゴル系遊牧民かしらと思ったら葉隠の「死狂ひ」とのことです。おっふ。

 

いやすごかった!! 

こういう漫画がよみたかった!
 

共感やら理解の及ばぬレイヤーにあるものを見たいのです。


徳川忠長(三代将軍徳川家光の弟。幼い頃より優秀だったが将軍職を継げなかった恨みから行状が悪化し幕府により切腹を命じられる)の御前試合で闘う、藤木源之介と伊良子清玄。二人がそこに至るまでの因縁の過去編が全15巻のほぼ全編にわたる

ぶっとび、イカレ、グロリョナエロ描写連続ともいえるのですが、不快にならない。ただただ圧倒され受け入れ賛美してしまう理由は

・男女隔てないエログロ

・消費目的で描かれていない

・笑いでごまかさない

・趣味嗜好を超えた凄み

・絵が超絶うまい

・人体描写が正確で美しすぎる

 

でしょうか

 

美意識がある。

 

ジョジョにもそういうレイヤーの向こう側を感じていたし今も好きだけど、なんかおしゃれ漫画になっちゃったから…受け手の解釈もあると思いますが
シグルイはかわいい絵やらほのぼの二次創作できる作品じゃない。
ゴカムを変態漫画とかいうな!これが本物のへんたいまんがです!

 

原作未読ですが、漫画とは違うエンディングらしく
それではこの残酷描写をどう結末づけるのかと思いましたが、
なんたるスタンディングオベーション!!!!

 

徳川封建制以降、「武人」が「自分の意思ではなく上の人間の命に従うだけの傀儡=侍=はべるもの」となり果てるしかない絶望の話でした!!!

武士(ぶし、もののふ 士は有徳有能の統治階級を意味する)が、侍(サムライ 侍は従う、侍るを意味する)になる。
同じように使われがちだけど言葉の意味が違うんですよね。
戦国時代にいるのは武士で、江戸時代は侍。この変化は大きい。

戦国のあと江戸幕府による太平の世は、圧倒的上下社会

へうげもので、「管理する人間に責を負わせ末端には思考させることなく幼児でいさせよ」と、徳川家康が命じたその「忠義」の狂い

お上に命じられるままに敵の名誉も命も敬意なく踏みつける。
それはサムライではなく傀儡よと。


敵の名誉はおのれの誇り。
それを踏みにじり、切り捨て、残るのは忠義を果たした「自分」という無自覚な地獄のみ

いやいや、明治日清日露第二次世界大戦の兵士や特攻隊とか、まさにこれですよね。

明治以降も徳川封建制は生き続け、新たなるお上に従うだけのサムライ気取りの農民が利用され続けているわけですよ。

それを描き切っている凄み!!!!



源之助が忠長の命令で伊良子を辱めたのを、

本当はやりたくなかったが、徳川が規定するサムライとして「お家=三重さまが体現する岩本家」のため、三重さまとの「勝ったら契りを結ぶ」という約束のため、と絶望のなかですがるのを、三重さまは傀儡になり果てた男への拒否により自害している、この地獄!!!!


三重さま、作品の中でも一二を争うイカレっぷりなんですが、
だからこそ、その三重さまのために自らの「サムライ」を貫くために間違ってしまった清らかな真面目な源之助と、その間違いを押し付けた権力の醜さが際立ちます。

三重様は、伊良子に恋していたわけではないんです。
父・虎眼が命じた公開初夜の際に「男はみな、傀儡」と絶望で死を覚悟したとき、伊良子だけが、虎眼に命じられて性行為をするのを拒否し、結果、三重の自尊心を救った。

階級社会と戦う伊良子は、人間としても男としても相当なろくでなしだけれど、上下権力への追従を拒否する「自由で強靭な精神をもつ人間」なわけです。
正義感や倫理からじゃない。伊良子にそんなものはない。ただ自分の律するところ、荒々しくある美意識によって、他者の支配を拒んでいる。
その「傀儡ではない男」に希望をみているのです。


最強最悪の父・虎眼ですら、大名にへつらいの笑いをする。
伊良子は、巧言で大名をかわすが、へつらい媚びて従いはしない。

三重様にとって、伊良子だけが、傀儡ではない、意志をもつ「士(さむらい)」で、彼女が選びたい男、と無意識の底で知っている。
封建社会、階級社会で「女」は、「権力のある男の持ち物で自由な心が許されない」から、彼女が伊良子を求めるのは、男の持ち物ではなく自由意志を持つ人間でありたい、ということです。
だから、公開初夜に参加したが、誰に何と言われようと仇討をやり遂げようとする藤木源之助が「士」になったのかもしれない、と思い、結婚の約束をした。

しかし、士同士の戦いで勝利した藤木は、命じられるままに伊良子を辱める「傀儡=侍=さぶらうもの」になり果てる。

その絶望で死ぬのです。






ところで、作品中臓物飛び男性器焼き鏝女体切断など虐待描写がたわわななかで
一番衝撃を受けたのは、権左衛門の「素手でのセルフ去勢」です。
覚悟決まりすぎ。

山口先生が原作者南條先生にお会いした際のあとがきなども濃さがぶっとんでいました。
素晴らしい作品をありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヒトラーのための虐殺会議

 

「ヒトラーのための虐殺会議」映画 2022年制作 ドイツ

 

ユダヤ人特別処理のためのナチス高官によるヴァンゼ―会議を、議事録を元に映画化した作品。

 

1100万人という膨大なユダヤ人を殺し全滅させるという「目的」に対し、いかに効率よくきちんと処理するかという「課題」を、延々と中高年男性が相談する話です。

きちんとというのは、親族にユダヤ人がいるドイツ人から抗議されないように、とか
軍需産業の工人など優秀なユダヤ人を殺すとドイツ人にとって損だがどうするか、とかです。

効率、簡素化、迅速、数字、目的に対し結果を出すための議論は、資本主義ビジネスの会議とほぼ同じですね。

モラルや人倫は「利益」「目的の前」では無力

そしてそもそもの「目的」へ誰も疑問を持たない。

これ、目的が「ユダヤ人全滅」も「会社利益追求」も「少子化解決」も根本的に同じ。

「なぜユダヤ人を全滅する必要があるのか」「奴らは世界戦争の黒幕で悪だから」

「会社利益追求」「利益を出さないと会社が潰れるから」

「少子化解決」「子供が増えないと困るから」

 

それほんと?みたいなね。

 

ユダヤ人は世界戦争の黒幕ではないし、会社が潰れても社員は別の会社で働けばいいし、子どもが増えなくてもそれで持続可能な手段をとれば困らない。

目的を問わない疑わないのが、ものすごく優秀な武官、文官の限界かなって気がしました。

だから、「目的を設定する」人間の質が問われるんだよね。
施政者のありかたについて学問が昔からあるのはそういうこと。


我々は日々、ナチと同じようなことを小さなレイヤーでやってる
そういう危険性に気づいていたほうがいい。ナチスは邪悪で異常な人たちではなく、真面目で実行能力に優れた「自分でほんとうには考えようとしない人々」です。

まあ、日本の会議はもっとなあなあで最初に結論が決まっていて誰も発言しないだろう こんな丁々発止の利益の綱引きにはならない

・処刑を特別処理、財産没収をアーリア化と言い換えるなどの、言葉のごまかし。
プーチンも特別作戦といってますね。
実際を都合よくいいかえてごまかすのは権力がある卑怯な人間たちがよくやること。噓つきは泥棒の始まり的に注意が必要だと思います

 

・エンドロールまで無音。音楽無し。

音の民族ドイツ人ならではの

「これはエモーショナルで消費していい話ではない」

という主張を強く感じました。

 

正直なところ、戦争に関する映像にはこの意識を強く持っていてほしいと思っています。
進撃の巨人のアニメファイナル、すごくいいアニメだけど、
いい場面にいい音楽を流すのってやっぱりエモーショナル消費の側面があって
そういう扱いをしてはいけないところがある話じゃないかなと思うんですよね、個人的に。
映像というもの自体が音楽的(自分でコントロールできない時間の流れに没頭する)なので、音楽でメッセージを強化するのは有効でたやすい手段だけど、やっぱりそこにどうしても「流される」があるのね。
これに慣れるのはけっこう危険だと思うんですよ。

進撃なんかは原作をしっかり読んでいる人が多いと思うけど、
原作未読でアニメだけ見る人もいるよね。
漫画は苦手という人もいるし。
でも無音で、自分の時間で文字(漫画も意味のある絵という象形文字による小説と考えてます)を読むのは大事です。
読解力はだいじ。


世代的に、もうハンジさんや団長の方なので

次の世代のために微力ながらでもなにか礎になるようなことが出来ないかと思うけど
ほんと、大人として無力だなあ…

歴史に向き合う作品をつくる人はすごい。ハンジさんすごい。

でもきちんと見て評価して考えることを続けるのも大事と思うことにする

そうしないと「戦争についてずっと真正面から検証し続ける」人がいなくなってしまうし見るひとがいないと作品もつくれなくなってしまうので。

よしちょっとポジティブになった!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蜜蜂 マヤ・ルンデ

ネタバレあり

蜜蜂 マヤ・ルンデ  2015年 池田真紀子訳 NHK出版(2018年日本翻訳刊)

ノルウェーの作家、マヤ・ルンデによるSF小説

といっても、SF部分は三分の一で、物語は三つの時代が交互に語られ、蜜蜂というキーワードで繋がる展開になっています。

1852年のイギリス 父と娘と息子
2007年のアメリカ 父と息子
2098年の中国 母と息子

三つの時代でこの関係性を中心に話が進みます。

優れた小説がそうであるように、これも読み手の立ち位置によって見えるものが違ってくる作品です。
自分が感じたところをとりあえずざっくり


・19世紀は完全な家父長制社会
父親が妻や娘を人間扱いせず、家庭の中で同じ階層である息子にのみ過剰な期待をかけ、抑圧している。
養蜂で父に等しい学者に認められるという男社会への承認欲求と、幼稚な身勝手と自己愛で周囲を見ている。息子と妻の癒着関係と疎外感。息子の闇堕ち。娘の一人だけが無言で学び父の研究を支えている


・21世紀初期は父権の崩壊 
父親は息子に代々の養蜂業を継いでほしいが、息子は大学に行きベジタリアンになり文筆業をやっていきたいと思っている。ジェネレーションギャップ。ここでも息子と妻の絆は深く父は疎外感を感じる。仕事仲間との友情。父権のゆらぎにより強くなるホモソーシャル。息子との融和。


・21世紀終わりは女性の社会
人間の自然破壊による蜜蜂の絶滅で、作物が実を結ばなくなった世界。
中国の人工授粉果樹園で働く夫婦と小さな息子。母は学びたかったが肉体労働に従事し、息子に夢をかけている。子供優先による夫の排除。子供が病気で突然北京に連れ去れらたのを追って一人で北京にいく。最高指導者は女性。息子に対する母の愛が全編にただよっているが、最後は…

 

蜜蜂の絶滅に至る人間社会のあり方は、家父長制の呪い
(Patriarchy:最年長の男性が家長となる社会、または、自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会
が原因の一つと感じました。

この「自分達の利益のために力を用いる男性たちに支配された社会」
(そこに同化したり、せざるをえない女性もいるけど)って
仕事を頑張ろう、他より抜きん出よう、利益を出そう、認められよう、その利益を自分の子供へ継がせよう、そのために何かを踏みつけようとすることで、
紀元前8000年、西暦2000年にかけて続いてきて
一人の人間としては決して悪ではないかもしれないが、社会となって蓄積すると外部への悪となり自らにかえってくる、のでは? ということ。

もう、楳図先生の14歳を思い出しましたよね。虫だけに!

それが、最後の

 

帰ってきたミツバチは花蜜と花粉を携えている。こどもを育てる栄養分だ。ただし、自分が育てるこどものためだけに持ち帰るのではない。どのミツバチも全体のために、全員のために、彼らが一体となって構成する大きな有機体のために、働く。

 

子どもを愛し、何を捨てても取り戻そうとしていたタオがたどりつく、

「誰か一人の人生、誰か一人のあらゆる肉も心も思考も思いも夢も、それを大きな文脈に置き、同じ夢が世界のすべての人に当てはまることに気づけずにいるかぎり、なんの意味もない」

という部分に込められているように思いました。


つまり、自分、自分の子供、自分の属する社会が、もっと大きな、人類、のみならず自然、地球、すべてに繋がっていると認識してはじめて、個をただひとつの個として尊重することができる。それは対立でなく両立である。という愛の姿。

シャーロットがアメリカに渡り、つなげた巣箱の図面、
トムが書いた本が数十年後にタオにつなげた発見、
シャーロットもトムも自分の父親と共に働いたけれど、それが影響を与えた相手は、自分の子供でも、同じ国の人でも同じ性別でも同じ時代の人でもなかった。

それはとても尊く、ラストのタオとともに未来への希望を感じます。


ところで、昔から西洋SFでは、崩壊後の世界で唯一うまく生き残るのが中国人、というのがときどきあるのですが、
やはり、中国の歴史文化の長さ、計り知れなさ、深さに、怖れと夢のような感覚があるのでしょうか。


ミツバチ消失事件は現実にあります。
蜜蜂がいるからニンゲンが口にする様々な植物の受粉ができている。
大事にしなきゃ! ほんとにね!

 

 

 

へうげもの

※ネタバレ

 

『へうげもの』山田芳裕 2005年~2017年 講談社モーニング連載

 

望郷太郎が面白かったので読んでみたのですが、面白かった!

信長、秀吉に仕え、大阪夏の陣の際、徳川家康に豊臣との内通を疑われて切腹させられた文化人・武人
古田織部が主人公です。

戦国時代を、文化の側面からとらえた漫画
小野於通を主人公にした大和和紀『イシュタルの娘』と同じ時代、テーマですが
interpretationと画風の違いがすごいです。

近衛信尹(このえのぶただ)のビジュアルの差とかもうすごい。
イシュタルは少女漫画なので恋愛にも重きが置かれています。
へうげものは性欲と夫婦愛かな。

どちらも

政権交代における文化の立ち位置と重要性

を読み取れる漫画です。

 

社会の支配権をめぐる争いは常に、武力、政治、経済がからみあっており、
戦国時代後期~安土桃山~江戸初期はそれが非常に短い時間に凝縮されているのですが、
文化のありかたもそこに密接に関わっている。
すなわち文化闘争でもある、という側面がクローズアップされています。

へうげものでは、
本能寺の変の裏に、秀吉を操った千利休がいました。
千利休の求める「わび」、秀吉の求める「派手」、織田の「粋」、家康の「野暮」が覇権を争い、殺し合う。
そこに古田織部の「へうげ(ひょうげ)」が絡んでいくわけです。
へうげ、は甲乙丙丁の「乙」をめざし、丁を野暮とする。「へうげ」はいいが「かぶき」は悪しとする。
ハイカルチャーではなくサブカルチャーであり、カウンターカルチャーはよしとしない、ということです。

「イシュタルの娘」では、千利休に対して秀吉は

「生まれ育ちが金持ちの利休は地味にわびさびの美を感じるかもしれないが、俺は貧しい育ちだ、それは見慣れた嫌なものなんだ、明るく派手がいいんだ」

といいます。
へうげものでは、各々の「自分の美」をいかに世の中に広め残すかに焦点が置かれていて、利休はその為に「権力者を選ぶ目利き」の位置に己を置こうとします。

両作品に共通なのは、豊臣側の視点であること。
どの登場人物にもやさしい目線があることですね。

石田三成と明智光秀に対する上げ方、特にへうげものの明智光秀は裏主人公と言ってもいいと思います。
これを読むと、徳川幕府に対して上方がいい気持ちを持てないのは当然かなあと思ってしまいます。

大奥では上下関係と世襲により「戦争のない泰平の世」を目指す徳川が出てきますが、
へうげものでは「それは皆の泰平ではなく徳川の泰平」「息苦しい」といわれ
徳川家康が

「責任をもつと自我をもつ、自我をもつと抗い乱世になる、だから民ではなくそれを管轄する人間に責を負わせ、民は子供のまま愚かでいさせる」

という。
なかなかシビアで、大阪夏の陣における各武家の政治的立ち回りの悩みなどは、読んでいてつらいです。誰も戦いたくないのに、家康が「武人をできるだけ殺しておきたい」「豊臣を廃す」を譲らないために…プーチンか…

 家康にも家康のつらみがあるのですが、
もうさ~秀吉もだけどさ~~~

おまえらちゃんと友達つくれよ!

君らが本当に求めているのはそれだよ!!!

ほんと、権力闘争とマウントじゃなく、縦じゃなく、横の関係つくれよ!

家康、明智殿に思い入れすぎ! 明智殿ステキすぎ!

 

 

しかし、文化闘争としての政権交代を考えると

平安時代後期、平氏と武士の成立以降の戦いは、

田舎者VS都会人

でもあって

 

常に田舎が勝つ

 

なんですね。


平氏←源氏←(後醍醐天皇)←足利氏←織田信長←豊臣秀吉←徳川氏←薩長


鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇はすぐ覆されてしまうし、
明治政府は天皇をかついだ薩長のクーデターなわけです。

日本において、文化エスタブリッシュメントは田舎のダサカルチャーに征服されるが、それがエスタブリッシュメントになると、また倒されるんですね。
千年以上そうだったわけですが、西洋文化が入ってくると文化としての都会、があいまいになる。東京は文化の中心のようだけど、それは西洋のうわべを取り入れただけで、本当の文化ではない。
薩長的田舎は洗練されることなく、そこにあり続けている。
一方、洗練の都、京都は権力闘争からは距離を置き、新しい文化を生むより過去の遺産を守る。
田舎は勝ち続けるというわけです。

インテリ、左翼(ってなんかしらんけど)界隈が勝てないのは歴史的根拠がある当然ともいえます。

しかし書いてて思ったんですが、「いなかもの」、「とかいじん」、ってひどいですね。
ものってなんだ、ひとじゃないんだ…そりゃあムカつくよね。



 

 

 

 

 

 

天才柳沢教授の生活

 

久しぶりに読み返しました。
以前は響かなかったようなことが胸にきて1巻から泣いてた…年か…

というか、80年代の、日本がこんなに心貧しく暗い、未来がない状態になるなんて想像もできていない世界がもうなんか。
なんだろうね、この時代がそんなに良かったわけでもないと思うのですが。
お金があっても品性や本質はずっと貧しかったと思うから。
でも、お金があって品性が貧しいのとお金がなくて品性が貧しいのだったら、まだ前者のほうがまし。


大学生が車を持っているのが普通だったり
着飾って街に繰り出すワンレン・ボディコンの女子大生とか、そうか、本当にあったんだそんな時代、って感じで。

そのあとの女子高生ブームって、この女子大生ブームとはちょっと違うんですよね。
若い女性性を搾取しおもちゃにするのは同じだけど、女子大生ブームは、主に同世代~2,30代の男性をターゲットに、「金がある男=バブルで勝った都会の男は若い女と遊べる」「金のある男に女を高く売る」という幻想だったと思うけど、
女子高生ブームからパパ活に至るまで、日本の経済衰退とともにそういう所から弾かれた男性が、金銭感覚が低く自分を脅かさない子供を性的搾取してみじめさの突っ支い棒にする側面があって、世の中が貧しくなるにつれてその傾向だけがずっと強化されてる気がする。
しかも「彼女たちが自主的に行っている」「供給している」という意思決定を押し付けてるとこがほんと悪質。
庵野秀明とかなかった顔してるけど、薄っぺらい女子高生搾取映画とってたこと忘れませんよ。

橋本治が源氏物語評論でいってた、男は女でしか内面を表現できない、とはこういうことかと思います。

 

 

さて、柳沢教授のモデルとなった山下先生の父上のお写真を見て、

うわあ、山下先生が描くハンサムじゃん!!

 

と思いました。

しゅっとした、細目の美形。

ただ学問が楽しくてお金や世俗のことを忘れてしまう
このお父様を見て育たれたからこその山下先生なんですね。

 

私の父も国立大学教授だけど、全然こんな清らかな品性の高さはない。
いっては何だけど、傲慢で品のないエリート感覚だけが突出した悪い意味で普通じゃない人です。



なんか、正直、若いころはこういう意見にとても反抗的だったけど

 

やっぱり、代々育ちがいい、って大事なんだなと思う。

 

教養とか教育とか品性って、やっぱりすぐには身につかない。たいてい。
全員とは言わない、でもだいたいそう。
私も子どものころから表面インテリな育てられかたをしたけど、品性下劣だもんな。しみじみ。
だから、一代の成り上がりはお金や肩書があっても品性がない。教養がない。
だから、美術品を買ったりクラシックを聞いたり高級品を身に着けたりそういう場に行ったりする。
お金にふさわしい品格をつけようとする。


だから、三菱の創業者や子孫は美術品を蒐集したんですよね。

「美術品を見る目がある、それを見極めて所有することができる」

は、大昔から富裕層、貴族、王族の証明だから。

でも物ごとは大衆化するに従いレベルが下がるものなので、

「美術品を買ったり高いものを身に着けたりするのがお金持ち」

ってなっちゃったんだね。

貧しさだよね。本当に。

 

 

しかし民主主義、平等の世の中で代々本当に豊かな人なんてそうはいません。いなくなるしくみだから。
だから、公共がその代わりに高い教育や美術館や図書館を整備する。
それが国民の品格をつくる。

と思うんですけどね…

 

東博が電気代払えないんだって。

日本の現状を見ていると本当に悲しくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の眉毛兄弟

 

 

 

2023、大事件勃発!!

 

ノエル、離婚を発表

 

https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/noel-gallagher-and-sara-macdonald-announce-divorce

 

2023年1月16日、二人目の妻サラと12年間の結婚生活を終わらせると発表しました。

そして間髪いれずに、「オアシスの再結成について絶対にないとはいえない」

https://nme-jp.com/news/124879/

 

いやいやいやいや

まず、サラと眉毛弟ですが、互いに「死ねばいい」「魔女め正体を現したな」って罵り合って「ノエルが変わったのはあの女のせいだ」といっていて(2018年)
2019年にはグラストンベリーのフェスでアナイスに「お前の継母に気をつけろといっておけ」からの、ノエルによるTwitter長文画像メッセージ

 

「お前は女を脅すのが得意だもんな。俺の子供を傷つけたら警察を呼ぶ。俺の猫も盗むな。ボディガードをつけたからな。せいぜい楽しめ。Catch up soon」

がありましたね!
http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/99 これですけど

記録しておくものですよ。

サラとの確執も今はジャンプのライバルのようになっているのか、

「もしくは、お兄ちゃんを傷つけるなんて許せない!ってなったりして。傷つけていいのは俺だけ」

大人になったと思ったけど、人の根底は変わらないのか!どうなのかウォッチャーたちの解釈も迷走です。
 


そしてさらにこれ

2023-01-19.png

 

RKIDから電話があって謝ってきて会いたいってさ、会うかどうする?

 

おわあああああ

 

え?

電話をかけてきて、

謝ってきて

会いたいって???

 

 

マジか

 

 

 一大事、一大事!!

離婚発表直後にHolliesの he ain't heavy he's my brotherって曲をTwitterにあげたりね

この曲の歌詞がまたヤバくて
久しぶりのサイコパス風味に震えました

だけど私には強さがある
彼を背負えるだけの強さが
重たくなんかない 彼は私の兄弟だから

そしてこの荷の重みに
私はへこたれたりしない 決して
重たくなんかない 彼は私の兄弟だから

彼は私の兄弟
重たくなんかない
彼は私の兄弟、重たくなんかない……

 

お前が重いよ!!! 重いのはおまえ!

 

いやいやいやいやウォッチャー的に大事件すぎる!
前も会うって言って結局妄想だったことありましたよね!??

2017年、このとき!
https://nme-jp.com/news/47840/

このとき!!!!

http://niumen.php.xdomain.jp/freo/index.php/view/116

 

いや、記録しててよかった、ウォッチャー冥利。
その歴史をふりかえって6年目にまさかのマジで会うかもって

今までのことがあるから

だいじょうぶ? 電話とか妄想じゃない? 飲んでない???

実現するまで信じられません!

ノエル、離婚慰謝料がかさんでオアシス再結成せざるをえないのだろうか…
世知辛いぜ

 

 

とにかく今年は何かが動く!?

ウォッチャーわくわくが止まりません!

 

 

 

 

 

 

大竹伸朗展 16年ぶりの衝撃

 

国立近代美術館で開催中の、大竹伸朗展

こないだ現美で大展覧会やったばかりじゃなかったっけ?と思ったら16年前で、震えました。

16年ぶりに何が変わったかどう感じるか見に行こうといって出かけ、
二人で震えました。震えっぱなし


何も変わっていない!!!

 

なんというか、80年代で止まってしまっていて一歩も進化していないんでは…と感じました。

「キャプションをアプリでダウンロードして見てって、そんな進化はいらん。超見づらいし」

「でも制作年くらいは見ないと。…ねえこれが1985年で、これがなんと…2022年ですよ。新作!」

「いやなんというか、自分の焼き直しじゃん…。しかも、16年前?2007年くらいから作品なくて、ここ2,3年のが急に」

「展覧会するから急に新作作った感じ?」

「いや、ちょっと、ショック。16年まえはいいと思ったんだよ。エネルギーあるな、すごいなって」

「その後いろんないいもの見て知っちゃったからね…世の中の評価ではなく自分の目で判断できるようになったから。このスクラップも美大生のこれがアートみたいな恥ずかしさがたまらない」

「それを80年代に作ってるのはいいよ、そういう時代だから。でも去年もそれやってるのしんどい」

「見に来てるの中高年男性が多いんだけど、だいたい見ないで写真ばっか撮ってるけどなに?NHKでやった?それでか」

「略歴みたら、展覧会、ずっと国内でしょぼいのしかないね…なんで急にこんな持ち上げたの、政治的な力?国立がこれやるのホントしんどい」

「塩田千春さんとか鴻池さんがドイツやフィンランドでがっつり個展してるのに比べるとほんと、なんかもうしんどい」

「なにがしんどいって、絵も思考も進化も深化もしていない。死んだような停滞と、外部評価からの発展性のない過去にすがった自己愛肥大はまさに80年代から現代の日本の姿そのもの。ある意味ほんもののコンテンポラリーアート(絶望の笑い) !」

「そうね、ある意味企画自体がコンテンポラリーアート」

「そこへの批判じゃなくて持ち上げという文化意識、しんどい」

「あとさ、リスペクトがないんだよね、美術への」

「評価される美術家の俺が好きなだけになっちゃってる」

「そういう人ってなぜか全員男性」

「こわ!!! 確かに!!!井上雄彦とかもそうだな」

「草間彌生とか世界レベルなのにずっと謙虚だもんね」

「日本の姿、現在のレベルを目の当たりにしてマジでしんどい」

「本物知っちゃったからこそよな…応挙先生とか」

「応挙先生を施してくれる三井家に感謝」

「そういえば東博で予算が少なくて物価高に光熱費が耐えられないって記事」

「ああ、年間20億ってなに?こんなのダメだ文化を守らなければと思うのが当然だけど」

「なんか、甘えるなとか館長が太ってて金持ちで困ってないだろとか噛みついてるやつがいて」

「うわーみじめ」

「美術を見るって損得じゃなく施されてるってことじゃん。でも自分が施される側だって思いたくないんじゃないの」

「そういう人の中にはなんかやたらアニメや漫画やゲームを持ち上げるひとがいるけど、あれって、自分が評価してやってる、支えてやってるって自己愛がかなりあるよね。持続力のある本物の文化の前では自分の小ささや役に立たなさがあらわになるから、触れたくない。権威主義を批判しながら自分が権威になりたいゲス。みじめ」

「むろん、アニメや漫画やゲームも持続力のある文化だよ。でもそれ自体から施されてると思うとちっちゃい自分が脅かされるから、今売れてるものにとびついたり手塚治虫の作品や思想も知らずに手塚治虫がいる日本すごいとか言い出す」

「結局自分なんだよな。ちっちぇえ」

「美術なんて意味ないとかいう奴、たいがいそれよな」

「優しさとか思いやりも施しじゃん? そういう奴って人へ何も施さないし、何もかも自分でできてるつもりで自己責任とか言い出すんだよな。何様だよ」

「裸で野生に1人で放り出されたら一日も生きられないだろうに、図々しい」

「でもそういう大声があるんだよ、びっくり」

「敬意のなさと民度」

「日本特有のあれ、自分が損をしても人の足を引っ張りたいって傾向、なんだっけ」

「スパイト行動」

「お前がな、にならないよう気をつけよう。年を取るとおかしくなりがちだから」

「肥大した自己愛による俺スゴイで村社会の停滞と発展性のなさ、スパイト行動と現代日本をたいへんに感じる2023年の始まりでした」

「いやー再来週は東博いこ、うさぎ見に」

「そうだね、本当にいいもので免疫あげたい。施されたい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三井家のお宝、国宝「雪松図」円山応挙

 

日本橋の三井記念美術館で、おめでたいもの集めの展覧会がやっています。
「国宝、雪松図と吉祥づくし」です。

円山応挙先生リスぺクターとして、当然行かねばなのです。
雪松図は見たことあるのですが、何度でも見たいですね!

 

今回は、応挙先生の鶏、中国の文人家族や七福神など計6点が出ていました。
(蓬莱山・竹に鶏図、双鶴図、郭子儀祝賀図、大黒図、福禄寿・天保九如図)
さすがパトロン。
すんばらしいもの持ってます。

「いやいやいやいや、本当にすごい、すばらしい」

「金と墨と白、白泥?胡粉?わからんけど、その3色だけで…この描写」

「近づいてみると、そこまで描き込んでないんだよね。適当にすら見える。でも離れるとすごく精密に見える。見る場所によってすごく違う」

「これは現物を見ないとわからない、ぜんぜんわからない」

「これ見よがしなところがまったくないんだけど、本当に計算されつくしてる」

「品がいい。本当に上品。光がさしてる。この雄鶏と雌鶏なんて、清らな世界のチキン・ジョージとルーシーじゃん」

「賢そう。鶏が。いきものへのリスペクトがある。やっぱりその辺が若冲とは違う。上品」

「若冲はなんていうか、見せ物的だから…」

「大黒様がかわいい。おっさんのいやらしさゼロ。妖精」

「福禄寿もさあ、なんだろうこれ、他の人の絵とぜんぜん違うの」

「…こいぬだ! 応挙先生のこいぬと同じ丸さと顔!」

「本当だ!!!! おじいちゃんもこいぬになってしまう応挙先生…なんて…日本美術史上でやっぱり応挙先生が一番好き!」

「七福神もこいぬのかわいさ…もう、応挙先生は心がきれい。一瞬で清まる」

「雪松図に戻るけど、印象派って絵具の色と見える色に迫っていったら、RGBだったって世界じゃん。寄っていったら見えるものがそれっていう。それが心により違ってくるみたいな。でも応挙先生のこれは墨と金の世界で、寄っていったらRGBじゃなくて違うものが見えるんだよ。世界が変わるんだよ。どこまでいってもその美しい世界があるの。印象派超えてる。すごい」

「いやもう、こんないいもの見せてもらってありがとうございました」

「三井家、北三井家とか南とか室町とか新町とかあるんだね。藤原兄弟4家みたいなやつ?」

「ぜったいヒエラルキーあるじゃん…」

「三井家9人で寄せ書きした掛け軸(朝日鶴亀松竹梅鶯書画)一番えらいやつが真ん中なんだろうな」

「違う三井家9人みんな、名前に高がついてる」

「ミステリだったら殺人が起きるな」

「関係ないけど、沈南蘋の猫のくせの強さ、すごい入ってくるw」「わかるw」

「東博の国宝展よりよかったよ。もっと宣伝していいのに」

「別にこれで儲ける必要ないから、しないんだろうね。住友の泉屋博古館もしないしさ」

「三菱はそこいくとやっぱ宣伝する。明治の成金の感じ。持ってるものもなんか格が違うし」

「文化庁が稼げる文化事業とかいってて絶望したよ。芸術は稼ぐもんじゃない。稼いだ人が採算性度外視でつくらせたり買うもの。美意識とカネのある貴族や財閥を解体したら、国家がそれをやるべきだろ」

「美意識がないからクール・ジャパンとかやるんだろ。日本文化を知らないから。平気で美術館も採算性とかいいだす。大英博物館もナショナルギャラリーも無料だっつうの」

「人から盗ってきて集めた帝国主義のお宝だから、人類としてただで見せようってとこは尊敬するよ、英国。好きじゃないけど」

「守ってもらってありがたいよ。これだって、三井家がお宝を見せてくれてるんだもんね」

「そうですよ。貧乏人が生活の中で一生日常になることのない美を」

「施しですよ」

「施し! それ!」

「ありがたみしかない」

「守っていってほしいね。現代の成金には決してできないから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィルハーモニクス2022

 

フィルハーモニクスの来日公演に行ってきました。(2022/12/13@東京芸術劇場)

前回が2018年12月15日でしたから、4年ぶりですね!

いや~書いておくもんです。
4年経ってましたか…
そりゃあ、あれ?前回は指輪まで見えたはずなのに、見えない…目が…ってなるわけです。

その眼にも、やっぱりスーツが似合うなあ!
シュッとしてる!
ジャケットから足しか出てないもの…おしりの影がないもの…
スーツの国の人のフォルムの美しさははっきり見えました。

電子音になれた耳には当初繊細な管弦楽の音が聞き取れなかったのですが、
次第に聞き取れるようになってきて、
なんて美しいんだと「ハコヅメ」交番部長が潜入捜査から戻ってモーツァルトを聞いて泣いたような涙が流れました。


前回、予期せぬケガで不参加だった、ヴィオラの方もいらしてました。
中谷美紀様のご夫君ですね。

友達、「僕は君の運転手じゃないといわれて免許とったんだって」
「なかなか厳しいな。私は運転したら死人を出してしまうから、自費でタクシーにするかも…」
「まあね。でも対等ってそういうことだもんね。そこは対話だからさ。私は電動自転車にするかな」
「そうだね。こっちだってあなたの家政婦じゃないっていう関係っていうことだからね」


バイオリンのノアとセバスチャンも元気でした。
モーツァルトのレクイエムとアレンジしたファルコって何かなと思ったら
「亡くなったファルコへ」という説明があって
あ! ロックミーアマデウスのファルコ? なくなったの?と知りました。

スティングの「イングリッシュ・マン・インNY」で締める素晴らしい演奏会でした。


なんというか、彼らの空気が本当に明るくてとても楽しそうなんですよね。
多分、4年前よりコロナなどあり、日本の状態が悪くなっているせいもあるのですが
文化が生活の中にあるのが当たり前。
それがマウンティングでも特別でもなく、
すべき仕事というだけでもなく、自由な喜びがある
そういう豊かさを感じて、こちらの貧しさが照らし出された感じがしてしまいました。

あの世で30年生きるより、この世で3年生きた方がいいです。